自然災害と危機意識





 今回の木曽御嶽山の火山噴火災害は、自然災害の猛威をまたもや見せつけられる結果となった。御嶽山は確かに活火山ではある。しかし何の警告も出てなかったのだから、頂上を目指す登山者に不注意があったとは、普通に考えれば到底思えない。

 では、広島の大規模土砂災害はどうか。宅地開発が認可された場所のアパートや建売住宅に住み、その結果、大災害に見舞われたのであるから、普通に考えれば被災者に何の落ち度もないと思える。

 いろいろな自然災害が起きるたびに、我々は自然の脅威に同感し、ひたすら被害者を哀れみ同情する。そして、被害の責任は法律の不整備にあり、国や自治体の対策や予防措置などにあるとし、マスコミも同調した非難合戦を展開する。

 しかし、法律や国や自治体を責めたところで失われた命は戻ってこない。それよりも、尊い命を守るために、我々国民は賢明な意識をもって、適切な行動をしたと言い切れるのか。普通に考えれば不注意でも落ち度でもないと思われているが、果たしてほんとうにそうだと言い切れるのか。

 これから述べることは、血も涙もない冷徹な意見と思われるかも知れない。私とて血の通った人間。人の死を哀れみ、同情もする。しかし、血や涙があっても尊い命は救えない。自然災害から少しでも尊い命を守るための意見である。鬼になって、あえて言いたい。

 結論は、ひと口に言って自然災害に対する国民の危機意識の欠如である。最初に、危機意識が最も欠如した例を挙げよう。豪雨が予想されている最中に、川の中州でキャンプして濁流に呑まれた事故を記憶している人もいよう。台風が接近して川が氾濫しているのに田んぼを見回って流された人もいた。こうした事例は自殺行為に近い無謀な行為と言わざるを得ない。使命を与えられた殉職者とは訳が違う。目前に迫った生命の危機まで予測できないというのか。

 そのような自殺行為に比べると、今回の噴火災害は不可抗力と言えるかも知れない。しかし、それでも御嶽山は活火山である。最近でも1979年、1991年、2007年、2008年に噴火しているから、平均して7年に1回程度は噴火している。となれば、少なくとも登山用ヘルメットは準備するだろう。さらに気にする人なら、気象庁が公表している「火山の状況に関する解説情報」にたどり着く。そこには直前の9月10日~16日に異常な火山性地震が発生していることが記されている。予兆とも思える情報に、ならば今回は避けようという選択肢も出てこよう。

 恐らく、登山者の多くは活火山であるという認識すらなかったのではないだろうか。仮に少しでも活火山としての知識と危機意識を持ち合わせていたら、噴火直後に、慌てて逃げるでもなく能天気に火口を覗き込んだり写真を撮ったりの行動はないであろう。知識と危機意識に裏づけされたとっさの行動が生死を分けることがある。

 広島の大規模土砂災害の現場は、「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)という地名の由来が象徴するように、土石流が繰り返された常習地域である。宅地開発の制約はなかったものの、土石流警戒区域であったことは承知していただろうに。それよりも何よりも、背後の山容を見れば素人眼にも危険であることはわかろうに。それでもその地に住もうとした根拠は何なのか。住人の「まさかこんな災害が起こるとは夢にも思わなかった」という言葉が危機意識のなさを象徴する。

 危機意識の大小はともかく、どの例においても自然災害に対する危機意識は十分とは言えない。ここに記した意見は被災関係者には血も涙もない、酷で冷徹な意見かも知れない。しかし、命を失っては身も蓋もないから言うのである。自然災害から少しでも尊い命を守りたいから吼えるのである。自然災害から身を守るためには、実のない法律改正でも当てにできない政策でもない。個々の危機意識なのだ。そして、吾の身は自ら守るという自己責任の覚悟なのだ。

 多くの自然災害は同じ場所で、歴史的時間軸の中で何度も繰り返し起きる。甚大な自然災害を受けるたびに、古人はその教訓を石碑にするなど後世に残す。しかしある期間はそれを守るが、そのうち忘れてその地にまた人が集まり、再び被災する。寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやってくる」この言葉の真意をよく考えてみよう。




