福島の真実とは





 美味しんぼの「福島の鼻血」掲載記事に対して、地元自治体は風評被害を起こすばかりか福島県民への差別につながると厳しく抗議。これが火種になってネット上で記事に対する批判が殺到。さらにメデイアが取り上げて大反響を呼び、ついに漫画は休載に追いやられた。

 漫画には福島県双葉町の前町長の発言「福島に鼻血が出たりひどい疲労感で苦しむ人が大勢いる」「今の福島に住んではいけないと言いたい」との発言がある。また福島大学の准教授が「福島を広域に除染して人が住むようにするなんてできない」との発言もある。

 この記事に対して環境相と双葉町前町長が対立。環境相は「住民の被爆と鼻血の因果関係はないという評価が既に出ている」と強調するのに対して、双葉町前町長は「福島では同じ症状の人が大勢いますよ。言わないだけです」と反発する。

 さて、漫画に書かれた内容の真偽は如何に。問題の核心は、真偽に関わる基礎データを公開していないことにある。福島県内あるいは周辺自治体における子供を対象とした放射能検査の進行状況、鼻血を起こした子供の実数、甲状腺癌を患った子供の数、白血球の検査結果などである。それらを公開せずして真偽もどうもあったものではない。

 福島県内に鼻血の子供が増えていることについては、既に3年前の2011年6月16日付東京新聞に掲載されている。「福島の子供たちに体調異変」というタイトルで、大量の鼻血や下痢の症状を起こしている福島県の子供たちの実態と親の苦悩を伝えている






鼻血




 聞き及ぶところによると、事故前の統計では福島で甲状腺癌の子供は0人であったが、現在、子供たちの甲状腺癌が50人に増えたという。これも事実かどうか検証した上で公表しなければならない。

 ある専門家は「科学的にありえない」と評する。しかし専門家が「ありえない」というは「低線量被爆が原因で鼻血が出ることは科学的にありえない」と言っているわけであり、大量被爆した場合はあり得る。要は、白血球の検査結果を公表すれば因果関係は明確になる。

 風評なのか事実なのか、放射能の沈着はないのかあるのか、その真偽を決着さすためには検査結果を隠蔽しないで公表するしかない。いずれにしても、風評被害をまき散らかしたと出版社が糾弾され、放射能をまきちらかした東電糾弾されないのは、どうにも腑に落ちない。




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行方不明者をなくせ





 認知症による徘徊が原因で7年前から行方不明であった女性の所在が判明し、夫と念願の再会を果たしたと報じられた。多くの方もこのニュースを見ていると思うので事の詳細は省略するが、捜索に有力な情報があったにもかかわらず7年間もなぜ見つからなかったのかと大いに疑問に思う。今回の判明もある偶然によるもので、夫は諦めの心境から、生存未確認のまま死亡届を出そうとした矢先のことである。

 徘徊による行方不明者の大半は自宅周囲の狭いエリアで発見されることが多いが、今回の例のように他県に行くことだってあり得る。警察による行方不明者の捜索は、狭いエリアでは地域コミュニティーの協力のもとに円滑に行われることが多いが、都道府県を跨ぐと途端に不備となる。これは警察が都道府県単位で独自に組織され活動しており、都道府県同士の連携がないからに他ならない。今回の例でも、行方不明者に関する情報を一定のセキュリテイーのもとで捜索家族が検索できるシステムさえあればすぐに探せたものを。お粗末千万である。

 老齢化社会の到来によって今後、益々徘徊不明者は増加する。家族にとって徘徊不明者であれ、掛け替えのない大切な命。ひとり残らず帰還させねばならないが、今の法律や社会の仕組みは残念ながら徘徊を想定していない。徘徊を前提にした法律の整備が望まれる。

 警察庁によると、平成21年度の家出人捜索願を受理した件数は81,644人、同年度中に所在が確認された家出人は79,936人。実に発見率は98%にも達しているが、同時に1,708人もの未発見者がいることになる。この1,708人の中に徘徊行方不明者も含まれるのだが、気になるのは自発的に家出や自殺をする可能性が少ない10歳未満の家出人が765人もいることである。この数字の意味するものは何か。殺人、偽装家出人捜索願を容易に想像してしまう。

 安全安心の日本であるはずであるが、行方不明者の捜索不備や偽装工作などによって大切な多くの命が失われているように思えてならない。





理研の闇






 STAP問題はいよいよ佳境に入るどころか、闇の中に葬られようとしている。これまでの経緯を何度聞いてもわからない。というか、なぜ核心に迫らないのか、なぜこの問題を葬ろうとしているのか、その真意が読めない。

 そもそも本人は「改ざん」を認めている。その「改ざん」そのものが不正なのだと、当初は確かそう言っていたはずだが。その後、調査委員長はじめ多くの委員の論文にも「改ざん」の疑義が生じた。すると今度は、同じ「改ざん」にも許される「改ざん」と許されない「改ざん」があると言うではないか。白いマーカー線を入れればいいとか、少なくとも縮尺を勝手に変えて切り貼りしてはいけないとか。そんな説明が世間一般に通るはずがない。コピーペーストに変わりなく、「改ざん」は「改ざん」である。

 「改ざん」の疑義がある身内の調査委員会が、「改ざん」の不正があるとして彼女を糾弾する。そのこと自体が納得できない。そして彼女が外部の調査委員会による再調査を要望したところ、同じ委員会によって問答無用、「再調査の必要なし」と切り捨てる。そして彼女を処罰する方向を打ち出している。まるで泥棒が泥棒を裁き、お前の盗みは泥棒の風上にも置けないと言っているようなものである。これは中国共産党の話ではない。日本の科学技術のトップレベルの話である。

 最近のやりとりを聞いていると、「悪意」、「失念」、「故意」という法律用語だけが飛び交い、科学の話がいつの間にか法律論の言葉遊びに摩り替えられている。問題の核心は何か。「改ざん」という表現方法の不正があったとしても、実際にSTAP細胞なるものが存在するのか否かではないのか。だったら、彼女を含めて検証実験をすれば済むことである。その検証実験のチームから彼女を除外するという。そしてレシピだけは聞き取るという。そんな虫のいい話があるか!

