原発事故の真相(7)

(7) この国のありよう

 今になって思うと、SPEEDIの存在が事故後の命運をかけたといっても過言ではない。それでは、SPEEDIの存在を知る安全委、保安院はなぜ菅や他の政治家に知らせなかったのか。

 安全委員長の班目春樹にそれを尋ねたら、こう答えたという。「原発のプラントがどうなるかを予測できる人間は私しかいなかった。その私にSPEEDIのことも全部やれっていうんですか。超スーパーマンならできるかも知れませんけど。役割分担として菅首相にアドバイスするのは保安院です」と。

 それでは保安院はどう答えたか。保安院長の寺坂信昭は言う。「保安院がSPEEDIの話をしちゃいけないことはないが、SPEEDIは文部科学省の所管です」と。

 一体、この国の原発を守る中枢は何を言っているのだ。要するに、彼らには有事という認識のかけらもない。あくまでも役人仕事に徹し、国のため、国家のために働くという公僕の意識はさらさらない。ましてや、国家のために身を粉にする覚悟はない。

 原発事故の後始末の不手際の根底には官僚組織の機能不全がある。それでは、菅以外が首相であったら上手くいったというのか。誰がやっても同じであろう。それどころか、誰が首相をしようが、菅ほどの抵抗と決断はしなかったであろうと私は確信する。

 それでは、政府や政治家以外の専門家や科学者はどうか。事故後、政府の姿勢に反論を唱えた正義ある研究者もいた。また一方では、テレビなどで涼しい顔をして批判めいた解説をする専門家もいた。しかし彼らに共通するのは、いずれも科学者として国に働きかけるまでの決死の行動を起こしていないということである。

 それでは、この日本のありようをどう考えたらよいのか。現状で同じような事故があれば、この国は同じ失敗を繰り返すであろう。政治家、官僚、科学者、専門家の責任追及をしても始まらない。この国のありようを変えるには国民自体が変わらねばなるまい。

 その突破口は「情報開示」である。「情報開示」さえ進めば、あらゆる問題解決の糸口が見えてくる。電力が足りないという者がいるかと思えば、原発なしでも足りるという者がいる。内部被曝が深刻だという者がいたかと思うと、ヒステリックだと非難する者がいる。挙句の果てに、議事録がないという。これすべて「情報開示」の仕組みのなさ故である。すべての情報を開示するよう、国民が働きかけ続けることが必要である。と同時に、国民の側にも情報の真贋を見分ける力をつけることが求められる。日本という愛すべき国を守るため、将来の子孫の生命と安全を守るために、我々国民は今こそ立ち上がらねばならない。(完)



スポンサーサイト

原発事故の真相(6)

(6) 原爆の再現

 軍医として広島で被爆した肥田医師は内部被曝にこだわる。原爆以降に広島に入った「入市被爆者」を数えきれないくらい多く診てきたからである。8年前、国から原爆症と認定されない被爆者が各地で裁判を起こした。肥田はその裁判で被爆者側に立って大きな役割を果たした。内部被曝の因果関係を証明するのは困難である。裁判で国は「内部被曝は無視し得る」と切り捨てた。その2年後、大阪地裁で被爆者たちは勝訴する。国は控訴したが、棄却された。

 裁判において肥田は広島で経験したことを話す。その内容は、物理学者の論理でもなく、医師の論理でもない。人間として、被害を受けた被爆者の立場に立った論理である。

 肥田が今回の事故で最も腹立たしく思った政府の言葉がある。「ただちには人体に影響はありません」という言葉である。「ただちにはないが、もしかしたら影響が出る人がいるか知れないと、ちゃんと付け加えなくてはいけないでしょう。」と肥田は言う。確かに、そうだ。私もそう思う。

 66年前の原爆の話が今もこじれているのである。福島で今、起きてることが、50年以上も経った将来、また繰り返されるというのか。



原発事故の真相(5)

(5) 内部被曝の進行

 茨城県日立市の「チェルノブイリの子供を救おう会」代表である久保田の話は、内部被曝に関して説得力がある。久保田はベラルーシの子供の体内放射能を抜くために、子供たちを日本に招待する活動を続けている。久保田は昨年9月にベラルーシに行った。到着した翌日、試しに自身の内部被曝量を測った。すると、体重1キロ当たり21ベクレルが検出されて驚いた。同行した茨城県教員の畠山も19ベクレルであった。これは明らかに日本での内部被曝である。

 しかし、もうひとりの同行者である事務職の西野は10ベクレルと少なかった。おかしいなと全員が思った。すると西野は、昨年7~8月に欧州旅行していることを思い出した。その間、汚染されていない食品を食べていたからである。

 これによっても、食品による内部被曝は確実に広がっているのは明らかである。しかし、国も福島県も未だに食品による内部被曝を認めていない。検査で確認された放射能は3月12日に1号機が爆発したときに取り込んだものだけだという見解である。

 体内の放射能は、新たに取り込まなければ減衰する。とくに、子供は新陳代謝が速いので小学校低学年だと1ケ月前後で半減する。仮に今(今年1月)、1キロ当たり10ベクレルの放射能が検出された子供の場合、その後の食事から新たに放射能を取り込まないとすると、昨年3月の事故直後に1キロ当たり5000ベクレル以上もの放射能を被曝した計算になる。そんなことはあり得ない。つまり、事故後の食事を通しての放射能内部被曝がないという想定は、どのように計算しても矛盾するのである。

