匙(さじ)




 北鎌倉の圓覚寺というお寺に、次のような説教文があるという。

『匙(さじ)というものは、一日何回となく汁の中につけられるが、匙には汁の味がわからない。しかし、舌には汁の一滴をたらせば一度で味がわかる。
 どんな立派な人に接しても、立派な書物を読んでも、匙のように無感覚ではいつまでたっても何もわからない。たとえ、万巻の書物を読み高等教育を受けても、学問が身につかないのでは何もならない。
 他人を苦しめて自己の安楽を望む者は、怨みのきずなに縛られて怨みよりのがれる事はできない。このような人間にならぬため、今年も日々悔いなく過ごし、小さくても一日一膳必ずするように心がけましょう。』


 前半の教えは、「匙という形式的な媒体によって無感覚・無機質な行動をしても成就しない。何事にも身を入れろ。」ということであろう。それはそれでよく理解はできるが、たまには匙を使って横流ししてもいいのではとも思う。

 後半の教えは、要するに「一日一膳」の勧めである。言われなくてもしようと思うが、現実にはなかなかできないのが凡人の証。先日も特急列車の自由席に乗ろうとして並んでいたら、前の方のお年寄りが体が不自由でなかなか乗れない。自由席の空席は残りわずか。3時間も立つことを思って、急いで別の乗車口から自由席を確保した。後になって、なぜそのお年寄りを幇助できなかったのか、そういう後悔の念が沸々と湧き出た。あのときやっておけば、それこそ「一日一膳」できたものを。

 説教文に戻って、前半と後半がどうも結びつかないのである。身を入れなくとも一日一膳はできるし、身を入れすぎて周囲の人に迷惑をかけることもある。匙加減に解釈すれば、「身を入て匙を使うが如く相手に手を差し伸べるべき」ことを教示しているのか。この種の説教文はもっともらしいが、よく理解できないものが多い。さて、どうしたものか、いささか匙を投げてしまった。





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かの国とどう向き合うか



 一連の騒動を見るにつれ、国の歴史や体制が違えども、日本はかの国と正面から向き合えるのか、はなはだ疑問に思う。あれはデモではなく、れっきとした暴動でありテロである。それも国家が扇動する組織的な暴力行為である。そのような国とまともに付き合えるのか。

 悲しい思想的歴史を引き摺った結果といえばそれまでであり、共産党による一党独裁主義の宿命と言ってしまえばそれまでである。階層的かつ組織的な指令による思想と行動と言ってしまえばそれまでである。ひと握りの暴動とはいえ、あまりに無残であり、あまりにも悲しいことである。これでは、今日の経済発展の礎となった日本人による協力の努力が一瞬に泡沫となった感がする。孔子や孟子の教えは一体、どこにいったものか。

 かの国を理解するには、多様なものの考え方、思想教育、貧富格差、民族問題など難しいと言われる。しかし、問題はかの国の事情ではなく、日本の態度なのである。

 かような国のあり様に対して、日本はかの国とどのように向き合おうとしているのか。正確な情報収集や分析も良かろう。沈着冷静な大人の態度も良かろう。しかし、いくらそれを繰り返しても元の木阿弥である。混乱と敵対は永遠に続くであろう。冷静な態度の結果が、河野談話や村山談話のひとり歩きを招いているのである。

 かの国との関係は、もうそろそろ決着するときにある。経済的なリスクを挙げる人がいる。しかし、経済的なことを言えば、日本も苦しいが相手はもっと苦しいはずである。経済のかげりが見えてきた今、13億人を越える胃袋を満たし、13億人分の明かりを届けることがいかに大変なことか、その危機感にさらされているのが相手国である。だからこそのあせりが見え隠れする。

 日本は決着するときにある。しかし、その前にやることがある。自国は自国で守るという国民意識の高揚であり、自国は自国で守るための憲法改正である。アメリカだってどこの国だって最終的には守ってくれない。「自国は自国で守らねばならない」この最も単純な原理を、平和の坩堝に埋没した国民が忘れているようでならない。










 たまたま机の引き出しに1枚の名刺がある。今まさに総裁選挙の票読みの最中であるが、「国を守る」という意識が高い政治家のひとりとして、私は個人的に期待している。






安倍

うがった見方



 文化庁の国語世論調査は、日常会話の使われ方を定期的に調査するものらしい。その調査結果が発表されていた。それによると、例えば「腹が立つ」のを「むかつく」と表現する人や「1歳上」を「1コ上」と表現する人の割合が5割を越したという。他にも雑多な現代風の慣用表現が国民に浸透している実態が透けて見える。

 このような日常の慣用表現は時代の推移とともに盛衰するものであり、それはそれで時代を映す鏡でもある。よって、否定するものではない。ただ、言葉の使われ方は使う相手と時と場所によらねばならない。若者が所構わず相手構わず、ため口をたたいているのを見聞きすると、感じがいいものではない。日本の言葉文化も廃(すた)れたなぁと思わずにはいられない。

 それに言葉には響きがあり、その響きが大切である。言葉の響きからくる印象というものが、良くも悪くも相手の心に響く。「むかつく」とか「うざい」では、いくら何でも品がなかろう。そういいながら、私もたまに腹が立ったとき独り言で使うのだが。逆に、同じ慣用句でも「まったり」や「ほっこり」の響きは歓迎したい。

 国語世論調査の結果はさらに、本来の意味で使っていない表現も紹介している。例えば、「失笑する」を本来の「こらえきれず吹きだして笑う」という意味で使っている人は28%であるのに対して、間違って「笑いも出ないくらいあきれる」という意味で使っている人は60%もいるという。さらに「にやける」に至っては、本来の「なよなよとしている」という意味で使っている人は15%に過ぎないのに対して、間違って「うす笑いをうかべている」という意味で使っている人は77%もいるという。

 そんな中、私もよく使う表現である「うがった見方」も紹介されていた。紙面曰く、「うがった見方」の本来の意味は「物事の本質を捉えた見方」という意味であり、このような意味で使う人の割合は26%であり、間違って「疑ってかかるような見方」という意味で使っている人が48%もいるという。だったら、私も間違った使い方の48%のひとりである。

 「うがった見方」が本来「物事の本質を捉えた見方」という意味である理由として、「うがつ」とは「雨だれ石をうがつ」というように、もともと「穴を開ける」「貫く」というニュアンスがあるからだと、紙面は説明する。

 本当にそうであろうかと疑問をもつ。「うがつ(穿つ)」は確かに「孔をあける」という意味があるが、「せんさくする」「普通には知られていないところをあばく」という意味も併せてもつのである(広辞苑)。私が謙遜して「うがった見方」を表現しているのは、「せんさくする」とか「斜めからものを見る」という意味合いで使っている。それに、「う(た)がった見方」の略とも考えられるからである。

 さらに、前述した言葉の響きが関係する。仮に本来の意味の「物事の本質を捉えた見方」という意味で相手の意見に「うがった見方ですねぇ」と評価した場合、相手は「そんなぁ」と照れるだろうか。反対に怒りはしないだろうか。さて、そうこう考える私の意見は、それこそ本来的でない「うがった見方」なのであろうか。





「あなたへ」雑感



 話題の映画「あなたへ」は、人生の大切なテーマを問題提議しているように思える。映画を観ての受けとめ方は人それぞれだと思う。以下は私の雑感です。

〔善と偽善〕
 善と偽善、その境界は危うい。本人は善のつもりでも他人には偽善に映ることもある。逆に、確信犯的な偽善であっても善として崇められることもある。さらに、善として行動を起こしたものが、突然の心変わりで偽善へと転落することもある。そういう意味で、善と偽善は心の持ちようで紙一重といえる。大切なことは、善はできるだけ慎ましやかに行うがよい。そして、自分の行為が偽善だと悟ったならば、素直に良心の呵責を受けるが人の道ではないのか。

〔死者の覚悟〕
 死する者の遺された者への未練や心配、いろいろな思いは間違いなくあろう。しかしそれ以上に、遺された者がこの先を生きることに幾ばくも束縛させてはならない、そういう思いの方が強かろう。つまり、死する者は誰しも遺された者に対して、敢然たる覚悟の別れをしているのだと、そう思う。「さようなら」のひと言の遺言がそれを象徴する。

〔一期一会〕
 この世には善人もおれば悪人もいる。裁く者がおれば裁かれる者もいる。巨額の億万長者もおれば乞食もいる。いろいろな人間がいるからこそ、人生にドラマが生まれる。いろいろな人と出合っては別れ、別れては出会う。決して逆らうことのできない万物流転、輪廻転生のこの現世だからこそ、束の間の人間関係が大切なのであろう。

〔旅と放浪〕
 目的があり、帰るところがあるのが旅だという。そして、目的がなく帰るあてがないのが放浪だという。それでは、吾が人生は旅なのか放浪なのか。本人は旅をしているつもりでも、ひょっとしたら、帰るあてのない放浪をしているのかも知れない。そして、その放浪を終えたとき、帰るあてのある旅立ちをするのではないのかと。





八丁座



 あまり気が進まなかったが、今話題の映画「あなたへ」を見る羽目になった。気が進まない理由のひとつ。最近、期待はずれの映画が多かったこと。数年前の「おくりびと」は良かったが、それ以降、あまり感動ものはないため、内容もすぐに忘れている。理由のふたつめ。高倉健が主演では、寡黙が綴る緩慢なときが眠気を誘うかも知れないと。理由の三つ目。女子に人気の話題作は、男子にとっては得てして期待はずれが多いこと。

 ただ、先日のNHKでこの映画が紹介されていたのを偶然に見てしまった。人生を考えるのに参考になるかもと考えた。同時に、ひょっとしたら高倉健の最後の映画かも知れないとの思いが頭をよぎった。それに、敬老の日の老老介護のおつとめと考えれば、外れでもいいかなと。そして、何より「八丁座」で上映していると聞いて観賞を決めた。

 「八丁座」は広島・八丁堀の福屋デパートの中に数年前に開館した映画館である。大林恒彦さん、新藤兼人さん、西川美和さんら多くの広島出身映画監督の協力もあり、低迷する映画を何とか盛り上げようと企画して立ち上げたらしい。アメリカナイズされたそこらの映画館とは様相が違う。無論、ポップコーンなど売っていない。抹茶かコーヒー。盆ちょうちんに法被姿の店員。どことなく歌舞伎を観劇する感覚である。全席指定のシートはファーストクラス並みのリクライニング。肥満の外人でもゆったり座れるほどの余裕幅で、足回りも広く前テーブル付きである。

 今話題の映画のこと、早めにチケット売り場に行くも、次の次の開演の残り席がわずかという盛況ぶり。予想はしていたものの、この盛況はただものではない。さて、4時間もの間、どうやって過ごすか。たまたま福屋の隣の三越デパートで北海道物産展をやっていたのでそこで過ごすことに。まさか、同じようなイベント物産販売を映画で見るとは露知らず。






八丁座




原発ゼロの真贋



 おおよそ人の主張というもの、確固たる信念がある場合の発言は短い端的な言葉で言い収められる。しかし、信念がない主張の場合は言い訳がましく、結果、長々と論理性のない駄文の末路となる。

 これは私の仕事でも実感してきている。事象を正確に捉えている場合、報告書の結論は起承転結とし、すっきりとした箇条書きの文章になる。しかし不確かで自信がない場合は、ああでもないこうでもないと、言い訳めいた長文の報告書となる。ついでに言うと、浮気の言い訳も同様である。

 一般人の主張でもこうだから、ましてこれが政治家の話とくれば、二枚舌という得意技で粉飾される。民主党の革新的エネルギー・環境戦略における「2030年代原発ゼロ」の方針がそうである。すっきりした方針の割には補足説明の切れが悪い。ここでは具体的な発言内容をいちいち紹介するのは辞めるが、要するに逃げ道と逃げ口上の尾ひれが満載なのである。世論の流れを無視できないでこうした苦渋の表現になったのか。それに、現に枝野大臣は大間原発と島根原発の建設継続を県に通達しているではないか。「2030年代原発ゼロ」はこれをもっても現実不可能である。

 それでは、総理の現実性があるとみて5人が乱立する自民党総裁選の各氏の発言はどうか。さすがに「2030年代原発ゼロ」の言葉はなく、はっきり言って原発容認と受け取れる発言が多い。しかし、これもまともに受けとめていいのか。野党だから好きなことが言えるが、これが第一党になったときに世論を背にして言える言葉なのかといえば、非常に疑わしい。

 凋落した政治の中において国民の真贋の目は養われてきた。その目線は茶番を見抜き、反故を悟り、虚偽を察するに至った。そして、毎週金曜日の原発反対デモに見られるように、国民的な反原発の動きも活発である。しかし一方で、経済界は原発なしでは到底この国はもたないと平然と言う。

 果たして、どちらの言い分が正しいのか。ある一過性の熱気に左右されず、冷静にそれぞれの意見の真贋を見極め、何が正しいのか、何が現実的なのか、今、国民は試されている。




老いの懐の「深さ」と「らしさ」



 還暦も過ぎれば、その言動は沈着冷静にして「なるほど」と他人に言わしめる、そんな心の奥の深さに達するのが理想である。しかし、現実はなかなかそうもいかない。そういう場合、あまり真剣に考え過ぎないで少し相手と距離を置いて対峙すれば、問題を回避することができる。そう思うようになったのは転職してからである。

 業界最大手の会社を退社して起業したとき、周囲の同業者は異口同音に「彼に下野の真似ができる筈がない」と陰口を叩かれた。実際、起業後、仕事の邪魔をされたことも数え切れないほどある。またあるときは、クラブでたまたま出くわした同業会社の幹部に「今までは〇〇会社の偉いさんだったからそれなりに振舞ってきたが、今はただの人。この場にひざまずけば仕事を与えてやってもいいぞ」と、ホステスや客の前で高飛車に言われたこともある。ひざまずくことなどするつもりは毛頭なく、「今後は何とぞよろしくお願いします」とやんわりかわした。そのとき、伏して勝つ快感の味をしめた。ちなみに、その暴言の主はその後、脳を患い亡くなったと聞く。

 業界最大手の会社ともなれば頭を下げる必要もなく、官公庁からも一目置かれ、それを良しとしてあぐらをかいてきた。それが一介の起業人ともなれば、頭を下げっぱなしの天と地である。子供ほどの若造にも頭を下げねばならない。しかし、物は考えよう。頭をいくら下げても一銭も要らない。それでもって自身は卑屈になることはない。表で頭を下げ、裏で舌を出してもいい。大人の生きる悪知恵である。プライドは何も外に示すものではない。問題は、内なるプライドさえあればこそだと。

 例えば、会社に出来ない社員や問題児がいるとし、そのことでこちらがイライラして仕事ができないとする。それは、出来ない社員や問題児を同じ立場の社員として見るからイライラするのであって、ただのアホか道具として見ればいい。無論、態度に出す必要はなくそう思えば済むということだが。

 できない上司がいたら、できない上司故に自身が伸びていると思えばよい。男女で意見の齟齬があれば、相手を別の人種と思えば済む。ヒステリックな顧客は、勘所さえうまく押さえると強力な助っ人にもなる。傲慢無礼な役人がいたら、可哀相と思えば良い。すべては考えようである。同じ立場で見るから腹も立つ。態度は低くとも心は高所から見てやるといい。

 ただ、歳をとっても性格は変われるものではない。聖人君主でない限り、その人特有の言動やクセもある。私もそのひとりである。例えば他人のブログに差し障りないコメをすればいいものを、ついつい本気で物申すクセがある。仕事上、技術論ではどうしても降りないクセ。後出し値引きなどチマチマした交渉が大嫌いで、ちゃぶ台をひっくり返すクセ。そんなクセで商売上、損をしたことも多々ある。が、長年やっていると、この人となりを理解してもらってか、幸いにこれまでやってこれている。

 歳を重ねるごとに、言動は沈着冷静で奥深くなり、懐の深さを身につけたいと思う。それと同時に、人間らしい一面も覗かせてもいいのではとも思う。「さすがにね」と思われると同時に、「らしいね」とも思われたい。老いらくの願いは贅沢であり、人間道場進行中である。




ドラえもん的こころ



 一昨日の9(グッ)月3(スリ)日を無理な掛詞で安眠の日とせずとも、我らが英雄「ドラえもん」の生誕100年前祭であった。新聞記事を後読みして、そのことを知った。

 「ドラえもん」といえば、過去や未来に行ける「タイムマシーン」、ドアを開ければどんな遠くへも行ける「どこでもドア」、食べればどんな言葉でもわかる「ほんやくコンニャク」、どこへでも空を自由に飛べる「タケコプター」など、夢ある世界に我々を導いてくれた。

 パソコンが使われ始めて40年の今、空想の夢物語の中には実現可能なものも出てきている。「ほんやくコンニャク」は、スマートホンを使って違う言葉で話せる仕組みができている。「タケコプター」だってそのうち実現するだろう。空を自由に飛べる夢を頻繁に見る私にとっては、「タケコプター」はもはや実現の域にある。そう考えると、100年後の生誕日にはほとんどの夢が実現しているかも知れない。

 一方、今日日の子供たちに、将来、何になりたいかと聞いても、公務員とか普通の会社員とか通り一辺倒の安定志向ばかりが目につく。決して、総理大臣になるとか、ノーベル賞博士になるんだとか、宇宙飛行士だのという返事が聞かれないのが残念である。

 子供ばかりではなく、大人も社会も同じようなもの。みんな概して真面目であり、遊び心とか、夢やロマンが少ない。現実に甘んじて、今以上に飛躍したい心意気を感じない。突拍子もないアイデアが出ない。それどころか余裕すらない。若い人にジョークを交えれば本気で怒ったりする。杓子定規のつまらない世の中になったものだ。

 遊び心とか、夢やロマンが少ないから、つまらなくて面白くない世の中にしている。さらにそのことが、明るい未来志向の欠如や消費抑制に繋がり、経済の疲弊を助長することにもなる。

 閉塞感が充満した不景気なこの世にあっても、「ドラえもん」にあやかって、せめて、「どうにかなるさ」「なるようになるさ」とお気軽気分で、慎ましくも楽しく面白く生きたいものだ。そして、いつまでたっても夢を追いかける子供心を持って生きたい。





夏過ぎし今



マンションの 北に面した私の部屋には
明け方4時半になると 
きまって山からの吹き降ろしの風が舞い込む
その風が9月に入ると 
ひんやりと冷たい風になった

まだまだ暗い外を眺め 
床の中で 起きるか起きまいか逡巡していると
数日前までの蝉の鳴き声は
いつしか小鳥の鍔迫りの声に変わっていた

昼間はまだ灼熱の余韻を残すが
さっきまで 真夏の太陽が射していたかと思うと
空は にわかに暗くなり
遠くから 稲妻のとどろきが聞こえ
ザアーっと 大粒の雨が降りしきる

夏を乗り切った夾竹桃や百日紅にムクゲたちは
ひとひらずつ花弁を落とし 幾分色あせてきた

祭りが終わり 夏休みが終わり 友が帰り 知人が帰る
都会の喧騒から田舎の静けさを取り戻したような気がすると
なぜだか 普段の静かな生活が懐かしくてたまらない

昨日までは シャワーで済ませていたが
今日は 少し熱めの風呂にゆったり入ろうか
リストを聞くには まだ早すぎるし寂しすぎる
ビゼーかプッチーニの 歌劇でも聞こうか
久しぶりに ニーチェを読み直すのもいい

暑い暑いと言った今年の夏もようやく終わり
季節は確実に変化し もう長月
秋の夜長をダラダラと寝て過ごすのもよかろう
ちなみに今日は9(グツ)月3日(スリー)
安眠日だそうな
自分なりの たのしい秋を堪能してくだされ





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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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