遠方の友を見舞う



 仕事の閑散期を利用して、気になっていた遠いふたりの友を訪ねることを思い立った。

 ひとり目の友は、今年2月にくも膜下出血で倒れて入院した彼である。彼は仕事で知り合った地元建設会社の40歳代の若き社長である。環境調査の仕事を依頼された延長に裁判があり、裁判のための鑑定書作成から最後は証人まで頼まれた。固辞したが、彼の男気に惚れて請けた。

 愛車ベンツを所有するも現場では軽トラをうならせ、喧々諤々と裁判のことから人生論まで現場で語った仲である。現場の田んぼの中に立つ一軒の小汚いうどん屋がある。そこのうどんが、今まで食べたこともない美味しさで、他府県ナンバーの車も来るほどの盛況である。そのうどん屋で待ち合わせをするのを常とした。そろそろ腐れ縁の仲になろうとしている友である。

 くも膜下出血で緊急入院して大手術をしたものの、発見と処置が早かったお陰で、脳や手足に支障は全くなく、現在はリハビリ専門病院に入院していた。突然の訪問でびっくりしていたが、大そう、喜んでくれた。帰り際に、退院したらうどん屋で快気祝いをやろうと、固い契りを交わした。

 もうひとりの友は建設資材会社の社長である。10年前までは会社の羽振りが良く、ヨーロッパ旅行にも一緒に何度も同行した。家族ぐるみで拙宅にも招待した。しかし、吾が拙宅とは大違いで、彼の自宅にはベンツとジャガーがガレージに収まり、ベルサイユを髣髴させる自宅庭園のパーテイーに何度も招待された。

 贅沢三昧の果てに、彼の会社は10年前から調子が悪くなり、最後は銀行管理下に置かれた。70歳を越す彼は実質的主導権から降りて、今は奥さんと娘さんが取り仕切り、100人ほどの社員を維持している。

 今は本社ビルを工場内に移転し、土地やビルを売却して落ち着いたという。酒を断って数年になる彼は以前よりもふくよかで健康的な生活をしているという。今はもうお金は要らないという彼の社長室には彼の唯一の趣味であるプラモデルが壁面一杯にずらりと並んでおり、それを見ているだけで幸せだと言う。彼も私の突然の訪問にびっくりしていたが、大そう喜んでもらった。

 人間、羽振りが良くて調子が良いときは、黙っていても周囲に人が集まるものだ。しかし、一端、下火となり弱り目になると、ひとりまたひとりと、人は離れていくのが常である。しかし、友の真価はそこから始まる。弱り目に祟り目になったときにこそ、会って励ますことが真の友ではなかろうか。今回、思い立ってふたりの遠方の友に会いに行って満足している。実は一番励まされたのは、弱り目の私なのである。



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フードファディズム



 これまでどれだけの食品が健康に良いとか痩せるとか、テレビで流れただろうか。ふと思いつくだけでも、ココア、バナナ、納豆、生姜、トマトとあげられる。その都度、消費者がその食品を買いあさり、スーパーの店頭から一時的にその食品が消えてきた。この現象が何度となく繰り返されてきた。

「納豆でダイエットできる」事件のような捏造番組は別として、多くの報道はよく見ると確かに嘘は言っていない。それぞれの食品はそれぞれに健康に良い成分を有している。マウスを使った実験によって、その食品が特定の健康要素に効果があることが確認されたものもある。

 しかし、その食品をどの程度の量、どの頻度で摂取したら、このような効果があるとまで言及しているわけではない。報道する側に配慮が欠けると言ってしまえばそのとおりだ。消費者が勝手に思い込みしたと言ってしまえばそのとおりだ。

 科学的な根拠に欠ける食品健康情報が熱狂的に広まる現象を、「フードファディズム」というらしい。「フードファディズム」がなぜ繰り返されるのか。報道する側の責任を追及しても始まらない。消費者こそが、もういい加減に学習してはどうか。

 不健康きわまりない私が言うのは説得力ないが、それでもこれだけはわきまえている。特定な食品に偏らない、いろいろな食品を万遍なく食する、健康に良い食品を食する以上に健康に悪い食品を食さない。ごく普通のこうしたことが健康を維持する上で大切なことは、誰でも百も承知していそうなのだが。それでも報道食品に走る主婦が後を絶たない。



続・小沢一郎考



 私は23日に「小沢一郎考」というタイトルのブログをアップした。消費増税に反対する小沢一郎に対する嫌悪感、その小沢氏に秋波を送る野田首相のだらしなさに言及した。その翌日、24日の朝日新聞の社説には「ああ、この仰々しさ」という記事が掲載された。その内容は私のブログ記事とほぼ同じであった。会うだ会わないだのといった仰々しさに対する嫌悪感を記していた。

