猫と女、犬と男




 人間に最も親しい動物である猫と犬であるが、世間は猫派と犬派に2分され、両方好きだと言う人は滅多にいない。それは、猫と犬の習性の違いからくるものだろう。もともと犬は、群れの中で生活しその中での自分の順位を定める依存型である。家の中で主人に従っても女子供に逆らうのはそのためだ。これに対して猫は、常に一匹で行動して全て自分で決定する自立型である。こうした猫と犬の習性にどれだけ共鳴するか、それによって猫派と犬派に分かれる。





犬と猫
(写真は借物です)



 私の猫に対する印象は、「したたか」、「媚びない」、「マイペース」、「利己主義」、「気ままぐれ」、「無表情」。そして私の犬に対する印象は、「利口」、「忠誠心」、「媚びる」、「風見鶏」、「表情豊か」といったところか。こうして書きながら思った。私は猫よりも犬が好きなのだと。

 無論、利口な猫もいるし、馬鹿な犬もいる。猫撫声というからには媚びる猫もいるだろうし、媚びない凛々しい犬もいる。どこどで忠誠心がある猫がいたし、忠誠心の欠片もない犬もいる。だから、前述のように思っているのは、私個人の単なる先入感に過ぎないのかも知れない。それに、人間さまが勝手にどう思おうが、実際に猫や犬はどうだかわかりゃしない。

 ただ、どうしても猫=女、犬=男というイメージがついて廻る。なぜなのか。女は動ぜず、いつも沈着冷静でしたたかな動物であり、男はそんな女のご機嫌を伺いながら尻を追う動物だという女コンプレックスを抱いているからだろうか。また女はもともと一人で決定する要素を持っているので、猫に共鳴する。男は階層社会にどっぷり親しんでいるので、犬を愛おしく思うのかも知れない。

 廻りの猫を飼う女は、事の他、寂しがり屋である。概して我が強く、社交性がない方が多い。一方、犬を飼う女は普通に社交性があって開放的である。だから犬を連れた女同士の井戸端会議は長い。猫を抱いての井戸端会議は見たことない。もっとも、猫はつまらない井戸端会議におとなしく付き合う筈がない。

 犬を飼う男は普通である。土佐犬やシェパードを連れている男は、ほんとは気が小さい。自身の気の弱さを、身代わりに犬で鼓舞しているように見える。ヨークシャーやシーズーなどの小型室内犬を飼う男は優しい男が多い。問題は猫を飼う男である。猫と女、猫と男、犬と女、犬と男の4通りの組み合わせの中で、最も希少な組み合わせであるからだ。

 本来、男は、男本来の性格から猫嫌いである。実際、「犬アレルギー」はあまり聞かないが「猫アレルギー」は男に多い。私もそうであった。昔、ママさんに誘われるままにお部屋に招きいれられたら猫がいて、その場で全身に湿疹が出ておずおずと退散し、事なきを得た。今は、あることがきっかけで猫アレルギーを克服した。

 真の「猫アレルギー」男に聞いたことがあるが、猫を飼っているかどうかは、家の玄関に入っただけで判るらしい。モヤっといやな空気を感じるという。猫の写真や絵や人形もダメだと言う。「猫」と聞いただけでむしずが走る。「猫」に似た「苗、描く」という字を見ても気分が悪くなるらしい。そんな徹底的な猫嫌いは、「ドラえもん」も「キティちゃん」もダメというのですから、相当なものだ。


 それにもかかわらず男が猫を飼うというのは、常に女(=猫)を求めているか、自身が女であるか、どちらかに違いない。もし猫を女と見立てて飼っているとしたら、彼女ができたときに猫と彼女の戦いが始まり、男はその狭間で葛藤するだろう。もし自身が猫であったなら、男気性の彼女を持つがいい。ただ言えることは、猫も犬も、相対する人間さまが自分を好意的に思っているのか毛嫌いしているのか、言葉を発しなくともわかっていることである。






