本音と建前、事実と不事実



 拙ブログにおいては本音の辛口でコラムや世評を展開している。それでも、反対意見の気持ちを多少は配慮している。家族や恋人、親しい友人であっても、すべて本音の本音で話ができるかというと、そうもいかない。親しい仲にも礼儀ありで、その言葉を発することで相手に不快感を与えないだろうかと気にするのが、人としての礼節というものだろう。

 一般人においてもそうであるから、ましてや政治家はいわんをやである。橋下氏の発言のことである。一度発せられた言葉はどのように取繕おうが取り返しがつかない。従軍慰安婦のことに言及すれば、すぐに噛み付くであろうことは百も承知のはずなのに。加えて、言葉の壁が本心とはかけ離れた方向へと展開して混乱を招いている。

 これが男同士の居酒屋トークだったら許されるだろう。大都市の首長であり大きな党の共同代表である立場の者の発言としてはあまりに不謹慎で無謀である。橋下氏の発言は胸のすくような話しぶりが定評であるが、テーマがデリケートな女性の性に関するものとなれば、内容の如何にかかわらず全世界の女性を敵に廻すことは想像に難くない。

 橋下氏の胸のすくような発言の核心は本音トークにある。今回も橋下氏は「建前論は止めてくれ」と発言している。どうも本音と建前を使い分けているようである。しかし、果たして国際社会に本音と建前の使い分ける文化はあるだろうか、はなはだ疑問である。日本人特有の本音と建前の使い分け文化が日本人をわかりにくいものにしていて、時として混乱を招いているのではと思う。

 本音と建前の使い分ける一方、事実と不事実についての明快な答弁に欠ける。今回の件でいうと、従軍慰安婦制度が旧日本軍だけでなく、どこの国の軍隊にも同様の制度があったということが事実であるならば、その証拠を明言すればいい。ただ、政治家が言及すべきことではなく、歴史学者の見解に委ねればよい。日本では風俗は法律に違反しないことは事実である。しかし、風俗の活用を米軍に斡旋するなんぞは論外である。日本人の発言には、私はこう思う、私はこう考えるという個人の思いや考え方と、内容が事実であるか不事実であるのかということの区別が明確でないことが多い。

 さて、今回の騒動でよく聞く言葉に「歴史認識」がある。橋下氏は旧日本の侵略を認める「歴史認識」を出すと、石原共同代表は橋下氏の「歴史認識」は間違っていると批判し、侵略を否定した。正にこの「歴史認識」の違いこそが日本と韓国・中国との国家間の障害になっている。そこで、「歴史認識」とは何か。日本人は「過去の大戦で起きたことの事実と不事実を正確に認識すること」と理解しているようだが、諸外国はそうではない。彼らの「歴史認識」とは「日本は敗戦したことを認識した上で過去の歴史を反省せよ」である。これが勝戦国の本音の日本に対する「歴史認識」である。

 とりざたされている「河野談話」や「村山談話」もすべて勝戦国の本音の圧力に屈した上での苦汁の選択であったことは間違いない。すべては敗戦したことに原因がある。ただ、今それを取り戻すことはできない。唯一、敗戦国日本が堂々と勝戦国と渡り合えるには、輝かしい日本経済の復活に他ならない。





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継続は力なり



 スポーツジムに通い始めてかれこれ半年になる。出張日以外はほぼ毎日、1時間ほど汗を掻く。その1時間を工面するため、勤務の仕方も工夫をしている。平日は時間がないのでストレッチとランニングだけ。土日はそれに加えて、筋トレと気が向いたらヨガ。それでも毎日の汗の量は半端じゃない。拭いても拭いても滴り落ちて、シャツは搾れるくらいになる。飽きやすの私なのによくここまで続いたものだと、自分でも感心している。

 長く続いた原因は、ジムに通うきっかけになったメタボ予備軍を解消したい一念である。こうして頑張ってきた恩典というべきなのか、成果が少しずつ出てきた。体重が当初の59kg代から57kg代へ、先週あたりから何と56kg代に突入した。ウエストが心なしか細くなり、パンパンだったズボンのベルトに少しだけ余裕が出てきた。

 もう少しベルトを締めつけたい気になり、さてベルトの穴を何で開けようかと思案する。火箸でジュジュ~とやるのか、キリを廻して開けるのかと迷っていたら、いい物を思いついた。レザークラフトのキットにある、穴を開ける刻印である。ゴム版にベルトを置いて刻印を上から木槌で叩くと、すばらしい楕円形の穴ができた。