 食品からの内部被曝は今でも確実に進行している。その事実のもとに、検査体制を抜本的に変えないと、将来に大きな禍根を残すことになる。



原発事故の真相(4)

(4) 官僚組織の機能不全

 菅は情報が正確にスピーデイーに入ってこないことに苛立ちを募らせる。その一方で、事態は急速に悪い方向に進行する。菅は思い立って、個人ルートで信頼できる元官僚や母校・東京工業大学の研究者を電話で召集する。理化学研究所の研究推進部長の生川、東工大原子力工学研究所の有冨、斉藤たちである。彼ら科学者を執務室に呼び寄せた菅はこう言ったという。

 「正しい情報がタイムリーに入ってこないんです。水素爆発だって、原子力安全委員会の班目さんは起きないと言っていた。なのに爆発は起きてしまった。保安院や原子力安全委以外にも、色々な意見を加味して判断したい」

 翌日から彼らは専門的な対応策を助言し続ける。統合本部に詰めて、保安院や原子力安全委を監視し、逐一、菅に連絡することとなる。菅は首相補佐官の細野豪志を統合本部の事務局長に任命する。菅の個人的な人脈により、事故対策統合本部がようやく機能した瞬間である。その根底には官僚組織の機能不全が大きく横たわっていた。



原発事故の真相(3)

(3) 御前会議と東電撤退の阻止

 東京電力は事故直後から撤退を画策していた。東電が原発事故現場から撤退したいという情報が官邸に流れたのは3月15日の午前3時頃であったという。海江田経産相、枝野官房長官、福山官房副長官、細野・寺田首相補佐官は官邸執務室隣の応接室で仮眠する菅を起こした。

 撤退の第一報を聞いた菅の第一声を、福山は後にこう振り返る。「何をバカなことを言っているんだという言い方だった」と。午前3時20分、原子力安全委員長の班目、委員長代理の久木を加えた会議が行われた。これが後にいう「御前会議」である。東電が撤退したいとの報告がされると、間髪を入れずに菅は言った。「撤退なんてあり得ない」と。「このままほっといて撤退したら東日本全体がダメになる」「こんなことでは外国から侵略されるぞ」「俺は東電に行く」「お前は行くか」「お前は行くか」・・・・・。菅は矢継ぎ早にまくりたてて迫った。

 菅は3月15日午前5時30分に東京・内幸町の東京電力本社に駆けつけた。東電2Fの対策本部に入った菅の正面に、会長の勝俣と社長の清水がいた。そこで菅が訓示した。その内容の要点を秘書官メモから引用する。

「・・・・・今回の事の重大性は皆さんが一番分かっていると思う。政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。・・・・・これらを放棄した場合、何ケ月か後にはすべての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。・・・・・日本の国が成立しなくなる。何としても、命がけで、この状況を抑え込まなない限りは。撤退して黙って見過ごすことはできない。・・・・・皆さんは当事者です。命を賭けて下さい。逃げても逃げ切れない。・・・・・情報伝達が遅いし、不正確だ。しかも間違ってる。・・・・・金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれないときに、撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。60歳以上が現地に行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。・・・・・」

 この菅訓示が終わって間もなく、午前6時、2号機の爆発が起きた。



原発事故の真相(2)

(2) SPEEDIの存在

 3月11日の事故の夜、官邸中枢が避難区域を決定した。原子力安全・保安院の院長である寺坂と原子力安全委員長の班目(まだらめ)も同席していた。その後、原子力安全・保安院は「(避難区域の決定について)いきなり結論が下りてきた」としている。そのことについて、菅は総理を退いた後に、「俺の目の前に保安院のトップがいたんだよ」と憤る。事実、寺坂はSPEEDIのことについても菅に言わないでいた。その後、寺坂は退社してOBとなったが、現在でも取材に応じず、保安院も寺坂への取材を妨害している。

 3号機が爆発したのは3月14日、午前11時1分。直後、菅直人は党首会談を打ち切って関係者全員を総理執務室に召集した。海江田経産大臣、枝野官房長官、福山官房副長官、原子力安全・保安院の安田、原子力安全委員長の班目。

 「何が起きてるんだ」と菅が皆に尋ねる。しかし、誰からも返事がない。その頃、福島県内では半径20キロ圏内の避難区域に残る人たちの救出が続いた。県外への避難者も続出していた。

 一方、避難計画の切り札である文科省所管のSPEEDIは震災直後から放射能の拡散方向を予測していた。その予測はほぼ正確であった。文科省、保安院、原子力安全委には1時間ごとにデータが送られ、同じものが外務省を通じて在日米軍にも届けられた。しかし、SPEEDIの存在を知っていた官僚、保安院、原子力安全委の誰ひとり、SPEEDIの存在を官邸やどの政治家にも伝えなかった。菅の目の前に保安院、原子力安全委の幹部がいたにもかかわらずである。

 官邸はSPEEDIの存在すら知らされないままに、情報収集に奔走した。ほぼ正確なSPEEDIの予測がまったく使われないままに同心円状の避難が進められた。



原発事故の真相(1)


 原発事故から10ケ月以上にもなると、今になってようやく、事故直後からの一連の騒動の裏話が伝えられてきている。新聞や雑誌に記載されたものに個人的な調査も加えて、信頼し得る真相らしき情報を整理してみたので、ここにシリーズとして掲載する。なお、発言内容は記事をそのまま引用した。また、人の敬称は省略した。