 同じ紙面の朝日川柳に次なる句があった。
「会ってくれ ふられる男の言うセリフ」

 また同じ紙面には、強面(こわもて)のブタと柔面(やわもて)のブタを歪んだ顔のミイラがキューピットとして引き合わせる絵柄が、風刺マンガとして掲載されてあった。(説明文は私の文責による)

 国民の政治へのうんざり感はいずこも同じという印象である。このようにして国民と政治の距離を広げていくのだと感じる。まだ言い足らぬので、さらにひと言加える。いつも勿体顔で登場する小沢さん、あなたは何さまですか。一兵卒の被告の身であったのでは。それでも小沢一郎を弁護するという方がいるのであれば、その理由を聞かせてもらいたいものである。



そうなって初めて


そうなって 初めて自分が変われる
ふしぎに 以前より優しくなった
人にも花にも自然にも
スローの生活についていけるようになった
よ~く話を聞いてあげれるようになった

そうなって 初めて気づく
今まで 外ばかり目を遣っていた
身の廻りのこと ちゃんと見てこなかった
あなたのことも 花のことも
今まで 生き急いでたのかも 
日々の平穏がこんなにも幸せなことなんだと

そうなって 初めて聞こえる
人と花の内なる声を

そうなって 初めて感じる
人と花の内なる思いを

そうなって 初めて知らされる
生きることの辛さとすばらしさ
生きるための勇気と愛を

「そうなって」ってなに?
内緒です
そうなったら誰でも



小沢一郎考



 消費増税法案に反対表明している小沢一郎さん(以下、敬称略)に対して、野田首相が輿石幹事長を介して会談してくれるように要請した。これに対して、小沢さんは当初、風邪をこじらせていていることを理由に拒否。昨日になって、会ってもいいと。それも来週ならと。

 これでは、どちらが首相なのだか。消費増税の是非についてここで語るつもりはない。是非はともかく、消費増税は民主党の中では決定事項である。小沢一郎はまぎれもなく、まだ民主党の一員でもある。にもかかわらず、明確に反対表明し、遊説先の講演では現内閣の批判までする。さりとて、野田首相に面と向かって物申す訳でもない。首相も首相、何をペコペコしているのか。命令すれば済むものを。首を切れば済むものを。

 何とも不届き千万としか言いようがないが、小沢一郎の言動はいつもこうだ。要するに、男らしくない。反対するなら離党して、正々堂々と表明すればよい。悪態をつくす割には、真正面から行動しない。影で人と情報を操る。そして、自身では決して泥をかぶらない。震災直後、愛する地元・岩手に駆けつけて被災者を見舞って行脚したという話も聞かない。ほとぼり醒めた頃、都合の良いときにだけ吼える。都合の悪いときには国会にも顔を出さない。

 小沢一郎という人物ほど、人によって嫌いと好きがはっきりしている政治家は少ない。大多数の国民から嫌われながらも、数は少ないが熱烈な信奉者がいる。その数少ない信奉者にはシニア・ナビの仲間もいる。面白いのは、信奉者は概して知識階級に多いことである。

 それでは、数少ない信奉者は小沢一郎をなぜに敬い慕うのだろうか。彼の政治手腕なのか、政治哲学なのか、政治力学なのか、私には理解できない。ただあえて理解できるとすれば、「政治とは権力闘争」とする彼の信条に委ねるところが大きいことである。権力に立ち向かう強者を好む志向は橋下・大阪市長ブームと同じであり、現実的な政治を意識して豪腕の小沢一郎を選択したとしてもおかしな話ではない。

 彼の信条である「政治とは権力闘争」とは、「選挙とは相手に勝つこと」を目的とし、「勝つためには金と情報が要る」「そのためには何でもする」と手段を選ばぬ必然的な行動となる。現に、彼は現民主党の躍進の功労者でもあるが、同時に、数々の組織を解体した壊し屋でもある。

 そのような政治姿勢はかっての自民党政治そのものであり、もう過去の人である。田原総一郎は『「人がいいけど仕事をしない政治家」(鳩山さんのこと)と「悪いこともするが仕事のできる政治家」(小沢一郎)、どちらが国民にふさわしいか』と言っている。果たして、小沢一郎のやっていることは「仕事ができる」ことなのか。私にはどちらもふさわしくないと思われるのだが。

 小沢一郎はもう過去の人。彼の無罪が確定しようが確定しまいが、何ら変わりはしない。あえて言うと、無罪が確定した方がより政治が混乱する。無罪が確定しなくても混乱する。要するに、彼が政界にいるだけで混乱を招く。小沢一郎は隠蔽体質の古い時代の政治屋であり、もはや政界には不必要だと私は考るのだが、果たして小沢信者はどのようにお考えだろうか。



