サッカーの妙
スポーツの勝敗は時の運。競技によっていろいろな綾があり、実力と環境と綾によって勝ち負けが決せられる。従って、ひとつひとつの勝敗には必然的なものもあれば意外性も生まれ、その結果にことさらこだわるのもおかしい。ただ、公正なルールと審判に基づいての話である。
昨日のワールドカップ・アジア最終予選を見て、改めてサッカーという競技のいい加減さを感じた。あの内田選手のファウルの判定によって、PKによる1点を失った場面である。コーナーキックにおけるゴール前での絡みはいつでもあること。国際競技経験豊富な内田選手のこと、頃合も十分承知している。あれがファウルというのであれば、コーナーキックにおけるゴール前の外国選手はすべてファウルになろう。
オーストラリアでのアウエイの洗礼といえばそれまでだが、あそこまでいい加減な審判をされると興ざめもしようというもの。そもそもサッカーという競技はいい加減なスポーツ、そんな印象を強くする。
サッカーは110m×75mの8,250m2のフィールドに対して、主審1名、副審2名の計3名で審判する。審判1名当たりのフィールド広さは2,750m2となり、とてもじゃないけど反則を見届けることはできない。大相撲と比較してみよう。直径4.55mの土俵の面積は16.26m2であり、土俵周りに5名の勝負審判がいて、行司を加えると6名。審判1名当たりのフィールド広さは2.71m2であり、実にサッカーの1,000倍の密度となる。
大相撲は土俵を割るか転ぶかという単純な競技である。その判定によってたかって審判する。これに対して、サッカーはそれこそ大草原の放牧場の牛や馬を監視するといってよい。公正な審判ができるはずもない。もっとも、そんな厳密な大相撲でも八百長とあっては話は別であるが。
日本人選手のサッカー技術の向上は目覚しく、今では多くの選手が海外でプレーしているのは嬉しい。しかしその反面、サッカーのルールや審判は旧態依然として、改正の試みさえない。そこには、サッカーというスポーツといえども裏舞台では力関係の駆け引きがある。日本人も選手だけではなくFIFAに人を送り込むことにしないと、当分、不利な試合展開を余儀なくされる。それができなければ、日本人はもっと野蛮に、もっと姑息にならねばならぬ。
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