(1) 研究者の辞表提出

 原発事故が起きた場合に何よりも重要なことは、放射能拡散の実態をできるだけ速く実測し、それをもとに避難の計画を立案することである。

 3月11日午後の地震発生の瞬間、厚労省労働安全衛生総合研究所の研究員である木村は居ても立ってもいられなかった。放射線衛生学の専門家である木村はチェルノブイリ事故の現地調査に取り組んでいたからである。

 翌12日の土曜日の午後、家に戻った木村は妻から「原発が爆発した」と聞かされた。瞬間、木村は「お父さん、しばらく家に帰ってこないから」と長男に告げて家を出た。
研究所に戻って現地入りの準備をした。住民を放射線から守るためには、まず測定しなくてはいけない。それには速さが求めれる。時間が経てば経つほど、測定不能な放射性物質が増えるからである。

 準備する傍ら、彼は信頼できる4人の研究者にメールした。京大の今中哲二、小出裕章、長崎大の高辻俊宏、広島大の遠藤暁である。メールの内容は、「今、すぐに調査しなければならない。自分がサンプリングに行くので、皆で分析をしてくれ」というものである。全員が「よし分かった」と、すぐさま返信してきた。

 しかし、彼が厚労省の研究者として現地に行くことは叶わなかった。直後、所轄の上長から、勝手な行動はするなとのお達しがあったからだ。それでも彼は辞表を出して現地に出向いた。彼には厚労省に入省するまでに多くの下地の苦労がある。その話はここででは割愛するが、そんな経験が彼の気骨を覚醒したのかも知れない。いずれにしても、この国の研究者は辞表を提出しなければ正義を守れない。



原発住民投票の行方


 原発はイエスかノーか。それを住民で決める住民投票を実現するには、険しいハードルと長い長い道のりが待ち構えている。署名集めから署名審査、条例制定請求、議会召集、条例案の議会付議、条例交付と、それはそれは気が遠くなるほどである。その第一歩となるのが署名集めであり、有権者の2%以上の署名が集まらねばならない。

 市民グループが大阪市と東京都において署名活動を行っているが、いまひとつ盛り上がらない。大阪市の場合は今月9日に既に署名期間が終了し、請求に必要な4万2673人を上回る6万1087人分が集まったと発表した。しかし東京では、必要な21万4236人に対して9万5000人程度しか集まってなくて、相当に苦戦している。

 苦戦の要因のひとつに、当の首長がそっぽを向いていることがあげられる。大阪の橋下市長は住民投票そのものに懐疑的である。東京の石原都知事に至っては、センチメンタルでありヒステリックであると突き放す。

 住民投票の条例制定までの道のりと手順は確かにまどろっこしい。それが橋下市長の懐疑に繋がるのであろう。しかし、石原都知事のセンチメンタルでありヒステリックであるとはどういうことか。住民投票の準備の署名集めをすることが、センチメンタルでありヒステリックなのか。それは、優柔不断な日本人の性格を見越した詭弁としか、私には聞こえない。

 そもそも、住民投票は原発の是非を問うものであり、原発推進でも原発反対の立場でもない。住民投票実現のための署名活動は原発の是非を我々の手で決める準備をしようというものだ。原発推進を腹に隠す首長が躊躇するのは理解できる。しかし、国民自体がどこか盛り上がらないのはどういうことか。今この国で最大の懸案事項を、最も民主的な住民投票によって選択しようとする動きに、住民すら躊躇しているのはなぜなのか。

 あれほどの災害や事故に見舞われながらも、まだ日本人は立ち上がろうとしないのはなぜなのか。どこか他人任せな気分や事なかれ主義に流されているのか。仮に当該住民が署名すらしないというなら、その住民は原発の是非について今後、意見をすることなかれと思う。大阪市民でも東京都民でもない私がやきもきしても始まらないのだが。


芥川賞


 最近の芥川賞や直木賞の受賞もの小説をいくつか読んで、かねがね、つまらないと思っていた。ワクワクしない、面白くない、特段に文章が長けているとも思わない。その矢先の今回の受賞発表と不穏な発言であった。

 芥川賞受賞の田中さんの発言が気に入らない。同じ郷里・下関の出身にしても、弁護する気になれず、興ざめした。彼が不憫な生い立ちであることや勉強が嫌いなことなど、どうでもいい。口下手で、人との接触が嫌いなことや友だちがいないことも、個性といえば個性である。芥川賞を受賞しても、芥川龍之介が大の嫌いだというが。それも勝手といえば勝手である。

 しかし、嫌いな理由に「芥川小説は人生を語っているからだ」と。人生や人間関係を自ら遮断しているあなたに、人生の何がわかっているというのか。

 石原都知事は芥川選考委員を今回限りで辞退すると発言した。その理由はやはり、「ワクワク感がない未熟品が多い」と。その発言に対して、田中さんは「東京都知事閣下および東京都民のために受賞してやった」と。ジョークにしても品位のかけらもないこの発言には、嫌悪感さえ感じる。もしかして、田中さんと石原都知事は、人の意見など聴かない似たもの同士かも知れぬ。