現代詩に思う


 今、詩や俳句、短歌がちょっとしたブームである。新聞や雑誌にも多く投稿され、ブログでも多くの方が自作を披露している。サークルや集いも活発である。それはそれで、国民的な文化の研鑽と交流において結構なことだ。

 ただ、ブームである割には書き手と読み手が乖離しているように感じてならない。つまり、書き手ばかりで読み手不在を感じるのである。折角の書き手による作品は読み手がつかずに看過され、いろんな人の評価が得られないまま書き手のマスターベーションで終わってしまうことが多い。

 その原因を考えるに、ひと口で言って難解な表現が多いからだと推測する。古典的な難解な表現を駆使したもの、無理に難解な用語を使ったもの、わざわざ当て字にしたもの、遠まわしの表現、作者でなければわからない心情と情景などである。それに加えて、評価の基準が曖昧なこともある。選者とその理由に納得いかぬものもある。

 その結果、読み手に敷居の高さを感じさせたり、分かりづらさから見放すことになる。まして、心に響く朴訥な現代詩が少ないという印象を拭えない。そう思う連中は、やおら川柳や五行歌、散文へと走る。その方が平易で手っ取り早く、素直に表現できるからであろう。

 そういうと、あなたに感受性がないからだとか、あなたに詩の心を理解する力が不足しているからだとか、あなたに古典の知識がないからだと、叱責を受けそうである。私の場合、確かにそういう面はある。しかし、そういってしまえば身も蓋もない。現代詩はそれで良いのかと、改めて問い直したい。

 そういう中、その答えに一石を投じる本に遭遇した。「対論 この詩集を読め 2008~2011」(澪標ミオツクシ、1575円)である。詩人で文学研究者である細見和之と山田兼士の両氏が渾身の感覚で詩と対峙して語り合う。詩の輪郭をあぶりだしていく面白さがある。まだ最後まで読んでいないが、現代詩について私なりの論点を繋ぎ止めたい。





対論

皐月の玄関先


 わが家の玄関先は無計画な鉢植え収集家によってごった返し、郵便配達や宅急便も玄関先まで容易に行き着かぬ状態にある。それどころか、家人ですら新聞を取りに行くのに難儀をしている。そんな煩雑極まりない玄関先も、この時期には満開の薔薇で埋め尽くされ、ようやく日常の苦心の恩恵に預かることができる。



薔薇


 薔薇の香りに車庫前のラベンダーの香りが加わり、今年はさらに何年振りかに咲いたジャスミンの酸味が強い芳香が加わり、玄関先から車庫にかけて芳醇な香りに包まれる。ただ、この香りを芳醇と感じるかどうかは人によってさまざまであり、酸味に弱い私なんぞは頭がクラクラするほどである。たまらなく家に飛び入って、仮に生魚を捌いた後の腐敗臭がありどもすれば、卒倒すること間違いない。




ジャスミン


 わが家の隣には集会所があり、そこで老人会だのサークルなどが頻繁に催される。そのため、わが家の花は通りすがる人の目と鼻に留まることになる。しばし佇み、話し込む人もいる。こんな花でも「きれいだね」とか「いい臭いね」と言って通りすがる人がいれば、その期待を裏切ることはできない。

 しかし、車庫にはツバメの巣作りの落下片とひとあめ毎の黄砂で汚れた黒のボンネットの愛車があり、折角の花の観賞には邪魔になる。ということで、この時期、愛車は車庫から離れたところに一時的に移動することにした。この時期の花の便りを近所の方と共有できれば、薔薇もラベンダーもジャスミンも本望であろう。



世界恐慌の不安



 日本の国会が相も変わらず何も決定できず、何も進展しない中、世界情勢は刻一刻と大きく変化している。最近の株価続落と円高続行に、世界同時不況の波がしたしたと押し寄せてくるのを感じる。今、私が最も心配するのは節電のことでも沖縄のことでもない。世界経済の行く末である。

 世界で今、何が起きているのか。キーワードは「反緊縮財政」である。ギリシャでは「反緊縮財政」の世論を受けて選挙をしたものの「反緊縮財政」の連合政府が実現できずに、再選挙することが決まった。フランスでは「反緊縮財政」のオランド新大統領が誕生した。これによって、ドイツとフランスによるギリシャ支援の枠組みに影を落とす。さらに、スペインやイタリアでも「反緊縮財政」のストライキやデモが起きている。

