人生の華と義理




 自分の人生に輝かしい華が添えられたらさぞよかろうと、誰しも思う。また、素晴らしい功績や実績をあげた人に素直にエールを送りたいとも思う。しかし、華を添えることで義理が果たせないことはないのか。

 松井秀喜のヤンキースタジアムでの引退式のことである。それも球団としては初の、わざわざ二軍に一日入団させての引退セレモニーである。そこまでして、やる意味があるのか。なぜか素直に喜べない。なんだか釈然としないのである。仮にこれがヤンキースから持ち出した話の招待であり、ニューヨーク市民による諸手の喝采だとしても。

 確かに彼はMVPになった年もあったし、チャンスに見事な仕事もしてきた。しかし、そんな選手はザラにいる。それに、彼はヤンキースにわずかに7年間在籍しただけである。その後、戦力外となって、エンゼルスに1年、さらにアスレチックスに1年在籍したが、成績は思わしくなかった。さらにレイズに拾われてマイナー契約を結んだ。それでも振るわずについに自由契約になり、余儀なく引退の道を選んだ。それも日本の球団の誘いを断って。

 野球選手だったら誰しも憧れるヤンキース。できればヤンキースのピンストライプのユニホーム姿で終わりたい気落ちは痛いほどわかる。しかし実際、彼はヤンキースで野球を終えていないのだ。それでは、戦力外の彼を拾ってくれたエンゼルスやアスレチックスやレイズに対する恩と義理はどうしたのか。彼を育てた日本球界への恩と義理はどうしたのか。それとも、国民栄誉賞では華に不足があるというのか。

 折角のお祝いムードに水を差すようで申し訳ないが、社会をいつも穿った目で見る素直でない老人の独り言です。





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辞める者、辞めない者の人間模様



 趣味の会を辞める、友人として付き合うのを辞める、愛人を辞める、それでもって会社を辞める、はたまた人生を終える。人生には辞めることの多いこと。ただそのときどきに、辞めるか辞めないかの判断、辞めるにしてもどういう辞め方をするのか、人さまざまであり、そこに人間性が現れる。

 野党惨敗に終わってからというもの、政界は辞任の連鎖が続く。社民党の福島さんの辞任は、党としてもう何年間も惨敗しているのに、なぜ今なのと思う。土井党首から引き継いだもののジリ貧続きで、正直、疲れたのだろうと思う。細野幹事長の辞任は「惨敗したのに誰も責任をとらないことは許されない」との弁明。もっともな言い分だが、それではそこまで言われて辞任しない海江田さんはどういう心境なのか。細野氏には野党集結の野望があり、海江田氏にはそんな野望は微塵もなく、折角つかんだ地位に執着している。みどりの谷岡さんは、自身が選ばれなかったのだから辞めるしかない。橋下代表は敗北の責任をとって辞任すると発表した。しかしもうひとりの代表は辞めない。結局、呉越同舟の安易な結論となった。さてさて選挙の敗北責任の辞任劇が続く中、生活の小沢さんは一体、どこに雲隠れしたのか。

 政界ばかりではない。全柔連の上村会長は周囲から避難の嵐を受けた末に、ようやく重い腰を上げて辞任の意向。「組織を変えようと休まず働いた」との弁を残す。仮にそれがほんとうであっても、普通はそういうことを言わないものだ。人としての価値を下げた発言である。加藤コミッショナーに至っては、選手会やファンからも呆れられているのに未だに名誉職に恋々としている。

 辞めるということについて、長いサラリーマン生活で教訓を得ている。酒の席なんかで上司の悪口や会社への不満を愚痴って「こんな会社なんか辞めてやる」と言う人に、辞めたためしはない。ほんとうに辞める人は、私みたいに黙って辞める。要するに、辞めるという発言をすること自体、辞める覚悟がないのだ。

 人生にはいろいろな辞める場面があるだろうが、せめて人生を終えるときには、言い訳をしないで潔く辞めたいものである。




終わってみれば



 今回の参院選には行かなかった。というより、行きたくとも訳あって物理的に行けなかった。政治と宗教は語るべからずというけれど、ましてや選挙に行かなかった者に選挙結果を語る資格はない。でも、「つぶやき」ならぬ「ぼやき」を許していただきたい。

 それにしても争点が見えない選挙だった。争点がないわけじゃない。原発の存続か撤廃か、憲法改正に始動するのか、TPPに積極的に参加するのか、中国・韓国との関係改善へのスタンス、消費増税、社会保障制度の抜本的改善など、どれをとっても日本の行く末を左右する最重要課題である。選挙前に、どれだけこれらの課題で大騒ぎしてきたことか。

 代わりに争点にしたのが「ねじれ」だと言う。正直、ねじれて何がまずいのかと思う。命と生活に直結する課題を争点にしないで、「ねじれ」が問題なのだという。つまり、政治姿勢を問う選挙ではなく、円滑な国会運営への是非投票なのだという。いつのまにマニフェストという言葉はなくなったのか。野党も野党。くっついては離れて、そのあげくに、まんまと一緒になって争点が曖昧な選挙に突入した。
 