 選考委員の顔ぶれや選考方法など、芥川賞や直木賞の形骸化や通念化が指摘されている。賞に値する作品がなければ見送ればよいことだが。受賞すれば書店に山積みとなり、バナナの叩き売りのように捌かれる。そして、受賞者は鼻高々に好きなことを語る。それまで日の目を見なかった青年や乙女が、世に出た瞬間に自分は偉くなったと勘違いし、そのような振る舞いをとる。このような光景をできたら見たくない。ますます賞もの小説を読む気がしなくなった。しばらく私は古典を読むとしよう。


真の「絆」とは


 現実主義で冷酷なこの私にだって、「絆」の大切さは理解はできる。しかし、これほどまでに「絆」が連呼され、「絆」が安売りされ、「絆」が氾濫すると、それは少し違うだろう、と思ってしまう。

 街を歩けば、「絆」のポスターや垂れ幕が嫌でも目に入る。テレビのコマーシャルも変に「絆」を意識させたものが多い。「絆」と関係のないフィギアスケートやサッカーなどのスポーツの番組でも、レポーターがやたらと「絆」を連呼する。タレントや有名人も意識して「絆」を言葉にする。そして一般人も、麻痺したように漠然と「絆」を語る。

 まだここまでは許せる。許せないのが、それに乗じた商戦である。年末から年始にかけての商戦の主役はやはり「絆」であった。家族で高額品を贈り合う「絆消費」。東北の名産は「東日本との絆」。服やアクセサリーを詰めた福袋は結婚相手を探す支援の「絆婚支援」。もう何から何まで、ありとあらゆる物が、関係や意味が分からないままの「絆」という商品に生まれ変わっている。「絆」という魔物のオンパレードと一人歩きである。

 「絆」という文字に着飾れた意味のない商品には辟易する。一体、「絆」ってそんなに軽いものなのか。お金を出せば易々と買えるものなのか。そうじゃないだろう。では、ほんとうの意味の「絆」って何だろう。

 未曾有の災害を経験して初めて考えさせられた、生と死の境目の世界。社会保障の仕組みが危うい高齢化社会。人間関係が希薄な現代の社会構造。こうした社会情勢の中においてこそ、人と人とが真剣に向き合い、語り合い、助け合うことが如何に大切なことなのか。こうした思いを、我々は「絆」という言葉に託しているのではあるまいか。

 だったら、「絆」というのは、決して派手なものではない。むしろ、地味で静かなものである。また、容易に語れるものでもない。明確な定義はなく、見えるものでもない。さらに、身を切る「絆」もあれば、割り切れない「絆」もあるだろう。 

 ここで、「絆」を考える上で貴重な教訓がある。釜石東小学校の生徒が全員助かったという話である。ご存知の方も多いであろう。この学区では祖父母の時代から語り伝えられた「津波てんでんこ」という言葉がある。津波の際には親、兄弟に構わずに、とにかく遠くに、できるだけ高い所に逃げろという教訓である。この学区では日常からこの言葉の意味を子供たちに理解させ、避難訓練も繰り返してきた。その教えを守っての全員生還である。それでも、学童の中には足の悪い祖母のことが気掛かりで一端自宅に戻った子もいたという。

 それでは、親と子、子と祖父母の間の人間関係の「絆」は避難する上で足かせや支障となったのであろうか。そうではない。「津波てんでんこ」の言葉を守り抜いたということは、そうした肉親との信頼関係に根付いた、ほんとうの「絆」があったからこそだと思う。

 今、我々が向かい合うべきは何なのか。社会の悪なのか、経済の停滞なのか。それとも・・・・・。しかしその前に、飾らない生身の人間に対してこそ、我々が向かうべき相手ではなかろうか。そして真の意味の「絆」とは、人との信頼関係を、そっと懐に入れて大切に育てていくことなのではないのか。


除染


 かねがね、「除染」という言葉にひっかかりを持つ。「除染」とは「汚染物質を除去する」意味であり、福島における「汚染物質」とは「放射性物質が付着した物」を指す。それでは、「除去」とはどういう意味なのか。「除去」とは「取り除くこと」である。つまり。「除染」とは「放射線物質を取り除く」ことに他ならない。

 屋根の放射線物質を高圧ホースで除染するという。高圧ホースで洗い流された放射線物質は家の廻りに落ちる。やがて雨水とともに土中に浸透する。また、放射線量が高い公園の遊具や道路の側溝を洗い流すという。この場合も、放射線物質は周囲の公園の地面に浸透したり、側溝から排水枡に落とされる。

 それでは、学校や民家の汚染された地面を掘り起こし、汚染されていない土と置き換える場合はどうか。掘り起こされた土はどうするのか。一時的に保管され、やがて中間貯蔵地に移動する計画だと言う。

 こうした「除染」行為は、果たして本来の意味の「除染」になるのか。放射線物質の「移動」に過ぎないのではないのか。本来の「除染」とは、放射線物質を分解・中和などによってその場で除去することである。そのような薬剤や手法の研究も進んではいるが、即効性ある現実的な供用には間に合っていない。だからこそ、放射線物質の「移動」をもって「除染」としているのである。

 ましてや、汚染された砕石を生コンクリートや道路の砕石に利用するとはどういうことか。「除染」どころか、汚染物質の底知れぬ「拡散」に他ならない。新築マンションに避難してきた人が高放射線量にさらされるという、とんでもない事態を起こしている。

 この場合、マンションを売った不動産会社も、マンションを建てた建設業者も、コンクリートを提供した業者も、砕石業者も、ある意味、みな被害者である。誰が悪いのか。SPEEDI による正しい情報を公開しなかった国と、その大元の事故を起こした東電に責任があることは言うまでもない。