 おおらかなヨーロッパの国民にとって、緊縮財政にそろそろ嫌気が差した表れが読み取れる。最も危惧するのは、ギリシャの行く末によっては世界経済が一転することである。再選挙の結果、仮にギリシャがユーロから離脱することになれば最も悪いシナリオが予想される。

 ギリシャがユーロから離脱すれば、旧通貨のドラクマが復活する。しかし、信用を失ったドラクマの暴落は必至である。そうすると、ギリシャ国内は超インフレの混乱状態となり、外国からの借金がさらに膨張する。銀行の機能不全、倒産や失業のさらなる増大、政府の債務不履行宣言、行政サービスの停止へと進展し、ついにはギリシャという国の滅亡へ繋がる。

 今、世界はマクロ経済で連鎖する。ギリシャのユーロ離脱は、同時にスペイン、ポルトガルなどの南欧諸国への波及を意味する。ユーロにもドルにも円にも影響が及ぶ。ギリシャがユーロ離脱すれば日本のGDPは4.1%押し下げると言われている(大和総研)。ギリシャ経済に端を発した世界経済の失速は、世界恐慌への可能性をも示唆する。

 もっとも当のギリシャ人は能天気のようである。もともと遊び好きで楽天的な国民性のギリシャのことである。最も伝統的なこの国を世界が見離すはずがないと、高をくくっているようである。

 それでは日本人は違うのか。1000兆もの借金があっても、どうにかなると思っているふしがある。世界情勢よりも国内問題にばかり目をやっている。日本人もギリシャ人と同じく、ある意味、能天気なのかも知れない。このままでは、日本は世界経済のうねりの中に埋没すること必至である。

 内向きな視野の狭い政治から脱却して、世界に向けた発信が欲しいところだが、望むのが無理というものか。それにしても、昨日発表された仏・オランド新大統領が指名した内閣大臣。その半数を占めたのは、さまざまなキャラクターの女性大臣の面々である。日本の古い顔の政治家の面々とは対照的である。改めて日本の古い政治体質を感じる。



沖縄と原発



 沖縄復帰から40年の節目にあたる。昨日の記念式典において野田首相は、「普天間の固定化は絶対にあってはならない」と、いつもの定型句を繰り返すだけであった。

 40年といえば長き歳月。私と同居人との契約更新年数と同じであり、長きにわたる苦悩の歳月である。その間の経過とともに、人の感情も大きく変化する40年でもある。ただ、はっきり言えることは、沖縄は今、本気で怒っていることであり、私は本気で怒る牙を失っていることである。

 日本が主権を回復した1952年当時、国内の米軍基地の9割は本土にあった。それが沖縄復帰時には59%が沖縄に移転されていた。そして今、実に74%が沖縄に集中している。「沖縄の中の米軍基地」というよりも、「米軍基地の中の沖縄」と言った方が適当であろう。

 40年の間、政府は沖縄の人の神経を逆なでする無責任な言動を繰り返してきた。「最低でも県外」「唯一の解決策」といった言葉はその典型である。入れ替わり立ち代わり、いろんな人が沖縄に来て、好き勝手なことを言っては沖縄から逃げて行った。

 経済的な支援という都合のいい餌を与えて、不条理な重荷を沖縄だけに押し付けてきた。「沖縄はもはや日本ではない」「沖縄は米国から復帰されても日本に復帰していない」そんな声が象徴するように、沖縄と本土の連帯感は40年にして完全に閉ざされている。

 しかし一方で、沖縄は生活実態として米軍の存在が欠かせない状況に置かれているのもまた事実である。それは原発とて同じこと。開発から50年の節目となる原発地元は、国策としてリスクを背負わされながらも、否応なしに原発を生活の基盤に組み込まれてきた。原発なしでは生活が成り立たないのである。

 沖縄と原発は、ともに国策としてのリスクを長年背負わされ、足かせとして地元経済もリスクに組み込められたジレンマを抱える。沖縄の一部の人が内心、米軍の沖縄撤退を望まなくても、誰も責めることはできない。原発立地地元がたとえ原発再稼動に賛成したとしても、誰も責めることはできまい。それもこれも国策がなせる業である。

 その責任はすべては政府にある。しかし、その政府とは何ぞやと考えた場合、それは日本人すべての責任にあることに他ならない。我々はほんとうに沖縄のことを、自らのこととして親身に考えてきただろうか。我々は脱原発を唱えるときに。原発地元の生活実情まで組して考えているだろうか。残念ながら、いずれも「ノー」と言わざるを得ない。



日本の自殺


日本の自殺



 「日本の自殺」は、文芸春秋の今年3月号に掲載された論文のタイトルである。この論文はそもそも同じ文芸春秋1975年2月号に掲載されたものであるが、2012年1月10日付朝日新聞に紹介されたことが火付け役となり、異例の再掲となった。いわば文芸春秋と朝日新聞の思いがけぬコラボによって生まれた。

 再掲されることになった注目点は、37年も前に現在の日本を予言する警鐘を鳴らしていたことである。読んだ方もいると思うが、概要は以下のとおりである。

 『繁栄した文明の没落の原因は、外部的なものではなく、その文明の中にある政治的、経済的、社会的な内部要因にあり、その社会を構成する人間の思考力と判断力の衰弱・喪失による内部崩壊であった』という内容である。

 これは正に現代の日本の状況そのものである。その結果として、活力なき福祉国家となり、悪平等主義がまかり通り、大衆迎合主義を招いている。さらに1000兆円に達しようとしている財政赤字を生み、選挙を意識して政策決定ができない政治・経済状況を招いている。現在の日本の状況こそ、「日本の自殺」に邁進していると言っても過言ではなかろう。

 歴史は繰り返されるとはよく言ったものである。かつて栄華を誇った古代ギリシャ、ローマ帝国であるが、その衰退・没落と日本は同じ道を歩いているのである。さらに、フクシマ事件を起こした「原子力ムラ」を中核とする現在のレジーム(政治体制)は、軍国主義によって戦争へと導いた大日本帝国の戦争体制とあまりに酷似するのである。

 あれこれ考えれば考えるほどに、日本が自殺に邁進しているとしか考えられないのである。しかし、かすかな救いを見出せないことはない。震災におけるNPOやボランテイアの献身的な活動や民間企業による独自な被災者支援活動。さらには民間企業によるエネルギー転換努力、市民による脱原発と節電に向けた活動などである。

 これらは「日本の自殺」がまだ決定的ではないという、かすかな希望を示すものと考えたい。このかすかな希望を捨てず、我々は決して諦めることのない地道な努力をすることを誓おう。未来の子孫のために。



私の「わが母の記」観後感


 最近話題の映画といえば、「わが母の記」である。第35回モントリオール世界映画祭のワールド・コンペティション部門で審査員特別グランプリを受賞したと聞く。ブログでもいろんな人が感想を述べている。感想の多くは、感動的だったとか、主人公演じる役所広司の適役、樹木希林の名脇役振りだとか、いずれも高い評価を伝える。亡き母について人一倍思い入れが強い私としては、見過ごすわけにいかなかった。

 人間誰しも年老いていくと、次第に過去の記憶を失いつつ壊れていく。その様子を母と息子の愛という視点で描いている。それなりに感動し、ややユーモラスな構成には映画ならではの旨みがあった。しかし、どこか府に落ちない不完全燃焼の何かを感じた。

 その何かのひとつは、原作との違いであろう。とくに、人間の心の機微や内面を文字表現する場合と映像表現する場合の違いを感じざるを得ない。映像表現は文字では表現できない多くのことを可能にする。しかし、心の機微などの内面的な表現においては、ときに文字表現は映像表現を上回るものであり、映像表現では決して真似できない限界があることを感じた。

 不完全燃焼のもうひとつは、特殊な階層社会という環境設定に起因する。昭和30年代というまだ敗戦を引きずる貧困の時代において、富に恵まれた売れっ子作家の経済環境の設定にある。東京の自宅と修善寺の屋敷に軽井沢の別荘、家政婦や秘書がいて、派手なパーテイーを催すなど、それは当時の人の生活レベルからは雲の上の環境であったろう。

 同じ老人を介護するにも、当時の人にとっては真の意味の姨捨山の感覚であったろうと。母と息子の関係を語るにも、経済状況によってその有りようは大きく変わるものである。自身の母と息子の関係と対比した場合、どうしてもそこに大きな違和感をぬぐい切れず、忸怩たる思いが募るのである。



ツバメの恩返し


 葉桜になるころ、濃い赤と黄色のチューリップが満開になる。やがてその花弁が萎れて垂れるころ、あちらこちらの庭先に、淡いピンクと黄色の蝶々が群がるように咲く。そのハナミズキも皐月の清清しい風をじっくりと吸い込んで、時間をかけて終いに近づく。すると今度は、低い目線の花壇ではサツキが待ちきれなかったように一斉に咲き乱れる。そして、春の取りはやはり薔薇である。おもむろに、今日一輪、明日一輪と誇らしげにその存在感を示す。

 そんな春から初夏への季節の変わり目は、天気も晴れかと思ったら急に突風があったり、突然のにわか雨になったりと忙しい。毎年、こんな時節、吾が家の駐車場にツバメの訪問がある。巣作りの適地を探しに、旋回して視察するのだ。そして毎年、その適地は吾が家の駐車場のほぼ中央、天井から少し出っ張りの桟があるところとなる。どこから集めてきたのか、萱(カヤ)や藁(ワラ)、針金や泥だのを持ち込んで、ちょうど親ツバメと数匹のヒナが入れるスペースの巣が次第に完成していく。

 そのツバメの巣作りのちょうど真下に私の愛車があり、毎年、黒のボンネットに萱や藁の破片や泥が散乱する。人間さまには迷惑であっても、ツバメにはツバメの都合というものがあって、ちょうどそこでしか巣作りができないのだ。ということで、この時期、毎日の洗車となる。

 何年か前のこの時期、巣作りも終わってようやく産卵したとおぼしきころ、突風に巣が煽られて、今にも壊れそうになっていた。このままでは卵ともども落下する。何とか助ける手立てはないものか。脚立に上がって、巣を支えるように板を固定してやった。その後、親鳥は針金などを拾い集めてきて、巣は立派に補強された。

 何週間か経った頃、車のエンジンをかけようとしてふと見上げると、親鳥とヒナが巣から顔を覗かして私の方を見ていた。すると、親鳥とヒナ2匹が巣から飛び立って、私の廻りを周回した。あれが、ツバメにとっての精一杯の恩返しなのだろう。そんな思い出に浸りながら、今年もツバメの到来を待っている。 




駐車場

ゲームに走る若者の心理



 100円玉硬貨を入れると、おもちゃが入った玉がガチャッっと出てくる、昔ながらの「ガチャ」。子どものころからの楽しみの景品装置であり、今でもファミレスなんかに置いてある。先日も孫とファミレスに行ったら、案の定、ねだられた。何でもない、それこそ子ども騙しのおもちゃであるが、それでも子どもは喜ぶ。親とて100円で済む気楽さがあり、「ガチャ」はささやかな庶民の子どもの楽しみであった。

 その「ガチャ」をソーシャルネットゲームとして進化させたのが「コンプガチャ(completeガチャ)」である。1回数百円のソーシャルゲーム内の「ガチャ」で様々なカードや武器などを入手する。決められた絵柄や武器の組み合わせが揃うと、一段上のカードや武器を手にすることができる。さらにそれを揃えると、また一段上のカードや武器を手にする。それに10万円から数十万円を費やすが、それでも上級になると、見ず知らずの多数のネット友から羨望がられたり、尊敬されたり、殿だの大統領だのと英雄視される。

 この「コンプガチャ」は、今やソーシャルゲーム業界の大きな目玉であるが、昨日、やり玉に上がった。そのきっかけは、小中学生に毎月数十万円の請求がきて社会問題になっているからである。消費者担当相は「射幸心を煽る」ものであるとして、近く、事業者を事情聴取するという。事業者には今年からプロ野球に参入した、かの企業も含まれる。

 スマートホンのアプリに搭載されたこの種のゲームに小中学生がお金の仕組みとかをあまり理解しないで走るのは、わからないわけではない。この場合は、アプリに制約を設けるとか、ゲーム費の上限を設けるとか、親の承諾を受けるようにするとか、対策は可能である。

 問題は20代、30代のいい若者が巨額のゲーム費を投じてでも熱中する、その心理である。消費者担当相は「射幸心を煽る」ものというが、果たしてそうなのだろうか。「射幸心」とは、「偶然の利益を、労せずに得ようとする欲心」である(広辞苑)。しかし、そのゲームによって上級になっても実際に利益は得られないのだが、それではなぜ、と大人は考えてしまう。

 それでは、利益を得るためにギャンブルに走ってもいいものだが。ギャンブルにのめり込む若者も確かにいる。しかし、ゲームに熱中する若者にとっての利益とは、お金でなく、羨望や尊敬や英雄視なのであろう。彼らはお金に代えられぬ価値をそこに見出しているとしか考えられない。

 ゆとり教育の中で競争が否定された世界から、いきなり受験社会と現実の娑婆の世界に出た彼らが目にしたものは、それこそ競争原理の世界であったはずである。その世界で勝者にはなれないことを悟り、さりとて夢や希望も見えないとなれば、せめて偶像の世界で優位に立ちたいと思っても不思議ではない。

 ゲームに走る若者の姿は、単に今風の社会現象として捉えてはならぬと考える。悩める内向きの若者の虚像であり、それは将来社会への警告と受け止める。「青年よ、大志を抱け」と、もう一度、クラーク博士に檄を飛ばして欲しいものである。



私の「体内時計」理論



 人には日によって好不調がある。体と心の調子が好調なときと不調なときが、ある周期で訪れては、それが繰り返されているように思う。

 プロ野球選手だって、好調なときもあればスランプもある。イチローだって誰だって。投手だってチームだって、好不調の波がある。不調なときに不調なりの投球ができるピッチャーが好投手であり、不調なときにも五分五分程度の試合ができるチームが試合巧者というものである。