 どうみても、いい大人が寄ってたかって小娘を苛めているとしか映らない。もし相手が彼女ではなく、理研の委員のおばさんやおじさんだったら、あそこまでやるだろうか。やらないだろう。そこに闇の糸口がある。隠された闇がこれから解き明かされていくであろう。例えば、彼女を取り巻くスキャンダラスな問題を理研が抱えていると仮定すれば、これまでの理研の言動のすべてが理解できる。





日本人としての矜持(その2)




 今、隣国社会はどうなっているのか、そういう風潮の記事がセンセーショナルなタイトルで週刊誌に踊る。貧富格差や安全システムの不徹底、官僚と業界の癒着など、隣国社会が抱える闇と影を露骨に糾弾している。隣国の国民自身も、「今こそ日本に学べ」とか「日本の安全システムを学ぶべきだ」などと発信しているようだ。

 果たして、日本社会は隣国に崇められるほどに、自国で誇れるほどに立派であろうか。確かに東日本大震災の際の国民の冷静な秩序ある態度は世界から賞賛された。しかし、原発事故対応における政府や電力会社の失策や失態を飽きれるほどである。確かに大型旅客船の積荷規制など日本の交通機関の安全管理に関しては秀でたところがあるかも知れぬ。しかし、2005年の福知山線脱線事故や2012年の笹子トンネル天井盤落下事故などの大事故が記憶に新しい。隣国を批判したり自国と比較するのではなく、ここは他山の石とし、改めて日本社会のシステムを点検すべきである。

 隣国は今、国民全体が涙の雨にさらされ、その矛先は大手企業や官僚、国家に向けられている。しかしこの事件の直前までどうであったか、思い出すがいい。戦時中の不幸な事件に関して執拗に一方的な批判を日本に浴びせた。領土の問題でも高圧的に主張してきた。そうした仲違いを緩和するため米国大統領が仲介して設定された首脳会談において、隣国大統領が見せたあの無味冷徹な態度を日本人は決して忘れることはできない。

 隣国に限ったことではない。領土や戦時中の日本軍の行動に関する批判のひとつひとつは、敗戦国は黙っておれとのメッセージである。戦勝国のルールが正義であり、敗戦国の主張は世界のルールを乱す不正義なのである。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ、それが敗戦国・日本の道なのかも知れない。残念で悲しいかな、世界の無言のルールというのは所詮、そういうものである。

 そこで試されるのが日本国民としての矜持である。主張すべきはするが、あくまで冷静に節度をもって主張する。先進国として世界の新しい秩序作りに貢献する。むやみに相手を刺激したり批判したりしない。日本人の日本人たる資質と品性でもって事にあたる。今、日本人の人間力が試されているのだと思う。






日本人としての矜持




 韓国の大型客船沈没事故はさまざまな教訓を我々に与える。国、組織、個人としてのリスク管理のあり方、緊急時における初動捜査の重要性、事故報道のあり方などさまざまであるが、もっと大きくみると人間の生死に関わる哲学にまで及ぶ。そのもっとも象徴的な出来事であったのが、行方不明者家族が国や船会社へ詰め寄る場面の発狂的かつ凶暴的な言動であった。

 自分の子供や家族が船に閉じ込められて沈没したというのに捜索が難航する事態にあっては、一時を争う家族が究極の感情に至るのはよく理解できる。そして、その感情が国や船会社に凶行な言動として当てられたとしても、責めることはできないとも思う。そこまでは誰しも考えは同じだろう。ただ、どこか日本人と違うなぁと秘かに思うところがある。夜の酒席で何人かとこの件について話をしたら、異口同音の返事であった。

 東日本大震災の直後、家族を失った人の悲しみや悔恨の言葉を数多く聞いたが、避難指示など国や自治体の事後処理を強く責める言動はなかったように思う。相手が自然災害だったからというのであれば、過去における数々の人災や人的事故において残された被害者家族の言動がどうであったか思い出すがいい。あれほどまでに発狂的かつ凶暴的な言動はあっただろうか。

 日本人はもっと感情や自己主張を前面に出すべきだとか、否、大陸の国民のそういう言動はあるまじきことだなどと言っているのではない。どちらが良いとか悪いとかいう議論をするものではない。そうではなく、国民性の違いといって割り切ることのできないこの違いは、一体どこから生まれるのかと単純に思うのだ。

 人災にしろ不慮の事故にしろ、家族を亡くす悲しみの大きさは国によって変わるものではなく、同じ人間であれば等しいに決まっている。ただ、悲しみの感情の矛先をどこに向けるのかが違う。さらに、亡くした家族の命はもともと誰から授かり誰に返すのか、究極的には人間の生命に対する哲学にも及ぶ。

 この哲学の違いを考えるに、どうしても宗教の違いに行き着くのである。その違いについての記述はこの場では避ける。ただ言えることは、日本人としての矜持をもつことの尊さと誇りを懐に生きたいと思うばかりである。


 マンションから見る瀬戸内海は今日も穏やかだ。
今朝の瀬戸内海


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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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