 私はかねてから、「福島のある地域を封鎖して犠牲にする」という提案してきた。つまり、あえて言うと「死の街提案」である。この提案はあまりに非情であるとの多くの批判も頂戴した。しかし、「除染」という途方もない非現実的な課題を熟慮しての、やむを得ない提案と心している。

 除染という行為が計り知れない位に大変であり、不可能に近いこと。さらに砕石事件のような汚染物質の「拡散」を危惧しての提案である。「放射性物質の拡散」はこれから果てしなく拡大するであろう。今からでも遅くはない。目を醒まして、汚染の現実と向き合い、現実的な対策を講ずるべきである。


とんど



 昨日は1月15日の小正月。近所の公園で「とんど」をやっているので、久しぶりに参加した。西日本では「とんど」と言われているが、関東などでは「どんど」と言い、こちらの方が正式な呼び名である。また、古くは「左義長(さぎちょう)」と言う。毬を打つ長柄(ながえ)の槌である毬杖(ぎっちょう)を三本立てたのが語源らしい。

 今では、長い竹を円錐形状に組み立てて火を焚く、冬の風物詩となっている。正月の門松、松飾、しめ縄、七五三飾り、書初めなどを持ち寄って焼く。子供が小さかった頃、西日本では町内会や子供会の行事として定着しており、あちらこちらの町内で一斉にやっていた。しかし、最近ではあまり見なくなってきた。少子化のせいなのか。それとも、最近ではやれ危ないとか防火安全上とか、何かと小うるさい連中が多いためなのか。いずれにしても、寂しい限りである。

 長い竹の先を割って餅を挟んだものを町内会で用意し、集まった子供たちに配る。子供たちは竹の先っぽを炎に差し出し、餅を焼いて食べるのを楽しみにした。また、アルミにくるんだ薩摩芋を投げ入れて焼き芋にする。正月に何した、どこに行ったとか、雑談の輪が広がり、町内の連帯も深まる。大人はその延長でお酒を飲んだりしたものだ。

 燃えたぎる炎を見ていると、昨年の悪夢をすべて焼いてしまいたい気になる。ともあれ、火で焼いた餅を食べて無病息災を祈った。



とんど

今、東北では



 同業者の大手コンサルタントの技術者とメールでやりとりしていた。要件が済んで一件落着した後、こんなメールが届いた。「これはオフレコですが、私は明日からしばらく東北に出向します。こちらの仕事が少ないものですから。」という内容であった。同じような話をいくつも聞いた。

 私がかかわる業種に限らず、今、日本国内の景気は低迷している。「コンクリートから人へ」による公共事業の急激な減少がその原因である。ことに、建設関連は東北の復興に集中的に予算をつけているため、東北以外はかなり冷え込んでいる。そのため、上記のメールのように、建設関連の人と資材は東北に移動・集中せざるを得ない状況にあるようだ。

 今、東北における復興のための建設投資は半端な額ではない。だったら、日本全国から人と資材を寄せ集めて一気に片付けたらいいと思うが、事はそううまくはいかない。地産地消ではないが、東北の地元業者を優先するからである。東北の業者だけではすぐに仕事は溢れる。その状況によって、次に関東と北海道の業者を対象にするという具合に発注している。だから発注にすごく時間がかかる。したがって復興はどんどん遅れる。

 こんな風だから、東北では機械が足りない、人が足りないと騒いでいて、てんやわんやの状態らしい。しかし、地方では人も機械も余っている。が、手も足も出せない。だから裏の手を使って、仕事を闇から闇にさばくブローカーが出てきている。

 一方、東北では窃盗や略奪が横行しているという。東北に出向する場合の所持品は最小限に、とくに貴重品はできるだけ持たないのが鉄則という。建設機械や資材の管理も大変らしい。世界で評価されている日本人のモラルは、どうやら現場では通用しないらしい。

 こうした無法・手放し状態の復興の原因は、復興のためのガバナンスがないことに他ならない。何せ「復興庁」なるもの自体がないのが問題である。省庁を乗り越えた統一した管理の元に復興を行わなければ、真の復興にはほど遠い。

 今、人と物が東北に集中し、関東までの東日本は災害特需に沸く一方、西日本の景気は底冷えしている。一方で、東北に拠点を置く製造業はその拠点を東北以外に移転する。さらに円高と石油不安から、製造業の海外流出が止まらない。日本の経済構造が大きく変換していることを身をもって感じる今日この頃である。


余生の生き方

 ある年齢以上の知識人に人生観を尋ねると、よく「生かされている」という言葉が出てくる。それを聞くと、少し違和感を覚える。その言葉が受動形であること。そして、だったら「一体、誰に?」と考えてしまうからである。そう考える時点で、私はもう十分に理屈っぽいのだろう。

 この場合の「生かされている」とは、別に誰からでもないのだろう。言葉を発する本人すら、多分、意識していないと思う。あえて誰からかと尋ねられれば、神からだと答えるだろう。すなわち、「生かされている」とは“生きていることに感謝する”または“万物に感謝しながら生きたい”という「生きることへの感謝と願い」の気持ちなのであろう。

 私の場合、30歳のときに大病を煩って生死をさまよった。以来、その後の人生は「おまけの人生」だと自分に言い聞かせた。気負いすぎるとまた大病すると、自分への戒めの気持ちでもあった。が、それに乗じていい気になり過ぎた。そして気づけば、その「おまけの人生」は仮の生前よりも長くなってしまった。