 芸術家だって旨く演技できる日とそうでない日があり、サラリーマンだって仕事がはかどる日とそうでない日がある。無論、普通の主婦にだって。共通しているのは、好調なときと不調なとき、本人はその違いを意識することができても、好不調の理由(訳)について自覚がないことである。

 こうした好不調のバイオリズムというのは、恐らく体の中の細胞ひとつひとつ、あるいは細胞が連係した組織が時計を持っているからであろう。時計には体の時計と心の時計があり、体の時計も複雑な系統があり、心の時計にも複雑な系統があり、それらが組み合わさって、その人の全体的な調子のバロメーターになっているのではなかろうか。その体内の「調子のバロメーター」のことを、私は勝手に「体内時計」と称する。

 一方、人間の体に与える外的要因が問題になる。外気の温度、湿度、気圧などの気象であったり、居心地や住み心地、友たちや組織、周囲の状況など。さらには口から摂取する食品や薬だったり、大津波を目の当たりにするなどの視覚的なものだったり、五感を左右する要素だったり。そうした外的な要因を総称して、この場では「外部環境」と称することにする。(名前は勝手に付けただけで、何でもいいのですが)

 人間の好調と不調を決定づけるのは、「体内時計」と「外部環境」の組み合わせではないのかと、私は常々、思っている。つまり、「体内時計」と「外部環境」がともに正のときが良い結果が出せる好調なときであり、「体内時計」と「外部環境」がともに負のときが悪い結果となる不調なときではないのかと。





周期



 たとえば、「体内時計」を免疫力と考えて「外部環境」を空中衛生環境条件と考えれば、両者が負の場合に風邪や病気になり易い。逆の場合、すなわち「体内時計」と「外部環境」がともに正なるときには薬が効きやすくなるなどの効果が期待できる。

 最新医学の「時間治療」なるものも、その結果の応用であろうと思う。癌患者へ抗癌剤を投与する場合、患者の体のバイオリズムを計測して最も効果的な時間に抗癌剤を投与することによって癌が激減するという臨床結果が紹介されている。これこそが「体内時計」(免疫力)と「外部環境」(抗癌剤投与)のマッチングであろう。朝食べるフルーツと野菜が体に良いと言われるが、これも同じ理屈だと思う。

 こうした「体内時計」と「外部環境」のバイオリズムを認識すれば、より快適な生活に変更したり不快な生活を減らすことができるのではと思う。たとえば、人によって脳の活性化に効果的な時間と方法を見つけることができると助かる。朝の散歩であったり、午後の仮眠であったり、夜のトレーニングであったり、学習・勤務時間の変更であったりと。逆に不快な生活を減らすため、早寝早起きであったり、食事時間の変更などによってそれを達成することができる。

 大切なことは、「体内時計」と「外部環境」にバイオリズムが存在することを自覚して、日々、生活することである。そうすることによって、体と心の好不調を自身が監視し、修正、変更することも可能であり、それによって、より快適な人生を送ることができると思う。



お詫び

昨日アップしたブログ「連休明けの憂鬱」は
訳あって削除いたしました。
コメントいただいた方にお詫び申し上げます。



無知の知



 東日本大震災以降、「想定外」という言葉が乱用され、社会や国民に不安を募らせてきた。社会は専門家の高度な知識や判断能力に期待したが、幾度となく失望した。この失望には歴史がある。大正13年の桜島の大噴火のとき、楽観的見解を出した測候所や大学に怒り、被災者は「住民ハ理論ニ信頼セズ」の碑を建立して後世に警笛を鳴らした。

 科学が急速に進歩しているにもかかわらず、社会や国民の科学に対する失望は繰り返されている。繰り返されるばかりか、益々増大していると言ってよい。それでは、この社会や国民の科学に対する失望とは、その本質は一体、何であろうか。

 科学者が言ったことが当らなかったことが失望なのか。当然、それも大きな要素である。しかしそれだけが失望であるならば、失望させぬために、科学者はいつも最悪のシナリオ、つまり想定外を想定すれば済む。

 そうすれば、当らないであろう想定が当らなくとも社会や国民はよかったと安心する。そして、万が一それが当ったとすれば、科学者はそれ見たことかと鼻高々になれる。いずれにしても、科学者に不利益はもたらさない。

 科学とは、一体、それでいいのか。安全に安全を上塗りした考え方でよいのか。狼少年のように「危険だ、危険だ」と叫んでいればいいのか。科学の村の中で安泰としていいのか。それでは科学の進歩はあり得ない。

