私の死生観





(一) 死の恐怖


 私は、死というものがこの上なく怖い。昼間の喧騒から死を一時的に忘れることができても、闇夜の中では死の恐怖におののき、お恥ずかしい話ですが、布団の中でときにはブルルツと震えてしまうことさえあるのです。

 私が生まれて初めて死に直面し、生まれて初めて死について考え始めたのは、30歳で胃の摘出手術をしたときです。大量の出血によって意識を失い運ばれる救急車の、なんと心地よい振動と安堵感だったことか。まな板の鯉とは、まさにこのこと。もうすぐこの苦しみと空虚から解放される、その一念しかありません。ひょっとすると死に至るかも知れない崖っぷちの状態にもかかわらず、このとき不思議に死の恐怖感はまるでなかったのです。

 術後の経過が思わしくなく、輸血された職場の同僚の貴重な血をも出し続けた。結局、私の血はすべて他人の血で置き換えられることになる。もしかして、私の二重人格はそのときに始まったのかも知れない。騙し騙しの治療の結果、出血がようやく止まり、退院の目処がついた、そのとき、突然、生まれて初めて死の恐怖が私を襲ったのです。

 なぜ死が怖いのか。体がなくなるからではない。意識すること、考えること、眺めること、感じること、魂さえも、それらの一切を失うからである。30歳で死の淵をさまよったときには死は怖くなかった。それが助かったと思った瞬間に死の恐怖を覚えた。ということは、実際に死に直面したときには死は怖くないのかも知れない。今、死が怖いと感じるのは、今が健康であり充実しているからかも知れない。そして、死は怖くないとおっしゃるあなたは、死を恐れるに足りない状況下にあるか、死について真剣に考えていないか、死のことを考えるのをあえて避けてるか、そのいずれかではないでしょうか。



(二) 死後の世界


 私が生死の淵をさまよった病院生活は6人部屋でしたが、私以外の5人は別々の癌でお亡くなりになりました。ですから私は、胃癌の方も直腸癌の方も肝臓癌の方も、それぞれの末期の痛みや苦しみを見てきました。おそらくその病棟は癌病棟だったのでしょう。ということは、私には知らされていなかったのだが、私も癌だったのでしょう。まだ5人が生存中、生死の淵をさまよった6人でそのときの状況を話し合ったことがあります。その多くが、よく話に聞く花園の中で手招きされたというものです。おそらく脳裏にある先入観がそうさせたのでしょう。ちなみに私の場合は小汚い居酒屋でした。品性の悪さが旅立ちの世界にまで反映されるとは情けないことです。

 はたして仏道が説くように、生きとし生けるもの、死ねばすべてひとしく仏になり浄土へ行くというのか。あるいはよく言われるように、人は死ねば天国に行くというのか。はたまた、別の世界に行くというのか。いいえ、残念ながらそのどれもが「ノー」なのです。死後は何もないのです。人は、死ねば心も体も魂も、みな一切が無になるのです。浄土も天国もすべては、死の恐怖から逃れるために人間が考えた遇想なのです。

 宮沢賢治の「眼にて云ふ」という詩の最後にはこう記されている。『あなた方から見たら ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが わたくしから見えるのは やっぱりきれいな青ぞらと すきとほった風ばかりです』と。死を「いやなもの」「きたないもの」と見なしているようだけど、死にゆく人が見ている景色は違うのだ、と言いたげな詩です。しかし、これとて宮沢賢治の遇想なのです。

 映画「おくりびと」の原作者である作家の青木新門さんは、東日本大震災のあと宮城県の被災者の方々とお話されました。みなさんは、亡くなった人たちに「寒かっただろう」「痛かっただろう」との思いが胸につかえていたようです。そこで青木さんはこう話したそうです。『亡くなるときは、きっと青空を見ておられたのですよ。そして今までありがとうと言いながら逝かれたのですよ』と。すると、『やっとこころが救われた』と話すおばあちゃんがいたとか。大変良い話ですが、残念ながら、これもまた遇想なのです。亡くなるときは一瞬であり、寒いも痛いもなく、景色もありません。死は完全なる無なのです。

 立花隆の「生、死、神秘体験」の序論にはこう記されている。『人が知り得る世界は生と死という境界で仕切られた世界に過ぎない。境界の外には何もないというが、それは境界内の知見をもとに得られた知識であり、境界の外の異界に適用できるだろうか』と。しかしこれもまた、こじつけと言わざるを得ない。境界の外は無ではなく、できたら別の世界があって欲しいという願いを、一見、論理的なように見える人間の知恵によって処理しているに過ぎない。

