「最悪の想定」その取り扱い



 最悪のケースを想定し、それに備えることは悪いことではない。こと、人間の生命財産に関わることとなれば、むしろそうすべきである。そのことを確認した上で、では「南海トラフ巨大地震、死者32万人被害想定」という見出し記事をどう見るのか。

 南海地震、東南海地震、東海地震が互いに連動した場合を想定し、しかもマグニチュード9.1を想定した場合のシナリオである。無論、万が一でも起きないという確証はない。むしろこれだけの最悪の想定に備えれば、さぞ安心である。備えあれば憂えなし、あっぱれあっぱれ、なのか。

 仮に100年確率を想定しよう。すなわち、今生まれたての赤ちゃんが100歳になるまでの期間を想定しよう。100年間に南海地震が発生する確率はどうか。オフィシャルには公表されていないが、伝え聞くところによって仮に1/100としよう。つまり、今から100年の間に1回発生するとする。東南海地震も東海地震も同じ発生確率だとしよう。すると、100年の間に3つの地震が起きる確率は1/10,000となるが、これは別々に起きるケースである。これらの3つの地震が同時(同日)も起きる確率となれば、(1/100×365)×(1/100×365)×(1/100×365)=1/50億となる。さらに、これらが全体としてマグニチュード9.1になる確率は1兆分の1という途方もない確率の世界である。

 それでも備えるべきだという正論をあえて甘んじて受けよう。では聞くが、1日に2~3人しか通らない村道の斜面に大きな転石があって、偶然でも落石に遭遇すれば確実に命を失う。その対策はせずして、最悪の地震想定の対策を行うというのか。2~3人と32万人では話にならないと言うだろうが、片や現実に見えているリスクである。では交通事故死や自殺者は数では負けまいというと、それは自然現象ではないという。だったら火山噴火や地すべりなどを最悪のシナリオで想定すればいくらでも32万人を超す。

  「南海トラフ巨大地震、死者32万人被害想定」の発表に全国の市町村は困惑している。既に開始している避難対策が根底から揺らぐからである。避難所の想定から覆され、既に立てた10mの津波タワーも台なしだと言う。とても30mの津波対策など無理だと言う。

 そもそも「南海トラフ巨大地震、死者32万人被害想定」は、対策の実現が無理な想定である。仮に対策をするとなれば、最も安価で確実は対策は「住居規制法」を法律で作ることである。すなわち、「住居は標高30m以上の岩盤地帯に設けること」とし、それに補助金をつけるのである。30mの防波堤を建造したり、30mの津波タワーを建てたりするよりもよほど安価で確実である。無論、国土法によって高台を住居地として国が買い取る法整備も行う。最悪の想定に対策するつもりならば、その位の覚悟は必要である。

 最悪を想定して国民に知らせることはいい。しかし、言いっぱなしだからいけないのだ。最悪このようなことも想定されるので、対策の基本方針をこのように定め、このようなタイムスケジュールでこのように対策を進めるといった青写真を示すべきだろう。

 国が最悪を想定して国民に不安を煽らなくとも、国民には覚悟ができている。人間にはそれぞれに生き方というのがあり、対策は、覚悟した民の生き方を尊重することから始まる。3.11と同じような地震が来ればそれはそれで仕方ないと覚悟して漁村を守る人もいよう。10m以上の津波が来たときには仕方がないと腹をくくる人もいよう。覚悟がないのは国なのだ。




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実の蚊と虚の蚊



 若い頃から目を酷使してきたためか、もともとの近視に遠視と乱視を患っている。蛍雪のもとで苦学してきたためだと本人が主張するも、悪友は、若い頃から暗闇の遊びが過ぎたからだと揶揄する。

 この歳になっても、仕事柄、現場に行かない日は一日中、パソコンと対峙する。それもCADなどの細かい設計図を扱ったり、三次元のビジュアル系解析画面と睨めっこするので、目の酷使は半端じゃない。

 そんな生活習慣からか、10年前に早くも片目を白内障手術をしている。白内障手術で有名な全国の病院や医師の情報を収集した結果、遠方の病院と医師を指名し、入院手術を行った経緯がある。今日日、「日帰り手術可能」の看板が掲げられる眼科医の状況からすれば、今になって思えば、随分と大げさなことをしたものだ。

