「生と死の境目」Part2

 今回の地震によって実感した「生と死の境目」について、さらに掘り下げて考えてみた。

 地域によって多少の偏りがあろうとも、大局的にみれば、人が地震や台風などの自然災害によって命を失う確率はほぼ等しいと言える。地震予知技術が進んでいる国とそうでない国で大きく違うではないかという反論もあろう。しかし今回の震災でもってしても、そのことは完全に否定されよう。それでは、国によっても地域によっても地震が起きる確率が違うではないかという反論はどうだろう。しかし、これも残念ながら否定せざるを得ない。なぜなら、地震学者が扱う地震予測の基となるデータは有史以来のわずか1000年間足らずのものである。地球誕生から46億年という長い歳月に比べると、ほんの0.00002%に過ぎないデータを基に憶測しているに過ぎないからである。なおかつ、その手法なるものは発生間隔に頼った非科学的手法である。

 自然災害でなくとも、人は9.11のようなテロに遭遇すれば命を失うこともある。これだって、運、不運の問題であり、避けようとして避けられるものでは決してない。交通事故などの他の不慮の事故についてもしかりである。それでは病気死亡はどうか。無論、早期発見、早期治療に徹すれば長生きする確率は高い。しかしこれだって、突然、癌になったり重篤な病気で死なない保障はどこにもない。

 そうして考えると、「生と死の境目」は明確ではなく、背中合わせといっても過言ではない。いつ突然、「生」から「死」に直面することになるのか誰もわからない。まして、癌で余命宣告を受ける場合を除いて、その時期を予測することはできない。この点に関しては老いも若きもみな平等である。

 だとすれば、ある日訪れるであろう「生と死の境目」が到来する間、人には何が求められるのか。人は何を求めようとするのか。そこでは、その人の「生」に関わる価値観が出てくる。「生」ある限り思う存分楽しく生きようとする者もいよう。それはそれで立派な価値観であり、誰も咎めることはできない。しかし多くの人間は共通して、「生と死の境目」において満足感に浸りたいと思うであろう。

 それでは、「生と死の境目」における満足感とはいかなるものか。これも人によって違う。自身の幸せ度であったり、達成感であったり、残された者への思いであったり、最愛の人との絆であったりと。

 日常生活の中で我々は「生と死の境目」を意識しない。ややもすれば、「死」の存在すらも忘れている。否、忘れようとしているかも知れない。しかし、今回のような悲惨な被害を目のあたりにすると、改めて「生と死の境目」を実感する。その場合、大切なことは 「生と死の境目」の備えをする以前に、今ある「生」を大切にすることである。生かされていることに感謝して、今、大切に生きることがいかに大切であるかを思い知らされるのである。
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No title

「生と死の境目」について書かれてあるのを読み、私も考えてみました。私は四十年前にキリスト者となり、聖書を読むようになりました。新約の最後の書である黙示録を読み思いました。「いつ終わりが来ようと感謝して生きるしかないのだなー」と、私は単純な者であり、又頭もよくはありません。しかしこの大災害の時に生きる者として聖書の言葉がなお迫ります。キリエ・エレイソン!!

Re: No title

dorucasuさん、こんにちは。

いつもコメントありがとうございます。
そうでしたか。dorucasuはクリスチャンでしたか。
どこか達観したおだやかな意見をお持ちだと感じていました。
私のように無宗教の俗人と違って。


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