いろいろな壁



F



 趣味でギターをやっている。ギターをやる人だったら誰でも知っているのが、Fコードの壁である。よく使うポピュラーコードの中で一番押さえ難いのがFコード。そのFコードなのだが、私は男としては手が小さいためなのか、きちんとできない。なので、自己流のFで誤魔化している。Fコードの壁を越えられないと自覚したとき、私にとってのギターは人に聞かせるギターではなく自身が楽しむ趣味のギターに留まった。


 ゴルフはやっていないが、ゴルフにも100の壁とか80の壁とかがあるらしい。安倍総理がお正月ゴルフで89のスコアを出したと話題になっていた。ゴルフ好きの人に言わすと、89と90では全然違うのだと。89は80代のスコアであり90とは全く違うのだと。私にはスコアが1違うだけで大差ないと考えるのだが。ゴルフの壁もシビアである。


 もう2年以上ほぼ毎日、ジムのランニングマシーンで5km走っている。最初の頃は45分位の超スローで走るのが精一杯であった。次第に馴れてくると40分の壁を割った。そして2年目で30分の記録が出た。だがいつもヘトヘトで全く余裕がなく、これが今のところの限界の壁と感じている。しかし駅伝やマラソンを走る人はこの倍のスピードで走っている。同じ人間としてできないことはない。次なる壁は30分を悠悠と割ることを目標にしている。


 起業してしばらくのこと、社員に毎月、目標達成表を出させた。月の初めに個人個人に自由に目標を設定させて、月末に達成できたかどうかを検証し、なぜ達成できなかったのかを書かせるというもの。目標は仕事のことでも個人的なことでも何でもいいことにした。これは会社のためというより、いわば個人の研鑽を目的にしたものだ。すると、目標達成できる人は毎月達成できて、達成できない人は毎月達成できない。その原因がわかった。目標達成できない人は、最初からどう考えても達成できそうもない目標を設定し、それを達成できなかった言い訳にしているのである。つまり、できない人は最初から逃げているのだ。


 趣味や芸術、スポーツ、科学の世界、あるいは日常の生活においても、いろいろな壁というものがある。壁イコール目標でもある。壁(目標)を自ら作る(立てる)ということは、生きる活路にもなる。壁(目標)を乗り越えるには、それなりの覚悟と努力が必要となる。しかし乗り越えたときの達成感は何にも代えがたく、自信と勇気を与えられることを知っている。いろいろな壁(目標)を自ら作る(立てる)ことを怠るまい。




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人の情(なさ)け






 小学校時代、遠足に行くのが嫌だった。家が貧しくて、遠足のお弁当もいつもと同じアルマイトの日の丸だったから。私のリュックには日の丸とともに、おやつとしてリンゴがひとつ入っていた。それでも日々の暮らしぶりからすると、リンゴまるまる1ケをリュックに積めるのには、母は子に申し訳ない胸中ながら、かなり無理したのだと思う。


 ただ、遠足は少し気が楽なところがあった。恥を白日のもとにさらされる毎日の給食の苦痛を考えれば、精神的には楽だから。遠足の昼飯どき、私はみんなと一定の距離を置いて木陰で過ごす。


 するとしばらくして、担任の女性の植木先生が私のところにやってきた。先生は「食べた?」と私に聞く。「うん」と頷く。「先生、これ食べきれなかったから半分食べてくれない?」と弁当を差し出す。「代わりにリンゴを少し貰うね」と言って、取り出したナイフでリンゴの皮を丁寧に剥いて切ってくれた。人の情けを初めて感じた瞬間である。大きくなって、植木先生に感謝したくて随分と探したが、未だに消息がわからない。


 以来、人生を長くやっていると、そのときどきで人の情けを感じる。幼い頃に貧しさを経験したからこそ、人からの恵みや幸をほんとうにありがたいと実感できるのだろう。30歳のとき生死をさまよう大病をして、いろいろな人の世話になった。その経験があるからこそ、健康のありがたさに心から感謝し、周囲の人の支えの上に生きていることを実感できるのだろう。これまでに受けた人の情けは、今度は生涯かけて恩返ししていこうと誓う。





この歳にして







 67歳の誕生日の前日、何気なく新聞の地方記事にある映画興行欄を見ていて、この映画を見に行こうと即決した。今、話題の「スター・ウオ―ズ フォースの覚醒」でもなければ「母と暮らせば」でもない。「人生の約束」という映画である。映画のシナリオもキャストも知らず、タイトルだけで扇動させられた。


 竹野内豊さん演ずるIT関連企業のCEOが、かつての親友であり共同経営者を会社から追いやってワンマン経営に走るが、その親友の死を知ることがきっかけで、人生で大切なものは何かを考えさせられるといったドラマである。


 その映画のヒロインと私はどこかで重なるものがあった。大学入試からこれまで連戦連勝の人生であり、前ばかり向いて突っ走ってきた。ありとあらゆる資格を一発で取得し、一番出世を果たし、小さいながらも事業を興せばそれなりに成功し、いわば順風満帆の人生であった。努力もしないで能書きたれるな、俺について来い、もっとアグレッシブになれ、振り返ればそれ的な言動が多かった。


 しかし最近、ときどきは立ち止まらないと後ろの風景が見えないことに気づいた。後ろの風景を見ないと、後ろでどんなことが起きてるのかを知ることができない。人と人との繋がりが大切なことも、豊かな自然に触れることも、昔ながらの伝統や神事を継承することもできない。考えてみれば、私のこれまでの人生は前ばかり向いた勝者の論理であったのだ。


 失くして初めてわかるものがあり、亡くして初めて知ることがある。そろそろゆるりと過ごし、ときどきは後ろを振り返ってみるがいい。遅きに失する感はあるが、この歳になって改めて気づいた。







人生の約束

情報の真贋を見極める





 先日も記したが、近年ネットによる「隠された真実」的な情報が多い。政治・経済、防衛、環境など日本や世界で起きた大きな出来事に対して、実はこうなのだ的な情報である。たとえば、アメリカで起きた9.11のテロは実は国家によるヤラセであったとか、同じようにパリのテロもヤラセであるとかいった情報だ。別に国際的な大事件に限らず、日本国内の原発問題や活断層の問題について真相は斯く斯く然然といった情報もある。さらには日常的には、テレビコマーシャルで放映されるサプリメントの効果は実はこんなにも素晴らしいといった情報もある。

 つい最近にも、経済評論家の三橋貴明氏をソースとする「日本のマスコミが隠す不都合な真実」と題する情報がネットに流れて大きな波紋を呼んでいる。
http://www.keieikagakupub.com/lp/mitsuhashi/38NEWS_CN_ydn_3m1.php
https://www.youtube.com/user/mitsuhashipress

 中味の詳細は割愛するが、要約するに、日本のマスコミは不都合な真実を隠して国民受けする情報ばかり流しているという内容である。たとえば中国経済は既に2009年位から陰りをみせているのに中国市場に進出しない手はないと企業を煽る。その結果、進出した企業は今、後退する中国経済において国家規制のもとに撤退するにできない状態に陥っているという話。TTPについても、実効すればワインやチーズが安くなるという明るい話題を吹聴しているが、実は実際にTTPの効力が発効すれば、外国人ブローカーによる不動産や保険の爆買いや移民の急増を招いて日本売りとなるとか。他にもいろいろあったが概ねそれ的な話であるが、最後まで神妙に読み進むと、結局は彼が発刊している「月間三橋」の宣伝へと誘導される。

 それではたとえば経済問題において、あなたは経済学者の竹中平蔵氏と異端者と言われる経済評論家の三橋貴明氏のどちらを信じますか。かつて愛知のTV番組でふたりは激論し、大臣時代に派遣労働自由化を推進した竹中氏の矛盾を三橋氏が指摘したら、竹中氏は失礼だと激昂した。しかし私に言わせれば、「インフラを売れば1000兆円の借金は簡単に減らせる」と豪語する竹中氏も「日本の力はこんなもんじゃない」と豪語する三橋氏も同じ穴のムジナなのである。ふたりは蝸(か)牛角上の争いをしていないだろうか。

 たとえて経済の話を出したが、同じように政治、環境、防衛、健康、教育などあらゆる分野において、実は真相はこうだという話題がネットに溢れる時代である。そのたびに、そうだそうだとシェアーしてまたたく間に拡散する。人間はもともと判官びいきであり、隠された情報を知りたがり、その情報を知り得たことで優位性を感じるからである。そしてこのような情報がもてはやされると、決まって反対の立場の情報が出てくるのも常である。

 日本のマスコミの凋落は今に始まったことではなく、三橋氏が言う「日本のマスコミが隠す不都合な真実」は正にそのとおりである。しかし、問題は不都合な真実の中味であり、真実とする根拠である。さらには本当に正しい真実は何かである。我々は今、未曾有の情報ラッシュの中にいる。何が真実で何が真実でないのかを見極める力が試されている。そして、これこそが国力の礎なのだと思う。権威や肩書き、感情や好き嫌い、大勢や流れにとらわれることなく、自らが正しい情報を掴むために今こそ汗しなければならない。まずは手始めに、全ての情報を疑ってかかろう。次に予見なく情報の真贋を見極めよう。





正月明けのゴミ出し






 正月明け最初の燃えるゴミ回収日のゴミ置場は、どこもてんこ盛りのゴミ袋で溢れかえる。普段の2~3倍のゴミが出るので、出す方も大変だが回収する方はもっと大変であり、何かとトラブルも発生し易い。いつもなら決まった時間に回収するが大幅な時間遅れ。おまけにルール違反が続出する。

 今では日本中どこの地域にもそれぞれにゴミ出しのルールがあって、普通に定着してきている。でも考えてみると、定着したのも最近のことだ。まだ日本ではゴミの分別が定着していなかった20年前、環境をテーマとした欧州ツアーに参加したとき、缶やビンや生ゴミなど5種類もの色が違ったドラム缶に分別しているのを見て驚いた。まさかそんな厄介な分別を日本でも行うようになろうとはそのとき夢にも思わなかったが、今では世界で一番ゴミ分別に厳しい国になっている。

 ゴミの分別は常々、面倒臭いと思う。生ゴミなどの燃えるゴミ、ビン・缶・ダンボールなどの資源ゴミ、バッテリー・電池などの特殊ゴミ、大型ゴミと、出す曜日や日にちが決まっているが、共通して回収に廻るのは朝早い時間帯である。よって例え同居人がいたとしても、ゴミ出しは必然的に血圧高めの朝型人間に課せられる。所定の透明な袋を購入して入れなければならないし、資源ゴミはちゃんと紐でくくらないといけないし、所定サイズ以上のものはお金を出して買ったシールを張らないといけないなど、ルールはやたらと厳しい。それに、このゴミはどの分類に相当するか迷うときもある。

 ゴミの分別には、面倒臭いこととは別に基本的に納得できない部分がある。そもそもなぜ分別が必要なのかである。分別してもリサイクルに活かされず、結局は同じ焼却炉で燃やしているという事実がある。地球環境の名のもとに天下り団体の資金の温床になっているとか、ゴミ分別の必要是非についていろいろな意見があるからだ。そして市民からのそういった素朴な疑問や質問に真っ向から答える自治体も少ない。ゴミに関わる利権が見え隠れして仕方ない。ほんとうにこんなに苦労して分別して、意味があるのだろうかろと思う。

 それでも小心者は良識ある市民を装ってルールを守ったゴミ出しに精を出す。しかし、世の中には必ずルールを守らない者がいる。燃えるゴミを回収車が来た後に出して悪臭を撒き散らかす。前日に出してカラスや猫の餌食になって散乱させたりする。内容物にルール違反がある場合は回収しないこともある。それでは残された生ゴミはどうなるのか。管理人やゴミ当番が処理することになるが、場合によっては残されたゴミを袋から出し、内容物から出品者を特定し責任をとらすという、何とも陰湿なやり方もしている。ゴミ袋に名前を書く、ゴミ出し箇所に監視カメラを設置するなどの対策をとっているところもある。

 ちゃんとルールを守って、名前を書いて出す者もいれば、無造作に入れて袋が破れ、結び目もきちんとしていないゴミもある。ルールを全く無視したゴミ出しをする者。生活を覗かれたくないと、袋の内側に新聞紙を敷き詰めて内容物を隠すなど、人さまざまである。たかがゴミ出しであっても、ゴミ出しにも人間性が現れるものだ。私が願っているのは、何もかも一緒くたに出して、自動分別できるシステムなのだが、これってそんなに難しいことなのだろうか。それともそれができない理由があるのだろうか。いつもゴミ出ししながら苦々しい思いでいる。






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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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