師走と世情




 街はイルミネーションで綺麗に飾られて、クリスマスモードまっしぐら。スーパーや百貨店はお歳暮とおせち商戦。書店に行けば来年度のカレンダーと手帳が並ぶ。どこか、行き交う人の気ぜわしさまで感じる。世の中、どこからどこまでも、すっかり師走である。

 ただ、師走といっても一昔前の師走とは随分と様子が違う。一昔前といっても、ほんの20年程度前までの話であるが。和室の仏壇前は贈られてくるお歳暮が山積みになった。貰うも貰ったが、贈るも贈った。お歳暮を運ぶ宅急便や郵便物が隣近所をわさわさと行き交っていたものだ。ピンポーンと鳴ると、今度はどこからだと。金も人も物も何もかも大きく動き、世の中がとにかくダイナミックに流動していた。

 あれから20年。今じゃ、お歳暮を貰うような世話もしていないし、お歳暮を贈るような世話にもなってない。仮に世話をしたりされたりしても、もうそんなご時勢じゃない。それなのに、なぜか世話にもなってない遠い親戚に未だにお歳暮を贈ったりしている。贈ったり贈られたり、そんな物々交換なんてもう止めようよと言うのだが、習わしという一言で却下される。

 この時期、業者がカレンダーや手帳を持って廻ったものだ。そこらじゅうにカレンダーや手帳がころがり、処分に困ったものだ。カレンダーも手の込んだものが多く、手帳だって立派なダイアリー調のものまであった。それが今じゃ、カレンダー不足で自分で買う派目に。カレンダーを自分で買うなんて想定外である。

 年賀状も年々、出す数を減らそうと努力している。個人名ごとに星取り表を作っていて、当方が出しても返信もよこさない不届き者は来年は没。出さないけど来たものは仕方なく出す。そんな努力を数年間続けた結果、結局、毎年出したり出されたりする相手は日頃付き合いのない人や親戚ばかりになった。もういい加減にこんなしきたり止めようよと言うんだけど、これも習わしという一言で却下される。

 世の中、不景気なので人も金も物流も動かない。数が減り、華やかさが減り、お金をかけない現実的な師走を迎えている。しかしその反面、習わしや慣習、見栄や世間体によって究極の非現実的な無駄な行為がなされている。現実的なのか非現実的なのか、効率的なのか非効率なのか、よくわからない世情になったものだ。




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国民の政治選択




 解散後の党の乱立と野合劇場を見せられ、未だ国民の選択枝さえ整理されていない現状にあるが、否が応でも1週間後には告示があり3週間後には国の末路が決まる。争点が定まらないからこそ、争点を整理せねばならない。

 まず、民主党。野田総裁が選挙用として繰り返すのは「政治を後戻りしていいのか、それとも改革を進めるのか」の言葉である。この人はよく平気でこんなことを言うと感心する。人からコンクリートに後戻りさせたのは誰か。高速道路無料化を後戻りさせたのは誰か。あれだけ消費増税しないとスローガンに挙げたのに断行したのは誰なのか。脱原発だって閣議決定なんかしちゃいない。最後の最後になって反TTPの首を切ったのも、民主党が生き残る唯一の保身の道と心得てのものである。国民はもう騙されまいぞ。

 次に、自民党。安倍総裁の発言の鼻息は荒い。そのすべてが経済政策と言っていい。日銀法を変える、紙幣を刷る、インフレターゲットを設けるなどを唱えている。確かに一時的には経済は回復すると思うが、その先を語っていない。国際協調の中での現実論を語っていない。国土強靭化すれば景気は向上しようが、その先はまさに自民党独裁国家の二の舞となろう。憲法改正や国防軍と鼻息はさらに荒いが、これは先のまた先の話であり、一党独裁でなければとても現実味はない。

 橋下さんには期待も大きかったが、太陽と合流した時点で終わったと思った。まるで牛若丸が武蔵坊弁慶に呑まれた感がする。それまでの歯切れの良さや主義一貫性が崩れたと、国民だ誰しも感じているだろう。脱原発と原発稼動ありきが合流する建前はどこにもない。