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統一球の背景




 野球に興味がない人でも統一球の話題はニュースで知ってると思うので、あえて事件の詳細は書かない。ここで「事件」と記したのは、明らかに犯罪であるからである。プロ野球選手にとって、球が飛ぶかどうかは生命線である。システムエンジニアが扱うパソコンの性能をこっそり変えていたり、大工の棟梁のカンナ刃が勝手に取り替えられていたり、そんな類と同じ話である。

 日本のプロ野球機構のコミッショナーなるものは、所詮、お飾りであることは百も承知である。いわば名誉職であり、名の通った人であれば誰でも構わないのである。ただし、野球機構のことに一切、物申さないことが条件である。その意味で、加藤さんは従順な優等生のコミッショナーであることに間違いない。ただ、「私は直前まで一切知らされていなかった」「事件とは思っていない」と正直に答えてしまった。

 もともと知らされない立場であることの認識が欠けていたわけであるが、それでは、どうして選手にも世にも知らせずに極秘にやったのか。誰が飛ぶ球に変更するよう指示して、誰が極秘にするように指示したのか。そうすることによって、誰が得をするのか。

 飛ぶ球に変更しようが、飛ばない球に変更しようが、その球をどのチームも使用するのだから公平だろうと、誰もが考える。しかし、それがそうとも言えないのだ。ホームランバッターを多く抱えるチームほど、飛ぶ球への変更の効果が他のチームより高い。それではどのチームなのだと考えれば、どの球団に行っても4番バッターになれる人材を抱える球団といえばすぐにわかだろう。そしてそのオーナーは誰かといえば言わずと知れたW氏である。そう考えれば、このシナリオが解ける。そう考えれば、すべての事象の説明がつく。

 今回の統一球事件はただ単に選手に事前に知らせなかったというガバナンスの問題ではない。例えば、飛ぶ球と飛ばない球の意図的なすり替えも当然あり得る。東京ドームでのホームラン数が一挙に増えたのはなぜか。前半戦あれほど快進撃のチームが交流戦になると勝てないのはなぜか。清武事件から尾を引いたプロ野球球界の闇が暴露されることを期待する。






統一球




父の日


 マンションに帰ると、郵便受けに宅配の不在伝票が入っていた。送り人は東京に住む息子だ。不在伝票に、“お荷物は宅配ボックスNo.3に入れています”と宅配業者のメモ。こんなときつくづく、マンションは便利だなぁと思う。早速、荷物を取り出して開けると、父の日のプレゼントであった。カラー裏地をチラりと魅せるカジュアルシャツだった。夜、お礼の電話をしたが出ないので、お礼のメールをしておいた。





父の日プレゼント




 父親と息子の関係は、ある時期を境に微妙な関係になる。それは、息子が父を越そうとする時期と重なる。その時期を境に、男同士の寡黙な戦いが始まる。息子はリトルリーグの野球少年であったが、キャッチボールする返球の速さが私を越すのに時間はかからなかった。このときが最初の父越えであったろう。しかし、正捕手である背番号2ののユニホームを勝ち得たものの、最後までレギュラーで試合に出場することはなかった。

 かわいそうなことを当時の監督もしてくれたものだと思うが、それも仕方なかろう。息子にとってそれは、やがては経験する人生の挫折の第一歩であったろう。それが原因かどうか、しばらく荒れた時期もあった。その都度、父と息子は真剣に生きることの議論をしてきた。大学時代はロン毛の茶髪でギターに没頭していた。真剣に生きてさえいればそれもよかろうと、応援もしてきた。そして幸いにも大学をなんとか卒業できて、今の職にある。大阪から東京に転勤して早10年が経とうか。彼は今の仕事が好きだと言う。そして、東京で頑張りたいとも言う。

 明け方、息子からのメールの返信が届いているのに気が付いた。「電話に出れずにごめん.今帰宅中です.」とある。返信時間を見ると、23時50分であった。日曜日の深夜まで仕事していたのか。そしてメールはこう綴る。「これからもお互い仕事人として頑張りましょう!でも無理はせんでね.」と。

