男の最終戦(風前の灯編)




 銭湯の洗面所で、ドライヤーをかけながら丁寧に櫛で髪を整えている男がいる。歳の頃なら還暦前後か。鏡とにらめっこしながら、それはそれは時間をかけて丁寧に整えている。だけど、その姿を後から眺めると、頭のてっぺんが見事に円形に禿げているのです。それも手の平サイズで。確かに、鏡には禿を取り囲む本人の前髪が映り、禿げた脳天は見えていない。だから本人にしてみれば、風前の灯たる前髪を一生懸命に櫛で整えることで自己満足しているのだろう。

 他人のことなど言えた義理ではない。この私めも、もはや風前の灯への鬼門にさしかかっている。ただ、そのお方のように進行すれば、そのような未練がましいことはすまい。いっそ、さっぱりとスキンヘッドになろうものに。問題はそこに至るまでのプロセスである。やがて風前の灯となるこの限りある資源をどのように育んでいくのか、そこが問題である。

 世には抜け毛防止剤や育毛促進剤なる商品が満ち溢れているが、どれも画期的なものはない。要は、脱毛の自覚と育毛への覚悟のもとに、本人が納得する方法によって日々努力することが肝心なのである。

 まず、禿げるという現象は頭皮の老化と考える。さすれば、頭皮は刺激しなければならないという信念が先に立つ。毎日のシャンプーマッサージは当たり前。昔の床屋にあったような円形のブラシでゴシゴシと頭皮をしごく。すすいだ後、今度は両手でマッサージする。風呂上がりにブラシで頭皮を叩いて刺激すれば完璧である。

 育毛シャンプーはダメ元で使うが、その効果は期待できない。少し前までインデイアンシャンプーを使っていた。インデイアンの何たらという成分が入ったシャンプーらしいが、詳細はわからない。というか、どちらかいうと眉唾物。しかし考えてみれば、確かにインデイアンに禿げはいなよなぁと、ただただ、そんな浅はかな思いで飛びついた。「インデイアン嘘つかない」と信じたが、インデイアンも嘘をつくようだ。

 一時、大〇製薬の育毛剤が流行った。1本1万円もする高価なもの。その後、あまり効果がないという噂が流れ、大〇製薬の株価はジワジワと値を下げた。しかし、性懲りもなくその育毛剤を今でも使っている。「信じる者は救われる」と、ただその一念であり、この場に及んでは科学者でも技術者でもない、ただの敬虔なる信奉者である。

 私は生まれてこの方、ドライヤーをかけたことがない。もともと髪型や身なりに無頓着なのと面倒なのが原因である。それに、髪に熱を加えることがそもそも髪にとって決して良くないとの思いもある。若い頃、髪にポマードを塗っていたが、これが良くなかった。頭皮が呼吸できずに新陳代謝が悪くなるからだ。もう手遅れかも知れぬが、今ではほとんど何もつけないようにしている。ただ頭皮の砂漠化を防ぐために寝癖直しスプレーをかける。

 女にとっての髪は歳を重ねても命に変わりなかろうが、男にも禿げとの岐路に立つ寂静感がある。知人との会話の中で「はげる」「ひかる」という言葉を相手が何気に発し、ハッとしてこちらを見ることがある。そのような気遣いは無用である。否、そんな気遣いこそが岐路に立った男を悩ますのです。風前の灯となるのか、岐路に立つ男の戦いはまだまだ続くのです。




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直観と検証




 小説においても音楽においても、天才と言われる作品には共通するものがある。天才的な直観、切れすぎる感性と豊過ぎる感情があふれ出て、核心を鷲づかみにする。例えば中原中也、バロックのバッハ、ロマン派のシューマン(人によって好き嫌いはあるが)。最近の日本人では、知の巨匠と言われた吉田秀和さん、加藤周一さんといったところか。

 いきなりブスリと奥の奥まで光を届かす、フランス的な明察を展開する。しかしもっと驚くべきことは、その恐るべき閃きを一瞬炸裂させたあとに、フランス人からドイツ人へと豹変することである。直観が本当なのか、ドイツのカメラ職人のように、コツコツと石橋を叩くがごとく検証するのである。フランス的な軽やかな閃きをドイツ的な重厚な論理でもって証明するのである。