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あれから1ケ月




広島の大規模土石流が発生して1ケ月。
この間、現場に行きたい気持ちは、
捜索活動に邪魔ではとの思いとの狭間で葛藤し、打ち消された。

それが、よくやく最後の行方不明者が発見されたことで区切りがつき、
先週の連休に行くことができた。

捜索活動のための仮設の幹線道路は確保されているものの、
土石流の残骸は山となり、手付かずの状態である。

土石流残骸

一階を飲み込む

土石流の谷

現場は異臭と土埃、線香の匂いに包まれ、
あちらこちらで、花を手向けて祈ったまま動かぬ人を見かける。
到底、声をかけることすらできない。
深い深い悲しみが広がり、
ヒソヒソ話の声が、助かりし者と失いし者の岐路を象徴する。

現場で偶然にも、師に出会った。テレビのインタビューに応じていた。
こちらにもマイクが向けられるが、
こんなときに飄々と技術論を喋る気にはとてもなれない。

ほんとうは言いたかった。
こんなチャチい流路工では到底、水は掃けない。
こんな曲がりくねった流路工は土石流の流れを逆に阻害する。
こんな粘土化したマサ土だからすぐに飽和するのはわかってた筈。
もともと民家やアパートは旧い土石流の上にあるのだと。

流路工

旧土石流


流路工


だけど、そのような技術論は現場では何の足しにもならず、
畢竟、我々はどうのように尊い命を守ればいいのかに終着するのである。
私は、ただただ、あちらこちらで祈ることしかできなかった。



わが娘よ




 わが娘は結婚して5年になる。毎朝、4歳児を保育園に預けて共働きに精を出している。娘の旦那は夜の飲食業なので夫婦はすれ違いの生活。娘は日中、目一杯働いて、帰りに保育園に孫娘を迎えにいき、それから夕食の準備をして食べさせ、旦那の夜食の準備、風呂や洗濯と、休む間もなく働きづめの毎日である。よくやっているなぁと、常々、感心している。

 他方娘は、ガチガチのA型が主流のわが家系において特異なO型の異彩を放ち、周囲をびっくりさせることが多い。天真爛漫といえばそれまでであるが、無計画にとっさの思いつきですぐに行動に移す。何事にも積極的ですぐに行動に移す点は、父である私にそっくりである。あるときは、自身の生まれたルーツを訪ねたいと、幼子を連れて名古屋行きの深夜バスに乗り込む。またあるときは、連絡がつかないと思っていたら「今、ベトナムに来ている」と電話がある。そんな調子だから、また何をしでかすかと、周囲はひやひやものである。

 そんな娘の家計を少しでも助けて日頃の彼女の労をねぎらおうと、連休などは孫ともども泊まりに来るように誘う。しかし先週の連休は他に予定があるようで来れないと言う。ところが夜になって、「今から泊まりに行ってもいいか」と電話があった。断る理由もないが何も食べさせるものがないので、途中駅の寿司屋で待ち合わせをした。

 寿司屋にて日頃食べれないものを娘や孫にご馳走をして、さて今日の休みはどういう一日だったかと尋ねた。すると、孫を保育園に預けてボランテイアに行ったというではないか。例の広島の大規模災害のボランテイアである。それも今回で2回目だと言う。リュックに長靴や軍手、マスク、着替えなど一式を詰め込んで災害現場に出かけ、朝早くから泥んこになって土の撤去をしたという。へとへとになって保育園に迎えに行ったら夕食を作る気がしなくなったので電話したと言う。

 ふむふむ、わが娘にしては感心なことだ。それでなくても日頃忙しい身なれば、たまの休みは体を休めればいいものを。それでもわが身を削ってまで人のために尽くすとは、いいことをしたと大いに褒めてやった。

 ところでボランテイアといえば、阪神淡路の大震災のときに娘とひと悶着があった。当時、娘は大学生で家から通っていた。「悠々自適に大学に行くような暇があるんだったらボランテイアに行きなさい」と命令した。すると娘から、「そう言うお父さんはどうなの?ボランテイアに行く気はあるの?」と返された。私はすごすごと2階の自室に上がり、ボランテイア登録の電話をしたのを覚えている。