 「生かされている」にしろ「おまけの人生」にしろ、その日その日を有意義に真剣に生きることが大切なのだろう。私の場合、取りあえず、今月末の締め切りに間に合うように報告書を作成しなければならない。毎日、毎日、期限を意識しながら生きていること、これすなわち「生かされている」というなのだろう。改めて、現役で働けることに感謝である。

 「余生をどう生きるか」ということと同時に、「余生をどう終えるか」という命題もある。人によっては、ある日、突然ポックリ死にたいとか、ひっそりと終えたいとか、できるだけ他人に迷惑をかけないで終えたいと言う。しかし、こればっかりは自身の思いのようにはならない。

 しかし、「余生をどう終えるか」という自身の希望に沿って、準備だけはできる。たとえば、「故人の希望により家族だけで密葬しました」なんてのがある。そうするのかどうか、準備は今からでもできる。ちなみに私の場合は、そんなのまっぴら御免であり、飲めや歌えの大盛況にやってくれと、常々、申し伝えてある。そのために、いざという場合の連絡網をエクセルで準備中である。

 それでも「断捨離」ではないが、少しずつ身辺整理も必要だろう。最後は母がしていたように、ダンボールに白装束など旅立ちの準備までするのか。その前に私の場合には、あくまでも筋道を通して語り、謝るべきは謝ろう、すなわち「談謝理」を貫こうと。

 今日で63歳となる、まだ明けきれぬ寝床の中で、つらつらとそんなことを思った。

髭とシェーバー


 成人男子の大多数は、毎朝、日課のように髭を剃る。その作業たるや、女子が考える以上に、結構、面倒臭いものである。というのも、男というのは、ほとんど間違いなく顔の髭には神経質だからだ。

 よく無精髭というが、時と場合によって、男はそれはそれで許容する。しかし、一端、剃るとなると神経質に剃る。他のことにはかなり無頓着な男性も、こと髭剃りになると神経質になる。両手で剃り残しがないかを逐一、確認しながら、丁寧に顔と顎、喉まで余すことなく剃るには、かなりの神経と時間を要する。

 だったらいっそ、髭を伸ばせばいいじゃないかということになる。が、そんな簡単なものではない。第一、髭を伸ばして似合う面(ツラ)というのがある。口髭や顎髭は、おおよそ面長の者でないと似合わない。私のようなどちらかというと丸顔に口髭では、それこそ間抜けたコソ泥となる。それに髭を伸ばした方が、推測であるが、毎日のケアに剃る以上に時間がかかるであろう。

 ムダ毛を残さず綺麗に髭を剃るという作業に、男はそれぞれにいろいろな工夫をする。一番確実な正統派は、毎日、面倒臭くてもシャボン(石鹸)を泡立てて古式カミソリで剃る。シャボンでなくとも今では便利のいいムースがあるにはあるが、それでもシャボンにこだわる輩もいる。ともかくカミソリで丁寧に剃り落とした後の清涼感というものは、男にとっては堪らない至福の瞬間である。

 カミソリで剃るのが面倒な成人男子の一般常識派は、シェーバーという文明の機器を利用する。そのシェーバーというのが、また一筋縄にはいかない厄介者である。ともかくシェーバーでは完璧には剃れない。残尿感ならぬ残髭感がある。シェーバーも2枚刃から3枚刃、最近では3枚刃から4枚刃と進化しているが、それでもカミソリには負ける。

 シェーバーといえばBRAUNと、昔からの人気定番である。そのBRAUNだって年数が経てば外刃や内刃を交換することになる。しかし、いざ交換するとなると、外刃だって5000円以上する。それならいっそ新品を買い換えた方が安いということになる。しかし、シェーバーほど試してみないとわからない商品もない。しかし、誰が使ったかわからない家電売り場のお試しシェーバーを使う気にもなれない。

 かくして男は、シェーバー選びから刃の交換時期、カミソリ剃りとシェーバー剃りの選択など、日々、髭と格闘するのである。

再び、青年に問う



 昨日、「青年の主張」というタイトルでブログを書いた。その直後、街に出たところ、ちょうど成人式を終えた若者の群集に出くわした。広島市内の成人の全員ではないかと思うくらいの数の青年が、次から次に群をなして会場から出てきていた。

 成人式を終えた彼らの服装を見て驚いた。男子はほとんど背広であるが、たまに紋付袴の者もいる。しかし、女子は全員が振袖なのである。それでもと、目を凝らして観察したが、結局、振袖以外の女子は一人もいなかった。

 一生に一度の成人の祝いに、振袖で着飾りたい本人の気持ちはわかる。それ以上に、親として娘に振袖を着せてやりたい、その気持ちはさらにわかる。しかし、各々に家庭の事情もあろうにとか、女子全員がほんとうに本人の希望で着たのだろうかと。そんなことをつらつらと思いながら眺めていると、我が娘のときのことを思い出した。

 私の娘は、大学生時代、訳あって、私が家から出るように命じた。友達の下宿を転々としたことが、後で聞いてわかった。私に隠れて、私の同居人は娘に仕送りを申し出たらしい。が、結局、娘はそれを拒否し、アルバイトをしながら自力で大学を卒業した。その娘の成人式に、せめて振袖をと同居人は娘に申し出た。が、娘はそれも拒否した。娘の成人式の姿を草葉の陰から観察しに行った。娘は自分で作ったというドレスを着て、意気揚々と多くの友と歓談していた。もうあれから17年が経つ。