 その新たな穴でメタボ調の腹を締めなおし、背筋を伸ばして、できるだけ腹廻りを意識して歩く。何でも気持ちの持ちようであり、ダラッとしてては腹は出たいだけ出る。少し腹を意識するだけで腹は引っ込むという切ない持論を持つ。

 そんな中、昨日、1年に1度の健康診断を受けた。腹廻りと体重を計測した看護士が、「何か運動されていますか?」と聞く。ドヤ顔でニンマリ答える。血液検査の速報が出て医師と面談する。どの数値も前年を大きく下回っている。血液サラサラの傾向。とくにγ-GTPは昨年の半減以下に。医師曰く、「アルコールの量を減らしたのですね」。「・・・・・・・、いえ~、お酒の量、変わりません」と。事実、検査前日も普段どおりの生活で受診しないと、と変な言い訳で飲んでいた。

 ともかく、血液検査の数値が良くなっているのは励みになる。これに加えて、昔の背広が着れるようになれば万々歳だ。継続は力なり。慌てずあせらず、少しだけ頑張って続けるとしよう。





ミシュランの怪


 フランスのタイヤメーカーであるミシュランがレストランやホテルなどを格付けした「ミシュランガイドブック」。その日本版として、東京、大阪、北海道に次いで4版目となる「ミシュランガイド広島2013特別版」が先週17日に刊行された。金曜日の夕方とあって広島市内の書店は長蛇の列をなし、広島市内繁華街の廣文館では当日だけで3500冊が売れたという。

 そもそも、こういう格付けにどれだけの重みと意味があるのか理解できない。だから、売り出しと同時にこぞってガイドブックを買う気持ちが知れない。それよりも、日本での4版目の刊行が名古屋でもなく福岡でもなく、なぜこの田舎の地方都市・広島なのか疑問である。宮島と平和公園の世界遺産を意識して、外国人観光客目当てなのか。それにしても、しょぼいこの広島をどのように格付けしようが知れたものだと思うが。

 さて、広島でのミシュランガイド刊行が決定して以降、地元ではどこが選ばれるかが巷の話題と噂になり、やがて予想順位の書き込みネット版なるものもできた。しかし、蓋を開けてみると全くの予想外であった。三ツ星は「なかしま」1軒のみ。一ツ星は「児玉」、「たこつぼ」、「葛(かずら)」の他、数軒と聞く。異口同音に、誰も入ったこともない聞いたこともない和食処だと酷評する。広島の人なら誰もが知る旨い名店はどこも入ってないらしい。それに不可解にも、一ツ星の「たこつぼ」と「葛(かずら)」は親子である。広島ならではの広島風お好み焼きは番外編に紹介されているというが、それも有名人気店はどこも選に漏れたそうな。

 格付けが公表されると、格付けされた店はどこも盛況という。事実、選ばれた店は当分の間、予約で一杯なそうな。しかし、店側は繁盛して糠喜びかというと、案外そうでもない。これまで地道に培った馴染みの客との関係が損なわれかねないからだ。

 ホテル、レストランに限らず、銀行や企業の格付け、国の格付けなど、なんでもかんでも格付けする風潮がある。果たして格付けする企業や団体は、どれだけ格付けすることの意義と社会的影響を認識し、社会的責任を負っているのか、大いに疑問である。さらに、信頼に足る格付けと言うなら、フェアに格付けした根拠を示すべきである。

 そもそも和食には侘びとさびがある。食材の多さと調理の多様性、隠し味を含めた繊細な味わい。器と食との美的感覚、それに板さんと客との合いの手。そのような和の心をミシュランが評価できるとはとても思えないのである。私は自分の目で確かめて実際に味わったものしか信じない。あ~、いきつけの店はなんて気さくで旨いことか。行きつけの店が私にとっての三ツ星である。




貧乏人の株商い




 このところ、ネットストックに凝っている。仕事の合間に株価変動をボードで確認しては、小商いしている。一般投資家といえばそうなのだが、貧乏人のやることは知れてる。リスクの少ない安い株価の銘柄を数少なく買って、少し上がったところで差額の利ザヤを得るというセコいやり方である。

 基本的にお金というものは汗水垂らして稼ぐものだ。そういう考えに変わりはない。博打で稼ぐなんてことは言うに及ばず、株式投資などでお金を稼ぐというのもどこか抵抗感があり、とても仕事の代価として容認することはできない。そんな堅物であっても、このところのアベノミクスに便乗したい気持ちがある。それに、ここんとこの不景気で役員報酬をゼロにした分、小遣いの補填といった意味合いでやっている。趣味の仕事と商いの分業化である。

 株価はいつの時代でも変動する。株価変動は大潮小潮の潮汐変動と同じように大きな周期と小さな周期が必ずある。アベノミクスが株式になぜ効果があるのか。変動はあっても全体傾向が上昇気運であるから売り手がついて株式市場が活況化するからだ。その前の暗黒期間は下がる一方だから誰も売ろうとしない。だから株式市場も低迷していた。

 貧乏人が株に手を出すには基本法則がある。元手はせいぜい50万円か100万円程度の少額にする。1000円以上の株価はリスクが大きいので手を出さない。小さな周期の底を見計らって少数買う。一攫千金を目指さない。元手の1%かせいぜい数%上がった時点で(元手が10万円なら1万円かせいぜい3万円)売る。買った株価より上がるまで何年だって辛抱強く待つ。これさえ守れば損することはない。

 下は最近の私の売買履歴を示す株帳なるもの。銘柄は隠した。同じ銘柄は同じに着色している。勿論、連戦連勝であるが、数千円や1万円という小商いの実態を示す。吾ら小市民や貧乏人が株をやれば株式市場はさらに盛況となり、全体的な株価の下支えになることは間違いない。





売買履歴


注意事項:株式はあくまで個人の責任で行ってください。

睡眠ログ



 スマホについているアプリはどれも、あれば便利だけど、なくても構わないものが多い。そんな中で、「睡眠ログ」なるアプリだけは継続的に利用している。寝る前にスタートボタンを押して、起きたときにストップするだけの、いとも簡単な操作が飽きやすの私を長続きさせている。それで何がわかるかというと、睡眠時間と寝返りの頻度と多さ、いびきの頻度と大きさ、寝室の温度と湿度の変化、そしてそれらを総合した睡眠効率である。



睡眠ログ
(ある日の睡眠ログ)



 寝る前にスマホを枕元に置くことによって、ベッドの振動を寝返りとカウントし、音をいびきとカウントするものらしい。だから、夜中にトイレに行けば大きな寝返りと勘違いしてキャッチし、夜中に寝言を言えば大きないびきと間違えてキャッチする。だから信用性に今一欠けるのは仕方ない。

 このアプリにはオマケがついていて、いびきの無呼吸時間がわかる。いびきサイクルボタンを押すと、私の場合、例えば「いびきの間にとぎれた区間が107秒ありました(8回)」とか表示される。一度のいびきで107秒も無呼吸があれば死んでるはずなのに、こうして生きてるのは8回のいびきでトータル107秒の無呼吸があったのかも知れぬ。それとも、寝言の合間が107秒あったということか。それを確かめるために録音することもできるが、そこまでするつもりはない。

 この睡眠ログはすぐに壁掛け型に進歩するであろう。寝てる姿を見通せる位置の壁にスマホを設置すると、寝てる状況を録画して完璧な睡眠ログを提供するであろう。さらに、睡眠ログは普段の生活ログへと進歩するであろう。GPSとの併用によって、起きてから翌日目が覚めるまでの一日の生活のすべてが記録されるアプリの開発もそう難しくない。そして究極は、人体に小さなチップを搭載さえすれば、生きてから死ぬまで、ゆりかごから墓場までの人間の一生がログされる時代となるであろう。人間の一生が小さなチップ1枚に記録される。

 人間の生活をログすることは限定的に考えれば便利なことも多いが、困ることも多い。すべての行動が監視され束縛されるので、ログチップを外そうとする。しかしそんな時代では外そうとするとするだけで怪しまれることになる。他人に見られたくない明かしたくない秘密や闇も隠せず、人の人としての尊厳を失い、人間関係が崩壊するであろう。

 睡眠ログの登場は、小さな道具によって人間が監視され束縛される時代の幕開けを示唆するものである。人が小さな道具に支配されぬように、せいぜいログは睡眠程度にしておいて、生活ログは気が向くときのきままな日記に収めるのが無難かと思う。







ひとりと多数の幸せ論理




 ある保育園に、卵と牛乳を食することができない食品アレルギーの園児がひとりだけいた。園ではその子にだけ特別メニューの給食を提供してきた。しかし、園長はみんなで同じものを食べるのが教育の基本だと考え、卵と牛乳を使わない給食を全員で食べるように決断し、実行している。

 この話を、テレビは美談として紹介していた。園長のすばらしい考え方と決断力と実行力。それを実現するための栄養士の並々ならぬ努力など。そして、アレルギー園児とその母親が喜ぶ姿を最後に映した。

 さて、これはほんとうに美談で終わる話なのか。それでは、アレルギー園児以外の、その他大勢の園児が卵を食べたい、牛乳を飲みたいという権利はどこに行ったのか。園児にまだ判断能力はないだろうが、食べたい飲みたい位の欲望はあるだろうに。それに、その他大勢の園児の親御さんはみな、このことに納得したのだろうか。仮に園児の親が全員同意したとして、恐らくひとり分のアレルギー給食を作るよりも全員のアレルギー給食を作る方が手間も費用もかかるはずだが、その費用を誰が負担するのか。

 弱者に優しい社会作りは進めていくべきであり、弱者は少数であっても保護する努力は必要である。しかし、少数弱者のために大多数の健常者がそれに合わせるというのはやりすぎであり、本末転倒ではないのか。

 いろんな単元の社会には、その他大勢の中に少数の特殊事情を抱える場合は大いにある。それがアレルギーであったり、精神的なものであったり、体の欠陥であったりと。こうした場合、ひとりの弱者にその他大勢が合わせることがほんとうに良いことなのか。そうされることで、ひとりの弱者はかえって恐縮し、申し訳ない気持ちにならないのか。ひとりの弱者に対する真のやさしさとは何か。ひとりの幸せとその他多数の幸せのどちらを優先すべきなのか、悩ましい問題である。無論どちらも幸せであることに越したことはないが、世の中、そんな上手くはいかない。

 もう一度冒頭の話題に戻って、以下の選択肢のどれが最良なのか。ひとりの幸せと多数の幸せの論理は非常に悩ましい。

① ひとりの食品アレルギーの園児に特別メニューの給食を提供する。
② 全員で特別メニューの給食を食べる。
③ ひとりの食品アレルギーの園児は弁当にする。
④ 全員が弁当にする。


 なお、私個人の選択肢は①である。ひとりの弱者は大勢の暖かい保護のもとに弱者であることも認識してもらうことが、弱者に対する真の優しさだと考えるからである。






キャバクラ




 今いう「キャバクラ」とは、キャバレーとクラブの連結語である。そのキャバクラに、先日の出張の折に誘われて久しぶりに行った。キャバクラは敷居が高い昔のクラブとは違って庶民的である。昔懐かしい絢爛たるキャバレーとも決定的に違う。なのに、なぜ「キャバクラ」なのか。キャバクラ時代の若者は、昔のキャバレーもクラブも知らずして何気に「キャバクラ」と呼んでいるに違いない。

 キャバレーからキャバクラへの時代の変遷とともに、客をもてなす女子の様変わりにも驚く。昔のキャバレーのホステスは実に客を喜ばせてもてなした。ソシアルダンスはお手の物。政治経済から趣味の話まで、相手に合わした社交会話はまさにプロの業であった。客の注文があると、豊満な胸の間からライターを取り出し、それを上にかざしてボシュと火をつけてボーイを呼ぶ、そんな粋なそぶりもあった、それに引き替え、今日日のキャバクラ嬢ときたら、ダンスは踊れない、知識がない、会話にもついていけないとくる。ああ、それなのに、それなのに。客の多くは逆にキャバクラ嬢に気を遣い、キャバクラ嬢に飲み物を勧めて、脈絡のない会話にへらへらと喜んでいる。それでもって高い支払いを平気でしているのである。これって、おかしくないかい?

 そんなつまらないキャバクラを後にして、ふと大学時代のキャバレーデビューのことを思い出した。大学2年のとき、学費稼ぎにキャバレーの世界に足を踏み入れた。夜商売だから大学の講義に支障がないことと荒稼ぎできるというのが選択理由だった。

 キャバレーの仕事は実に面白かった。半年も経つと、銀盆にグラスやビール瓶を載せて軽々と三本指で運ぶことができた。シェーカーを振っていろんなカクテルを作れるようになった。そのうちホールママの子供の家庭教師をするようになって、ママの自宅からタクシーで同伴出勤するようになった。

 ママの声掛けもあって、大学3年の初めにボーイを取り仕切るボーイ長に抜擢された。階下では燕尾服を着た先輩がドアマンをやっているというのに。ボーイ長の一日は長い。すべてのボーイの行動をチェックし、お客が指名するホステスの調整、こまどり姉妹や灰田勝彦などのプロ歌手の公演手配、一日の終わりには大窯で炊いたうどんをホステスに振る舞った。

 そんなキャバレーも大学4年の春にきっぱり辞めて卒論に没頭した。今思えば懐かしいバイト時代であり、人間関係を育むことができた良き青春時代のひとこまである。




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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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