 危険と安全の境界領域に挑戦してこそ、科学ではないのか。そのためには、正々堂々と果敢に境界領域に挑戦し、何がどのように危険なのかを熟慮せねばならない。安全探しのための飽くなき挑戦が必要となる。

 今回の震災でわかった社会の科学者に対する失望、それは専門家やその集団が単なる予測違いをしたというのではなく、科学者の倫理感に不信を抱いたのである。不信の中身のひとつは「科学者による誤った科学」であり、もうひとつは「科学の限界に対する科学者の不認識」である。

 ソクラテスは「知らないのに知っていると思っている人よりも、知らないので知らないと思っている人の方が優れている」という。科学者が分かった物言いをするのにいつも辟易している。ほんとうは何もわかっていないのだ。「すみません、わかりません」と、なぜ言えないのか。「無知の知」こそ、科学者に教えたい。



『「その、あなた」でよい』


 郵便受けによく、宗教関係の冊子が投函されてある。無宗教無信心者の吾が輩には関係ないと、いつもはその場で捨てる。もしくは、見慣れない冊子の場合はしばらく玄関先に放っておく。なぜなら、後で宗教関係者が来て「見られましたか?見てなければ返却ください」と言われでもしたら大変だから。

 昨日も見慣れた冊子が投函してあった。すぐに捨てようと思ったが、玄関先に置き忘れた。ところがその冊子を、日頃、新聞も本も読むことのない間近な者が真剣に読んでいた。読書嫌いな者を読ませる冊子には、一体、何が書いてあるのか。冊子の内容に変に感銘して、その世界に入りでもしたらヤバイと思った。

 それで、冊子の中身を私が検閲することにした。『「その、あなた」でよい』は冊子のタイトルであり、著者は某有名宗教団体の、名が広く知れた創始者である。その中身を見ると、心にほころびを持つ者には、なるほどと思わせる内容である。しかし、方々に神や仏が散りばめられて、誘(いざな)う雰囲気が満載である。そのまま信奉されては困ると思い、神と仏から離脱した私の言葉によって編集し直し、それを代わりに読むように与えた。以下はその要約である。

第1章『「その、あなた」でよい』(吾は吾、わが道を生きる)

他の人々の存在を肯定するなら、
自分自身の存在も肯定しなさい。
「その、あなた」でよいのです。
あなたは、あなたの生き方をすればいいのです。

第2章『私もまんざら捨てたものではない』(自分を信じて生きる)

苦しみや悲しみのさなかにあるとき、
人は自己否定的になりがちです。
そうすると、ますます苦しい。
そんなときはむしろ、もっとさばけた目で
自分自身を見つめることが大切です。
「私もまんざら捨てたものではない」と。
それは、過信でもうぬぼれでもなく、自信です。
水辺から飛び立つ水鳥は、羽毛の表面にある油で水を弾く。
自信はその油です。
どのような不幸が訪れても、自信という油があれば、
心の奥底に引き込まれなくて済みます。

第3章『力を磨き、自分を大切に』(前向きに生きる)

与えられた不幸を負とばかり捉えず
前向きに考えられるように、
常々、自分の力を磨いて、自分を大切にしよう。
「肉親の死によって、私はいっそう強くなれる」
「友人が離れて、私にはまた別の素晴らしい人と出会える」
このように、前向きに考えることが大切です。

第4章『感謝の気持ちを持とう』(感謝の心がわが身を救う)

この世の万物に感謝の気持ちを抱けば、
そこから教訓が得られる。
自分は一見、不幸なようでも、
それは大きな時間の流れの中では、たいしたことではないと。
自分はいかに大きな愛を与えられているか、
自分はいかに恵まれているか、
そのように思えてくるのです。

 編集してみて思った。宗教冊子は無論、宗教への誘いを目的とする。だからして、表現方法などが一種、独特である。しかし、中身の本質は人生訓であることに違いはない。この冊子が言いたい人生訓は以下のように要約できる。

 今、身の回りに起きていることを、あれこれと神経質に考えずに、ゆっくりとした時間の流れの中のひとつの事象と捉えれば、また別の展開が開ける。私は私でいいのだ、仮に間違いがあっても、どうということないのだ、また良いこともあるさ。そう考えるだけで楽になれる。「降り止まぬ雨はない」、「明けぬ夜はない」、「悪いことも良いことも長続きはしない」大きな時間の流れに任せて生きると楽なもの。感謝する気持ち、自分を磨く努力を大切にしながら。悪い自分探しをするのではなく、自分の中にある良い子を信じて。

 まあ、こんなところです。ただひとつ確かなことは、救世主になれるのは神でも仏でもない。この私をおいて誰もいないということです。



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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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