月末にご用心




 師走まであと1ケ月の神無月の最終日ともなれば、街は俄然、せわしない感じがする。行き交う人々の足取りは、心なしか、せかせかと落ち着きがない。

 交差点では事故が起きてて、路上で警察官が実況見分をしていた。いつもなら、それを眺めるゆとり人がいるものを、今日は皆、流し目で見やり、無関心を装って通り過ぎる。

 休みでもないのに、何でもない時間帯に、突然、車が渋滞したりする。急いでいるのか、師走が近づくにつれて、クラクションを鳴らす輩が決まって多くなる。月末はいつも銀行が込み合うが、今月はとくにごった返していた。そろそろ年を越す金策に走っているようにも見える。

 来月になったら散髪をしようと何気なくポイントカードを眺めたら、月末の今日がサービスの期限だと気づく。慌てていつもの1000円スピード散髪に行くと、やたらと主婦が多い。不景気なせいか、近頃は、主婦が美容院から男専科であったスピード散髪に流れてくるのである。

 主婦はサービスをガッチリ利用する。おまけに、5分カットのスピードが売り物なのに、どうでもよさそうな髪に鏡をあてて、ああだこうだとほざく。だから、主婦のせいで急ぐ男の待ち時間が長くなる。同じ1000円でね。これって、男女不公平でないかい!

 久しぶりにスーパーに行って買い物をする。ふと横を見ると、店員が明日の1日からのバーゲン物の準備をしている。主婦はそれを見届けて、明日からのバーゲン品はテコでも買わない。夕方になると値引きのシールを貼るあんちゃんが現われる。主婦はそのあんちゃんにピタッと張り付き、シールを貼ると同時にレジ籠に入れる。いや~、そのしたたかさというか、浅ましいほどの小ずるさというか、とてもじゃないが男には真似できない。

 やっと決断したスマホデビュー。意気揚々とショップに行き、変換手続きをしようとした。そこではたと、「待てよ」と考えた。今日は月末の31日である。今日変えれば、費用はどうなるのか。1日分の日割り計算なのか、それとも1ケ月分取られるのか。どっちなのって、おもむろに店員に聞いてみる。するとAKB風の店員は、「パケット通信料5000円は1ケ月分かかります」と涼しい顔で答えやんの。「ちょっと待てよ~。だったら、あらかじめ、ゆ~て~や~!」。結局、スマホデビューは24時間後にした。

 世の中、黙っていても月末となり、明ければ月初めとなる。誰もそのことに何の疑いももたない。1日違いで状況に変化があるにもかかわらず、あまり口にしない。まして、そのことで誰がどれだけ損得しようが関心も示さない。無関心時代の月の替わりとはそのようなものだ。





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待てば海路の・・・




 シニア・ナビでいろいろなことがあって、最近、退会された方も多い。ここであえて事の詳細を述べるつもりはないが、あの重鎮、あの常連が、ポツポツと去っていくことは寂しい限りである。

 少し前にも書いたが、もともとネット社会は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界であり、何でもありである。その中にあっても、コミュニテイの住み心地を良くするために最低限のエチケットやマナーが必要であるのは当然のことである。また一方では、それでもそれを守らぬ輩がいるのは、どの世界でも同じこと。

 ときに、「なりすまし」、「虚偽」、「商売もどき」、「やらせ」と思しきものが蔓延(はびこ)ったり、良からぬ噂が立ったりすることも間々ある。それはそれで、ある意味、ネット世界を享受している以上、各自が善悪を洞察力で感知する能力を備えて対処することが必要であると同時に、鈍感力でもってあまり気にしないでいることも肝要である。


 多くの会員がこのことに心痛めて、事務局に働きかけたようである。私もそのひとりである。事務局の管理面の甘さといえばそれまでだが、経験不足とかその他のいろんな事情で即座に改善されることは難しい。しかしながらそんな中、最近、事務局の配慮によって少しずつ改善の兆しが見えはじめている。ここに、事務局から私宛の返信文を紹介して報告する。


