今、だからこそ
シニア・ナビの多くの仲間もそうであろう。大震災と大津波が発生してこの方、私も無念さといたたまれない悲しみを感じ続けている。そしてその後、悲しみは脱力感と無気力感へと移行しつつある。だから、私だって正直、とてもブログを書く気にはなれないのである。
しかし、だからと言って、無言でいても何も始まらない。どうしようもない惨状を目の当たりにして、私はせめて自身の気持ちを整理するために、また私の専門的立場からの意見を述べるべく、勇気を奮って書き込みをしている。無論、ブログに書き込みをしても何も解決しないことは承知している。しかし、今回の大震災について、シニア・ナビの多くの仲間が各々の立場で率直に意見を交換し、ともに共感したり、別の感じ方を知ることは有意義なことだと思う。
そんな中、シニア・ナビの仲間のひとりが福島原発について正直に不安な気持ちを記した。それに対して、「不安を煽るものだ」とのコメントがあったそうだ。ブログの作者は配慮に欠けていたと反省し、すぐに記事を削除したそうだ。その上で、どこの誰かにどのように感じられるのかを意識しては何も書くことはできないと言い残し、しばらくブログをお休みすることを宣言された。
私は投稿されたブログ記事の内容もそれに対する反論らしきコメントも見ていない。既に削除された後であった。だから、そのことについての具体的な評価はできない。が、一般的な意見を述べる。非常事態という今の状況を鑑みた場合、書く側にも一定の配慮が必要なことは当然である。しかし、例えば「不安である」といった正直な感想を書くことが、一般的には配慮に欠けることとは思えない。ただ、当該地域における方にとってはたまたま重い言葉であったかも知れぬ。
もともとバーチャル的なな世界であるブログではあるが、友情も人情も育むことができる。そのためには、一定の配慮と秩序が必要である。その上で、記事やコメントの内容に関しては相互に寛容でなければならない。万一、一定の配慮を超えた行為があったとしても、相手を責める訳にもいかない。なぜなら、ブログに書き込む自由も閲覧する自由もあると同時に、書き込まない自由と閲覧しない自由もあるからである。
だからこそ、ブログを続けるためには相手の記事やコメントに寛容であることが必須条件とも言える。寛容であるということは、必要以上に気にしないということである。つまり、都合の良い鈍感力でもある。
その上で、私はこう考える。むしろこのような一件によって、正直な気持ちをブログに書き込むことが萎縮されることの方が恐い。折角、築き上げたシニア・ナビの仲間が離れ離れになることの方が恐いのである。一定の配慮のもとに、自由気ままに感じたことや意見、日常の出来事を綴るのがブログである。大惨事の「今、だからこそ」、この窮状に勇気をもって書き込むことが必要なのではないか。そして、シニア・ナビの仲間を互いに育てるという気持ちも必要である。
しかし、だからと言って、無言でいても何も始まらない。どうしようもない惨状を目の当たりにして、私はせめて自身の気持ちを整理するために、また私の専門的立場からの意見を述べるべく、勇気を奮って書き込みをしている。無論、ブログに書き込みをしても何も解決しないことは承知している。しかし、今回の大震災について、シニア・ナビの多くの仲間が各々の立場で率直に意見を交換し、ともに共感したり、別の感じ方を知ることは有意義なことだと思う。
そんな中、シニア・ナビの仲間のひとりが福島原発について正直に不安な気持ちを記した。それに対して、「不安を煽るものだ」とのコメントがあったそうだ。ブログの作者は配慮に欠けていたと反省し、すぐに記事を削除したそうだ。その上で、どこの誰かにどのように感じられるのかを意識しては何も書くことはできないと言い残し、しばらくブログをお休みすることを宣言された。
私は投稿されたブログ記事の内容もそれに対する反論らしきコメントも見ていない。既に削除された後であった。だから、そのことについての具体的な評価はできない。が、一般的な意見を述べる。非常事態という今の状況を鑑みた場合、書く側にも一定の配慮が必要なことは当然である。しかし、例えば「不安である」といった正直な感想を書くことが、一般的には配慮に欠けることとは思えない。ただ、当該地域における方にとってはたまたま重い言葉であったかも知れぬ。
もともとバーチャル的なな世界であるブログではあるが、友情も人情も育むことができる。そのためには、一定の配慮と秩序が必要である。その上で、記事やコメントの内容に関しては相互に寛容でなければならない。万一、一定の配慮を超えた行為があったとしても、相手を責める訳にもいかない。なぜなら、ブログに書き込む自由も閲覧する自由もあると同時に、書き込まない自由と閲覧しない自由もあるからである。
だからこそ、ブログを続けるためには相手の記事やコメントに寛容であることが必須条件とも言える。寛容であるということは、必要以上に気にしないということである。つまり、都合の良い鈍感力でもある。
その上で、私はこう考える。むしろこのような一件によって、正直な気持ちをブログに書き込むことが萎縮されることの方が恐い。折角、築き上げたシニア・ナビの仲間が離れ離れになることの方が恐いのである。一定の配慮のもとに、自由気ままに感じたことや意見、日常の出来事を綴るのがブログである。大惨事の「今、だからこそ」、この窮状に勇気をもって書き込むことが必要なのではないか。そして、シニア・ナビの仲間を互いに育てるという気持ちも必要である。
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