 あれから10年、あまり視力のことなど気にも留めなかったが、最近になってまた見え難くなった。手術していないもう片方が白内障なのか。そういう思いで、総合病院の眼科の門を叩いた。しかし、そうたやすく門戸は開かない。

 病院は時間がかかるもの。それも総合病院ともなれば、門前払いも茶飯事。案の定、受付には「紹介状がないとお断りします」「緊急性のある患者さんに限ります」の掲示板がある。そこを何とかと、やっとの思いで予約を取り付け、後日、診断をしてもらう。視力だの眼圧だのと一通りの検査を終え、ようやく診断となる。さて、暗闇の中にいた眼科医は超美系の女性ドクターであった。

 歳のころなら40才前半の美人ドクターが眼に光を当てて、「私の鼻の方をみてください」と言われるままに見るが、これがまた細くて筋が通った鼻だこと。暗闇の中の閃光に浮かぶその姿はまるで白衣の天使。診断の合間に待合室で待っていると、そのドクターがトイレに出て行った。白衣の下から黒いスパッツが見えて、その下は限りなく細い足首と高い白のハイヒール。

 診断の結果、片方の目も白内障が進んでいるが、手術した目のレンズが汚れてきていると。レーザーによってこの場で簡単に治療できますが、どうされますかと。美人ドクターにそう聞かれれば、一も二もなく「は、はい、お願いします」と。

 簡単に治療できるとはいっても、レーザーで焼くことに他ならない。治療後はほとんど眼が開けられない状態。運転してきては駄目だという忠告がようやく理解できた。

 しばらくして眼を見開いたところ、眼中に蚊のようなものが飛んでいる。これが「飛蚊症」(ひぶんしょう)というものらしい。蚊であったりミミズであったり、破片のようなものであったり、奇妙な物体が眼中をウヨウヨとさ迷う。

 そういえばレーザー治療の際、注意事項に署名した。よく見るとこう書いてある。「レーザー治療によって一時的に飛蚊症を発症することがあります。稀に永遠に飛蚊症となります。極めて稀に眼球を痛めることもあります。」何と恐ろしいことを。そんなリスクや脅迫を物ともせず進んで治療をお願いするとは、美人ドクターの威力は絶大である。

 その夜、夜中に耳元で蚊が飛ぶ音がして目を醒ます。どうにか退治しなくてはと目を見開くも、目の中の虚の蚊と実の蚊の区別がつかない。蚊は一匹なのに私の視界には虚実合わせて4、5匹いる。どうしたものか。この時期の実の蚊はタチが悪いが、この歳の虚の蚊もタチが悪い。虚実の蚊にさいなまれる日々が続くこと1週間。そろそろ夏も終わりに近づくころ、実の蚊も虚の蚊もめっきり少なくなってきた。




「くちなしの花」に寄せて


 「くちなしの花」は梅雨時にお似合いの可憐な白い花であるが、同時に、渋い声で歌う渡哲也の同名の歌としても世に知られる。その「くちなしの花」にちなんで、過日、シニア・ナビのSさんが亡き夫のことを偲んだ思い出をブログに綴られていた。その内容はあまりに衝撃的なものであった。

 渡哲也と声質が似た渋い声で「くちなしの花」をさらりと上手に歌っていたというSさんの夫君は、闘病生活20年余りを経てあの世に召されたという。もう10年近くも前のことである。その亡き夫との闘病生活の思い出について、薬害とくに向精神薬の弊害に着目して記している。



くちなし


 医師や病院への不信を抱く中、薬害による恐ろしいまでの重篤な副作用に見舞われた夫。副作用によって凶暴となり、暴言を吐くまでに豹変した夫を救うために、それこそ、わが身を削るほどの献身的な戦いをしてこられた様子が、ひしひしと伝わってくる。Sさんはその思い出を、それこそ人事のようにさらりと綴っておられた。

 このブログに対して、同じく薬害によって苦しんだ方、同じように夫を闘病生活の末に失った方、ある日突然に夫に先立たれた方など、多くのシニア女子が共鳴したコメントを寄せていた。そのどれもが衝撃的な内容であったが、とりわけ、夫の最期のときを自らの苦渋の決断で看取ったMさんのコメントは、生々しいものであった。

 夫の死を前にして最大の努力と最善の手段を講じたとしても、死という現実のもとでは、どうしても悔いが残るのは、至極、当然であろう。その悔いは、時間が経ったからといって決して忘れることができるものではなく、一生引きずることにもなる。赤裸々に身内のことを語っているSさんやMさんではあるが、それ以上の語れぬ修羅場を経験しているであろうことは、文体の奥から容易に想像できる。

 SさんやMさんはじめ、シニア・ナビには寡婦になられた方が多い。しかし、彼女らは共通して今のこのときをハツラツと生きている。無論、表面には出さない悲しみを抱えてのことであり、他人には言えぬ悩みを持ってのこととは思うが。しかしそれでも、趣味や仕事、仲間との交流を通じて、できるだけ楽しく生きようと懸命である。その姿に感銘し、敬服するばかりであり、夫に代わって彼女らに感謝状を贈りたい気持ちで一杯である。彼女らの夫君は今のハツラツした姿を天国から見下ろし、さぞやほくそ笑んでいることと思う。

 そのような強いシニア女子を見て思う。それにひきかえ、何と男どもの女々しいことよ、と。人生に少し躓いただけで世を怨み嘆き、妻に先立たれると立ち上がれないでいる寡夫の多いこと。積極的に趣味や人間交流に参加することに躊躇しているシニア男子の多いことよ。シニア女子の割り切り力、回復力、転換力は見事であり、そのどれをとっても男子は女子に劣る。これは、男女の先天的な能力の違いというよりも、彼女らには幾多の修羅場を全力で戦ってきたという自負があるからではなかろうか。その修羅場とは、仕事における男のそれとは性質を異にし、実践的な生身の修羅場なのである。もっと言うならば、出産そのものが修羅場の第一歩といえよう。

 もうひとつ思うことがある。それは夫婦の価値観、あるいは人間としての価値観についてである。闘病と看病の中、死ぬか生きるかの修羅場を、ともに戦友として戦ってきた夫婦である。片や、ともに老後長く生き延びたものの最後まで意志が通わぬ夫婦がいたとする。どちらが夫婦としての価値があるのか、どちらがほんとうに幸せなのか。答えは明白である。夫婦や友だち関係、親子関係などの人間関係を、人生の中でどれだけ真剣に育んできたのか。趣味や仕事や恋にどれだけ真剣に取り組んできたのか。それによって人の価値が決まるような気がする。問題は、そうした人生経験の長さではなく、そのときどきの真剣さではなかろうか。










夏の終わりに



 今年のお盆は、暦の関係で長い休みであった。会社の休みは、表向きには11日から19日までの9日間とした。ただ、お盆という休日は実際にはなく、官公庁も大手企業も交代で夏休みを取得し、お盆期間中も誰かしら出勤する。

 世の中には、人が休んでいるときに限って電話をよこす輩がいるもの。結局のところ、そのしわ寄せは末端に及び、開店休業中であるものの、交代する相手の都合に合わせて、ほとんど毎日の出社となる。

 例年だとお盆休みは、宮島の管弦祭や花火大会にお客を呼んだり、娘や息子やその友だちが長期滞在したりで、わが家は賑やかである。しかし、今年は訳あってそれらを取りやめ、割合と穏やかな休みであった。

 その長い夏休みも終わり、昨日から普段の日常生活に戻った。喧騒な非日常の日々が続くと、心なしか日常の生活を渇望する頃合になり、安定した日々に戻ってほっとしている。安定した日常があってこそ、束の間の非日常が楽しく感ぜられるものだ。日常の大切さを改めて思う。

 日常生活にクールダウンすると同時に、早朝のウオーキングと勤務を開始した。すると、朝5時に家を出たらまだ暗い。暑い暑いとこの夏を過ごしている間にも、駆け足で日は短くなってきている。

 早朝からあれほど狂おしく鳴いていた蝉の声は、今では最期の哀れな声に変わっている。木々や草花も落ち着きを取り戻し、秋の気配をちょっぴり感じる。さて、例年にない暑い夏を終えようとしている今、充実した秋をどのように迎えるか、思案中である。





風習との決別


 安芸国・広島においては、お盆になるとお墓が一斉にカラフルになる。竹ざおに赤、青、黄色の紙を貼り付けた飾り(盆灯篭)をお墓に立てる。もうすっかり見慣れた風景になったが、広島に転勤で来たときには、その異界(いかい)な光景に驚いた。県外から来た人は例外なく「こりゃ何だ!」と驚くだろう。





灯篭



 そもそもは、安芸門徒という広島県西部の浄土真宗本願寺派の信徒による独特の文化だという。今では広島市を中心とした広島県西部の市民のほとんどが、お盆になると何の違和感もなく盆灯篭を備える。スーパーでもコンビニでもどこでも売っている。広島のどこからどこまでというエリアの線引きもない。どうも県北や県東部ではしないらしい。1本1000円前後、ゴージャスなものは2000円もする。1家族に1本らしく、親族から頼まれれば2~3本買って立てるので、10本近くがひしめく墓もある。この盆灯篭、17日朝には撤去され、いよいよ広島の夏は終わりに近づく。

 さて、この盆灯篭を親族同士で申し合わせて止める人も出てきた。そもそも、どのような意味合いであるのか明確でない。転勤族の多い広島でもある。広島ゆかりの者でない者も多い。このご時勢で1本1000円だとしても馬鹿にならない。管理人がいない墓地では親族が処理しなくてはならない。たった数日間のためだけのものに意味があるのかなど、止めたい理由はさまざまである。私も止めたい人のひとりである。

 しかしいざ止めるとなると、それがそう簡単にはいかない。親族同士で申し合わせてといっても、言い出しっぺにはなりたくない。こちらは広島ゆかりの者でなくとも、親族は広島人であったり、旧家であったり、田舎の風習として定着してたりもする。郷土の風習というのに、そもそもそう深い意味がある訳でもなかろう。だったら、どうする。来年もあまり深く考えずに、右習えとするのか。もう余生も長くもないので、このまま流れにまかせて無難に過ごすとするか。そういう日本人の典型的な事なかれ主義に傾く自分をいさめる、もうひとりの自分がいる。広島の夏の終わりは、風習との決別を思う夜でもある。




孫の成長に思う



 我が家では、毎月1回、娘の日曜出勤に合わせて孫のお泊り保育を受け持つ。そのことで、1ケ月毎の孫の成長を確認できるわけだが、今月はお盆に娘ともども帰省したため、わずか2週間で孫との再会となった。それなのに、2歳と5ケ月になる孫の成長振りは想像をはるかに越して、目を見張るものがある。

 我が家に来る前日、雨が降るので娘がタクシーで保育園に送ったという。タクシーに乗るやいなや、娘は財布を忘れたことに気付いて「母さん、財布を忘れちゃった」と漏らしたところ、孫が「や~っちゃ~った~!」と、やんちゃ顔で言ったらしい。それには、タクシーの運転手も思わず噴き出したらしい。

 我が家に着くなり、孫は勝手知った我が家とばかり、各部屋をあちこち点検する。そして、物が少しでも移動していたり、あったものがなかったりすると、あれはどうした?これはどうした?どうして?としつこい。猛烈な小姑の完成間近である。

 言葉と言葉がほとんど連続し、十分に会話になっている。そこに、親がよく使う言い回しから広島弁まで加わるから、一言、一言に笑えてしまう。たとえば、「箸で食べんさいって、母さんいっちゅも言っちょるんよ」と。普通の日本語だけで十分だと思うのに、母である娘は、四六時中、桃は?ぶどうは?と英語で求める。その都度、「ピーチ」などと正解すると拍手という練習を反復している。まだそこまではと思うのだが。

 悪知恵も働く。食が細いのに、「食べないとおやつないわ~」と言うと、とたんにガツガツ食べる。フルーツには目がなく、自分の分を食べると、「ババ、フルーツ食べた?」と気遣いながらおねだりする。

 ちょうどオムツが離れる頃の微妙な頃でもある。自身で申告してオマルで成功することもあるが、まだまだオムツが離せない。それでも、「お姉さんパンツ」といって、オムツなしに普通にパンツを履きたがる。そうさすと、意地でもお漏らしをしないで頑張っている。

 自我が芽生えるときでもある。好きと嫌いがはっきりしていて、「○○ちゃんね、こう思うんだ~」と、ちゃんと自分の意見を言う。我が強いだけにジラも多い。自分が納得しなきゃ、頑として譲らない。子供服専門店に行っても、これ着る?これ履く?と本人確認して本人が納得した以外のものは決して身に着けない。

 いつもはすぐに抱っこをせがむのに、向こうからお姉ちゃんやお兄ちゃんが近づいてくると、とたんに、降りるっていってスタスタ歩く。お姉ちゃんやお兄ちゃんが「何とかできるんだ~」とか話すと、自分もできるとばかりに、負けん顔をする。

 2週間前までは、ことあるごとに「ジジ、抱っこ」とせがんでいた孫であるが、今回はジジに抱っこさせない。母親が後でどうしてと孫に尋ねたところ、「だって、恥ずかしいんだもんっ」と言ったという。もう既に男を意識しているのか。

 たまに我が家に来たのだからと、孫の希望どおりに好きなものを食べさせようとするが、娘は甘いものはダメだとか、食事前だからと、何かと小うるさい。そのくせ、室内で家具が壊れるくらいにどんどんしても一向に叱らない。保護者は娘なのだから、こちらは手出しができず、何も言えないもどかしさが残る。

 孫の成長を見るのは嬉しいものだが、あまりの成長振りには少し心配もする。背伸びしなくても普通に育って欲しい。利発でなくてもいいから、平凡な幸せを掴んで欲しい。そう思うジジの願いである。





プール

この夏を乗り切る



 猛暑が連続する日々は、大人しく室内で過ごすに限る。よもやこのような猛暑日に現場に呼び出す輩はなかろうと、それでも息を殺して佇む。しかし、そういうときに限って呼び出しがあるのが、この世の現実。呼び出す人に悪気はなく、山や自然は待ってはくれないからである。

 心地よい季節には暇にしていたものを。よりによって何もこんなクソ暑いときにと、嘆いてみても始まらない。仕事がないときの苦しみを思えば、炎天下であろうが槍が吹こうが、お呼びがかかるということはありがたいこと。何を隠そう、私の仕事は芸者と同じ。お呼びがかかれば行くだけです。ただ、行き先がお座敷ではなくて山なのです。老芸者であっても、この芸を見たいと思っていただける旦さんに感謝です。

 さて、この炎天下の現場にどのように挑戦するか。小さなベットボトルに水を入れて凍らせたものを2本用意し、クーラーボックスに入れる。これが案外と重宝なのです。ペットボトルの中の氷はなかなか融けない。ボトルの中でテポドンみたいな氷がゆっくりと融けるのです。2本もあれば一日中、クーラー効果があり、少し融け始めて飲むと、キンキンに冷えた氷水。小さなクーラーボックスには、他に、首巻き冷帯、濡れたタオル、むすび、お茶などを詰め込む。

 さて、七つ道具を引っさげて、いざ、現場に出陣。ここで私の現場の七つ道具を紹介しておこう。左から、野帳、スケプロ、筆記用具、ルーペ、ロックハンマーにクリコン。七つじゃなく六つだって?そりゃ、これを撮影しているカメラも必需品だから。




七つ道具




 野帳はスケッチしたり、地質の状況を書き留めたりする。スケプロはスケールプロトラクターの略で、図面にいろいろなスケールと角度で筆記するもの。筆記用具はボールペンの他に短い色鉛筆や蛍光ペン。ルーペは鉱物を鑑定するもの。ロックハンマーは米国製でもう30年以上も使っている優れもの。東京・神田でしか売っていない。クリコンは断層面や節理面の方向と勾配を計測するもの。そして、カメラは広角、接写、ズームが必須となる。

 炎天下での調査作業は厳しいものであるが、ほんとうに生きてるという実感、働いているという実感がするものである。終えた後の清清しさは何とも言えない。それに、露頭との新たな会話や発見があれば、達成感と満足感が暑さを吹っ飛ばす。今年の夏もあとひと踏ん張り。今年の夏を乗り切ろう。夏を乗り切らねば紅葉は見れない。冬を乗り切らなければ桜は見れない。





国民を愚弄する政治



 前後の脈絡をみれば、それが茶番であることは猿でもわかる。そんな猿芝居をまた見てしまった。消費増税と解散時期に関する、昨日の3党合意のことである。

 「近い将来」が「近いうち」に変わっただけの口約束で、あれだけ解散時期にこだわっていた谷垣総裁が納得する訳があるまい。直前まで、抽象的な口約束では到底、承服できないと息巻いていた矢先のことである。そこに「正文」の「密約」があることに、疑う余地はない。

 解散時期について、確か野田総理は「やらないといけないことをやり抜いた後に」と言っていた。それが、「近い将来」となり、最後は「近いうち」となる。このような言葉遊びをしているようでは、日本の政治はいつまでたっても成熟しないのである。

 野田総理は秘密裡にすることで自身のプライドを保ったつもりだろうが、あまりにも失った代償が大きい。自民と公明に足元を見られ、民主党内部の信頼を失い、国民の信頼の砦をも失ったのである。

 それでは、そこまで追い詰めた自民党はどうなのか。谷垣総裁は首脳会議の後、したり顔であったが、国民には醜い政局のごり押しにしか見えない。自民党もまた失った代償が大きい。それでは公明党はどうか。大きなアクションを起こさなかった分、漁夫の利を得たのかも知れない。

 そもそも、消費増税という国民にとっての大きな進路判断を、解散という政争との裏取引に使ったこと自体、国民を愚弄している。あ~、このような政党や政治家を誰が生んだのか。それはいわずと知れた国民である。大いに反省せねばなるまい。

 それでは、来るべき選挙に誰を選べばいいのか。選択肢がないのである。願わくばガラガラポンとなり、政治家ひとりひとりの財政・原発・防衛の基本事項についての考え方を、しかと聞きたいものである。

 政局のことは天声人語か社説に任せとけばいいのを、また要らぬことを書いてしまった。ロンドンがメダルで沸くのと対照的に、日本国内では隠蔽と醜い政争が繰り返された今年の夏のことを、いつしか亡国の民として思い出すことであろう。




黒い雨の再来


 サラリーマン時代の流転の旅は、ここ広島が最終の地となった。以来、広島に住み着いて30年以上になる。ここ広島の風土や文化に必ずしも馴染まない私であるが、いつしか8月6日はこの地の多くの犠牲者と共鳴する特別の日となった。日常的に病院にて原爆手帳が行き来するのを散見し、多くの原爆二世と出逢い、原爆の恐さを聞かされてきたからである。

 ひとりの長崎の医師の疑惑から昨年発覚した黒い雨の記録。長く長く伏されてきた原爆の間接被害の実態が初めて明らかになった。原爆による黒い雨は同心円状ではなく、西へ西へと拡散していたのである。遠く離れた西区己斐地区に被曝者が多いのはなぜだろうという疑問が解けた。もっと早くに分かっていれば、原爆被害認定がどれだけスムーズにいったであろうか。どれだけ被曝者の心の救いになったであろうか。

 原爆投下から67年も経った今なお、原爆症に苦しむ多くの患者がいる。国は原爆認定において、原爆との因果関係を自らが証明しろという。黒い雨の記録まで隠蔽されて、誰が証明できようものか。証明すべきは国ではないのか。

 原爆の日の昨日、原爆保有国であるイギリスやフランスの大使も初めて列席した。また、未だに避難民の離散が続く福島県浪江町の馬場町長も出席した。原爆投下も原発事故もどちらも防ぎえた事故である。広島の原爆に対する忌まわしい思いは、福島の原発事故に対する忌まわしい思いと共有する。

 今から半世紀以上も未来に、黒い雨が再来しないであろうかと疑念する。東電の会議記録公開のありようを見ても、黒い雨の再来を疑う隠蔽が繰り返されているからである。反原発の市民運動を足がかりに、今こそ国民が立ち上がらねば、半世紀後にまた、事故との因果関係を隠蔽され放射能汚染に苦しむ多くの子孫を生むことになる。





心の中の「ヘドロ」


人間誰しも、心の中に「ヘドロ」を宿している。
本人にそれを迎え入れた自覚はなくとも、自然に居ついている。

何だか得たいの知れないこの「ヘドロ」は、
気づかぬうちに繁茂し、堆積する。

捨てたつもりでも自然と溜まる。
そして気がつけば、「ヘドロ」まみれになって、溢れ出る。

ヘドロの正体は、人それぞれで違う。
「偽善」であったり、「迎合」であったり、「無知」であったり、「貪欲」であったり。
人によっては、「虚栄」や「無情」や「欲情」なども加わる。

普段、我々はそうした「ヘドロ」をできるだけ隠そうとする。
「羞恥心」や「理性」というオブラートによって。
しかし、何かの調子に、「ヘドロ」は顔を出し、勝手な振る舞いをする。

よほどの聖人君主でないかぎり、我々はこの「ヘドロ」を体内に宿す。
だったら、我々はこの「ヘドロ」と、
どのようにつき合えばよいのだろうか。

体内にある「ヘドロ」の存在をしかと認めよう。
その上で、「ヘドロ」の言い分を聞いてやろう。
「ヘドロ」には「ヘドロ」の言い分があろう。
その言い分に少しだけ耳を傾けてあげよう。

さて、今日の「ヘドロ」の言い分は何だろう。




善良な市民の顛末記



 日常生活の規範という観点において人を分類すれば、世の中にはひと握りの善良な市民と、ほんのひと握りの違反常習者と、その他大勢の普通の市民によって構成される。ところが、ほんのひと握りしかいない違反常習者によって、地域の日常生活は大きく混乱させられてしまう。それどころか、ひと握りの善良な市民の手間を招き、場合によっては善良な市民を不幸に落とし入れることだってある。

 日常生活における最小の規範行為にゴミ出しがある。日本全国、地域によってゴミ出しの仕方はさまざまである。しかし、どのようなゴミ出しの仕方であったとしても、決められたルールを守らない人が、ひとりやふたり、地域にはいるものである。結果、ほんのひと握りのルール違反者によって、ひと握りの善良な市民が翻弄されることになる。

 ゴミ出しルールに違反したゴミは、収集されずにゴミ置き場に放置される。曜日の違うゴミ、分類規定外のゴミ、大きさの限界を超えたゴミ、シールのないゴミなどである。残されたゴミはゴミ当番によって処理される場合がある。しかし、この作業が意外に大変である。

 違反ゴミの犯人を特定することは難しい。しかし、生ゴミを広げれば十中八九、犯人を特定することができる。が、プライバシーの侵害になりかねない。悪いのは違反ゴミを出した張本人であるが、そのような輩に限ってプライバシーの侵害を盾に逆切れする。そのようなトラブルを避けて、当番は生ゴミを広げて違反物件を抽出し、わがゴミとして出しなおす。曜日の違うゴミは、これもわがゴミとして一端、わが家に持ち帰る。

 ゴミ出しに当番がいちいち立会するのは無理である。さりとて、監視カメラを設置したとしても大型ゴミの違反者は抽出できてもゴミの中身まではわからない。責任をもってゴミ袋に氏名か号室を書くようにしても、ほんのひと握りしかいない違反者はそれすら守らないのは必定である。

 一方、ひと握りの善良な市民は自分のゴミが収集車によって処理されたか、確認しに行く。当番でなくても残されたゴのことが気になり、その場で広げてみる。何が違反で置き去りにされたかを、その場にしゃがんで考え込む。違反物件がわかれば処理をする。そんな善良で良心的な市民はどこの街にもいるものである。

 善良に馬鹿をつけたいほどの小心市民がわが家にもひとりいる。先日も、よせばいいのにゴミ置き場に置き去りのビン缶を確認しに行ったらしい。そこでしゃがんで開帳して確認作業をしていると、犬の散歩のふたりずれがやって来た。何をしているのって、近寄って覗き込んでいた途端、連れの犬がゴミ点検者に噛み付いた。ズボンは破れたが、さほど痛くもないので、何でもないですと言って、事なきように穏便に済ませたらしい。後で聞くと、相手の名前や住所も聞いていないという。すぐに相手を調べて、病院にも行って診断書をとるよう、一緒に行動したものである。

 しなくてもいいゴミの始末をした結果、犬に噛まれて、それでも何でもないと言う。善良な市民は得てしてこのようなものである。小心者でお人好しで、自分から主張することはない。ほんのひと握りしの違反常習者によって、ひと握りの善良な市民がとばっちりを受けた良い例である。




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