 結婚しても娘は娘。歳をとっても娘と父。よく似たもの同士の父と娘はいつまでも切磋琢磨し、たまには喧嘩もし、笑い合えるよき父と娘の関係でいようぞ。そう思う秋の連休であった。




〔男からみた女の流儀、その五〕 女の旅行





 男にとって、女との旅行ほど苦痛なものはない。車でいけば助手席ですぐに眠る。運転手を気遣う素振りなどない。そのくせ道の駅が近づくと突然、目を覚ます。寄れというからトイレ休憩かと思いきや、そうでもない。店内を見て廻るのがお好き。何が目的というわけではなくブラブラと。道の駅で地元の野菜など売ってるとすぐに飛びつく。そして最後に、決まってソフトクリームをほおばる。

 旅の先々で、女はよく買い物をする。目的があるわけではない。兎に角、ひととおり店内を見て廻らないと気がすまないのである。どこにでも売っている携帯ストラップなどの小物コーナーだって、とりあえず見るから不思議。食品売り場に行くと、試食には必ず手を出す。そして店員がいるその前で、試食の感想を堂々と述べる。男はその場から逃げるように去る。

 旅館やホテルの食事は、女にとって買い物と同じように時間をかける。バイキング方式だと、女は決まって食べきれないほど皿に載せてくる。そうして決まって、最後は食べられないで残す。不必要不可欠にして、男の口は残飯口となる。

 団体旅行となると女はさらに悪態を見せる。トイレ休憩のたびに何かを買ってくる。そして集合時間に遅れてくる輩は、決まって女である。バスの中でも列車の中でも、兎に角、女はよく喋る。喋る間中、何かを口に入れている。ようやく静かになったと思ったら疲れて眠っている。観光地に行ってもガイドに着いてこない。説明を聞かない。女にとって旅行とは自然や観光巡りが目的ではない。買い物と食することとおしゃべりが目的なのだ。



 本シリーズの女とは私が見聞きしたほんのひと握りの女性のことであり、読者または読者の取り巻きの全うな女性を対象にしていないことをお断りいたします。

〔男からみた女の流儀、その四〕 女の食管理




 女は冷蔵庫が好きだ。それも神のごとき崇める。冷蔵庫に食品を入れた瞬間、女は食品の品質保証を永遠に得たりと思う。その冷蔵庫に女はなんでもかんでも詰め込む。だから奥に何が入っているかわからない。

 たまに奥から出てきたジャムは品質保証期限をとっくに切れ、野菜室の奥から出てきたキャベツは変色している。そうした腐りかけの食品を女は平気に口にする。食品の消費期限は女にとって品質保証期限であり、女にとっての消費期限はほぼ永久なのである。期限が過ぎているので捨てたらという忠告は、女にはご無用。「大丈夫、大丈夫、死ぬわけじゃない」と、返答は決まっている。

 品質保証期限も消費期限も気にならないのなら、買い物するときも鮮度を気にしないのかと思いきや、そうではない。陳列のできるだけ奥から取ることだけは忘れていない。ただ、奥から取っているだけで日付を確認しないから不思議である。奥の方ほど新鮮だという先入観だけで女は行動している。

 女はスーパーの安物買いが好きである。普段より安い野菜とかあると飛びつく。その野菜が必要だから買うのではなく、安いからとりあえず買うのである。そのときは冷蔵庫が満杯のことはすっかり忘れている。かくして、奥の完全に腐った野菜を処分してまた新しい野菜を詰め込む。なぜか、食品の処分は人目をはばかり、深夜にこっそり行われているようである。

 腐りかけを気にせず、腐ったものも厭わない、死ぬわけじゃないからと何でも口にする。女とは、恐るべきたくましい動物である。





〔男からみた女の流儀、その三〕 女の問いかけ





 女はときに男に問いかけをする。例えば、遠い地にいる息子が結婚したとたんに音信不通になり、女房は「結婚したら、なんだか冷たいね~」と夫にもちかけたとする。「そりゃ、新婚さんだって何かと忙しいんだろう」と夫が答えようものなら、プイとくる。この場合、女はただ同情してもらいたがっていたのであり、そんな真面目な返答を望んでいないのだ。