『上記のご連絡誠にありがとうございます。
他の方からも同様のご連絡を頂き、今回の件につきましては
利用規約に基づき必要なご対応をさせて頂きました。
geotech様の仰る通り、サイト・会員の管理につきましては
今後もより一層配慮をさせて頂き、真摯にご対応させて頂きます。
この度は貴重なご連絡ありがとうございました。
このようにご意見をいただける度に、シニア・ナビは本当に良識ある良いメンバーの
皆さんに支えられていると改めて実感します。
今後ともシニアナビをよろしくお願い致します。
失礼致します。』



 去られた方がまた戻りたいと思うコミュニテイになるよう、残された身として、皆様と一緒にシニア・ナビを盛り立てたいと思う次第である。




時代の流れに逆らえず



 電車に乗ってもバスに乗っても、右を向いても左を見ても、今どき一番多く見かける姿。例の、指先で画面をタッチしたり、指でひらいたり滑らしたりするスマホ人間の姿である。国内のスマホ普及率は2012年8月21日現在、25%であるという(モバイル市場調査結果による)。今や毎月、5%の勢いで増加しているというから、この勢いだと、来年の今頃にはほぼ全員がスマホ人間に移行する勘定になる。

 新しもの好きの私が頑なに携帯からの脱皮を拒むのには訳がある。第一は毎月の出費。私の場合、携帯の費用は月々7,000円~8,000円であるが、スマホにすればどうしても10,000円~11,000円になる。この3,000円は大きい。次に、基本的に今困っていないからである。ネットだって多少文字は小さいが支障はない。Music Playerに保存した曲も楽しめて、GPS機能にも満足してて、カメラ画像も良い。小さくてポケットにちょうど収まる。それに何たって、アナログ人間には開いて受話器という電話感覚がたまらない。

 そんな携帯遵奉人間だけど、例のスマホの指先人間には憧れも抱く。どんなにサクサクッといくのだろうか、拡大して文字や図が見やすくなるだろうなとか、どんな別の世界があるのか、テザリングもできたら便利だろうな、などと。

 スマホ人間と携帯人間を観察していると、面白い。スマホ人間は音楽と画像に一人没頭するパターンが多く、電話機として使用している場合が少ない。逆に、携帯人間は本来の電話にだけ頻繁に使用し、音楽や画像の観賞に利用することが少ない。露出度は断然にスマホが上である。スマホは不必要なときにも出しているが、携帯は必要なときだけに取り出している。若い女性の10人が10人、スマホであり、若い女子では携帯を別に持っているケースも多い。スマホはおばさん年代へも格段に普及し、男女では圧倒的に女子への普及が大きい。

 かくして携帯保守派のパターンは決まってくる。携帯への執着ポリシーを持ってそうな中年男女、スマホを扱えない老女、スマホを買ってもらえない中年男子、携帯すら持たないアナログ老男子である。それにしても、学生など若い男女がどうしてみなスマホを持てるのだろうか、不思議で仕方ない。

 携帯をこよなく愛してきた私であるが、ついに我慢の限界となった。常々、バッテリーを5ケも6ケも持ち歩いて交換しているため、バッテリー交換の蓋のツメが壊れた。蓋を取り替えたが本体側のツメが壊れている。それで蓋が外れぬようにセロハンテープで巻く。何度もそれを繰り返すと、蓋全体がべとついてくる。金色の外形も塗料が禿げてきてくる。

 そうこうしているうちに、ひかりバリューなるキャンペーンがあった。自宅の電話とパソコン接続をひかりに変えるとスマホが毎月安くなるという。溜まったポイントを放出すれば毎月の出費はほぼ今までと同額。ついに時代の流れに負けて潮時を迎えた。近々、長年使った携帯を供養して、新しい命を迎えることにした。







携帯


財政の本丸




 家計において、日々、少しでも安いものを買うなどの節約は大切なことである。でも、どのように節約しようが、どのようにやりくりしようが、収入と支出のバランスの根本が変わるものではない。もっと稼ぎのいい仕事に転職するとか、もっと安いアパートに住み替えるとか、抜本的なことをしない限り、家計の赤字を大幅に解消することはできない。

 企業においても同じ。コピーの裏紙を使うとか、文具を節約するとか、使用しない電源を小まめに消すとか、そういう社内の節約は大いにやるべきだ。しかし、そんなことでは赤字経営を黒字転換することは無理である。顧客の開拓、新しい技術の開発、生産効率、賃金の見直しなど、売り上げと原価の抜本的対策が必要となる。

 この国の借金問題とて同じである。今はやりの公務員改革だって、そうである。公務員全員をタダ働きさせても5兆円に過ぎない。公共事業をすべてゼロにしても5兆円である。それでも借金70兆円の10兆円に過ぎない。金利だけでも10兆円であるから、公務員全員をタダ働きさせて公共事業をすべてゼロにして、ようやく借金は膨らまなくなる。財政の本丸は、公務員改革でも公共事業縮小でもない。生活保護不正受給者の一掃でもない。

 日々の節約や改革というのは、所詮、精神論である。しかし、財政の本丸は精神論では決して解決しない。まずもって、財政立て直しの大きなビジョンがなければならない。ビジョンとは確固たる論理的な将来展望である。例えば、人口減少、少子化、海外流出などに対する基本的な将来ビジョンが求められる。そのビジョンが決まりさえすれば、あとは、それをやり抜く覚悟と継続が求められる。

 しかし残念なことに、この国にはビジョンも覚悟もない。だからして、この国の財政再建は難しい。唯一の救いは、辛抱に耐えることのできる賢い国民が主役であることである。ただ、その国民にも辛抱の限界というものがある。私も、今の政治に辟易し、辛抱の限界にある国民のひとりである。





禁固刑6年の波紋




 イタリアの地震学者に有罪判決が下された。地震予知に関して専門家が間違った判断をしたとして、求刑を上回る禁固刑6年という厳しい有罪判決が下されたものである。ことの概要は以下のとおりである。

 2009年、イタリア中部・ラクイラで大地震が発生して309人の死者を出したが、その数ケ月前から小規模な地震が多発していた。そのため、大規模な地震につながる可能性を検討する地震予知専門家会合が開かれた。その結果、短期的には大きな地震は起きそうもないという見解が示され、住民たちを安心させた。それから1週間後に大地震が発生した。

 今回の判決は地震予知の責任を問うものではなく、多発する群発地震に対する十分な分析が行われなかったこと、そして専門家が知り得ていた情報を住民に十分に伝達していなかった責任を問うものであるという。しかしどのように理屈づけようが、結局は地震予知の責任が問われたことになり、現に、禁固刑の判決が下ったのである。

 このニュースを聞いて、私はある意味、してやったりと思う反面、危険予知判断の公表の難しさを改めて思うものである。

 3.11以降、将来の地震予知に関する地震学者の発言には、ほとほと辟易している。有史以降100年~300年周期で発生しているので20~30年の間に大規模地震が発生してもおかしくない、という類の発言である。呆れているのは、明確な理由や論拠を示していないこと、微塵も責任と覚悟も感じられないほどの軽々しい発言であることである。それは、予知とはほど遠いおとぎ話かギャンブルの世界である。

 同じ科学技術に身を置く民間の立場でいうと、地震に限らず地すべり崩壊や落石の危険性においても、このようなリスク判断の発言には厳格な理由と論拠が求められる。そして、その結果責任は個人も会社もそれこそ命運を賭ける。だからこそ、一層、慎重になる。ただの一過性の発言では済まされない。慎重に一言一句をしたためた文として残される。

 民間は国から金を貰っているから、仕方ないといえば仕方ない。しかし地震予知を軽々に論じる大学教授も専門家も、国民から金を貰っている身である。違うのは、誰誰に食わせてもらっているという認識があるかないか、しょうもない誇り高きプライドがあるかなきかである。

 そういう意味で、今回のニュースは人間の生命に関わる軽々しい発言を戒めるものとして歓迎したい。しかしそこで私が引っかかるのは、問題になっている地震学者の見解が大地震は起きそうにないという内容であるからである。

 コンサルタント時代の若きころから教わったことがある。危険側に言っておけばよいと。危険サイドに言っておけば、実際に災害が発生したら、そら言ったことかと自慢できる。仮に災害が起きなくても誰も文句は言わない。要するに、逃げを打てと。正確な情報から分析して危険でないと判断され、そのまま正直に言った場合はどうだろう。万一、災害が発生でもしたら、イタリアののように袋叩きに合うだろう。

 古来、学者は災害に関して危険側に危険側に物申す習性を身につけた。いざ事が起きた場合の保険であり、わが身がかわいいからでもある。人の生命に直接関わらない諸問題においてもその習性は拭いきれない。そんな中で、起きない、発生しない、大丈夫という発言は非常に勇気がいることだ。

 もし仮に、学者や専門家が過去の習性を守り狼少年と化したらどうだろう。万一の危険に対する備えを通り越し、景一の危険に人類は備えることになる。世界の財政破綻を招くばかりか、科学技術の発展はおぼつかないであろう。危険と安全の境界領域を極めることが防災技術の発展に繋がる。その意味で、この件を契機に心ある学者や専門家の真実が隠されようものなら悲しむべきでもある。

 いずれにしても、自然界とは地震予知とはほど遠い無知の世界であることを、学者や専門家はよく反省し、仮に判断するとなればその論拠と仮定条件、精度と適用性を明確にすべきである。





ネット・コミュニテイの功罪



 しばらくブログをお休みしていたら、所属するネット・コミュニテイの方々からお見舞いをいただいた。黙ってるけどどうかしたのか、風邪でも引いたのか、忙しいのか、などと心配してくれる。人間、気に掛けてもらう相手がいるというのは、こんなにも嬉しいものかと改めて思う。この場を借りて、ありがとう。

 小生、華奢な体をしてて食が細いが、風邪など滅多に引かない。仮に引いても熱燗で退治する。ただ、その代わり二日酔いは多い。歳とともにタイムラグが長くなり、いつの二日酔いなのかわからないのが玉に瑕(きず)である。

 さて、ブログを更新しなかったのは忙しかったからだ。忙しいときというか、集中しなければならないときは、ブログやネットに手を染めたくない。気が削がれるというか、思考が止まるというか、その気になれないのである。

 その仕事もようやく目処がつきつつあり、久しぶりに所属するネット・コミュニテイを覗くと、様変わりしていた。ある人がブログを止め、ある人がコミュニテイから脱退し、見知らぬメンバーが入ったりとか。それでも、いつもの常連が鎮座しているのはホットする。

 最近のそのコミュニテイは、以前と比べて荒廃した感じがする。「やらせ」や「にせ」や「商売もどき」が蔓延り、口汚い罵声が寄せられたり、マナー違反が横行したりと。さらに、最近ではあらぬ噂も立っているようである。それでもって、心ある普通の人が嫌な思いをしたり、心を痛めてて退去することもあるのだろうと思う。

 ただ考えてみれば、ネット・コミュニテイは魑魅魍魎の世界である。目に見えない広い世界の中に少しの悪人がいても当然である。それを承知で利用しているのだと思う。その反面、励まされたり、心配されたり、あるいは交流したり楽しんだりの恩恵にも与っている。

 いかがわし行為やマナー違反は互いに注意し合うことはあっても、撲滅することには決してならない。それを承知で楽しむためには、過度に騒ぎ立てない、敏感にならない、気にしない力、見過ごす力、無視する力も必要であろう。出ていった人や止めた人は責められない。そういう人たちが再び戻って来れるような、楽しいネット・コミュニテイにしたいものである。




特許権の帰属




 かの国にあふれている数々の偽造品や模造品に象徴されるように、知的財産権の保護の問題が問われている。科学技術の分野においても、戦々恐々とした特許権に関する戦いが日夜、繰り広げられている。

 連日のノーベル賞受賞に関する話題で恐縮であるが、今回の受賞対象となったiPS細胞は発見から発表まで1年の経過があった。特許権申請の手続きと同時に発表しないと、それこそ、かの国などが盗用しかねないからである。今回の受賞の影の立役者である京都大学・高橋講師は、世紀の発見から論文発表までの1年間を振り返り、「早く言いたいのに秘密を貫くことが辛かったと」と述懐している。

 他人の研究成果をそ知らぬ顔で盗用して我が身の手柄とし、おまけに特許権まで取得する輩がいる。そんなことをされたら、本拠本元はなすすべもない。それを防ぐために、山中教授は特許申請の手続きを待って、申請と同時に論文を発表した。そして、特許権の所有者は山中教授個人ではなく、公的な機関である大学および研究所とした。これでもってiPS細胞の技術が盗用されて利権にさらされることなく、世界の公的機関で自由に利用することができた。現に、論文発表と同時にiPS細胞に関する研究と応用技術は瞬く間もなく世界に広まった。

 この話で思い出すのが「青色LED訴訟」である。N社の研究部門に在籍していたN氏が青色発光ダイオード(LED)を発明し、N社に対して特許権の個人への帰属返還を求めたものである。N社の研究部門は長年、不採算部門であったが研究費を継続していたところ、たまたまN氏が発明したというものである。会社から発明の報酬を手にしたN氏はそれを不服として退社し、会社を相手取って訴訟した。不採算部門でも研究を継続できたからこその成果であるのにと、私などはN氏の研究者としての見識を疑うばかりである。そして、山中教授の対応と対照的であることに気づく。

 個人的な話で恐縮であるが、私自身のやや似た話題の経験談を披露する。独立する前の会社において精密な地盤変位を計測する装置を開発した。その装置を独占的に売り込みたいため、特許権を取得して他社が利用できないようにしたいと電話会議で社長に進言した。すると、先代の社長はこう言った。「トップランナーがそんなケチなこと言ってどうするのだ。他社が真似れば業界が発展する。追いつかれたらまた新たな開発をするがトップランナーなんだ」と。負けた。

 科学技術を広範に普及することと特許権とは、どこか矛盾する。さりとて、特許権の制度がないと利権が蔓延る。多少、利権が蔓延っても、科学技術の普及を優先するという考え方もあるが、それは無謀だろうか。利権どころか偽装や模造による被害が蔓延し、人の生命に関わる事件も多発しかねないかも。ならばどうするのか。特許権の帰属について、今一度考える必要がある。少なくとも人の生命に関わる世界の特許制度を改善すれば、今より急速に生命を維持できるように思えてならない。




「感謝」と「責任」




 日本国内も私自身も、未だ興奮冷めやらぬノーベル賞の余韻に浸っている。それにしても、受賞の感想として山中教授が繰り返した「感謝」と「責任」というふたつの言葉は、なんど聞いても心の奥深くにまで染み渡るのである。優しさと強い信念(覚悟)を兼ね備えたほんとうに良い言葉だなぁと、つくづく思う。

 私は昨日のブログにおいて、山中教授のことを研究者の鑑だと評した。それは、ノーベル賞を受賞したこと以上に、謙虚であり庶民的であり、それでいて強い信念をもった研究者として讃えた。しかしよくよく考えてみれば、「感謝」と「責任」は研究者としてではなく、人間としての普遍的な条件ではないのかと思う。


 「感謝」という言葉は、他人の苦労を労う優しい気持ちがなければ出てこない。他人の気持ちを慮(おもんぱか)る気遣いがなければ出てこない。それは、自身の苦労や境遇などを超越した優しさであろう。私などは「感謝」という言葉を軽々に発しているかも知れないが、果たして心からそう思っているだろうか。果たして、ほんとうにそのような優しさを備えているだろうか。はなはだ疑問である。山中教授から自然になんども発せられる「感謝」という言葉の表情には、研究者を超えた人間としての価値を十分に感じさせるものがある。

 次に、「責任」という言葉は重い。よほど自分を律することができなければ、よほどの信念がなければ、自らの責任を口にすることなどできない。山中教授はノーベル賞を受賞した研究者としての立場から将来に向けた責任について言及しているのだが、「まだひとりも助けていない」という反省の弁が責任の重さと覚悟を表している。研究者に限らず、人間はそれぞれに責任を抱えている。それは、人としてこの世に生まれたときから課せられたものであろう。家族に、故人に、地域に、友人に、会社に、社会に、国に対しても。そして、何よりも自身に対しての責任を。それでは私はその責任を果たしているのかと考えると、これもはなはだ怪しいのである。

 「感謝」=「優しさ」「受忍」「容認」、「責任」=「信念」「覚悟」「自律」。ノーベル賞の余韻に浸りながら、人間として条件をつらつら考える秋の夜長である。





研究者の鑑




 科学技術の進歩は著しいが、その裏には、幾たびもの挫折を乗り越えた並々ならぬ努力の継続がある。しかし科学技術の真理というものは、闇雲な努力をいくら積み重ねたとしても、到底、捉えることはできない。無限の可能性をひとつずつ立証していくためには、無限の時間が必要になるからである。そこで、先見性に長けた仮説が必要になり、仮説を立てるための大胆な発想と奇抜なアイデアが欠かせない。

 山中先生のノーベル賞受賞は、先見性に長けた大胆な発想と奇抜なアイデアに裏付けされた努力の継続の賜物であろうと思う。それ以上に嬉しいのは、山中先生の受賞の弁である。受賞の感想を聞かれて、ひとことで言うと「感謝」であると。200名以上のスタッフ全員の日々の努力のお陰だとした上で、家族、母親、研究者仲間など、関係者すべての人へ感謝したいと。また、自宅の洗濯機がガタガタしていたので座り込んで直していたときに受賞の電話を受けたとも。

 昨今、〇〇大学名誉教授とかの肩書きをかざして傍若無人な振る舞いをする大学教授や、自己の手柄や実績を吹聴する研究者が多い中、久しぶりに研究者たる研究者を見た思いである。国からの支援は他国に比べて決して多くはないのに、政府からのお祝いの電話にも感謝で答えていた。多くの挫折と困難を乗り越えてきたからこその研究者の品格を感じる。科学技術分野の末席にいる私としても見習いたいものである。

 科学技術の世界では真理を探究するための基礎的「研究」が重要であるが、実はそれ以上に重要なことは社会に役立てる「技術」である。その意味で山中先生の受賞はまさに「研究」の成果を応用する「技術」へのスタートラインにいる。「まだひとりも助けていない」との本人の弁にあるように、画期的な医療改革が期待される夜明けでもある。素直にノーベル賞受賞を祝い、改めて日本の科学技術立国に期待するとともに、自らの励みの糧としたい。





曖昧模湖(あいまいもこ)



 島国の日本においては、古来より村の中の秩序を重んじてきた。秩序という掟を破れば村八分に遭うので、民はできるだけ摩擦を起こさないように心がけてきた。その伝統的精神構造が現代にも伝承されている。自分の意見を明確に述べない、物事をはっきりさせない、曖昧な約束、などなど。

 「今度、食事でもどう?」と誘って「そのうち」と返答されたら、婉曲な否定に間違いない。「これは駄目これは良いと、明確にしましょう」と会議で提案でもしたら、「まあまあ、そこまではっきりさせなくても」と言う輩が必ずいる。若い人の言葉だったら「びみょ~」という表現になろうか。あれもこれも、人間関係をざらつかせないための生活の知恵であり、その知恵が日本人の精神構造に深くに染み付いた結果であろう。

 そのような不明確化、協調化、折衷化、玉串色化は、それはそれで良いこともある。実現しなくても責められない。誰も責任をとる必要がない。どのような結果でも可である。摩擦を起こさなくて済む。しかし、事と次第によっては大きな問題となり、絶対に避けなければならないこともある。こと、国民の生命と財産に関わる国の判断においては。

 「2030年代に原発ゼロ」の方針を打ち出した矢先に閣議決定が見送られ、おまけに建設中の原発再開を決めた。経団連やアメリカの圧力が加わったのであろうが、明らかな論理矛盾である。その論理矛盾を否定するからまた矛盾が生じる。原発再稼動の判断について、政府は「規制委が判断する」と言う。しかし当の原子力規制委は「再稼動の判断はしない」と言う。まるで責任のなすり合いであり、これでは互いに鬼の役を嫌がって泣き出す学芸会の幼稚園児と同じである。

 古来より曖昧模湖が蔓延ってきた日本ではあるが、一方で民は、「嘘は泥棒の始まり」、「自分のことは自分で」をはじめとして、親から子に生活の礎を伝えられたものである。どうやら政治家の家系には伝えられてないようである。「嘘をつく」「信念をもたない」「責任を擦り付ける」「間違いを認めない」「決して反省しない」が政治家の資質のようである。





言葉は危うい



 日常、電話で会話しても、相手に誤解を招いたり、こちらが早とちりしたりすることは往々にしてある。まして、各々が別々に発した言葉を聞き伝てに会話が交錯する場合は、まるで真意が伝わらないことも多々ある。それは、相手と直接会って話をしていないことが大きな要因であり、直接に会って話せば、相手の表情や素振りから相手の真意や心情が伝わってくるというもの。

 日常の個人レベルにおいても、会話や言葉による誤解が生じたり真意が伝わらないと、互いに精神的に消耗する。ましてや、これが国と国との関係になると、消耗どころの話では済まされない。相手国への国民感情を大きく左右し、国力にも及び、ひいては戦争にもなりかねない。最近の時事における「領土問題」と「国有化」が良い例である。

 日本政府が呪文を唱える如く繰り返す「(尖閣諸島に関して)領土問題は存在しない」という言葉。この言葉に常々違和感を覚えるのは、私だけであろうか。形だけの日中国交正常化40周年を記念して、先日、日本の要人が大挙して中国に擦り寄り外交をした。その中のひとり、見た目は人の良いおじいちゃんのY会長(個人的に大嫌いである)は帰国後、「中国がこれまで問題視していることを日本が問題がないというのは理解できない」と政府を批判した。政府はO副総理の談話として、これに不快感を示した。

 どこかボタンの掛け違いというか、意味が違うのではと思う。日本の「領土問題は存在しない」の意味は、『尖閣諸島は過去の歴史経緯や国際法上からも日本国有の領土であることは明々白々である。よって問題になることはない』ということだろう。しかし、現実には日本と中国の間で領土の主権と領有を争っている。これが事実であり、そのことをもってしても問題なのではないか。とどのつまり、日本政府の「領土問題」という曖昧な言葉が問題なのであり、これこそが火種であるように思えてならない。

 「国有化」という言葉による不和も同じである。「国有化」という言葉がもつ意味は、中国と日本で異なる。中国の土地はすべて国有あるいは農民による集団所有である。日本的な私有地は存在しない。したがって、尖閣が日本人の「私有」から「国有」に変わったことは、中国の目からすれば日本による侵略性が高まったと考えて当然であろう。

 国と国との外交折衝は相手国の思想・主義・経済体制を基本に考えることは当然であるが、それにも増して、国としての認識や意識の違い、国民性や国民感情などを十分に理解せねばなるまい。言葉の使い方を間違えたことで国民が不利益を被り国力が低下するのはまっぴら御免である。政府の要人には言葉の重さ、危うさを今一度考えてもらいたい。ついつい軽口を叩く私の自己反省も込めて。




今年の神無月



 暑い暑いとぼやいていたのも束の間、季節はとっくに秋に移り変わっている。よくしたもので、いつの間にか窓を閉めて寝ていた。タオルケットをきっちり掛けている。そのうち毛布が恋しくなり、やがて冬布団が欲しくなるだろうから、人間というのは身勝手なものだ。

 この月、すべての神々が出雲大社に集まり、男女の仲をとりもつとされる。そういえば、昔、歌手の沢田研二さんとザ・ピーナツの伊藤エミさんが、この時期に出雲大社に訪れたことを思い出した。ちょうどその前後で私も出雲大社に寄ったのでよく記憶している。その直後、ふたりは比叡山延暦寺で結婚式を挙げた。調べてみたら、1975年のことであった。しかし、その後ふたりは離婚してしまった。出雲の神の加護がなかったのか。その伊藤エミさんも今年6月に亡くなった。

 男女の仲をとりもつ神々の加護が行き届かないのか、昨今、独身の若者が多い。出雲阿国のような活発な女子は今も見かけるが、問題は男子である。控えめで謙虚で、おまけに真面目で欲がないとくる。まるで私と正反対だ。それが原因なのか、女子は男子に不足を感じ、頼りなく思うらしい。もっとも頼りにならないのは、性格だけではなく給料もだろうが。結果、ひとり身の男女が蔓延する。折りしも実りの秋。神々に、謙虚な独身男子の背中を押してもらい、縁を実らせてもらいたいと願うばかりである。身内にも謙虚な独身男子を抱えているので、余計にそう思うのかも知れない。

 朝夕の清清しさに誘われて早朝ウオーキングと早朝勤務を開始したが、日の出が刻々と遅くなっているのが手に取るとうにわかる。急ぐこともないが、あまり悠長にしていると秋はたちまち走り去っていく。もっともっと仕事をしたい、文を綴りたい、本も読みたいしギターも弾きたい、仲間と語りたい、山にも行きたい、釣りにも行きたい。ああ、それなのに、それなのに。思うに任せない内輪の悩みに、この秋はセピア色のメランコリーな調べとなりて、自重する日々である。




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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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