 今、13党だの14党だのが乱立して主義主張を唱えているが、それほど大きな違いがあるだろうかと考える。例えば、TPPの問題だって、「慎重」「交渉に参加する」「交渉参加した上で国益を優先して判断する」「積極的に参加する」のいずれもそう違いはないのだ。要するに、参加して条件を丸呑みせねばならぬのかどうかである。であれば参加せねばいいし、そうでなければ参加して国益に合致した条件であれば枠組みに入ればいい話である。しかし、この問題の核心は真実の中身が知らされていないことにある。これは国会議員の多くも知らされていない事実である。一体、アメリカが何を要求しているのかを明らかにせねば、交渉参加も不参加も国会議員に判断できないし、ましてや国民に判断できるわけがない。

 消費税議論も各党にそう違いがない。消費増税は閣議決定し国会議決事項である。今更凍結というのも現実的でない。問題は消費税の使徒である。全額を社会保障に使用し厳密な審査をする仕組みを作ればよいわけだが、そのことには恐れて言及する党は少ない。そこに消費増税の闇の部分がある。

 そうこう考えていくと、乱立野党に考え方の違いは大きくない。しかしただ一点、あるとすれば原発政策であろう。原発推進は別として、脱原発、脱原発依存などと曖昧な言葉だけが先行しているが、要するに原発ゼロを本気で目指すのかどうかである。その意味で、今日にも会見するであろう滋賀県知事の動向が注目される。原発問題は単なる政策の問題ではない。人類の生存に関する倫理および哲学の問題だと考える。多少の食や生活を犠牲にしても原発をなくしたいと切に願う国民が現にいるからである。
 
 国会議員および政党には、争点を整理した上で原発政策の明確かつ具体的な方針(工程表、プロセス、リスク)を明らかにしてもらいたものである。





晩秋を惜しむ



 この連休は晩秋の安芸宮島を訪れる観光客が多く、マンション廻りの道路は渋滞となり少しも動かない。近所の大型店舗も観光客の駐車お断りの臨時職員を多数派遣している。


 その渋滞と喧騒を掻い潜り、裏道から広島市内方向に脱出する。こちらも今年の紅葉の見納めと、メジャーではないが広島市内の「三瀧寺(みたきでら)」にぶらりと出向く。ここは高野山真言宗の寺院であり、寺伝によれば809年に空海(弘法大師)により創建されたとされる。そのためか、空海をはじめ、親鸞、日蓮などの像が建つ。



看板


参道


空海



 広島市民には「三滝観音」として古くから親しまれている。三滝山の切れ込む谷の底に位置するため、原爆投下の際、爆心地から3kmにもかかわらず無傷であり、臨時救護所になったそうである。境内にある朱塗りの多宝塔は原爆犠牲者の供養のため和歌山県広川町の広八神社から移築されたものらしい。ほとんどが紅葉の終盤であったが、多宝塔を望むところだけは真紅の紅葉が日に照らされていた。


多宝塔

鐘



 境内には三滝があり平和記念式典の献水にも使われている。三滝のひとつ幽明の滝を眺めながら抹茶をいただく。亡き母はここ三瀧寺によく通っていた。寺の下まで車で送っていくと、帰りは電車で帰るからと言って別れた。なぜ一緒に参ってやらなかったのか。母は何を祈願しに来てたのだろうか。そんなことを沸々を思い、晩秋を惜しんだ。



滝





三滝短歌

数字の縁起



 会社の駐車場廻りは閑静な住宅街である。季節毎に同じ庭師が隣近所の庭木の剪定をして廻っている。駐車場に車を停めてその庭師と目が合えば、「おはようございます」、「こんにちは」の挨拶をするようになった。庭師は布袋さんに似た、人のよさそうな無精ひげのオヤジである。松の木の上からニコニコ顔で挨拶を交わす。その仕事ぶりが丁寧なことに好感をもっていた。

 そんな社交辞令の挨拶が1年も過ぎると、松の上と下で季節の会話をするようになった。そんなとき、庭師はいつも駐車場に停めた私の車の方を気にして見ているようなふしがあった。その後、もう少し慣れ親しんだ会話を始めたとき、庭師がこう言った。「旦那の車のナンバー、最高ですね」と。振り返って見る我が愛車のナンバーは「8716」である。どうやら庭師は「花色」のナンバーに感激し続けていたらしい。庭師らしい感性である。車のナンバーなど頓着なかった私だけど、その後、車を変えても同じナンバーを引き連れた。庭師がそれほどまでに惚れたナンバーを。

 社有車のナンバーにも頓着なかったが、やたらそのナンバーが多いことに数年もかかって気付いた。そのナンバーとは「1122」である。あるとき人から聞いた話では「良い夫婦」のゴロで人気らしいと言う。こちらは全くその気がなくても、世間はそう見るらしい。時折しも数日前がその1122の良い夫婦の日であったそうだ。私には縁がないが、この社有車を走らせるときだけは、他人の目を気にして優等生の夫みたいな顔して乗っている。

 結構、世の中には数字のゲンをかつぐ人が多くて、車のナンバーでもゲンが横行している。今ではお金を出せば好きなナンバーが手に入る。そのうち「4444」が永久欠番になるだろう。ゲンやツキの無信心者である吾輩なれど、良いと言われるものを排除するほどの根性はない。良いものは素直に受けるとしよう。ただ、数字も時の運。運に任せて生きるのもよかろうと思うのだが。




東海道車窓の記




 昔は広島から東京へ出張となれば必ず泊まりであったが、新幹線のスピードが速まるにつれて日帰りも可能になった。その日帰り出張も時間との勝負で、慌しいことこの上ない。何だかせせこましくて、せっかちな嫌な時代になったものだ。

 先日、東京出張の折、急いで広島まで帰ることもないと、名古屋まで新幹線の「こだま」に乗り込んだ。普段では考えられない、非効率きわまりない行為である。しかも出張帰りなので、多少の後ろめたさも感じた。『早く帰って仕事せんかい!』と恐い社長に叱られそうで。

 いつもだと、「のぞみ」に乗るとザーアッと通り過ぎ、陽炎のごとき残像となる東海道沿線の風景である。独身時代から新婚時代、子育て期まで名古屋や静岡で過ごした懐かしの風景がどのように変貌したのか、楽しみでもあった。当時、既に東海道新幹線が走っていて新幹線通勤もしていたが、当時の新幹線の駅は、東京を出ると横浜、小田原、熱海、静岡、浜松、そして名古屋であったと思う。当時の「ひかり」は東京から名古屋まで一直線であり、「こだま」がその間の駅を補足して停車していたと記憶する。

 今回「こだま」に乗ってみてわかったのは、東海道沿線に新しい新幹線駅舎がいくつもできていることである。「三島」「新富士」「掛川」「三河安城」と聞きなれない駅舎が続く。その昔、東海道新幹線開業時にたんぼの中に「岐阜羽島」駅ができて問題になったことを思い出した。大野伴睦と同じ事情なのかと想像してしまう。

 富士川、大井川、天竜川と一級河川が堂々と流れるさまは、昔と変わらず貫禄がある。富士山を望む富士川では地下水調査に苦労した。掛川の茶畑でも多くの地すべり調査をした。天竜川沿い千頭までの災害はひどかったなぁ。はるか向こうに見える第二東名の調査にも携わった。あちらこちらの風景に昔のことが走馬灯のように廻る。途中の駅から乗る人の話にも、静岡のなまりがあって懐かしく聞き入る。

 ゆっくりとした時間と風景の流れの中で思い出に浸っていると、ふと、いつからこんなに我々は急ぐようになったのかと思ってしまう。社会の急速な発展とともに、人の気持ちはせせこましくなり、過去を顧みず、前へ前へと突き進む。人間関係も希薄になり、地域のつながりもなくなる。果たして、社会の発展は人間にとってほんとうに幸せなことなのであろうか。

 たまには、こうして立ち止って過去を懐かしむこともいいなぁ、そう思う少しのんびりの東海道の車窓であった。







富士

(車窓からみた富士)



スマホ格闘の記


 スマホデビューして2週間になる。なんとか我が手中のツールにした感があるが、この間のトラブルや苦労は大変なものであった。従来の携帯との違いは、MicrosoftからMacに移行した感じとでも言おうか、古女房から若妻に移り変えた感じとでも言おうか、そのような感覚である。

 この若妻は敏感である。ちょっと触っただけでいってしまう。触っただけで飛んでしまうのだ。これで何度、間違い電話したことか。アナログ世代はどうしても強く押してしまう。タップ、フリック、スライド、ドラッグ、ピンチアウトを駆使して優しく触らないといけない。これに馴れるまでに相当、時間がかかる。だからといって躊躇してはいけない。サッと触ってスッと押す、こんな感覚かな。

 一番に困るのはCapacity(容量)が少ないことである。100%充電したとしても、スリーブ状態から起こすだけで1%減る。だから何もしなくても、寝た子を100回起こしただけで空穴となる。悠長にアプリを使っていようものなら、みるみる内に消耗していく。だから、外出先でも新幹線でも、まずはコンセントがないかを探すようになった。最近の合コンでは自己紹介の前にスマホ充電が鉄則らしい。便利はいいんだが、こんなにスタミナがないとは。

 セキュリテイーが良すぎて便利が悪い。スマホ購入したその夜から指紋承認と暗証番号でガードしたところ、自身が牢屋に閉じ込められてしまった。解除に一苦労し、一晩中、通話ができなかった。突然に携帯電話機能を絶たれると寝つけないほど、もうとっぷりとネット世界の呪縛にかかっている。セキュリテイーといえば、スマホでSkypeやFacebookなど新たに設定すると、設定の仕方を間違うと情報が拡散する危険がある。

 スマホにはやたら多くのメール機能が配備されている。Eメール、Cメール、パソメール、Gメール、NXメールとある。仕事にはパソメール、個人にはEメール、au相手にはCメール、特定な親しい人にはGメールと使い分ければ便利だが、まずは不必要である。ただ、外出先で会社のパソコンのメールを確認したり、パソコンの画面を確認したりするのには便利である。

 いろんな便利なアプリがインストールできるが、注意しないと費用が発生する。ただ、ほとんどがどうでもいいアプリが多い。音楽やゲームをダウンロードしないに限るが、ちょと手を出してしまうところがスマホの危うさである。

 スマホ攻略はまだまだ道半ば、スマホの奥は深い。細かな操作はどこにも説明がないので触って覚えないといけない。便利な機能を攻略本を購入して研究中である。携帯を持て余している御仁には持たぬことをお勧めする。また、携帯電話機能とメール機能だけであれば従来の携帯の方が特段に便利良い。スマホに捕らわれの我が身においては、最後までスマホと格闘するしかない。







スマホ





枯木の桜



 もう20年も前になるだろうか。植木市で桜の苗木を買った。どんな桜かわからずに買ったが、開花してみると、垂れの八重桜であった。それから毎年、遅咲きの八重桜を楽しませてもらったが、ここ数年、手入れをしないままに枯れ木となり花も咲かなくなった。

 今年の春の開花時期を越し、庭の剪定をお願いした職人に切ってもらうよう頼んだ。ところが、桜の木は命拾いしていた。職人曰く「もう少し切らずにおきましょう」と。  

 あれから夏を越し、秋が過ぎ、もう冬に近い今日この頃、なにげに庭を眺めると、何やらピンク色の花が咲いている。近づいてみると、何と何と、あの枯れ木の八重桜である。

 幹も枝もボロボロに枯れ果て、葉すらない枯れ枝の先っぽに、4輪だけが肩を寄せ合って咲いているではないか。まさに、最期の力を振り絞っての狂い咲きである。苦しかっただろうに、よく頑張ったね。季節違いに咲いたのは、きっと最期の別れを告げたかったのだろう。愛おしい桜の花をしばし眺めていると、涙が出てきた。




枯れ木の桜


寒桜


恋愛立国論


 今の政局を見て、どの党に投票しようと決めた人は少なかろう。党が分裂したり、新しい党がある日突然降って湧いたり、日めくりで党と党が引っ付いたり離れたりの状況である。また、同じ党であっても政策が全く違う人が集まっていたり、政策が全く異なる政党同士が大同小異のもとに野合したりしている。こんなざまを見せられて、国民に支持する政党を選べということ自体、おこがましいことである。それにどの党に投票しようが、選挙結果によっては、どの党とどの党が連合するのか、その保証すらないのである。

 ただ、よくよく考えてみれば、原発という安全政策を除くほとんどの課題は、党や人によって考え方に違いがあったとしても根源は同じである。つまり、社会保障にしても消費税にしても経済政策にしても、公共事業の増減議論(国土強靭化策)にしても、所詮、財源がないことに起因しているのである。

 それでは、なぜこうも財源が不足して赤字が増えたのかを問い詰めていくと、結局は少子高齢化という現実にたどり着く。つまりは、人口減少問題を抜きにして政治も経済もへったくれもないのだ。裏を返せば、根源である人口減少に歯止めさえかけることができれば、ほとんどすべての課題はクリアされて、原発政策以外の政策の違いは、元知事が言うようにそう大きな違いではなくなるのだ。

 それでは、なぜ人口減少に歯止めがかからないのだろうか。結婚する人の数が減少し、子供を産まないからに他ならない。では、なぜ結婚しないのか、子供を産まないのか。若者の多くが出会いや恋愛を面倒だと思う。仮にそれをクリアして結婚したとしても、セックスが面倒だと思う。

 草食男子に媚びってまでセックスしたくないと女子は思う。もっと極論するならば、女性にとって男性はもはや必要ない存在なのかも知れない。男と一緒にいるよりも仕事の方が楽しい。セックスすること自体が面倒。それでも子供だけは欲しい。だったら、そのうち精子バンクからイケメンで有能な精子を調達する、そんな時代になるかも知れない

 国力は正に人口に比例する。人口減少は亡国を意味する。人口問題なしに政治も経済もない。すなわち、国を救うも亡くすも、とどのつまりは人口問題である。それでは、日本の人口を増加するためにはどうすべきなのか。その秘策は恋愛奨励策にある。

 国営の婚活システムを作ることなど容易なものであり、その経済効果は長期的にみると大きい。恋愛は若い者に限ったことではない。老いも若きも恋愛が盛んになれば、何よりも世に活気が出てくる。そして消費が拡大する。すべてが国力の増強に繋がるのである。よって、老いも若きも恋愛を奨励すべきこと、まさにこのことを国の重要課題として進言する次第である。




乾坤一擲(けんこんいってき)


 よく言えば「伸るか反るかの英断」かも知れぬが、四面楚歌の状況下を勘案すれば、どうみても土俵際まで追い詰められた末の開き直りに過ぎない。

 最後は自分の面子を保つために大根役者の演出で幕を閉じた。最後の最後に、今出す必要もないTPPを持ち出したのは、造反予備軍の誘い水として正義の政府軍の御旗としたいためであろう。

 泥鰌は泥を食ってでも生きながらえようが、金魚は鉢から出るとやがて死のう。第3局を目指す面々にとって時間不足は必至である。それを狙った、この日しかないという泥鰌ならではのしたたかな究極の政局判断である。

 ただ、この泥鰌は「嘘」という言葉がよほど嫌いなようである。嘘つき呼ばわりがよほど堪えたとみえるが、どこぞの政治家のように平気でうそぶく顔を通さねば大物にはなれまい。あなたは根が正直な小心者の泥鰌であることはわかりました。