 父のことを気遣いやがって。息子よ、たくましく成長したものだ。父は実は今日、マンションを留守にしていたのは、昔、野球の応援に行ったグランドを見に行ったのだ。背番号2でありながらレギュラー出場できなかった、あの忘れもしない悔しいグランドを眺めに。それも、偶然にも父の日に。

 1歳で父を亡くした私には戦う父も越す父もいなかった。それに引き換え、君には生涯現役を自負する父がここにある。戦う父、越す父がいるのは幸せなことだよ。父と息子の戦いはまだまだ続く。息子よ、手を抜くな!






AKBがわからない




 確か参議院選挙は夏だったはずだがと、よ~く聞いてみるとAKBの総選挙のことだった。スタジアム一杯に溢れる若者の熱狂の中、選挙開票して選ばれたAKBのメンバーが大げさに感謝したり宣言したり、人によっては泣きじゃくれたりしている。それを見て、観衆が歓声を上げてもらい泣きしてる。一体全体、これはどういうセレモニーだ!どうにも、わからないのだ。

 わからないのは、どの子も特段にかわいい子ではないことである。かといって、特段に歌がうまいわけでもないし、踊りや演技がうまいわけでもない。どの子も普通にそこらにいそうな女の子なのに、なぜ。昔だったら、山口百恵にしても早見優にしても、遠い高みの華の存在であった。顔やしぐさや歌に、カリスマ的な雰囲気や異才を感じられる存在であった。AKBにそんなものは全く感じられない。

 もっとわからないのは、そんな普通の女の子の集団に、なぜあれほどに若者が熱狂するのかだ。総立ちしてペンライトを揺らしたり、発狂したり、泣きじゃくったりと。そうする動機や心理や意味がわからない。

 もしや、観衆は踊らされているのか。そう言えば、私が好きなミュージシャンのひとりである渡辺美里のライブに行くと、廻りが皆総立ちで踊っているので、ひとり座っていられなくて一緒に立って踊る。それと同じ心境なのか。彼らはメデイアの罠に嵌って、踊らされているのかも知れない。

 それにしてもいつの頃から若者は、選りすぐられた個の逸材よりも手に届く大衆芸能の複数形を望むようになったのか。高度成長を知らない若者にとって、夢や憧れは手の届かない遠いものではなく、手が届く現実的なものを求めるようになったのか。

 政治家になることも宇宙飛行士になることも望まない。出世することも社長になることも望まない。学校においても級長になりたがる子がいないと聞く。ただただ平凡に、目立たなく人並みを望む。

 そういうと、若者をひとくくりにするとお決まりの反論をいただく。反論を吐いてもいいが、実際にそうだろう。何も平凡が良くないと言ってない。ただ、個性が感じられないと言っているのである。否、個性がないという個性が多数あるのかも知れない。

 時代の流れとともに、ミュージシャンも若者も聴衆も変化してきた。その大きな変化の節目は、私が思うに尾崎豊時代ではないかと思う。その時代から徐々に、大衆芸能やお笑いの台頭、癒し系やのオネエ文化の出現、バラエティ全盛を迎え、これらはマスメデイアの凋落とともに文化の質の低下をもたらし、このことによって聴衆たる若者を巻き込んだ体たらくをもたらしたのではないか。見るともなくAKBの総選挙を眺めながら、これで日本の将来は大丈夫なのかと、ふと思った。望むらくは、これが老婆心であって欲しいものだ。





いぶし銀



 ブラジルW杯出場を決めた昨夜のサッカーを見て思った。本田圭佑のPKによって試合を決めたことに象徴されるように、今日の日本サッカーは海外組を中心として確実に個の力をつけてきた。外国人選手に引けをとらない技術力と身体能力がその源であることに違いはない。テレビカメラはどうしても前線を追い、観衆は派手なシュートやセットプレーの瞬間に注視する。