 「みどり」の神輿を担ごうと一旦は合流した「生活」であるが、担ぎ頭を任ぜられずに離れた。その「みどり」と「生活」はともに惨敗。「維新」に「太陽」が合流するも船頭がふたりでは舵がとれない。いずれのケースも、所詮は水と油。それも相当に濁った油であるから、清水に加えれば油になるのは必至。油を受け入れた時点で信条が吹っ飛び、惨敗が見えた。

 争点がぼけた上に入れる党がない。反与党の受け皿がなく、棄権する者も多かったろう。それが投票率の低迷を招いた。こうなったらと、破れかぶれで赤旗にも流れた。終わってみれば、自民の圧勝ひとり勝ち。さあ、どうなる。既定路線どおりに、消費増税、TTP参加、原発再稼動、憲法改正への手続きへと円滑にスルーするであろう。それもこれも国民審判の結果である。




ほんとうの優しさとは




 私が2歳になる手前、父が亡くなる直前であった。6歳年上の姉が茶箪笥の上にあった50銭を勝手に持ち出した。家の前に来ていた紙芝居に使ったという。父がクジラ尺でこっぴどく姉を叩いていたのを記憶する。「盗人のはじまりだ!」とか何とか、父がわめいていたような気がする。今、姉と会うたびに、あれで性根を入れられたと姉は言う。父亡きあとの人生において、いくら貧乏しても人様に後指さされるようなことだけはしなくて生きてこれたと、姉は今でも父への感謝を忘れない。

 そういった幼い頃の記憶もあってか、自分の子にも、しかと教育せなばとの思いがあった。子供がまだ小さい頃から成人になる頃まで、私は子育てのことでよく同居人と言い争いをした。悪いことは悪いとしっかり叱るべしとの私の考えと、あくまでも優しく接すれば必ず立ち直るという同居人との意見の齟齬(そご)であった。うるさいカミナリ親父と仏の同居人、どちらに子供たちが寄り添うのか明白であった。しかし幸いにも、子供たちは大きくなってから、カミナリ親父は必要であったと述懐し、ひどいと思ったあのひと言で実は救われたなどと言ってくれる。果たしてどちらの育て方が正しかったのか、子供たちの行く末を見届けるまではわからない。ただ言えることは、今どきの若い夫婦の大半は子を溺愛し、仏にも勝る優しい親であろうことに間違いない。

 話は変わって、学校でのいじめの問題である。連日のように、いじめによる児童の自殺が後を絶たない。先日も、名古屋でいじめによると思われる生徒の自殺が報ぜられた。いじめがあったのかどうかとか、アンケートをとるとか、朝の会で先生が自殺をそそのかす発言をしたとかしないとか、右往左往、揺れている。しかしどうみても、いじめがあったことは明白である。また、朝の会である生徒が「〇〇君は今日自殺するそうです」と発言したことも事実のようだ。そもそも、そのような発言が学校であること自体が異常であるが、もっと驚愕するのは、その発言に対して先生が何も対処していないどころか自殺を煽る発言をしているらしいことである。いじめ以前に学級現場は既に崩壊している。

 いじめはなければ良いに決まっている。しかし、なぜ自殺までするのか全く理解できない。死ねと言われたから自殺するというのか。「死ね」「ウザい」「キモい」という言葉は生徒の間で日常的に使われているという。そうした悪しき習慣が良くないことは誰しもわかっている。また、冗談であっても、そうした言葉が相手をどれだけ傷つけることかについてもわかっている。しかし、日常的に使われているそんな汚い言葉のひとつひとつに、なぜ命を犠牲にしてまで、まともに反応するのか。

 元先生で教育評論家の尾木氏は自殺した生徒のことを、「自分だけ責める優しい子」と評する。優しい子?それはちょっと違うだろうと思う。自分だけ責めるのは、廻りに話しても解決できないと自身が勝ってに決め付けているだけであり、親にも優しいのであれば少し想像力さえあれば自殺できる筈がない。優しいとすれば、自分自身に優しいのか。それに、仮に優しい子であったとしても、死んだら負けであり、終わりである。社会はこうして「優しい」という言葉で処理するのか。

 昔からいじめはあった。私も学校でいじめにあった。殴る蹴るの暴行にもあった。先輩や先生に相談すると、やられっぱなしなのかと逆に檄を飛ばされた。他国籍の複数人から待ち伏せにもあった。その都度、如何にいじめから逃れるのか真剣に考えた。腕力で負けるとすれば頭を使えばいい。それでもだめなら逃げればいい。究極は、そんな学校に行かなければいい。

 親は子供を叱ることなく、逆にご機嫌を伺う。学校の教師は生徒を叱ることもできない。近所の子供を叱る大人もいなくなった。親も学校も社会も子供を吹き出物にでも触るように扱う。そして、何か問題が生じると事なかれ主義に走り、事の本質から逃げて穏便にすませようとする。一体、いつからこの国は柔(ヤワ)になったのか。学校の先生と生徒、家庭の親と子、社会構造までも病んでいるのではないのか。