 「この服、似合うと思う?」という問いかけもそう。「似合うよ」と返せば女は迷い、「それはちょっと」と返すと女はさらに迷う。要するに男の意見はどうでもよくて、「この服、似合うと思う?」は女にとっての定型句なのだ。

 もっとひどいのが「AとB、どっちの服が似合うと思う?」という問いかけである。男の答えがAとかBとか関係なく、女は既に答えを持っているのだ。「だったら聞くなよ」と返す男は最低。この場合、女はただ一緒に迷ってもらいたいだけなのだから。

 女から男への問いかけは、男が真剣に受け止めるほどには他意はない。女とは、恐るべきしたたかな動物である。




〔男からみた女の流儀、その二〕 女の物差し





 男にとって違いがわかるものは何か。地図、プラモデル、温泉の質、車のエンジン音、隠れた居酒屋や食堂などなど。

 男がそれらの違いがわかるようになったのは、もともと機械いじりが好きであったりもするが、多くはあれこれ失敗した上のことである。

 今どき、「違いがわかる男」が強調されてきているということは、違いがわからない男が増殖しているからだろう。違いがわからない男がいるからこそ、違いがわかる男がもてはやされる。

 翻って、違いがわかる女って、あんまり聞いたことがない。もともと女はデリケートなはずだから、男より違いがわかってよさそうなものなのに、なぜなのか。

 恐らくであるが、女は「いい悪い」という物差しの他に、「好き嫌い」という物差しや「雰囲気」という物差しを持っていて、その方が強いから、結局、「いい悪い」の物差しからかけ離れた評価をするのかも知れない。

 もっと厄介なのは、女のその物差しは日によっても気分によっても変わることである。

 例えばレストラン選び。男が食べ歩いた結果、ようやく見つけた味のいいレストランに女を誘っても、女は料理の味以上に店の雰囲気や店員の態度を気にする。味が特上であっても結婚記念日にはふさわしくないとか、盛り付けが可愛くないとか、仕舞いにはともかく嫌いだとか言い張る。

 女とは。恐るべき自律感情発揚動物なのである。




〔男からみた女の流儀、その一〕女の不携帯




 伊集院静さんの「大人の流儀」なる本を読んだことがある。その内容は「大人の流儀」と言うより「男の流儀」というべきものであった。熟年男子だったらこういう風に立ち回りなさいとか、こう考えるものだといった、いつもの伊集院さんらしい豪快な持論を展開している。読んだときは、ごもっとも、ごもっともと思った。そこで私流に、熟年女子の「女の流儀」を考えてみることにした。




〔男からみた女の流儀、その一〕 女の不携帯

 女にとっての携帯電話は基本的に自分のためだけにある。用があるときには携帯して相手に電話するが、自分の用が済むと、とたんに不携帯になる。つまり女にとっての携帯電話は、送信専用電話機なのである。

 炊事するとき、掃除するとき、庭で薔薇の手入れをするときなど、女は作業中、ほとんど携帯電話を不携帯である。だから、いつ電話してもつかまらない。仮に携帯していたとしても、ときどき取り出して受信チェックするなど、気にする素振りは全くない。そんな調子だから、女の携帯電話はバッテリー切れが多い。というか、そもそもバッテリーを気にする素振りすらない。

 そんな女の不携帯の様態を仮に糾弾しようものなら、とんだトバッチリがくる。そんなに急ぐ用事だったのかと逆切れされ、気がついたら女は自分の不始末をスルーして、いつの間にか相手に責任転化しているのである。バッテリー切れによって連絡がつかないと相手からクレームされても、バッテリー切れになった自分の不注意を詫びるどころか、バッテリー切れという現象そのものを不可抗力の原因にする。

 そのくせ女は、相手が携帯電話に出ないと、なぜ携帯しないのかと相手を責める。女とは、恐るべき社会性に欠けた不携帯動物なのである。





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