父の生い立ちと青春(その五)

 そんな貧困と屈辱の日々を10年間過ごして高校へと進学したが、姉や兄は高校を卒業するやいなや一目散に出家し、取り残された私は母親と第二の父親との生活を余儀なくされた。

 第二の父親の正体がどんなものであったか定かではない。わかっていたことは、体が小さいが海軍上がりで筋肉質であったこと、体に小さな刺青があったこと、辰年で短気で気難しかったこと、煙草はやるが普段は酒を飲まない下戸であったこと、博打が好きなようであったこと、くらいである。

 末っ子の私がなつかないくらいだから、兄は嫌悪感をもっていただろうし、姉はといえば、女性故に憎悪に近い感情すら覚えていたろう。しかし、人質として残された私には、それなりに一緒に暮らして生き延びる知恵が求められた。

 私は県内で最も優秀な進学校に通っていたが、貧困に変わりはなかった。勿論、大学に行ける見通しはまったくなかったが、とりあえず大学受験を目指した。数年前から、第2の父親は屋台のラーメンを始めていた。朝からダシと焼豚を煮込み、昼から練炭に火をつけ麺を仕込む。夕方からネギやモヤシを準備して、カーバイトに灯りをともしてチャルメラを鳴らして町へ屋台を繰り出す。

 そんな毎日が続いたが、問題は屋台の稼働率が非常に悪いことである。気難しい第2の父親は、自分が納得するまでダシの味ににこだわる。出店前まで準備しても、今ひとつダシの味に納得しないと屋台の出店を止める。そんな日は、勿論、その夜もあくる朝も、オヤジが納得しなかったダシのラーメンを食べることになる。1週間に平均して雨で1日、ダシの不具合で2日、体調不良で1日というペースで休むから、平均して1週間2~3日程度の営業だったろうか。

 高校の授業料未納が頭をよぎり、屋台を出す日には、チャルメラを鳴らす屋台を私もうしろから強く押して送り出した。ともかく屋台が出ることだけを願ったが、屋台が出れば出たで、あくる日は、ダシのガラや練炭の灰を捨てに行くのが私の日課となった。半切りのドラム缶に一杯入った練炭の灰を片手で担いで、デコボコの路面の窪地に埋めた。ガラはガラでリヤカーで空き地に捨てに行った。今思えば、腕相撲が事の他強くなったのはこの頃からである。

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