 そういえば、成人式を迎えた彼らが生まれた20年前といえば、ロック歌手の尾崎豊が死んだ年である。高校を中退し、自由を求めて外に飛び出した彼の反骨精神に、多くの若者が共感し、陶酔した。大人社会への反発、不信、抵抗が入り乱れた感情となって爆発した時代である。

 ところが、最近の若者に尾崎豊をどう思うかと聞いても、「別に!」と、沢尻エリカ風の答えが返ってくるという。今の青年は冷静で謙虚である。格差も貧困も自己責任と受け止める優等生である。20年経てば、これほどまでに価値観が変わってきてしまったのか。

 それでいいのかと、オヤジは危惧する。1000人が1000人振袖を着ている事実をもってしても、それでも君らは個性があるというのか。振袖はよしとしよう。君の考えはほんとうに君の意思なのか。ただただ、周囲を気にして群れているだけではないのか。君は何のために生きているのか。君にとっての国とは何なのか。「若者よ、もっと怒れ」と親父は言いたいのである。これが、ほんとうの意味の老婆心であったらいいのだが。「別に!」と、冷静にひとごとのように収められればいいのだが、それができない自分がここにいる。

群れる鳥



瀬戸内の 筏に群れる 若き鳥
己が羽にて 春に飛びたて



青年の主張


 昔、成人の日といえば「青年の主張」が定番であった。若者が自分の覚悟や決意を熱く宣言する。両親や友との心の絆を切実と語る。中には、自分の悩みや感情の機微などをありのままに触れることもあった。

 成人の日にテレビで紹介されるのは地方予選から勝ち上がった限られた若者であるが、その底辺には数多くの主張する若者がいた。国民の多くが正午過ぎのテレビ番組に見入り、涙したものだ。その「青年の主張」はいつの間にか「青春メッセージ」なるものに変化し、近頃ではほとんど影を潜めている。

 私は、別に「青年の主張」にこだわっているわけではない。名前はどうでもいい。「青春メッセージ」でも何でもいい。形式だってどうでもいいのである。問題は、若者が主張する気運が薄れてきていることを危惧するのである。酒場でも喧々諤々と人生論を語るのは団塊の世代と相場が決まっている。若者はといえば、どうでもいいことを他人に気を使いながら話している。

 自分の考え方を整理すること。その上で、自分の意見を他人に正確に伝えることは、単に個人のポテンシャルを高めるばかりではない。表現力、説得力、コミュニケーション力となって組織や社会の大きな力となる。ひいては、国力と国際力に繋がる。島国で内向的な日本人だからこそ、自己の意見の集積と伝達に意識して努力しなければならない。

 さて話を元に戻すと、いつの日から「青年の主張」が「青春メッセージ」となり、最近では影を潜めてきたのか。その背景には教育制度の問題が歴然としてある。教育勅語の時代から、どこの小学校にもあった二宮尊徳の像が消えていった。教育制度は日教組のゴタゴタの中で操られてきた。その果てには、ゆとり教育である。運動会では一等も二等もなくなり、成績表は抽象化されていった。

 そのような教育制度の中、秀でることが非難され、主張することが非難される風潮を招いている。そして、世の中は、剛から柔へ、柔から極軟へと移行する。ゆるキャラなる感覚で、すべてが友だち感覚、仲良し感覚である。次第に、事なかれ主義の中で物事がはっきりしないまま終結する。互いに自己主張がないままに、相手を理解しないままに事が進められる。平和に穏便に解決したようだが、実は何も解決していないのが今の日本の実情である。

 TPPも消費税も大切であるが、それよりも今しなければならないのは教育改革であると宣言する。人なくしては国は滅びる。「青年の主張」に象徴されるように、若者が自分の考え方をきちんと整理し、他人に自分の意見を正確に伝達できるよう、また人生と真剣勝負で向き合う、そのための教育改革を望むものである。


七草粥


 七草とは・・・・と思い出そうとしても、せいぜいセリとナズナくらいしか思い出せない。そもそも1月7日が七草粥の日だというのも、スーパーの野菜売り場で始めて気づいた。


 少し飲みすぎた胃を休めて、体に良いとされる七草粥でも食べてみようかと、セットを手に取る。その値段298円とは安い。

 でも298円とはどういう数字か。290円でも消費税を入れて304円50銭となり、消費税込みの298円にするには283円80銭になる。そんなケチな考えをめぐらしながら、これでほんとうに七草も入っているのだろうかと、疑心暗鬼に購入を一大決心する。

 毎朝、私は自分用のご飯を炊き自分用の味噌汁を作る。といっても、前日に炊飯器の準備をして味噌汁の段取りをしておくだけだが。七草粥となればその必要もなく楽ができる。ご飯は炊いた残りをできるだけ早めに冷凍しているので、それを使える。それに、これも冷凍庫に仕舞いこんでいる餅を使える。これで冷凍庫も少し整理できる。

 さて、肝心の七草を開いてみるが、どれがどれだかさっぱりわからない。どれも同じ草に見える。疑心暗鬼はますます増幅するが、返品するわけにもいかない。だったらと、大根の葉とほうれん草を細かく刻んで仲間に入れてやることにした。