 たまたま今日11月15日は七五三の日である。よりによって子の成長と将来を祝う日の翌日に、国民は誰に何を祈って何を願えというのか。




物作りの様変わりに思う


 仕事柄、地質図を作る。現場に行って露頭のスケッチを野帳に描く。地層や断層・節理の方向を計測して地形図に書き留める。ここまでの地道な作業は今も昔も同じ。しかし、ここからの作業が今と昔で大違い。

 昔だったら、といっても20数年前までの話であるが、現場で書き留めたものに上から墨入れをする。クーラーのない部屋で、汗ばんだ腕や手で汚れたペーパーの地形図と格闘しながら、数日かけて地質図の元図をこしらえる。

 片手にスコッチウイスキー、片手に墨入れのロットリングたまにパイプタバコという出で立ちが地質屋のステータスであった。出張の宿であれば、明け方まで若いものと喧々諤々、地質論議から人生論議まで戦わせながら作ったものだ。

 作られた元図をトレース屋に渡す。トレース屋はマイラー原図を上から透かせて丹念にトレースしていく。タイトル文字はトレース屋の好みで、イタリアン調や相撲文字風のものまで独特の作品が描かれる。できあがった原図をもとに必要枚数の青焼きを注文し、それに色鉛筆で色を塗る。色塗りには近所の主婦連中をアルバイトに雇って、広いテーブルの上で数日間かけて仕上げる。色鉛筆で塗られた地質図は、何とも言い難い味のある作品となる。

 一枚の地質図はこうして多くの人々によってバトンされて、ようやく完成の日の目を見たものだ。その過程にはいろいろなトラブルや失敗があり、人間ドラマがある。できあがった作品は、まさに多くの人の汗と笑いの結晶であった。

 やがてコンピューターの発達によってアナログ世界からデジタル世界へ。地質図はAuto cadを使ってパソコン上で作られるようになった。ペーパー相手ではなくモニター相手となる。ペーパー上の頃合いの表現や微妙な表現が難しい。ハッチング(色塗り)もsolidでムラなく美しくできる。タイトルは明朝かゴシックに、文字も線の大きさも線種もISOで決められた規格どおりに。

 こうしてパソコンで作られた作品は、すべてがムラなく統一的に、効率的に作られる。しかし、すべてが画一的で無味乾燥の作品でもある。出来上がった作品に、いつも「違うんだなぁ」とつぶやく。

 時代の流れといえば、仕方がない。しかし、いつも何か物足りなさを感じている。効率的で見栄えがいいが、人間味がない。そこにドラマも哲学もない。これでいいのか。

 時代に逆行し、今のやり方に反旗をかざしても勝ち目はない。しかし、どこかで抵抗したい気持ちを持ち続ける。どこかで自分を表現したいと思っている。どこか人間臭さを出すことはできないのか、虎視眈々と狙う。この時代であってこそ、味わいと人間らしさを少しだけでも表現したい、そんな思いでいる。

 時代の変遷に伴って物作りが様変わりした。それも一瞬のうちに一変した。今、事務所には使われることのない色鉛筆、写真フィルム、OHP機、トレース台などが寂しく眠っている。物作りの様変わりに伴って、人の生き方も問われているようである。私は昔の人間で良かったと思う。この時代に人生の終盤を迎えて良かったとも思う。なぜだか寂しく、人間ドラマがあった物作りの時代を郷愁する日々である。




色鉛筆



育ちが違えばこうも・・・



 昨日、奈良公園にて「鹿寄せ」という行事があったらしい。ホルンを吹くと約130頭の鹿が一斉に集まる。何でも明治時代から続けられている古都・初冬の風物詩という。もっとも、今では有料で申し込みさえすれば、年中、1回2万円で実施するというから、伝統行事も商用化の波には勝てぬようだ。



鹿

〔写真は(財)奈良の鹿愛護会パンフより引用〕

 

 その「鹿寄せ」を秋篠宮ご夫妻と長男悠仁さまが見学されて、鹿に煎餅を与えている風景をテレビで見た。分厚い煎餅の束を何人もが抱えて一枚ずつ鹿に与えるのだが、鹿は殺気立つことなく、群がることなく、人に噛み付くことなく、順番に淡々と食べている。その光景に驚いた。

 さて一方、我が町の広島・宮島の鹿はどうか。来られた方はご存知だろうが、食べ物を持っていようものなら、人構わず、所構わず襲い掛かってくるのだ。餌に限らずゴミを漁っては紙やビニールまで食べる。現に、死亡した鹿の胃袋はビニール類で一杯に膨らんでいるとのこと。これに猿が加わり、もはや宮島は猿鹿合戦になっている。

 
 奈良は春日神社という歴史ある厳かで美しい環境のもと、鹿までも気品に満ちている。それに引き換え、広島・宮島の鹿のどう猛なこと。気品ある奈良・春日の鹿とどう猛な広島・宮島の鹿の違いは何か。

 奈良・春日大社と鹿は、藤原氏にまつわる教義に関わる信仰上の関係が強い。一方、宮島の鹿にはそもそも信仰上のいわれはない。宮島の野生の鹿は大戦後、その多くが殺された。高度成長経済によって多くの観光客が宮島に訪れるようになると、平家の落人とともにわずかに残りし鹿が野生生活を捨て、人間に頼る暮らしになったという。

 気品ある奈良・春日の鹿とどう猛な広島・宮島の鹿の違いは、やはり育ちの違いだろうか。さてわが身を振り返ると、われの気品なきは育ちの悪さゆえであろうか。まあ、それもまた「しか」たないことだが。




Gゼロの世界



 アメリカ大統領選の結果が今日にも出る。しかし、オバマが勝利しようがロムニーが逆転勝利しようが、アメリカの経済情勢に大きな変化はない。もはやアメリカには、経済力に裏づけされた、かっての世界におけるリーダーシップはない。

 国力の指標なるものは、経済力と軍事力と言っても過言ではない。軍事力に劣る日本は経済力でもって世界に台頭してきた。アメリカが牽引するG7やG8の一員として世界に羽ばたき、経済発展をとげた。しかし今や、頼りにしてきた牽引役のアメリカは存在しない。さりとて、西を向いてもユーロが危うい。

 そうした中にあって、好むと好まざるにかかわらず、中国が目玉となるのは間違いない。今や中国の経済力は日本を抜いて世界2位であり、いずれアメリカを抜いてトップになりかねない勢いである。

 しかし、巨大なエンジンをかかえて爆走してきた中国であるが、ここにきて曲がり角にさしかかっている。これまでハンドルを切ったこともなく、ブレーキを踏んだこともない中国である。共産圏における自由経済という矛盾を抱え、これに経済の停滞が加わると、危ういことこの上ない。

 すなわち、今世界はリーダー不在のGゼロの世界に突き進んでいる。Gゼロの世界とは、どの国にもチャンスがある一方、リーダーによる管制がなされない無秩序の世界でもある。したがって、戦争という2文字がどうしても現実になることを想像させるのである。今世界のどこで戦争が勃発してもおかしくない状勢にあると考える。

 では、このGゼロの世界にあって、日本の歩みゆく道筋はどうあるべきなのか。中国が領土問題や歴史問題についてやがて矛を収めるであろうとう甘い認識は捨てるがいい。いざというときはアメリカが守ってくれるという風な楽観論も禁物である。日本が歩むべき道は、技術力に立脚した経済力を取り戻すこと以外にないのではないのか。先進技術、医療、新しいエネルギーの開発、ライフラインの企画、新時代の文化芸術の創造など、テーマは限りがない。

 だからして、解散総選挙だの国会審議などと内輪もめしている場合じゃないだろう。そうこうしている間でも、科学技術に携わる者は日夜懸命に努力していることをお忘れなきように。せめて、口出さず金を出せと願うばかりである。




