男子頭髪考
最初に断っておく。一昨日満62歳になった私ではあるが、まだ禿げていないし、まだ白髪でもない。「まだ」というのは未練たらしい表現である。詳しく説明すると、自身は全く禿げていないと確信するのだが、他人から見ると「禿げ」の兆候ありと勝手に見立てる。つまり、額の面積が拡大気味だと言われる。白髪については自身もかなり増えてきたと認めるが、全体的にはほぼ黒に近いと自己査定する。局部的に少しグラデーション気味の部位もある程度か。
本人は頭髪についてあまり気にしていないのに、廻りから気にされると、否が応でも本人も気になるというものだ。とくに、「禿げ」とか「うすい」とかいう言葉を相手が何気なく発した後、私に気遣って「まずい」という表情をする。この一瞬の冷めた空気ほど嫌なものはない。そんな変な気遣いは、当の本人にとっては一番配慮に欠ける行為である。いっそ、「禿げかかってる」とか「白髪が目立ってきた」と明確に言われた方が潔くてよい。ということで、他人の評価により毛髪を少し気にし始めている。
若くても髪の薄い人もいるし禿げもいる。とくに男性の若者に多い。病気の場合は別として髪が薄い若い女性をあまり見たことがない。また人は一般に年をとれば、男女に関係なく多かれ少なかれ髪は薄くなるし白髪も増える。こうした髪の密度や色の変化は、持って生まれたDNAに関わる部分も大きいが、それ以外は自然の淘汰といえよう。だから仕方ないといえば仕方ない。むしろ、その自然の淘汰に対してどのように立ち向かうかが、人それぞれの生きざまにかかわってくる。
金沢にいる友人のTさんは前の会社の同期入社であるが、若い頃から禿げかかっていた。当時、彼は矯正しようと四六時中、ブラシで頭皮を叩いて刺激していた。その彼に30年ぶりに会って驚かされた。もう完全に禿げてツルツルだろうと予想していたら、なんと若い頃より髪の毛が相当に増えているではないか。聞けば、彼は30年間、頭皮叩きを継続していたという。継続こそ力なりとは、まさにこのことだ。そこまでして毛髪をとり戻したい彼の執念に敬意を表する。30年間の互いのブランクを話すでもなく、彼は延々と、誇らしげに育毛効果を自慢して私に聞かせた。
同じ金沢に住む先輩のMさんは私の上司であった頃から禿げかかっていたが、久しぶりに会ったら完全に禿げていた。山門の出であり家業を継いでいたので、その方がさまになっていた。後輩のA君は私が上司のときに後頭に円形脱毛があった。独身が長く悩みを抱え込むタイプで、ちょうど五円玉くらいの円形脱毛であった。それを随分気にして、仕事にも自信のなさが現れていた。その彼に久しぶりにあったら、もう完全に禿げていた。彼はその後、結婚したのだが、独身のときよりも気苦労が多くてこうなったと悔やむ。
「禿げ」は精力が強いとよく言われるが、私はいちいち廻りの人の精力を観察したこともないし確認したこともないので、よくはわからない。しかし、私の若いころからの経験では、確かに「禿げ」または「禿げかかった人」は好き者が多いように思う。「禿げ」または「禿げかかった人」に取り付いて離れられないでいた女子を何人も見てきた。3人以上の子供が皆男子という旦那は「禿げ」が多かった。これはホルモンの関係だと思うが詳細はわからない。
私と同じ年代のシニア男子ともなれば、完全に「禿げ」と断定できる人、概ね「禿げ」の人、もしくは「禿げかかっている人」が多い。白髪にいたっては、ほとんどの男子が多かれ少なかれ進行している。「禿げ」をカツラで隠している人もいるにはいるが、まだまだ少数派であろう。しかし、白髪は染めている人が圧倒的に多く、見た目にはよくわからない。最近の白髪染めはそれほどに巧妙である。
男子がどれほどに頭髪に執着するか、これは千差万別である。しかし、これは時間軸とともに頭髪の状態変化にも係わってくる。すなわち、立派な頭髪が少し「禿げ」始めたり、白髪が出始めた頃から気にするようになり、状態が劣化すればするほど執着の度合いを増す。しかし、一定の限度に達すると執着心は急に薄れて開き直る。そして、最後はスキンヘッドという別のプライドを手にするのである。