 子を慈しむほんとうの優しさとは、ただただ叱らず黙っていることなのか。生徒を本気で指導する優しさとは、いじめを見て見ぬ振りをすることなのか。道路に飛び出たわが子が車に引かれそうになったとき、「飛び出しちゃ駄目でしょ!」と咄嗟にわが子を叱らないのか。それとも、そんな場面でも、よかったねと、ただただ優しくするだけなのか。わが子を、わが生徒を真剣に思うがあまりの、強い優しさ、頑固な優しさ、厳しい優しさもあっていいのではないか。それが、ほんとうの優しさではないだろうか。








科学と非科学




 福島原発の事故原因調査、地震予知や活断層の不毛な議論、さらには日常的な気象災害が繰り返されている現実を見るにつれ、人間はどこか間違っていると、つくづく思うのである。とくに科学者の責任が大きいことは、科学に携わる者として反省せねばならない。

 科学者の多くは、スーパーコンピューターの普及によって科学は目覚しい発展を遂げたかのように錯覚しているのである。どのように膨大なデータであっても、条件さえ与えれば瞬時に地震予測や気象予測が可能となる。科学者は魔法使いのように崇められる。そして、予測に合わない現実に直面すると、そんな筈はない、それは例外だ、特殊だとかの言い訳を繰り返す。

 考えてみるがいい。近代科学が確立されたのは17世紀の科学革命以降であり、我が国に導入されたのは19世紀の後半になってからである。すなわち、50万年前に北京原人が誕生して以降、人間が科学という道具を使い始めたのはほんの近々の350年足らずなのである。直近の30年足らずのコンピューターの発達によって、科学の画期的な進歩と盲信しているのである。

 科学の要素とは普遍性、論理性、客観性である。しかし考えてみればわかる。普遍的な自然や論理的な自然なんてありゃしない。まして、自然の客観性なんて宇宙のみぞ知る。我々が知り得ている科学はほんの一握りであり、自然現象を含めたほとんどすべての事象は非科学なのである。

 ほんの一握りの科学とその他多くの非科学の間のグレーゾーンをどのように扱うか、科学と現実の乖離(かいり)を何によって埋めるのか、そこが問題である。無闇に科学の鉈(なた)を振り下ろすのではなく、経験を礎とした人間らしいバランスある知恵が問われる。そして、非科学の解決には何よりも人間力が問われるのだと思う。

 人間、とくに科学者が犯している最大の罪は、非科学を冒涜した傲慢さにある。自然現象の猛威は、ほとんど何もわかっていないという謙虚さを人間に求めているのであろう。万能細胞が発見された今日においてこそ、科学は万能でないことを改めて知ることが大切だと思うのである。科学者よ、恥を知れ!頭を下げろ!無知の知を知れ!





造成宅地崖下に注意




 先月の6月25日、午後6時頃、自宅から車で3分の近所で土砂崩れがあった。崖下の住宅2棟に土砂が流れ込み、61歳の女性が行方不明となった。その後の捜索によって、女性は土砂とともに遺体で発見された。女性は崖寄りの台所で夕食の準備をしていた模様である。女性は夫と2人暮らしで、夫はたまたま外出していて難を逃れた。




災害全景




 災害をテレビニュースで知り、とっさに現場に直行した。高さ20m、幅50mの範囲で崖が崩れて、土砂が家屋を飲み干していた。現場はまだ生々しい惨状を残し、亡くなった方がいることもあって警察が現場の立ち入りを阻んだ。現場は広域に宅地開発された宅地面端部にあり、宅地を掘り割る形で山陽自動車道が縦走する。崩壊箇所は宅地面直下の崖であり、被害家屋は崖下の古くからある民家である。




災害平面



 この災害は全国ネットで放映されたが、地元新聞には、災害発生当時、雨がほとんど降っていなかったことが不思議だと記していた。しかし調べてみると、6月19日から21日の3日間に176ミリの雨を観測していた。「雨による土砂災害は、雨のピークを越して雨が止んでからが一番危険である」これは災害の常識である。なぜなら、雨のピークより遅れて土の間隙水圧がピークとなりその後、土の破壊を生じるからである。このタイムラグが、雨が止んでから起きる災害の不思議さの所以である。



災害降雨




 現場周辺はもともとなだらかな丘陵地であったが、数十年前に切土による大規模宅地開発が行われた。丘陵地全体に自然浸透していた降雨は、宅地開発による道路などで遮水されて排水溝などに集中排水されるようになった。このことは、排水設備の不備によって宅地周辺の崖下に地下水が異常出水することも十分にあり得ることを意味する。

 人が亡くなっている案件なので軽々なことは言えぬが、その後の調査によって宅地開発との因果関係が示唆される。大規模宅地開発の崖下の民家は要注意である。





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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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