再び、活断層について


 関西電力大飯原発の敷地を南北に走る断層について、原子力規制委員会が現地調査をした。その結果、委員によって活断層の判断が大きく異なり、かなりもめているという。この議論はこれまでの活断層論議の延長線であり、こうした議論に、私はほとほと辟易している。偉い委員の先生方を相手に僭越であるが、「違うんだよな~」というのが私の率直な感想である。

 何が違うのか。そもそも活断層の従来の定義は「12~15万年以降に動いた断層」である。したがって、12~15万年以降の堆積物(未固結堆積物)が断層によって動いた証拠を見出すこと、これが活断層の認定となる。下の例のように、断層を境に堆積物がスパッと切れた露頭であれば誰しも活断層であることを疑わない。しかしこのような露頭は珍しく、ほとんどが曖昧なのである。




根尾谷断層

活断層として著名な岐阜県の根尾谷断層の露頭スケッチ(東京大学出版会:「新編日本の活断層」より引用)



 それでは、スケッチではないが下のような断面図でもって大阪・上町断層が果たして活断層と言えるだろうか。上町断層の上部で段差があって堆積物の分布も段違いになっているが、断層によって堆積物が変位したとはとても見えない。



上町断層

(東京大学出版会:「新編日本の活断層」より引用)。


 堆積物が断層によって変位したように見える曖昧な露頭には、断層以外の成因についていろいろな可能性がある。もっとも自然な考え方は、断層崖に沿って侵食された段差地形に未固結層が堆積した場合である。断層面に沿って地すべりを起こした場合も想定される。したがって、こうした曖昧な露頭に判定の結論を見出すこと自体、所詮、ナンセンスである。

 それどころか、関西電力は肝心な堆積物の露頭部分に盛土して見えないようにしているのである。原子力規制委員会の委員は、公開された限定的な露頭を見せられて右往左往しているのである。委員の選定から調査の方法までが茶番である。

 それはともかく、私の論点は活断層か否かという判定はさほど重要ではないということである。今まで断層も何もないところに地震が発生して新たに断層が発生して変位すれば、それこそ活断層なのである(「地震断層」と呼ばれる)。であるから、敷地内の断層が活断層と認定されようがされまいが、地震時に敷地内に活断層が発生する可能性はあるのだ。活断層の認定が重要なのではなく、活断層が発生しても問題のない施設を作ることが重要なのである。

 どこか間違った活断層議論と原発の安全性議論に、地質屋として忸怩たる思いでいる。



若妻を迎えしなれど




 前妻に不満があったわけではない。それはそれは、私にはよくできた妻であった。ああ~それなのにそれなのに。若くて才女という風評に押されて、念願の若妻を迎えることに。

 ところがその若妻、いろいろと多才なれど、基本的な家事がおろそかで得意ではなさそう。秘めたる多芸多才だって、この老いぼれの手で開花させることができるかどうか。

 若妻は前妻ほどスリムではない。しかしその肌はまことに繊細であり、スッと指先で触るだけで滑らかにすべる。前妻には力で押しつけたが、若妻には優しく指を絡めなければならない。この年寄りにはそれがとてもおぼつかなく、ついつい力んでしまう。その扱いに慣れないと、若妻はじゃじゃ馬となる。

 今考えれば、前妻の何とすばらしかったことか。私には何の不満もなく、きちんと家事をこなす姿が愛おしい。多くを語らず、言われたことを、主の指示のもとに完璧にこなす充足感。いつも一体となって生きてきた満足感。昨日までのそうした生活が懐かしく、できれば前妻との縒(よ)りを戻したいと思う。

 しかしそれは叶わぬことで、高い代償によって、もうすでに若妻との生活が始まり、後戻りはできない。ならば、この若妻とどう向き合うか。この若妻をどのように操縦していくのか。わが余生の課題である。

 スマホという名の若妻を迎え、昨夜が初夜であった。これから私の若妻との格闘の日々が続くのである。





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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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