 また人によっては、死んで肉体は滅びても人の魂は永遠だと言う。ほとんどの人は何回も生まれ変わって地球に来ている。その経験も地球に来る前に自分で決めているという。なんの証拠にこんなデマを言うのかわかりません。人間は死の恐怖から逃れるためにいろいろの寓話を作り、それを妄信しようとしています。その行為そのものが死と真正面から向き合っていない愚かな行為なのです。



(三) 宗教と死


 死後の世界は天国、極楽であるという教示がすべての宗教の根底にある。しかし、その根拠を示すものは何ひとつない。どんな宗教にも天国の存在証明などない。すべては教祖を崇め、教祖を信託することから始まる。「信じる者は救われる」その一念から宗教にとりこまれるのか。無宗教の私には理解できない。
 
 私の考えでは、世界のすべての宗教は「死の恐怖」から逃れるために存在する。仏になるだの神になるだの、天国や別世界という死後を妄想することで、死の恐怖から逃れようとしているのです。神、仏、キリスト、アラーといった偶像を奉ることによって、心を鎮め、邪心を戒め、安定的に生きる術を備える、人間の知恵なのです。ですから、ほんとうは偶像にこだわる必要はないのです。神でも仏でも、何だっていいのです。むしろ相手は神でも仏でもなく、自身の心の中にあるのです。

 行けども行けども砂漠、砂漠の連続で、地上に頼るべきものが何ひとつない、そんなイスラエルの情景を想像した場合、天上のはるか彼方に唯一価値あるものを求めざるを得なかった砂漠民の思いがイエス・キリストであったとしても、それはそれで理解できる。切ない思い、辛い思い、苦しい思いが信じる宗教として生まれたとしても、それは十分に理解できることだ。しかし、宗教はその延長として、決して避けて通ることのできない死の定義までも作り変えてしまった。

 樹木、水、大海、山の幸、海の幸、何ひとつ不自由のないこの日本において、果たして死を宗教に結び付ける大儀はあるのだろうか。われわれ日本人の心の根源には死の無常観がある。地震、津波、台風による自然の脅威にさらされる日本の自然風土において、日本人が死と真面目に向き合い考えた結果が無常観であろう。インドの釈迦から伝授した仏教の無常観がわれわれ日本人の心に鎮座するのは間違いない。形あるものは必ず滅びる。人はやがて必ず死ぬ。

 さて、日本には土着の神道が存在する。外来の仏教と共存する神仏習合の信仰が形成されている。神道の神とは山野河海(さんやかかい)、森林に宿り、自然の奥に鎮座するものであり、明らかにキリスト教の神とは性格が異なる。それでは、われわれ日本人は、死との係わり合いにおいて宗教をどのように捕らえているのか。



(四) 死の諦観


 死について考えると、自分という個の存在理由を問うことになる。そして、自分という個の存在理由は、人の世の存在理由を問うことになり、さらには、この地球は一体、どこからどうして誕生したのかという永遠の命題につながる。そして、「わからない」という闇に入る。

 現代社会は健康志向に加えて高度医療が進んだ長寿社会です。長寿と延命という「生」にのみ価値を置いている時代でもあります。そんな時代だからこそ、「死」を直視しようとしなければならないと考えます。

 どんなに幸せに生きているひとでも、どんなに偉いひとでも、どんなに著名な人でも、人はいつかは死ぬのだ。これは医療技術がどんなに進んでも避けて通ることはできない。そういう意味では、この世はすばらしく公平で平等なのです。

 死に直面したときに、諦める心もありです。がんばらないで諦める心、限りある「生」を静かに閉じることだってあっていい。誰にもかけがえのない人がいる。お父さんやお母さんや恋人かも知れない。そのかけがえのない人を失ったことのない人はいない。生ある限り、かけがえのない人の魂がどこへ行くのか、考えてみよう。そう思う心が安寧(あんねい)に結びつく。限られた残りの「生」を充実さすために、「死」について真面目に考えてみよう。そして考え抜いたら、「死」を諦観しよう。





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ふぅ・・む

ジオさん、相変わらず誤字脱字無しの完璧な文章ですね・・と感心しています。
一気に読み終えました。

私が死を怖れていないのは、直面していないからでしょうね?
でも、まだ死にたくはないし、まだまだ人生を楽しみたいです。
もし病気や事故でさし迫って来たら、きっとジタバタすると思います。

私は大病を患った事がないから、漠然と死を思っているのかもしれません?
父が病床で残したメモ
「俺が死ぬとは、こりゃぁ~たまらん」
口では言わなかったけど、治らない事を察知し無念だったのでしょう。

死んだら人は、無になるのでしょうか?
よく魂は生きるというけど、それは宗教世界の作りごとであり、
死の恐怖から逃れるためでしょうか?
もし病気になったら、私はたちまち落ち込んでしまうでしょう。
それほど弱い人間です。
だから一日でも長く健康で暮らせますようにと願っています。

No title

geotectさん

私の写真に拍手ありがとうございます。
広島県の災害では被害がなくて
安心しました。

あの被害は地層に問題もあったようですね

*死後の世界はいろいろな話を良く聞きますが?!

私は生きているそのものが魂と教えられていますので
人間が死ぬと塵に戻ると言われていますから
霊魂も魂もすべて無くなると信じています。

No title

geoさん
私も死は無だと思っています。
熟睡している時が疑似体験ではないでしょうか。
あのまま目覚めなければ死なのだろうと考えています。

私が初めて死を意識したのは小4の時でした。
銭形平次のTVで
お堂の中からたくさんのガイコツがこぼれ出すシーンを見たら
死んだ後どうなるのだろうと疑問が沸きました。
恐くて恐くて・・そのシーンだけは鮮明に覚えています。

強烈に死と直面したのは夫の突然死でした。
43歳の私は 命ってなんてちっぽけな物だろうと思いました。
簡単に何もかも奪って死が嘲り笑っているように思いました。
心の真ん中が冷たく冷たく 
それならそれで好きにすればいいッと居直ったのを覚えています。
来るときは来るというのが今の思いでしょうか。
これがgeoさんの仰る「諦観」だとしたら
生意気ではありますがある程度は腹を括っているつもりです。




私なりに

こんばんは
学の無い、私の浅はかな知識で言うのも憚られますが、私は『本来無一物』に同調しています。  事物は一瞬、一瞬に変化しているもの,実体化したものはない、本来何もなく、身も心も空(無)である、空が形を成している。 
茫漠たる大宇宙の誕生からして、物質の素とは、分子、原子、原子核、中性子、素粒子(ニュウトリノ)、ここまで来れば、空(無)である。 これらを、7世紀の時代に理解するとは、何たる事かと・・・

これらから、私は、生も死も魂も苦痛も無執着、自然の在るがままである、と考えます。  足るを知り、ただ自然に喜びを知って、生きるのみと考えています。 

Re: ふぅ・・む

まこさん、
おはようございます。

> 私が死を怖れていないのは、直面していないからでしょうね?

多分、そうでしょうね。
大病になったことがないこともあります。
それに、まだ若いからかも。

> もし病気や事故でさし迫って来たら、きっとジタバタすると思います。

今から考えても仕方ありません。
今の生活を謳歌してください。

> 父が病床で残したメモ
> 「俺が死ぬとは、こりゃぁ~たまらん」

それこそが、死の恐怖の遺言です。
お父さま、無念の思いも大きかったと思います。

Re: No title

みのりさん、
おはようございます。

> 広島県の災害では被害がなくて
> 安心しました。

ありがとうございます。

> 霊魂も魂もすべて無くなると信じています。

私もそう思います。
だからこそ、現実の今を大切に生きたいものです。

Re: No title

チカちゃん、
おはようございます。

> 熟睡している時が疑似体験ではないでしょうか。

そう。でも、私は沢山、夢を見るので、
死がそうであれば楽しいのにと。
できれば、ゆるりと睡眠したまま戻らない、
そんな死が理想ですね。
朝、目覚めて、まだ生きてると実感します。

> 私が初めて死を意識したのは小4の時でした。
> 銭形平次のTVで・・・・・・

その頃からすでに多感な子だったのか。

> それならそれで好きにすればいいッと居直ったのを覚えています。
> 来るときは来るというのが今の思いでしょうか。
> 生意気ではありますがある程度は腹を括っているつもりです。

死の諦観どころか、チカちゃんは悟りの境地に入ってます。
その腹の括りようは、実生活においても並々ならぬものと
察しまする。

Re: 私なりに

chisokuさん、
こんにちは。

> 私は『本来無一物』に同調しています。  事物は一瞬、一瞬に変化しているもの,実体化したものはない、本来何もなく、身も心も空(無)である、空が形を成している。 
> 茫漠たる大宇宙の誕生からして、物質の素とは、分子、原子、原子核、中性子、素粒子(ニュウトリノ)、ここまで来れば、空(無)である。 これらを、7世紀の時代に理解するとは、何たる事かと・・・

ふ~む、なるほど。
確かに体という物質は空(無)だと理解できます。
ただ、心も空(無)なのかといえば、
そう思いたくないところも正直あります。

> これらから、私は、生も死も魂も苦痛も無執着、自然の在るがままである、と考えます。  足るを知り、ただ自然に喜びを知って、生きるのみと考えています。 

死の諦観ならぬ、生死を達観した生き方ですね。
素晴らしいです。
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