私は元来、頭髪の形態をあまり気にしないタイプである。だから散髪も3分で1000円のところに行く。ザッザッっと刈って大型のバキュームで切れ毛を吸い取る。無論、髭剃りなどしない。髭はどうせ生えてくるし、自分で剃れば済むことだ。それに、人様に顔を触られるのが嫌だ。最後に店員が鏡を後ろに当てて髪の長さ加減を確認してくれというが、どうでもいいからと、その作業すら不要と断る。この店、繁盛していて、最近は女性客が多い。カットとパーマで店を使い分けているようだ。
こんな調子だから、3000円も4000円も出して理髪店に行く男性の気が知れない。そもそも散髪代がなぜこんなに高いのかよくわからない。髭剃りだの、マッサージだの、お茶を出すだの、髪を切るという本来の目的以外のサービスによって無理やり高騰しているようでならない。それに協会の存在が大きい。前述の安い理髪店は非協会員である。だから、安価だし定休日もない。
女子にとって髪は命であるという。それでは男子にとっての髪はどうかというと、髪に対するこだわりは千差万別である。だれしも格好悪いよりも格好が良いに決まっている。しかし、その格好良さというのもほとんど自己査定であり、客観的ではない。まして普遍性などない。そもそも、男子たるや形態的な格好良さなどどうでもよいではないかと思うこともある。冷静知的な力強い男子の言動や考え方は、自然にその男子の格好良さとして現れてくるものを、とも思う。しかしそれでも、未練たらしく「禿げ」の恐怖に慄(おのの)く自分がいることに気づく。
拙者とて退化する毛髪にただただ手をこまねいてきたわけではない。頭皮のマッサージを続けたり、薬用トニックを使用したり、ブラシで叩いたりもした。しかし、効果はない。インデイアン伝承のシャンプー「トリビック」も使用した。何でもインデイアンには「禿げ」がいない。その理由はインデイアン伝承のシャンプーを使用しているからだという。いかにも不合理な眉唾広告に騙されて1年以上も続けた。効果があろうはずがない。このような安っぽいものでは駄目だ。高価な医薬品を使用しなければと、最後の手段に出た。最近テレビでお馴染みのリアップである。中でも1本10,000円という高価なものを使用した。これを惜しげもなく、と言いたいところだが、ちびちびと頭皮にかけてマッサージを続けている。すると、かすかな光が見えてきた。心なしか毛髪が増えてきた気がするのである。この臨床実験はまだ継続中である。
本人は頭髪についてあまり気にしていないのに、廻りから気にされると、否が応でも本人も気になるというものだ。とくに、「禿げ」とか「うすい」とかいう言葉を相手が何気なく発した後、私に気遣って「まずい」という表情をする。この一瞬の冷めた空気ほど嫌なものはない。そんな変な気遣いは、当の本人にとっては一番配慮に欠ける行為である。いっそ、「禿げかかってる」とか「白髪が目立ってきた」と明確に言われた方が潔くてよい。ということで、他人の評価により毛髪を少し気にし始めている。
若くても髪の薄い人もいるし禿げもいる。とくに男性の若者に多い。病気の場合は別として髪が薄い若い女性をあまり見たことがない。また人は一般に年をとれば、男女に関係なく多かれ少なかれ髪は薄くなるし白髪も増える。こうした髪の密度や色の変化は、持って生まれたDNAに関わる部分も大きいが、それ以外は自然の淘汰といえよう。だから仕方ないといえば仕方ない。むしろ、その自然の淘汰に対してどのように立ち向かうかが、人それぞれの生きざまにかかわってくる。
金沢にいる友人のTさんは前の会社の同期入社であるが、若い頃から禿げかかっていた。当時、彼は矯正しようと四六時中、ブラシで頭皮を叩いて刺激していた。その彼に30年ぶりに会って驚かされた。もう完全に禿げてツルツルだろうと予想していたら、なんと若い頃より髪の毛が相当に増えているではないか。聞けば、彼は30年間、頭皮叩きを継続していたという。継続こそ力なりとは、まさにこのことだ。そこまでして毛髪をとり戻したい彼の執念に敬意を表する。30年間の互いのブランクを話すでもなく、彼は延々と、誇らしげに育毛効果を自慢して私に聞かせた。
同じ金沢に住む先輩のMさんは私の上司であった頃から禿げかかっていたが、久しぶりに会ったら完全に禿げていた。山門の出であり家業を継いでいたので、その方がさまになっていた。後輩のA君は私が上司のときに後頭に円形脱毛があった。独身が長く悩みを抱え込むタイプで、ちょうど五円玉くらいの円形脱毛であった。それを随分気にして、仕事にも自信のなさが現れていた。その彼に久しぶりにあったら、もう完全に禿げていた。彼はその後、結婚したのだが、独身のときよりも気苦労が多くてこうなったと悔やむ。
「禿げ」は精力が強いとよく言われるが、私はいちいち廻りの人の精力を観察したこともないし確認したこともないので、よくはわからない。しかし、私の若いころからの経験では、確かに「禿げ」または「禿げかかった人」は好き者が多いように思う。「禿げ」または「禿げかかった人」に取り付いて離れられないでいた女子を何人も見てきた。3人以上の子供が皆男子という旦那は「禿げ」が多かった。これはホルモンの関係だと思うが詳細はわからない。
私と同じ年代のシニア男子ともなれば、完全に「禿げ」と断定できる人、概ね「禿げ」の人、もしくは「禿げかかっている人」が多い。白髪にいたっては、ほとんどの男子が多かれ少なかれ進行している。「禿げ」をカツラで隠している人もいるにはいるが、まだまだ少数派であろう。しかし、白髪は染めている人が圧倒的に多く、見た目にはよくわからない。最近の白髪染めはそれほどに巧妙である。
男子がどれほどに頭髪に執着するか、これは千差万別である。しかし、これは時間軸とともに頭髪の状態変化にも係わってくる。すなわち、立派な頭髪が少し「禿げ」始めたり、白髪が出始めた頃から気にするようになり、状態が劣化すればするほど執着の度合いを増す。しかし、一定の限度に達すると執着心は急に薄れて開き直る。そして、最後はスキンヘッドという別のプライドを手にするのである。
私は元来、頭髪の形態をあまり気にしないタイプである。だから散髪も3分で1000円のところに行く。ザッザッっと刈って大型のバキュームで切れ毛を吸い取る。無論、髭剃りなどしない。髭はどうせ生えてくるし、自分で剃れば済むことだ。それに、人様に顔を触られるのが嫌だ。最後に店員が鏡を後ろに当てて髪の長さ加減を確認してくれというが、どうでもいいからと、その作業すら不要と断る。この店、繁盛していて、最近は女性客が多い。カットとパーマで店を使い分けているようだ。
こんな調子だから、3000円も4000円も出して理髪店に行く男性の気が知れない。そもそも散髪代がなぜこんなに高いのかよくわからない。髭剃りだの、マッサージだの、お茶を出すだの、髪を切るという本来の目的以外のサービスによって無理やり高騰しているようでならない。それに協会の存在が大きい。前述の安い理髪店は非協会員である。だから、安価だし定休日もない。
女子にとって髪は命であるという。それでは男子にとっての髪はどうかというと、髪に対するこだわりは千差万別である。だれしも格好悪いよりも格好が良いに決まっている。しかし、その格好良さというのもほとんど自己査定であり、客観的ではない。まして普遍性などない。そもそも、男子たるや形態的な格好良さなどどうでもよいではないかと思うこともある。冷静知的な力強い男子の言動や考え方は、自然にその男子の格好良さとして現れてくるものを、とも思う。しかしそれでも、未練たらしく「禿げ」の恐怖に慄(おのの)く自分がいることに気づく。
拙者とて退化する毛髪にただただ手をこまねいてきたわけではない。頭皮のマッサージを続けたり、薬用トニックを使用したり、ブラシで叩いたりもした。しかし、効果はない。インデイアン伝承のシャンプー「トリビック」も使用した。何でもインデイアンには「禿げ」がいない。その理由はインデイアン伝承のシャンプーを使用しているからだという。いかにも不合理な眉唾広告に騙されて1年以上も続けた。効果があろうはずがない。このような安っぽいものでは駄目だ。高価な医薬品を使用しなければと、最後の手段に出た。最近テレビでお馴染みのリアップである。中でも1本10,000円という高価なものを使用した。これを惜しげもなく、と言いたいところだが、ちびちびと頭皮にかけてマッサージを続けている。すると、かすかな光が見えてきた。心なしか毛髪が増えてきた気がするのである。この臨床実験はまだ継続中である。
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