コンプライアンス
都会の大企業に限らず、最近では地方の企業でもあたり前に目にする光景。首に身分証明書をぶら下げてビルの中を行きかう社員。社員のみならず、部外者にも、清掃員にまでも身分証明者を発行し、許可した者しかビルに入れない。一旦、そのビルに入ったとしても、各部署の部屋に入るにはさらに社員が掲げるICカードでロック解除する必要がある。部外者が会議の途中、部屋の外のトイレに行くにも社員に付き添ってもらって、ICカードをかざしてロック解除してもらう。このひち面倒臭さは一体、何なのか。
仕事の請負契約書には履行義務が綿々と綴られ、これに違反したらどうとか、事細かく記されている。契約にあたっての審査が厳しく、該当しない組織と人を除外する。官僚も役所も受注業者の身分と経歴にこだわる。
こんなひち面倒臭いことをなぜやるのかと尋ねたら、決まって「コンプライアンス」という言葉が出る。何かあると、「コンプライアンス」を連呼する。「コンプライアンス」とは、社会規範や企業倫理を守る法令順守の精神である。つまり、わが社は社会規範や企業倫理を守る優良企業なのだと言いたげなわけである。
それでは実態はどうなのか。最近の食品偽装事件は日本全国で慢性化していることが判明した。チルド宅配の平温処理、暴力団への銀行融資、JRのずさんな安全管理などなど、どれもこれも反「コンプライアンス」行為のオンパレードである。それも、日本を代表する大企業である。そして裏舞台では、予定価格を下回って受注した業者を官は厳しく取り締まる。民間レベルでは平気で単価を叩く。これこそ「コンプライアンス」に反する行為である。
そもそも「コンプライアンス」の精神が導入されたのはいつの頃からか。それはもう15年も前だろうか、ISOの導入時期と一致する。ビッグバン時代の到来とともにアメリカ式ISOが導入されて以来、役所も企業もISO導入にやっきになった。ISOビジネスが栄え、ISO導入のための無駄な書類作成と日本に馴染まない管理が求められた。そしてそのしわ寄せは、効率化や能力主義の旗印のもと、必要な経費まで節減することになった。
ISOを導入したきっかけは、日本のJISが世界標準の前に屈したからである。欧米の要求に応ずるままに効率化と能力主義が進められ、その一方で、日本人の心まで奪われたのである。何が「コンプライアンス」だと言いたい。形だけの「コンプライアンス」や、うわべだけの「コンプライアンス」は不必要である。日本人が求めているのは、真面目さであり、嘘をつかない心であり、真心である。真の「コンプライアンス」とは、嘘をつかない日本人の心にあると思うのだが。
スポンサーサイト