 しかし少し玄人的な目線でみると、今野や遠藤といった「いぶし銀」の存在を見逃すことはできない。細かなパスワークと連係、相手を翻弄させるアイデア、試合の流れを認識したプレー、チームプレーに徹した動き、FWやトップ下を活かすボールさばきなどである。彼ら裏方に賞賛したい。

 サッカーに限らず団体競技には「いぶし銀」の存在が必要である。例えば野球だとWBCで活躍した中日の井端選手などである。「いぶし銀」に派手さはない。どちらか言うと目立たない。しかし、ここ一番には渋い働きで何とかやってくれる。チーム状況や試合の流れを一番理解している。影の存在として自分が何をなすべきかを最も理解している。そんなシャイで頼れる存在の、「人生のいぶし銀」になりたいものである。






いわし
(記事とは直接関係ありませんが、鰯の燻製です。)

拝啓、安倍総理殿




 先月、所用で京都に行った際、嵐山の弘源寺に出向いた。弘源寺は天龍寺塔頭の一つであり、日本画家で有名な竹内栖鳳、上村松園らの絵を所蔵することから、その向きのお方には堪らないところと聞く。しかし、私のお目当ては柱に残る刀傷である。この刀傷は、禁門の変(1864)に際して天龍寺に陣を構えた長州藩の軍勢が血気余って試し切りをしたものと伝えられる。

 これがその時の刀傷かと、しかとこの目に定めて、あくる日はいよいよ、長州藩が京都御所に攻め入った「蛤御門」を訪ねた。長州藩による弾痕が残る門の梁を確認する。長州軍はこの禁門の変にて追走される身となったが、その無念はいかばかりかと、戦士の心意気を思い、門にてしばし立ちすくむ。

 長州藩士の子孫なる吾は一介の遠吠えする老犬なれど、同じ藩士の子孫たる安倍総理の現在の心境は如何に。国を良くせんとする長州藩士の心意気を引き継ぐ身は同じ。まして前回の屈辱たる挫折を思えば、それを挽回せんとする気持ちは痛いほどわかるのです。ただ、少しばかり急ぎすぎていませんかと、心配しているところです。

 アベノミクスに象徴される株価上昇と円安であるが、金利は思うように下がらない。それどころか先週あたりから株価暴落と円高へと逆行しており、物価上昇とともにスーパーインフレすらも危惧される。成長戦略を矢継ぎ早に打ち出しているが、その中身は実態に合ったものなのか、実質的効果が期待されるものなのか。

 安倍総理のもうひとつの願いは、何としても任期中に拉致問題を解決したいことである。しかし、解決を焦るがあまりに国際協調に溝を作らないのか。水面下の交渉の間にも度重なる韓国メデイアの干渉的暴走が気になるところです。

 そして究極は安倍さんの信条である96条改正に至る。GHQによって押し売りされた日本国憲法であること、その内容は現代の日本の実態に合わぬこと、未だ一度も憲法改正がなされていないこと、何よりも国民の手によって憲法を作る必要があることを唱えている。そのどれもが正しい意見であるが、それでは今まで改正されなかった責任は誰にあるのか。GHQにあるのか、政治にあるのか、政治家にあるのか、はたまた改正の突破口である96条そのものが鬼門というのか。

 私はこう思う。今まで憲法改正がなしとげられなかったのは、政治家の怠慢もあるが、一番の根源は国民にあると。その証拠に、憲法改正をすべきかという世論調査を行うと決まって「すべき」と「すべきでない」よりも「どちらともいえない」が多数を占めるのである。この「どちらともいえない」 96条を先行して改正する方法は邪道であると。国民の多くが憲法改正を望まない限り、時期尚早であると。

 安倍総理へ。96条にこだわるばかりに足元をすくわれかねませんよ。拉致解決を急ぐがあまりに足元をすくわれかねませんよ。経済再生を急ぐあまりに足元をすくわれかねませんよ。もっと足元をよく見て、今が何より正念場です。





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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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