 この直観と検証は、自身の仕事においても日々、体験している。まず山を見て直観できなければいけない。山容を作り出した輪廻と形態、山を構成する地質の本質、水や空気との関わりなどをつぶさに読み取る。しかるのちに、山の安定性や人が造成することの問題点を絞り込み、対策が頭に浮かばなければならない。そして最も重要なのは、その直観をいちいち検証することにある。

 多くの技術者は、調査をしてから山を知り、対策を練るという。そうではないと、私はいつも反論する。山を見たら、最後の対策までを想像できなければならないと。科学の分野においても、仮に山中教授が無数のケースを片っ端から実験したとしても万能細胞は発見されないであろう。彼が優秀なのは、秀でた閃きがあったことにあり、その閃きを確固たる自信とし、閃きを否定するものをひとつずつ排除していった緻密さにある。

 芸術や科学に限らない。日々の暮らしにおいても、この直観と検証は大切である。一瞬のよどみもない万物流転に対する確認と肯定。万物流転とは日々の暮らしである。自分が流されてはいけない、他人に惑わされずに地に足をつけて己の暮らしを守る。個人主義と自由主義の体現。柔らかな言葉遣いと人間関係。精密な分析と確固たる自信。直観と検証、このふたつのアプローチが日々の暮らしでも大切であると思う。





国意と民意




 小泉元首相が、最近、原発ゼロ発言を講演会などでしていることは周知のとおりである。時すでに遅しの感は否めない。それでも、思い直してその考えに至ったことは素直に喜ばしいことと思いたい。人間誰しも、時の流れや環境の変化に応じて、考え方も変わるというもの。

 ただ、どうも府に落ちないのだ。今このタイミングで、なぜ原発ゼロを訴えるのか。それに考え方が変わったというなら、現役時代に自民党の首謀として原発推進をしてきた責任をどう反省し、どう償うというのか。ただの凡人の考え方の変化ではない。今でも影響力を持つ元首相の発言である。原発ゼロを言う前に、過去の反省の弁が先だろう。

 なぜ今なのかを思うとき、郵政民営化のときとダブルのである。思いつきと先見性がキーワードとなる。私の評価では、彼は社会の潮流を先読みする超能力者であり、超風見鶏的人間だと思うのである。彼にとっては、何が正しいとか何が正義だとかは問題ではない。社会の潮流がどの方向に向いているかをいち早く知り、その潮流の追い風にいち早く乗ることが重要なのだと考えているに違いない。否、何も考えてないかも知れないが、そこが超能力者の所以でもある。無論、彼の弁の魂胆には息子へのメッセージとフォローの意味もある。

 あれほどに国会周辺で盛り上がっていた反原発運動も峠を越した。野党の脱原発論戦も陰りをみせている。そして、政府の原発方針たる国意は、今でも原発維持に変わりはない。それどころか、サイバー攻撃などのおぞましい反原発への闇の力を感じる。

 それでは、原発維持の国意に対して脱原発、反原発の民意は無力なのか。あれほど盛り上がった反原発運動は無意味だったのか。必ずしもそうとも言えないのだ。

 なぜなら、脱原発を宣言したドイツと比較すればよくわかる。確かにドイツはメルケル首相の勇断のもとに脱原発を宣言したが、実際には現在も多くの原発が稼動しているのである。一方、脱原発を宣言していない日本はどうか。今、日本は一基の原発も稼動していないのである。原子力規制委員会やら活断層論議の紆余曲折があったにしろ、結果として現在、一基も稼動していない現実がある。

 すなわち、実質的に日本は脱原発を実行しているとも言えるのである。それでは、この状況を作ったのは誰か。政治家がリーダーシップをとったわけでもない。賢明な官僚が立案したわけでもない。財界やマスコミが誘導したわけでもない。アメリカの外圧があったわけでもない。答えはただひとつ。民意である。

 脱原発という民意が静かに、しかし力強く抵抗しているのである。民主主義下においては民意は国意を上回るものと信じたい。最低の政治家と賢明な国民のなし得る業とも言える。




コンプライアンス



 都会の大企業に限らず、最近では地方の企業でもあたり前に目にする光景。首に身分証明書をぶら下げてビルの中を行きかう社員。社員のみならず、部外者にも、清掃員にまでも身分証明者を発行し、許可した者しかビルに入れない。一旦、そのビルに入ったとしても、各部署の部屋に入るにはさらに社員が掲げるICカードでロック解除する必要がある。部外者が会議の途中、部屋の外のトイレに行くにも社員に付き添ってもらって、ICカードをかざしてロック解除してもらう。このひち面倒臭さは一体、何なのか。

 仕事の請負契約書には履行義務が綿々と綴られ、これに違反したらどうとか、事細かく記されている。契約にあたっての審査が厳しく、該当しない組織と人を除外する。官僚も役所も受注業者の身分と経歴にこだわる。

 こんなひち面倒臭いことをなぜやるのかと尋ねたら、決まって「コンプライアンス」という言葉が出る。何かあると、「コンプライアンス」を連呼する。「コンプライアンス」とは、社会規範や企業倫理を守る法令順守の精神である。つまり、わが社は社会規範や企業倫理を守る優良企業なのだと言いたげなわけである。

 それでは実態はどうなのか。最近の食品偽装事件は日本全国で慢性化していることが判明した。チルド宅配の平温処理、暴力団への銀行融資、JRのずさんな安全管理などなど、どれもこれも反「コンプライアンス」行為のオンパレードである。それも、日本を代表する大企業である。そして裏舞台では、予定価格を下回って受注した業者を官は厳しく取り締まる。民間レベルでは平気で単価を叩く。これこそ「コンプライアンス」に反する行為である。 

 そもそも「コンプライアンス」の精神が導入されたのはいつの頃からか。それはもう15年も前だろうか、ISOの導入時期と一致する。ビッグバン時代の到来とともにアメリカ式ISOが導入されて以来、役所も企業もISO導入にやっきになった。ISOビジネスが栄え、ISO導入のための無駄な書類作成と日本に馴染まない管理が求められた。そしてそのしわ寄せは、効率化や能力主義の旗印のもと、必要な経費まで節減することになった。

 ISOを導入したきっかけは、日本のJISが世界標準の前に屈したからである。欧米の要求に応ずるままに効率化と能力主義が進められ、その一方で、日本人の心まで奪われたのである。何が「コンプライアンス」だと言いたい。形だけの「コンプライアンス」や、うわべだけの「コンプライアンス」は不必要である。日本人が求めているのは、真面目さであり、嘘をつかない心であり、真心である。真の「コンプライアンス」とは、嘘をつかない日本人の心にあると思うのだが。




自分にあきれる



 出張帰り、駅ビルのおでん屋に立ち寄り見ず知らずの若者と親しくなり、やがて激論した。広島の酒をさしつさされつ、酔いは深まり、意気投合して広島の繁華街に出向く。タクシーで薬研堀に着いて、公衆トイレに立ち寄り、アタッシュケースを彼に持っててと頼んだ。その後に行った飲み屋で彼曰く、「先輩、アタッシュケース持ち去られたらどうするんですか」と諭された。考えてみればそうだ。でも、仮にそれが全部持ち去られても人生をすべて失うことはないと腹をくくっている。

 その酒場でスコッチをロックで飲み干し、ふたりで肩を組んで歌った。2人分の支払いを済ませ、彼を飲み屋に置き去りにしてタクシーに乗りこむ。市内から自宅まで6千円はかかるが、この不況、タクシー業界の不況につけこんで4千円で交渉成立。飲んでも、そこはしっかりしている。途中、運転手の身の上話を聞いてホロッとくる。自宅に着いて降りるとき、なぜか5千円を渡していた。

 背広のポケットの財布や小銭や名刺を投げ捨て、死んだように爆睡。明日が忙しいのは重々承知している。そういうときは、目覚ましなくても午前2時や3時にむくっと起きる。バサッと顔を洗ってて会社に出向く。早朝の仕事のはかどること、この上ない。

 白む頃、ボヤッツと昨日のことを思い出すが、仔細はあまり覚えていない。どのように鍵を開けて家に侵入したか、どういう風に服を脱いだか。はっきりしているのは、財布の中身がもぬけの殻という現実。でもいいや、昨日は昨日、今日は今日の風が吹く。ただ、ふと、そんな生活振りの自分にほとほとあきれる。還暦をとうに過ぎてこの放蕩三昧。なんていいかげんな奴なんだろう、なんて気ままな奴なんだろと。






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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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