 おいしく炊けた粥があれば、好きなお新香と昆布をつければ他には要らない。何はともあれ、朝から七草粥を食べて無病息災を願った。ちなみに、私は一人暮らしではありません。いつもヨーグルトとバナナの同居人ですが、今日に限って粥を食べると申すものですから、二人前を作りました。何を隠そう、私は「家政婦のミタ」ならぬ「家政婦のキヨシ」なのです。


私のふる里は・・・(3)


ここ、山口の湯田温泉には数々の老旅館がある。

中でも、この「松田屋」は江戸時代に築庭され、
高杉晋作をはじめとする明治維新の志士たちが集った歴史ある旅籠である。


松田屋


さてそのお値段はというと、聞くのも恐ろしいくらいである。
私なんぞは、料金以前に、門構えから躊躇してしまうほどである。

ということで、「松田屋」さんのはす向かいのホテルに逗留した。

山口市には、中也や山頭火が口にしたであろう地酒も多い。
その地酒を酒屋で角打ちして足湯に浸かるなんぞ、申し分なきしあわせである。


山口地酒


その後、学生時代以来となる雪舟庭園に赴く。

正式には常栄寺雪舟庭園である。
500年前に大内の殿様が別荘として雪舟に作庭を依頼したものと言われている。

雪舟庭


この庭を目前に、座禅して過去の悪事を反省しようとしたが、とても寒くて止めた。

帰り道、学生時代に作詞作曲した曲を口ずさんだ。
題名は『こんな街だよ山口は』

(一)
雪の白さが眩しくて 見上げる亀山 ザビエルの
霧の緑に囲まれて 鐘がなるなる 道場門
こんな街だよ こんな街だよ 山口は

(二)
続く赤松 追いながら はるばる奥山 雪舟の
石の庭にも 思い出が 凍り付いてる 霜のよに
こんな街だよ こんな街だよ 山口は


今回のふる里への帰郷は
いろいろな意味で有意義であった。

山口を代表する歌人といえば、中原中也と種田山頭火、それに金子みすず。
私には中也のような孤高を真似することはできない。さりとて、山頭火のように邪心なき朴訥人にもなれない。さらに、みすずのように瑞々しき心広き人間にもなれない。

結局、私は私なのである。


私のふる里は・・・(2)

山口市は湯の町でもある。
「湯田温泉」と称され、あちらこちらに湯気が立ち込める温泉街である。

開湯は600年前といわれる。白狐が毎夜温泉に浸かっていたところを権現山の麓のお寺のお師匠さんが発見したとされる。田んぼの真ん中から金色のお地蔵さんや、源泉が湧出したことが、「湯田」の名前の由来である。

そんな由来から、温泉街の沸湯箇所にはどこも白狐がいる。

白狐

温泉街にある5箇所の足湯にも白狐がいる。今回は4箇所の足湯をはしごした。

温められた石に身をまかせ立ち込める湯気に、猫もうっとり。微動だにしない。


猫


温泉街の中に中也の句碑がある。

『しののめの よるのうみにて 汽笛鳴る
こころよ起きよ 目を醒ませ 
しののめの よるのうみにて 汽笛鳴る
象の目玉の汽笛鳴る』

そのすぐ隣に、やはり湯田温泉にゆかりがある種田山頭火の次なる句碑が並べられているが、その対照的なアンバランスがおかしいのである。

『ちんぽこも おそそも沸いて あふれる湯』

やはり私はどちらかといえば、中也より山頭火の方がお似合いかも知れない。


私のふる里は・・・・(1)


突然に。中原中也に会いたくて家を出た。
向かうは、私のふる里、山口へ。

中原中也誕生の地に降り立つが、
「中原中也記念館」は正月休みで閉館していた。残念!
ひとしきり、中也の足跡に思いを馳せる。

中原中也



中也、人生最後の4年間に有名な「帰郷」など27編の詩を発表した。しかし、同人たちとは疎遠であった。

これが私のふる里


あるときの日記にはこう書かれていた。「詩人たちに会うことはまっぴらだ。今夜、四季の会に出なかったことだけでも相当な得のやうに思はれる」と。

その結果、彼を馬鹿呼ばわり、駄詩人などとする、辛辣(しんらつ)な詩人評を目にするのである。

その中也が珍しく会合に現われたときのことを、室生犀星は「ピカッと光る何かが部屋に投げ込まれたような気持ちがした」と語ったそうである。

確かに、中也は尋常ではない。異分子であり、異端児である。

なぜ、私はそんな中也が好きなのか。

今の時代、頼るべきものは国家でも社会でもない。個人の知識と経験を礎とした、しっかりとした考え方である。その上での判断と行動であると確信する。

決して群れることがない、徹底した孤高の詩人に、
ある意味、同郷の念とともに、敬意を表するのである。


新年のあいさつ

皆様、
新しい年をそれぞれの思いで迎えられていることでしょう。
今年の正月は「おめでとう」と言う気になれません。
さりとて、
未だ復興も収束もままならない現実を目の当たりにし、
とても「絆」といった綺麗ごとでは済まされないと
思う次第です。
今年1年、皆様にとって、安全と安心と健康の年となるよう祈ります。
今年もよろしく。

山口市湯田温泉
中原中也誕生の地より



プロフィール

geotech

Author:geotech
geotechのブログへようこそ!

団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
blogram投票ボタン
フリーエリア
シニア・ナビ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR