知らぬは恥






 新入社員当時、建設省(現、国土交通省)に打ち合わせに行くと、相手はこちらが若造と見るや、根掘り葉掘りと意地悪な質問をしてくる。そんなとき、その場では知ったか振って適当に曖昧に答えた。知らないと答えたくなかったし、知らぬは技術屋の恥だという思いからだ。その代わり、打ち合わせから帰ると、夜を徹してそのことを調べ上げ、あくる日の打ち合わせにはにわか専門家になり、堂々とまくし立てた。ごめんなさい昨日まで何にも知りませんでしたと、無口の謝罪を残して。

 さて話変わって、先の国会での出来事。戦争に敗北した一国の宰相が「(私は)ポツダム宣言をつまびらかに読んでいない」と、開き直って平然と言うではないか。それも、日本の安全保障の命運を分ける安保法制国会の答弁においてである。郷里の宰相を応援したい気持ちを割り引いても、これは到底、看過するわけにいかない。現宰相が戦争を体験していない事実は、致し方ないことであり本人の責任ではない。しかし安保法制という重要案件を国民の大多数の反対を無視して通す国会において、日本の安全保障の根幹とも言えるポツダム宣言の内容を知らないとは不届き千万。一国の宰相の責任として済まされる問題でななく、恥の何ものでもない。

 事を身の回りの職場や会合に眼を転じてみると、「私は知りません」や「私にはできません」という言葉が氾濫している。それも臆することなく、恥じる様子もなく、堂々と淡々と述べるのである。そして最も危惧しなければならないことは、「知らない」ことを知ろうとしないことであり、「できない」ことをどうすればできるか考えようとしないことである。

 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」の諺のとおり、日本では知らないことは恥であるという文化があったはずなのだが、いつの頃から知らないことが恥でなくなってきたのか。敗戦の無念を胸に世界に追いつけ追い越せと頑張ってきた日本人の努力が実を結んだ後、政治と経済の低迷の時代へと世相が移ろい、日本人は自信を失い、いつしか知らぬが恥でもなんでもなくなってきたのだろうか。いつから日本人は恥知らずになったのか。平気で「知りません」を連発する世相を憂い、いきり立つ自分がいる。





スポンサーサイト

ムンプス恐るべし






 ムンプスとは、流行性耳下腺炎、通称、おたふく風邪の感染ウイルスなのです。「おたふく風邪」という何ともお茶目で可愛いネーミングの病は、その名とは程遠く、実は特効薬はなく医者もお手上げの恐るべし病なのだ。子どもならいざ知らず還暦をとうに過ぎしこの私が、風邪とほとんど無縁のこの私が、まさかの発症。最初は体が少しだるいと思ったが、耳下にシコリを感じ始めて、ハッと思った。

 そういえば2週間前、おたふく風邪のため保育園に行けずに我が家でお泊り保育となった孫娘のことを思い出した。その孫娘といえば、完治までの1週間を我が家で預かりしのち、今は娘の元に戻っている。もしやと思い娘に電話すると、はしゃぐ孫娘が電話に出て、その裏でおたふく風邪を発症した娘がいた。間違いなく家族内感染である。赤の他人からの感染ならいざ知らず、可愛い孫娘からの贈り物となれば喜んで受けよう。

 とは言ったものの、おたふく風邪の猛威にうなされることになる。マニュアルどおりの症状である。まず顔の醜態整形。両方の耳下腺がもっこりと腫れあがり、おたふくというより布袋さま。どこか間の抜けた恰幅いい社長に変身。ハリハリで耳も痛いし口が開けられない。40℃の高熱が3日続いて意識朦朧、錯乱に近い状態に陥る。頭と背中から汗が滴り落ちる。歳をとってのおたふく風邪は髄膜炎などの合併症になる危険があると医師に脅されるものの、これといって手の打ちようがない。ただただ高熱と腫れに戦う日々であった。

 マニュアルどおり、4日目から熱が下がり始めて、一週間後にようやく腫れも引いて無事帰還することができた。小さい頃におたふく風邪にかかっていない方は抗体を調べることををお勧めする。




エンブレムという響き





 「エンブレム」という言葉の、華やかであり崇高であり、それでいて他を寄せ付けない冷たい響きが問題の鍵であるように思う。

 「エンブレム」という聞き慣れない言葉。この騒動が起きなければ知らなかっただろう。「シンボルマーク」ではいけないのか、あるいは「ロゴ」ではいけないのかと尋ねたら、厳密には違うという。「ロゴ」は単なる図案であり「シンボルマーク」は象徴的な図柄であり、「エンブレム」は理念や概念を象徴的に表現したイメージなのだという。そう説明されても、どこがどう違うのか全く理解できない。早い話、「エンブレム」はそんじょそこらの民が素足で近寄れない崇高なものらしい。

 それもそのはず。聞くところによると、選考する側も選考される側もその道の限られた村の集りらしい。デザインという専門的分野の中の、さらに限定された村社会である。オープンとは名ばかりの出来レースの感も否めない。当然、そこに柔軟な発想もなければ奇想天外なアイデアが生まれずはずもない。

 それにしても、選考されたエンブレムがどこかの劇場のロゴに似てるだの、原案はどこの図柄に似ているだの、ああだこうだの似たもの合戦には辟易している。果たして、似ていて何が不利益なのか。オリンピックのエンブレムに似ているのは光栄なことだし、それで劇場観客数が増加すればめでたしではないのか。ただひとつ、似ていて不利益なことがあるとすれば、それは訴える側のデザイナーとしての権威でありエゴである。

 それほどまでに自分の図柄を守りたいのであれば、著作権なり商標権なりで保護すれば済むことである。このネット社会においては図柄の検索は容易であり、ネットで監視できるし、ネットでの拡散も容易である。だから似たものが出てきて当然である。ここが似てるとか、これはセーフだとかいう専門家の意見も極めて曖昧である。セーフとアウトの線引きは不可能といっていい。究極論でいうと、全く同一なもの以外は認めざるを得ないのである。

 別にデザインとう特殊な業界だけの話ではない。科学分野においてもそうだ。専門図書や論文に見たことがある図表が出てくることがある。昔私が作成した原図だと言い張っても何の徳(得)にもならない。原図は廻りまわって活かされ、利用した人がたまたま見た引用文献を記していれば済むこと。おおよそ、科学の世界で大元は私が作成したものだと言い張るのは聞いた試しがない。

 「エンブレム」という、華やかであり崇高であり、それでいて他を寄せ付けない冷たい響き。それは、デザインという仲間内だけのエゴを象徴するものであり、決して民衆化された文化に醸成されていないことを意味するのではないか。





安保デモとサザンツアー






 8月30日に国会前で開かれた安保法案に反対するデモの参加者は、主催者側の発表では約12万人、警察関係者によると3万3千人であったという。

 このデモに関して、橋下大阪市長は『8.30国会前デモよりもサザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義』と苦言を呈した。要するに、彼の言い分は『8月30日安保法案反対デモの参加人数は有権者数1億人の0.2%にも満たず、そんな数で国家の意思を決定するのは民主主義の否定である。まだサザンのコンサートの参加者の意思で決めた方が民主主義の理にかなっている』と言いたいわけである。

  さてさて、驚きの発言である。数が民主主義の原理であることは百も承知。であれば、まず主催者側と警察で4倍も違うデモ参加人数を政府は正確に押さえたらどうか。一説にはSEALDsはツイッターのアカウントで35万人説を訴えている。この時代に、参加者の実数など調べる気があればどうにでもなるはずだが。デモの実数も不確かなまま民主主義云々を述べるなかれ。

 しかし、事の本質は数の実数ではなく数の質なのだ。あのデモはどこかの団体が強制的に誘導動員したものではない。安保法案をどうしても阻止したい主婦や学生、一般市民、著名人や有識者らが加わって自然発生した必死の願いのデモなのだ。いわば国を良くしたい民意の数である。それをあろうことか、サザンのツアー人数と比較するとは冒涜にもほどがある。

 ちなみに、サザンの全国ライブツアーの客数を知るよしもないが、少し調べてみた。日産スタジアムのライブではキャパ7万人であるが、このうち6万人がファンクラブ会員だそうだ。茅ヶ崎ライブクラスだとほとんど全員がファンクラブ会員。ドームやアリーナクラスの会場だと動員35万人になるが、それでも30万人以上がファンクラブ会員になるという。つまりファンクラブという固定客を除けば、参加人数はデモの方がはるかに多いのだ。

 橋下さんの発言力や吸引力が今の政界で必要であるとは思う。しかし、あのような品のない発言をすれば吸引力は下がる一方である。厳に謹んでいただきたい。





プロフィール

geotech

Author:geotech
geotechのブログへようこそ!

団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
blogram投票ボタン
フリーエリア
シニア・ナビ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR