パンダに会いたい

 25日に会社のOB会が、26日にシニアのオフ会がともに東京であるという。「パンダに会いたい」そんな思いで久しぶりに東京遠征を決めた。ちょうどその1週間前に同じ東京で学会の委員会が予定されていた。それをきっぱりさぼってまで、今回の遠征を選択したのはなぜなのか。私は働くことより遊ぶことを優先させる、自己都合を優先させる人間だからである。実は、私はほんとうに怠け者なのです。

 元会社のOB会は11時30分から東京・市ヶ谷である。それに間に合わせるためには、広島駅6時過ぎ発の新幹線に乗らないといけない。その新幹線に乗るためには最寄の駅5時30分発の山陽本線に乗らないといけない。それに乗るためには家を5時15分には出ないといけない。広島駅では待ち時間がなくて朝飯を食べる時間はない。ひょっとしたら弁当を買う時間もないかも知れない。そうなると、3度の食事をきっちりいただく私としては、どうしても家で朝食を食べてから出ないといけない。前の晩に味噌汁の準備だけはしておいたが、それでも4時55分までには食べ終えたい。かくして、4時過ぎ起床の長~い長~い一日の始まりと相なった。

 OB会は会社を退職したOBの集まりである。当然のことながら、白髪や禿頭の年寄りが多い。物故者も年々増える。OB会の冒頭、前日にも会社の幹部であった方が亡くなったという報告があった。そんな中、私より随分後に退職した方の数人がステッキを持って足取りがおぼつかない。各々、事情を聞くと、異口同音に、連日、終電まで働いていたという。脳溢血などで倒れて一命を取りとめたものの、このような体にと。その後、定年退職まで会社にお世話になったというものの、体が元に帰るものでもない。サラリーマン社会の厳しい現実を改めて認識する。少し前に辞めていてよかったと思う。

 OB会は東日本の復興を祈願して午後2時に閉会となった。市ヶ谷駅前の茶店にて名古屋時代の上司や部下としばし懇談する。私にこっぴどく働かせられたという元部下がいたが、都合の悪いことは全く覚えがない。連夜、元上司の家に上がり込んで酒盛りしたことなど、昔話で盛り上がった。その後、午後3時に散会し、私は北海道から来たOB会の友と上野に向かった。そして念願のパンダに再会したのであった。





新パンダ
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会社は誰のものか

 東京電力の株主総会は6時間にも及んだ。入場株主数9,000人は会場に入りきれず、会場の周囲では物々しい警備と脱原発のコール。会場内では野次と怒号が飛び交うなど、波乱と混乱の総会であった。一般株主の多くが会社の経営責任を追求し、脱原発を願った。国民の多くも同じ思いで注視した。

 それでも、取締役員選出案など用意した案件を可決し、脱原発などの訴えは否決され、株主総会は会社規定の道筋に沿って淡々と閉会した。無論、議決数と株主配分の数の力からそうなった訳である。しかし、賛成と反対の正確な数が知らされた訳でもない。議題についてとことん論議された訳でもない。会場内の挙手多数という宣告でもって、次々と可決も否決もされていくのである。

 こうした情景を見るとき、一体、会社というものは誰のものなのか、会社というものの社会的責務はないのか、こういったことを考えさせられるのである。

 会社というのは社員および株主のものであることは言うまでもない。社員および株主のための利潤を追求する組織である。しかし、会社がグローバルな社会の構成要素である以上、少なからず社会的責任があることも当然であろう。まして、公共性に関わる会社というものは、社会に奉仕し、社会に還元することが求められる。電力会社というものは究極の公共事業である。

 そうこう考えていくと、電力会社は普通の会社と同じように単に社員および株主のものという訳にはいくまい。公共たる顧客である国民の要望を十分に考慮しなければなるまい。社会に公開された株主総会でなければなるまい。会社の経営方針は社会の要求に沿ったものでなければなるまい。利益とリスクを国と国民と共有するものでなければならない。もしそれができないのであれば、国営化という選択しかないのではないか。

地下汚染の構造

 ユーチューブで毎日のように登場してお馴染みの京大原子炉実験所の小出裕章さんが16日のテレビ朝日の番組に登場し、以下のように発言し、反響が広がっている。

 「東京電力の発表を見る限り、福島原発の原子炉は、ドロドロに溶けた核燃料が、圧力鍋のような容器の底を破ってコンクリートの土台にめり込み、地下へ沈みつつある。一刻も早く周辺の土中深く壁をめぐらせて地下ダムを築き、放射性物質に汚染された地下水の海洋流出を食い止めねばならない」

 小出さんの発言を待つまでもなく、燃料棒がまったく水に浸かってない丸出しの状態にあることからも、メルトダウンからメルトスルーし、格納容器からも漏れ出ているであろうことは容易に想像できる。第一、地下水から高濃度のストロンチウム90が検出している事実ひとつとってみても、格納容器からの漏出は動かぬ証拠である。

 格納容器から漏出した高熱の放射性物質はやがてコンクリートの土台を壊して下方地盤に浸透していくのは時間の問題である。そこで、小出さんは原発建屋を囲むように地下の岩盤まで地下水を通さない遮水壁で囲む「地下ダム」を建設することを提唱している。

 さて、その「地下ダム」であるが、小出さんは岩盤まで到達した遮水壁構造を建設することを提唱している。しかし、岩盤まで到達した構造であればよいという簡単な話にはならない。原子力の専門家であっても、地盤や地下水のことがわかってらっしゃらないようである。

 水というのは当然、上から下に通りやすいコースを選択して移動する。一般に粘土は水を通し難く、砂は水を通し易いのは常識であるが、問題は岩盤である。岩盤がすべて水を通し難いかというとそういうことにはならない。岩盤の地下水は割れ目を介して繋がっていて、圧力バランスにより水位を保っているのである。

 福島原発の地下の地質構造は、一番上に表層があり、その下に粘土層が分布し、さらにその下に岩盤(砂岩)が分布することが予想されている。表層というのは周辺の丘陵地が侵食され堆積したルーズな土砂であるため、地下水を通しやすい。従って、表層を伝わって容易に海に汚染物質が拡散する。次に、粘土層は均質な海成粘土であれば非常に水を通し難い。

 予想される地質構造が図のa)のようであれば、粘土層に少し根入れした遮水壁構造であればまず大丈夫である。すると、今言われている工事費1000億円などかかるはずもなく、本日の株式総会を意識して隠す必要もないのである。粘土で止めていた方が岩盤まで到達した遮水壁よりもむしろ安全だと考えられる。なぜなら、遮水壁を建設すると、どうしても壁と周囲の地盤の間にわずかな隙間ができる。コンクリート壁と粘土層のわずかな隙間を伝わって岩盤の割れ目に浸透する危険の方が大きいからである。

 仮に図B)のように、粘土層の中に水を通し易い砂層が介在している場合は、遮水壁は砂層からの地下水流出を防ぐために岩盤まで根入れしなくてはならない。その場合の費用は概ね1000億円と考えられる。その時、根入れ部分(遮水壁の先端部分)の岩盤状態が大きな問題となる。仮に図c)のように岩盤が断層など開口性割れ目が密集したゾーンを形成していたら、地下水は割れ目ゾーンに沿って容易に拡散することになる。

 いずれににても、遮水壁による地下ダムを計画するにしても、地下の地質構造と透水性を詳細に把握しなくてはならない。そのデータがない限り、適正な工法も工事費も出てこない。そのための調査は今すぐにでもできることである。対策が後手後手になっているひとつの問題点がここにもある。



  図はoriginalであるから他への引用は禁止する。なお、図中のk=という数字は(×1.0)で地盤の透水係数を示し、単位はcm/sec.である。



原発地下構造

何がほんとに体にいいんだか

 健康食品やサプリメントの宣伝広告は、テレビ、新聞、雑誌で日増しに過熱している。それはないでしょと、最初は誰もが疑惑の念を抱く。しかし、ひょっとしてほんとうに体に良いのではと、ついつい手を出してしまうのも人の常である。こちらには、年々老いによる体の不調の弱みがあるからである。広告主は、こちらのそうした体の弱みに付け込んで攻勢をかける。藁(ワラ)にもすがる思いで、その誘いに乗る者もいる。そうしたイタチゴッコの攻防が日々、展開されている。

 私は、基本的に健康食品やサプリメントを信じないタイプの人間である。ほんとうに体に良い製品は宣伝広告しなくても売れるだろう、ほんとうに体に良いものは自分で探し求めるものだという観点からである。同じ宣伝広告であっても、とくに以下のような「言い草」は要注意と睨んでいる。旨い文句ほど信用ならないのである。

 初回販売に限り・・・・・・
 先着○○さまに限り・・・・・・
 注文○○セットお買い上げの方には特別に・・・・・・
 数に限りがありますので・・・・・・
 定期的にご購入されるお客様には・・・・・・
 ○○分以内にお早めにご注文ください・・・・・・
 効果がない場合は返却・・・・・・
 はじめてのお客様に限って・・・・・・


 タレントを使っての宣伝広告にも疑念が大きい。同じ製品の宣伝をする複数のタレントの共通点とは一体、何だろうかと。例えば、宗教的な団体の支援ではないだろうか。あるいは、彼らタレントはその製品をほんとうに購入して使っているのだろうか。ましてや、その効果について広告以外のインタビューでもちゃんと答えられるのかと。疑念は深まるばかりである。

 それでは、タレントではなくて一般人が出る宣伝だと信用できるのか。一般人と言っているその人はほんとうに一般人なのか。販売会社の社員や関連会社の人ではないのか。本当に一般人であれば、住所と氏名を明らかにしているのか。その人はその住所に実在するのか。報酬を得ているのではないのか。ここでも疑念は深まるばかりである。

 そこで、信用できる情報というのは、例えばシニア・ナビの方など、信頼できるほんとうの一般人からの情報である。私はこういう製品を何年間飲用していてこんな効果があったとか。こんな製品を試してみたが何の効果もなかったとか。そういう信頼できる生の声が聞きたいのである。具体的な生の情報が欲しいのである。できればこのブログにコメントしていただければありがたい。

シニアのチャット

 知らぬ間に、シニア・ナビにチャットルームができていた。物珍しがりやの私である。昨日、早速に入室して試してみた。入室と退出のボタンがなかったり、入力の手間が省ける定例文が少なかったりなど、テスト版なのでまだまだ不備が多い。意見の送信ブースがあるので、追々、これから整備されていくであろう。

 今からもう18年も前になるだろうか、パソコンがDos版からWindowsになった当時、チャットは猛烈に流行っていた。私もよくやったものだ。シニアのチャットはシニアの会員に限った会話だからまだ信用できる。しかし、一般のチャットにはいろいろと問題も多い。トラブルに発展しかねない場合もある。一番の問題は、男女とか立場とか年齢とか偽った「なり済まし」が多いことである。そうすると、ほんとうにバーチャル空間となり、過熱すると追っかけや中傷合戦になりかねない。バーチャル空間のチャットは、それだけに用心がいる。

 ブログの場合は自分で下書きをして読み直し、自分の責任のもとでアップする。公開された記事の内容に責任をもちさえすれば、それで済む。仮に問題があると思えば後で削除すればよい。しかし、チャットの場合はその場その場の雰囲気の会話であるが、普通の会話と違ってほんの少しタイムラグがある。不用意な発言をしても、一定時間は書き込みが残る。入室しないで閲覧だけしている人の目を気にする必要もある。Skypeでも複数の方と会話ができるが、同じ会話であっても文字になるチャットとは違う。それだけチャットの方が誤解を生むことが多いかも知れない。

 チャットにはチャットのマナーというものがある。マナーを守って、閲覧している方もいることを意識した節度ある会話をすれば、それなりに楽しむことができる。それにしても、シニアのチャットとは。いささか似つかわない気もしないでもない。肩が痛いだの、体の調子が悪いだの、病気のことだのと、話の内容が老人クラブ風になりはしないだろうか。おぼつかないキーボード操作ではスピード感もなかろう。ようやく会話をアップしたと思ったら別の話題に移っていたりとか。誰が誰に対する会話かもはっきりしないチンプンカンプンになりはしないのか。先々の成り行きが少し心配である。


 前述、メンバーズチャットの問題点の中の「入室」「退出」のボタンについては、意見を出したところ、本日、改善されていました。事務局の対応に感謝します。

キャンドルナイトの原風景

 昨日22日は二十四節気の夏至であった。1年で最も日が長いこの日、全国どこも気温が上昇して蒸し暑い1日であった。この蒸し暑い日の夜、全国各地でキャンドルナイトが行われた。東京・表参道では手作りのあんどんを手にした子供のパレードが行われたらしい。

 このキャンドルナイトは、もともと北米で脱原発運動の一環として始まり、世界的に広まっていったという。日本では冬至と夏至の夜に、2時間ほど電気を消してろうそくの光で過ごすイベントとなり、2003年頃から全国的に流行してきたようである。

 キャンドルナイトのスローガンは「電気を消してスローな夜を」である。電気を消してロウソクを灯し、ゆったりとした空間の中で時を過ごす。ロウソクやあんどんが彩る幻想的な雰囲気は安らぎを与えてくれる。キャンドルナイトは実際の省エネルギーの効果というよりも、過剰な光をもたらす社会のあり方を考える効果が大きい。

 キャンドルナイトの今年の灯火は、いつもの年に増して切実な輝きを放ったであろう。ろうそくの光は古来、敬虔(けいけん)な心や愛情を表してもきた。幻想的な灯火の中で、環境やエネルギー、戦争などのことについて、人それぞれに心を寄せたであろう。

 考えてみれば、我々は電気を全能者と崇め、その威力にマインドコントロールされてきたようである。そして気が付けば、四六時中電気をつけっぱなしの社会に組み込まれていた。これからは主体的にオンとオフを選択したい。スローな生活を取り戻し、息を抜いた社会にしたい。肩の力を抜いた社会を取り戻さなければならない。今年のキャンドルナイトが、電気のない原風景を思い起こす元年になって欲しいものだ。

もう一度言いたい

 どうしても解せないのだ。いつ辞めるのかと迫る政治家の大義とは、一体、何かということが。内閣不信任決議案が反対多数で否決された事実以上の大義があろうはずがない。それ以外のことは、覚書のことにしろ、議員総会で言ったことにしろ、無に等しい。

 菅直人の心の内を代弁しよう。あなたたちが辞めろと騒げば騒ぐほど、私は辞めません。総理の座にしがみついてとか、延命とか批判していますが、それには及びません。やれるものだったらやって下さいと、今すぐにでも啖呵(たんか)を切りたいのが本音です。でも、今はどうしても辞められないのです。復興の道筋をつけるまでは、どうしても辞められないのです。なぜかって?もうお察しでしょう。騒ぎの裏でエネルギー政策の画策があることを。

 自民党議員を中心に今、急速に地下原子力発電の構想が練られている。原子力行政を継続するのか、一端、中断するのか、撤退するのか、今まさに試金石である。これはこれからの補正予算やエネルギー買取法案などに大きく関連してくる。なぜ菅では駄目というのか。なぜ菅降ろしにあなたがたは執着するのか。日本の原子力行政の岐路にあるからである。

 再度、確認しておく。内閣不信任決議案は反対多数で否決されたのである。これだけが国民の預かり知る事実である。それ以上でもそれ以下でもない。被災者にとっては今のゴタゴタ、どうでもいいことです。一刻も早く国会で審議すべし、通年国会とすべし、法案を通すべし、国会議員としての本来の仕事をすべし。

自己防衛と離散

 家庭や学校を中心として放射能汚染を心配する行動が過熱している。運動場や校舎の放射能測定を学校単位で実行したり、個人でも測定器を購入して測定する家庭がある。こうした行為は自己防衛意識の高まりの表れであり、大変よいことだと思う。福島県内の方にとって、とりわけ幼児や学童をもつ家族にとっては危機感があることは十分に理解できる。

 しかし驚かされるのは、神奈川県、埼玉県、千葉県などの首都圏の家族が遠く沖縄まで避難するケースも増えていることである。夫を残して、妻と子供だけが石垣島に移り住んだり、この際と、夫も含めて家族ごと沖縄に移住するケースなどである。移住の理由は、もちろん子供の健康を案じてのことである。動機を聞くと、安全の基準がはっきりしないからとか、独自に計測したら高い値が出たからとか、安全だという言葉が信じられないとか言う。

 さて、こういう行動をどうみたらよいのか。自分の子を案じるのは、福島も首都圏も、全国どこでも同じである。できることなら、思い切り砂場で遊ばせ、沖縄の澄み渡った青い海と空のもとで健康的に育てたい。その気持ちは誰も同じである。しかし、福島ならまだしもなぜ首都圏の家族が、とも思う。首都圏の家族が遠く沖縄にまで避難する行動の必要条件は妻の過剰な防衛意識であり、十分条件は金銭にゆとりがあることである。

 こうした行動を好ましいとみるか、あまり好ましくないとみるか、評価は二分されよう。好ましいとみる立場では、防衛意識の高さやそこまで子供の将来を思う母親の意識行動を賞賛するであろう。一方、好ましくないという立場では、過剰反応であるとか、金銭的にゆとりがあるからできることであり、やりすぎだと思うかも知れない。さらに、行きたくても行けない福島の方々を置き去りにした自己中心的な行動だと非難するかも知れない。さて、皆さんはどう思われるでしょう。

 いずれにしても、かかる非常事態においては少なからず、こういう行動をとる人が出てくるものである。例え安全だからと彼らに説いても、信じない者や逃げ出す者は必ず出てくる。しかしそれを咎めることは誰もできない。

 問題はそういう行動が過熱することによって、少なからず家族や親戚、コミュニテイ-という形態が離散することである。さらには心までが離散し、すさんだ社会に変貌していくことである。さて、どうしたものか。

水循環と放射能汚染

 大気に拡散した放射能は風によって運ばれ、やがて雨とともに地表に落下する。アスファルトやコンクリート、屋根に落下した雨水は側溝に流れ込む。森や斜面に落下した雨水は地盤に浸み込む。まるで一番ゆっくりの点滴のように、一滴、一滴と時間をかけて浸み込む。

 浸み込んだ雨水は地下水となり、一部は井戸などによって利用される。それ以外の地下水は極めてゆっくりと移動する。その速度はせいぜい1日10cm程度である。例えば、ドイツ・ライン川のワインの醸造地下水は300年前の地下水といわれている。そのようなゆったりとした流れを経て、地下水はやがて母なる海に還り、蒸発散とともに雲となる。

 このように、水は大気と地盤を介して、悠久の時間と空間の中で循環し続けている。放射能の拡散もまたしかりである。大気拡散した放射能は、やがて雨とともに水循環の中に組み込まれる。従って、拡散には国境などの境はない。地球全体のシステムとして循環しているのだ。

 今、フクシマからの放射能の大気拡散が問題となっている。しかし、放射能拡散は今に始まったことではない。1952年以降の核実験を契機に放射能は全世界に拡散し続けているのだ。その例をお見せしよう。下図は水素の放射性同位体であるトリチウム濃度の変化を示す。




放射能拡散



 1952年以降の大気圏での熱核爆発実験によって大量の人工トリチウムが放出されたため、天然の平衡状態は崩れた。その濃度は一時的に急激に高まり、1963~1964年のピーク時には1,000TUを越える値が現れた。その後、大気圏での核実験の停止に伴い濃度は年々減少し、現在ではほぼ天然レベルの2~5TUまで下がっている。この状況をトレーサーとし、地下水の年代推定が行われている。つまり、井戸水のトリチウム濃度を測定することによって、その水が50年前の雨水なのか100年前、200年前の雨水なのか、そのルーツを調べることが可能なのである。

 今、放射能濃度の測定が問題になっている。例えば東京都のモニタリングポストが建物の屋上に1箇所だけしかないことが問題視されている。しかし、これはそもそも世界的な放射能拡散のモニタリングが目的である。生活に影響を与える放射能という視点は全くなかったのである。

 このように、大気と水の地球循環の中に我々は生活空間の身を置いているわけであり、その限りにおいて国境はない。何も原発だけが放射能の拡散しているのではない。繰り返される核実験も原発事故と同程度以上に地球を汚染している。そして、唯一の被爆国である日本も汚染の加害者に加わったのも事実である。こうした国境なき汚染の立場に立った放射能問題の議論が国際レベルで必要である。

較正

 今、放射能測定を個人レベルで実施する気運が高まっている。身の安全は自分で守るという姿勢の表れであり、それはそれで良いことだ。しかし、ちゃんとした測定器を使用して、ちゃんとした測定方法で計測しないと、計測された意味のない数値に一喜一憂する羽目になる。

 測定方法の問題はさておき、まず、測定器そのものがちゃんとしたものなのかが問題である。とくに、個人レベルではネット通販で海外製の安価な簡易測定器を購入する場合が多い。そのような海外製の安価な測定器の場合は、測定器そのものに測定精度の問題があるものが多い。また、ある程度の精度が備わった測定器であっても、信頼できる値が計測できるのか、甚だ疑問である。

 放射能測定器に限らず、そもそも測定器なるものには「較正」という準備作業が必要である。測定器の「較正」というのは、分かり易くいうと、ゼロがゼロを示すように基準値を修正することです。ピアノやギターの調律と一緒のようなものですね。測定器によっても違うが、最低でも1年に1回、精密測定器だと測定毎に実施することが必要となる。放射能測定器だと放射線量が既知の材料の測定を行って、その値になるように修正する。

 話が飛躍するが、「較正」が必要なのは測定機器に限ったことではない。普段の生活においても「較正」が必要である。人間は感情的な動物であるから、考え方や感じ方は感情によって左右されやすい。綺麗なものをきれいだと思ったり、嬉しいことを素直に喜べたり、そんなあたり前の感じ方が感情によって少し狂うこともある。また、感情が高ぶったときに考えたことも、冷静になれば違った考え方ができる場合もある。

 そういう意味で、人間にも「較正」が必要だと思う。睡眠は疲労を癒す行為である他に、ある意味で「較正」の役割もあるのかも知れない。それ以外に、我々はどんな方法で「較正」ができるだろうか。「較正」というのは一種のリセットですね。

 最も手っ取り早いのは、自然に身を置くことだろう。朝焼け、夕焼け、ただの海、雲、山、森林、それらを眺めることだけでも、心がリセットされよう。邪心も何もないゼロの世界にリセットされる。宗教における座禅や祈りも「較正」の行為なのかも知れない。

 そういう自分は果たして「較正」しているのかというと、そうでもない。私の場合は「較正」以前に、会社「更生」にならないようにし、生活態度を「更生」しなければならない。

今、決断と行動を

 イタリア国民の原発に対する「ノー」という選択は、さすがにあの女好きなベルルスコーニ首相をもってしても、「イタリアは原発にさよならを言わなければならない」と言わしめた。

 それにひきかえ、自民党の石原幹事長は「あれだけ大きな事故があったので集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」と言う。その発言内容に愕然とする。そこには原発推進派の魂胆が見え隠れしているからだ。そもそも異国の民意をヒステリー呼ばわりすること自体失礼な話である。脱原発の民意も喉元過ぎれば、という民意に対する冒涜である。

 今、国会のガタガタは脱原発のせめぎ合いであることに注視していただきたい。脱原発の原動力となる自然エネルギー推進の切り札である「全量固定価格買取り制度」(FIT)関連法案が、電力業界に近い議員らの反対が強く、成立のめどが立っていない。

 野田財務大臣が引き換えに自分の首を差し出すとまで言っている「特別公債法案」も、野党議員の反対で成立のめどが立っていない。またエネルギー変換の要となる発送電分離案に対しても、野党議員を中心とした反対にあっていることなどである。今、議員一人ひとりが脱原発と原発推進のどちらの行動をとっているのか、国民はよく注視しておくがいい。

 今日のA新聞・天声人語に、イタリアのレオナルド・ダ・ビンチの手記にある「木は自分の破壊をもって、木を切る伐(き)るものに復讐する」という言葉が紹介されていた。すなわち、木(自然)は自らの破壊でもって木を伐る(自然を侮る)もの(人類)に対して復讐するということになろう。私的な例えでいうと、「檻の中の猛獣は平時は調教師に調教されようとも、時には調教師にも牙をむき、一端、檻が壊れれば檻から脱走して周囲に噛み付くであろう」と。

 全国の原発立地地域において脱原発の気運が盛り上がっている。全国知事会も脱原発に傾いている。弁護士会も訴訟の準備をしている。今、良識あるシニアの手で子孫を守るための脱原発気運を一気に高めなければならない。

人の手に負えぬ物

 137億年前に宇宙は形成され、46億年前にようやく地球が誕生した。それから、あまたの悠久のときを経て、現代人の原型であるホモ・サピエンスが登場した。今からほんの20万年前のことである。地球誕生から現代までの期間のうち、人類がこの地球上に存在するのは実に0.004% に過ぎない。

 地球が誕生して直近のわずか0.004%の期間に、人類は急速に進化し、人類同士の戦を繰り返しながらも地球に繁殖し続け、才能と英知を身につけて豊かな人間社会を形成していった。そして今や、科学という偉大な力により、地球の自然をも牛耳ろうとしていた。

 しかし繰り返すが、我々人類は地球が誕生してわずか0.004%の期間しか生存していないのである。残りの99.996%の期間、地球は営々として大気、海洋、地殻の大規模な変動を繰り返したきたのである。そして、そのことを人類が知る由もない。

 原子力発電もまた、画期的なエネルギーが欲しいという人類の我侭な願望により作られてきた。そして幾度の失敗を経験しながらも、エネルギーをもほぼ人類の手中に収めたかのように思えた。しかしその夢は自然の前に脆くも崩れた。否、自然に負けたというよりも、英知を過信した結果といえる。自然への軽視、科学の過信、人間の驕(おご)りが偉大な自然の前に屈したのである。

 原発はもう人の手に負えない物である。それはもう、科学的にとか論理的にというレベルを超えてしまっている。むしろ、哲学的にといった方がよいかも知れない。理屈など関係なく、人類が手を染めてはならないのだ。そう私は思う。この震災が地球上の人類を救う大きな転機になることを祈る。

3.11に海底で何が起きたのか

 3.11に一体、海底で何が起きたのか。このことに関して、科学的に正しい見解がどれだけ伝えられているのか。震災からもう3ケ月も経過するのに、気象庁をはじめとして、あらゆる機関とも公式にその見解を発表していない。

 地震発生前、政府の地震調査研究推進本部は今後10年以内に宮城県沖でマグニチュード7.5~8.0の地震が起きる確率は70%、30年以内では90%と予測していた(平成22年1月1日現在)。それから1年と2ケ月余り、確かに予想通りに地震は起きた。しかし、問題は規模である。全く桁外れの地震が起きた。

 東北地方の太平洋沖には北から、三陸沖、宮城県沖、福島県沖、茨城県沖の4つ程度の震源域に分けられ、それぞれが個別に活動して震度7から8の地震が発生すると予想されていた、中でも活動間隔が40年前後と短い宮城県沖が最も注目されていた。そこまでは良い。

 しかし、これら4つの震源域において同時にマグニチュード7.5~8.0の地震が起きたとしても今回のマグニチュード9.0には至らない。というのは、地震のエネルギーを示すマグニチュードは1大きくなると地震エネルギーは約32倍になるからである。マグニチュード8.0が同時に4箇所で起きてもマグニチュードは8.1程度である。今回のマグニチュード9.0を説明するためには、三陸沖から茨城県沖まで500Km×200Kmの断層面が一気に動いたとしか考えようがないのである。

 阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震と比較してみよう。今回の東北地方太平洋沖地震と同じ求め方でエネルギーを求めると、兵庫県南部地震のマグニチュードは6.9となる。つまり、今回の地震はマグニチュードで2.1大きい。すなわち、地震エネルギーにすると32倍×32倍、実に約1000倍となるのだ。ちなみに、兵庫県南部地震の断層面は40Km×20Kmであった。今回の断層面の大きさ500Km×200Kmはその125倍に相当する(下図参照)。

 今回の地震は阪神・淡路大震災と比べて、断層面の大きさで125倍、エネルギーの大きさで約1000倍の地震であったことになる。これはどういうことを意味するのか。これまでの地震予測、津波予測、耐震設計など地震に関するすべての研究・基準を根本的に見直さなければならないことに他ならない。こうして考えると、とてもじゃないけど原発を継続するという考え方は成り立たない。



断層面の比較

神のいない宗教

 私はもともと無宗教人である。神や仏を信じないばかりか、ときには人をも信じない人間である。そんな無宗教人の私にとって、近年のさまざまな不条理はさらに私を無信仰とさせていった。

 どうして社会はこのような不条理な事態を招くのか、なぜ社会はこういう事態を食いとどめることができないのか。そのように社会への不満を募らせる。しかしその一方で、自分では社会の一員としてそのことに何も解決の努力もしていないことに気付く。そうしたもどかしさから、ある種の無気力感と喪失感を味わっていた。

 そんなときの震災と原発の事故であった。まさに神などどこにもいない無慈悲な光景が何度も何度も繰り返された。流された家屋、失った家族、跡形もない故郷。しかし、それらを目の前にしてうちひしがれても、それでも気丈に振る舞い、互いに慰めあい、手を差し出し、互いに元気づけようとしている。そんな被災者の姿がテレビで映し出された。

 私が同じ立場であったら、同じように耐えられるであろうか。同じように振舞えるであろうか。とても自信がない。それではなぜ彼らはそのように振舞えるのだろうか。極限の不条理を眼前にしながらもである。まるで信仰のように何かを信じる姿がそこにあった。神のいない宗教がそこにあると感じた。

 被災者はときに諦めた表情をし、ときに覚悟した表情をみせる。ほんの片時ではあるが微笑むことすらある。この方々はすでに相手を許しているのかも知れぬ。許しているばかりか、恨むべき海に感謝し、また海に帰ろうとまでしている。なんということだ。「許す」というきもち、「信じる」という気持ち、そのことが彼らの清々とした表情や行動になっているのではないのか。信仰とはそういうものなのかも知れない。

恩讐の彼方

 またまた、辟易している政治的な話で申し訳ない。政治的な話とあえていったのは、実際には難しい政治の話ではなく、いとも簡単な人としての話であるからだ。私はこれまでもブログで紹介したように、菅さんが辞任する必要はないと考える者のひとりである。誰が首相にふさわしいと思うかという最近の世論調査においても、菅さんがトップである。しかし、ここではあえて菅さん肯定論を封印する。

 その上で再度、疑問を投げる。菅さんひとりがなぜ悪いのか、菅さんのどこが駄目なのかと。さらに、菅さん以外だったら良いのか、それでは一体、誰だったら良いというのかと。このことに対して私は、政治家をはじめとして誰一人、明確な回答を聞いたことがない。

 だとすれば、個人的な怨念を含めた根深い理由が想像できる。与党内の菅降ろしの行動は、間違いなく小沢さんの処遇に対する小沢派の反乱である。しかし、自民による個人攻撃が腑に落ちない。菅さんの首が変われば協力するとまで言ったこともある。菅さんだけを目の敵とする真意とは、一体、何なのか。菅さんにリーダーとしての資質がないという者もいるが、そのようなレベルの話ではどうもなさそうだ。

 自民が明確に菅降ろしを展開したのは、浜岡停止を明言してからである。この明言は学者や専門家から勇気ある決断として称賛されたが、政治家、とくに自民の議員は驚嘆するとともに一様に口を閉ざした。そして始まった菅おろし。これは何を示唆するのか。菅さんがどのような理解度で浜岡停止を明言したのかはわからない。しかし停止を明言したこと自体が重要であり、今後の原子力政策に大きな影響力があるのは必至である。そして原発行政を継続したい自民にとっては、今後、その他の原発も停止しかけない恐怖を与えるのに十分であったと想像するのは容易である。

 私の想像が間違いであれば、それはそれで良い。であれば、菅さんでは困る理由を明確に国会で展開すればよい。復旧・復興に対して、いてもたってもおれないというのであれば、超党派でも何でもそれなりの行動をとればよい。そのような行動のないままに、ただただ相手を愚弄している。菅さんは仮にも国民が選んだ一国の首相である。その首相を国会で馬鹿者呼ばわりする。こんな国が世界のどこにあるというのか。首相のリーダーとしての資質を問題にする前に、日本の政治家の人間としての品位を問いたい。

AKB48旋風

 ラジオを流していると、盛んに「総選挙」という言葉が繰り返される。そうか、とうとう政局も解散総選挙に至ったのかと思いきや、そうではない。何でもAKB48の次の新曲を歌う21人を、ファン投票の総選挙で選抜するらしい。それも伝統ある日本武道館を使用しての大イベントである。武道館は8500人のファンで埋まったという。街中に行くと、映画館の前も黒山の人だかりであった。聞くと、映画館でも生中継されているとか。日本に限らず香港などアジアにも生中継されているという。ふ~む、これは一体、どういう現象なのか。

 投票に必要なシリアルナンバー付きシングル「Everyday,カチューシャ」は発売初週の売り上げ133万枚の最高記録を更新したという。CD購買を総選挙というイベントのパスポートにするというのは、シングルが売れない音楽配信不況下において画期的な営業術である。しかし過熱する一方、投票権付きCDの購買をあおる醜い販売手法には批判的な声も多い。

 ところが不思議なことなのは、AKB48のメンバーを見ると、これといって抜きん出た子がいないことである。「あっちゃん」こと前田敦子や大島優子をはじめ、どの子も特別にかわいいとか美人とかではなく、普通の女の子である。かってのスターではないのだ。その普通の女の子に少年らが殺到する。なぜだろう。

 かってのスターというのは、踊りや声楽など幼いころから訓練され、その中からひとつぶの宝石として発掘されていったものである。それだけに輝きがひとしおであり、民衆には近寄り難いものであった。ところがAKB48は普通の女の子の無数から選抜された多数である。熱烈なファンはグループの生の顔を直接見ることもできるし、握手もできる。

 時代の変遷といえばそれまでである。そこには秋元さんらのシカケがあるといえば、それまでである。しかし何かが変化している。この変化は何を意味しているだろうか。かってのスターが育ち難い、スターだけでは売れない、スターを民衆が育てる時代になっている。リーダーが育ち難い、リーダー一人いてもどうにもならない、リーダーを国民が育てる時代になっているのではないのか。音楽界も政界も、踊る側と見る側の一体感、それを望んでいるのではないのか。

震災離婚

 あれほどの非日常を経験すれば、人間の価値観や人生観も変わろうというものだ。ましてや、最も身近な人間関係においてもである。震災により改めて一人身の孤独感を味わい、誰かにすがって生きていきたいと思う気持ちは自然である。その結果、「震災結婚」が増えたという。「絹の靴下」でお馴染み、我らと同世代の熟女・夏木マリが震災を契機に結婚したのは象徴的である。

 その一方で今、「震災離婚」なるものも増加しているという。震災によって改めて夫婦の価値観や人生観を確認することになり、その違いを思い知らされることになる。かかる緊急事態になると、男性と女性で考え方の本質的な違いが明確になる。概して女性は利己的であり、家族の健康や環境を第一義的に死守する。一方、男性はどちらかというと社会的な立場や仕事を重要視する。

 例えば、女性は放射能汚染や地下水汚染から我が子を守ろうと疎開を希望する。片や男性は、それでは俺の仕事はどうなるのかと猛反発する。東北の両親を迎え入れようと女性が提案する。男性にしてみれば、自分の両親も迎え入れてないのに、そこまでするのはと反対する。節電や節約が求められているので、男性はせっせとそれに励む。しかし女性は、そこまでしなくても、我が家だけそうしてもと嫌がる。あげればきりがない。

 そういう男女の考えかたの違いと同時に、緊急時に相手の本性が見え、それが破綻の原因になる場合もある。広島では珍しい震度4の揺れがあった芸予地震のとき、私は一目散にひとりでトイレに逃げ込んだ。揺れが収まったとき、自分の部屋にいた同居人から、あなたの本性がみえたと罵倒された。自分の身は自分で守らなきゃ~と、ごまかし笑顔で防災の基本理念を唱えた。

 「震災離婚」に限らず離婚にはエネルギーがいるものであり、この年になると面倒だし負担である。それを避けるためには、まず「謝る」(自分が悪いと思ってなくても、とりあえず頭を下げれば済むことである)。次に、「耳を傾ける」(間違っても自分の意見を言わない)。そして、「いたわる」(その気持ちがなくてもここは我慢して)である。

ドイツと日本

 ドイツは2022年までに原発を全廃することを決めた。主要国初の「脱原発」である。もともと環境志向の強い国である。もう20年も前になるだろうか、ドイツを旅して環境志向の高さに驚いた。日本ではまだゴミ分別が始まった頃である。その頃、ドイツでは既に、生ゴミ、プラスチック、ビン缶など多数に分別することが日常化していた。高速道路はどこも木材の防音壁が施工されていた。どの公園にもわざわざ自然の緑を取り入れていた。

 ドイツは異国の失敗を契機に、今回、思い切って国策を転じたのである。その踏ん切りとスピード感には敬服する。片や、浜岡を止めただけで一向に原発行政の先行きが見えない日本。同じく敗戦の闇から勤勉と技術力で這い上がってきた日本とドイツである。その違いはどこにあるのだろうか。

 もともとドイツは中道左派政権が脱原発を掲げていた。昨年秋、中道保守のメルケル政権は原発の運転期間の延長をいったん決めたが、今回の決定で元の路線に戻した形となった。ドイツと日本で政治の環境や事情が大きく異なるとはいえ、なぜこうも違うのであろうか。

 原発が国策だという理由だけで、政界も学界も国民までもが思考停止してきた日本。片や、社会全体で環境をテーマに熟議を重ねてきたドイツ。環境に対する国民意識の違いが大きかろう。まず日本は原発の安全神話をかなぐり捨てて、原発依存の呪縛を断ち切ることから始めないといけない。

 それと、日本の政界および社会が男社会であることも大きい。メルケル首相の決断力は女性ならではの所がある。政治家の数を少なくして女性の首相を輩出するくらいに、日本の政界再編が必要であろう。男は意外と決断力がない。勇気もなく、保守的なのである。ここは有能な女性の力を借りたいものである。火事場の女性力に期待したい。そのための社会作りは急を要す。

やはり、何かがおかしい

 人それぞれに主義主張があって良い。国民一人ひとり、政治への思いもまちまちであって当然である。政治家や政党、政策の好き嫌いがあってしかるべきである。だから、そのことをここで議論するつもりはない。しかしはっきりしていること、そして決して忘れてならないのは、ただひとつ。この国は国民が選んだ国会議員による議会制民主主義の国家であるということである。

 野党側から提出された内閣不信任決議案は反対多数で否決された。これこそが、否、これだけが、直近における議会制民主主義による決定事項である。退陣について口約束したとかどうだとかは、国民にとって預かり知らぬことである。だとすれば、現内閣は信任されたということである。そのことだけは間違いない。

 にもかかわらずである。いつ退陣するのかと迫るのは、一体どういうことか。一定のメドがついたらと言う総理に、今月一杯で辞任しろとかどうとか言うのは、おこがましいを通り越し、議会制民主主義を冒とくした行為である。

 そこに大連合の話である。第一、何のための大連合なのか。復旧・復興に限定した大連合だというのであれば、それもおかしい。スピード感をもって復旧・復興に関わる法案を立法化するのが目的であれば、別に大連合する必要性はどこにもない。菅内閣のもとに、野党がそのことに限定して全面的に協力さえすれば済むことである。菅だから協力しないと言う。ではなぜ菅だと協力できないのか。他の者とどう違うのか。

 第一、政策のすり合わせもなく大連合を結ぶこと自体がナンセンスである。民主党がバラバラなら、自民だって今でこそ野党だから目立たないが実態はバラバラである。大連合するなら政界再編が先だろう。いずれにしても、内閣不信任決議案が反対多数で否決された以降の動きは全く国民不在である。

 あまり語られていないことだが、自民党議員を中心に今、急速に地下原子力発電の構想が練られている。原子力行政を継続するのか、一端、中断するのか、撤退するのか、今まさに試金石である。これはこれからの補正予算にも大きく関係してくる。なぜ菅では駄目なのか、原子力行政の岐路にその答えがあると思われてならない。

 再度、繰り返す。内閣不信任決議案は反対多数で否決されたのである。これだけが国民の預かり知る事実である。

 私は元来、子供嫌いである。とくに、小さい子が小うるさくはしゃぎ廻るのには閉口する。はしゃぎ廻る子供よりも、それに注意しない親が許せないと思うタイプである。家族写真ならいざ知らず、子供だけの写真を年賀状にして送ってくるのには嫌気がさす。子供の写真を自慢げに見せるタイプの男性は大嫌いである。その場では、かわいいねと社交辞令しかない。さらにこの年になると、孫の写真を携帯の待ち受けにして見せびらかす輩がいる。そんな男性とはあまり付き合いたくない。女性は別である。

 そんな私であるから、仮に孫ができてもニコリともしないと、周囲は誰しも思っている。その私にも昨年、初の孫娘が誕生した。生まれたての赤子はどの子も顔つきがそう変わるものでもない。しかし母親である娘は、産婦人科で一緒に寝かされた赤ちゃんの中で群を抜いて一番の美人だったと、のたまう。「バカ、それが親バカの始まりなのだ」と娘を嗜めた。

 その孫は娘の過保護により、人見知りがひどい。母親以外の誰にも抱かれようとしない。父親に抱かれても泣くので、周囲から父親が疑われる始末である。それでも写真館に行くと、撮影の瞬間だけニコッと作り笑いをする。「日頃は無愛想なのに外面だけいいんだから。爺にそっくり」と、今度はこちらにお鉢が廻ってくる。

 娘夫婦と孫は1ケ月毎に我が家にお泊まりにくる。だから1ケ月毎の成長が手に取るようにわかる。9ケ月を過ぎた頃から次第に人見知りは少なくなり、表情を顔に出すようになる。好き嫌いがはっきりしてくる。私の同居人には抱っこされないが、私を見ると抱いてくれとせがむようになる。私の方が女性の扱いは上である。無理強いをしない、ときどき無視する、対等の個として扱う、そういう経験が功を奏す。

 1歳と超すとヨチヨチと歩くようになる。次第にいろいろな表情が出てくる。自我も出てくる。言葉にならない声を発する。「葉っぱ」は「っっぱ!」、「熊のプーさん」は「ぷっっ!」と、言葉の語尾を全身で吹き出す。

 先々月のお泊りくらいから、朝起きて最初に会うと一目散に飛んできてハグするようになった。こうなるとかわいいものである。自然に顔が緩む。最近のお泊りでは、帰り際に私に抱かれて離れるのを嫌がる。娘が「じゃ、お爺ちゃんとバイバイね」と言って両手を差し出して受けようとする。すると、孫はその手を強烈に振り払う。そして、別れるのは嫌だと大泣きする。ここまでくればもう駄目だ。私も、いつの間にかもう一人前の爺バカの仲間入りをしていた。

政治家は襟を正せ!

 政治家は私利私欲や私情で言動してはならないのは当然である。民主主義の立法府のもとに、国民の利益のために仕事をすることを委嘱されているのである。国民には目に見えるものがすべてである。そして民主国家の最高議決機関は国会である。

 その国会で内閣不信任案が上程され、大差で否決された。このことは、とりもなおさず現内閣を支持することが決定されたことに他ならない。言ったとか言わないとか、ウソだとかウソでないとか、そんなはずじゃなかったとか、それでもなお菅を降ろせとか、ジクジクしている。男の腐ったような言動、いい加減にしろ!これでは国会軽視、民主主義の放棄である。

 覚悟と信念なくして政治家は勤まらない。覚悟と信念がない政治屋は即刻、辞職しろと言いたい。白票を投じたこと、青票を投じたこと、そして国会の議決、その結果がすべてである。

 私事で恐縮である。前にいた会社のとき、私は内ポケットにいつも辞表を入れていた。転勤の内示は受けるか辞職するかいずれかの選択しかないと、部下にいつも言い聞かせてきたからである。そしてついに自身の転勤の内示があったとき、間髪いれずに辞表を提出した。本社に呼ばれて慰留された。転勤の話はなかったことでもよいとまで言われた。それでも固辞した。部下との約束が守れないからである。

 男にも政治家にも、覚悟と信念が一番ではなかろうか。

火事場の人間性

 人は土壇場におかれると、心底の人間性が出るものである。最後まで意志を貫いて白票を投じた松木謙公議員と横粂勝仁議員は、ある意味、立派ともいえる。首相不信任を唱え続け、保身に走らず最後までその考えを押し通したのであるから。無論、事の善悪は別としてである。とくに、松木氏は最後まで師匠・小沢一郎を慕って、師の考えを貫き通した。彼の風貌からも、どこか筋を通そうとする男気が感じられる。

 それに引き換え、慕われたる師匠・小沢一郎はどうだろうか。あれだけ直前まで同士を招いて賛成票を投じるように説得したあげく、議会の直前になってそれを覆す。そして、最後の言葉「好きに投票して」はないでしょ。あげくの果て、自身は投票を棄権して雲隠れとは。あの黄門様に「男らしくない」とまで言わしめた。姑息で卑劣な策略師に他ならない。

 情けないのは、師匠・小沢一郎の口車に乗って副大臣まで辞任した方、直前まで同志として小沢一郎に笑顔で迎えられたにもかかわらず棄権した14名である。彼らには自身の考えはなく、ただただ保身を案じて小沢に擦り寄ったに過ぎない。

 さらに滑稽なのは、大人になりきれない宇宙人である。もうとっくに議員を辞めてしかるべき人間が最後の最後まではしゃり出て、賛成、反対と日替わりの変更を繰り返し、最後には約束しただしないだのと子供めいたことを言う。そしてあげくの果てが「ウソをついてはいけません」と。これまで数々のウソをついたあなたに言われたくはない。

 火事場の人間性は、持って生まれた気性がそのまま自然に出るものである。しかし火事場の行動の根底には、その人の考え方のありようが関係している。考え方の一貫性、論理性、信条などである。善悪は別として、私ならこう考えるといった確たる信念なくして、確たる行動もとれまい。

迷走する日本

 被災者の誰もが異口同音に言う。「こんな時に何やってるんだ!」と。そういう怒りと悲痛の声を全く無視した暴挙である。挙国一致という美辞はどこ吹く風。たどり着いた先は、良識のかけらもない醜い政争であった。大所高所からの賢い政治を望むのは、所詮、無理だったようである。国民が政治に不信任を突きつけた瞬間である。

 今日の朝日新聞・社説のタイトルは「無責任にもほどがある」であった。まさにその表現が的を得ている。「急流でも馬を乗り換えよ」と言うのであれば、乗り換える馬と進む行き先を示さなければ無責任である。

 国際社会の目も厳しい。日本国民は一流だけど日本の政治は三流以下だと評す。三流以下の政治は常識ある国民によって、今まで何とか支えられてきたとも。

 いずれにしても、すでに賽は投げられた。可決されても否決されても、日本の政治が迷走し、混迷することに変わりはない。今このとき、どの政治家がどのような発言をしているのか、どのような行動をしているのか、国民はしかと目に焼き付けて欲しい。そして、来るべきときに常識ある一票を投じて欲しい。ただ、今は切にそれを願うばかりである。

もう、うんざり

 政治の話は辞めにしたつもりだったが、最後に、「もう、うんざり」と言って終えよう。このところの菅降ろしや内閣不信任案提出に関してである。野党や与党の一部議員、さらには報道まで巻き込んだこの騒動を、国民はどう捕らえているのか。国民の声も千差万別であるが、共通しているのは冷ややかであることだ。

 菅さんは宇部高の2年先輩であるが、そのことを差し引いても、私は彼のことを有能だと思っているわけではない。大震災後の対応にも決して満足しているわけでもない。しかしそれでも、なぜ今、この国難に菅さんを変えなければいけないのか、甚だ疑問に思う。そこまでのという、国民に説得できる退陣必要理由を明確に述べていただきたい。次に、それじゃ誰だったら適任なのかを明確にしていただきたい。退陣を迫るからには、この人だったらと代役を立てるのが筋というものである。

 西岡参院議長が菅首相の即時辞任要求をした。そもそも三権の長である参院議長がこういう行動をすること自体が憲法違反ともいえる。西岡氏は震災直後に内閣が災害臨時立法の提案をしないなど、震災対応が後手後手になっていると訴える。そう思えば、超党派でも何でも議員立法化すればすむことである。20ミリシーベルト問題だって何だって、許せないと思えば超党派で立法化すれば済む。それが国会である。

 小沢さんと鳩山さんがゴソゴソと首相退陣を企てている。今更ながらであるが、一体、この人達に現政権を批判する権利があるのかと問いたい。お二人の過去の行動は別として、少なくとも国民の大多数は彼らを支持していない。それより、あなたたちは自民党打倒を目指した現政権の方とも仲間ではなかったのか。総裁選で菅直人を選択したのではなかったのか。

 どう考えても政治家たちの頭がおかしい。保身ばかりが目につく。批判することばかりを繰り返す。政治家は国会で立法するのが仕事である。まず、その本来の仕事をしていただきたい。改革や改変を求めるのであれば、ゴソゴソと企てるのではなく、党や会派を離脱する覚悟で、正々堂々と自ら名乗り出たらどうか。

 政治家も国民もいつから批判モンスター化していったのか。批判することが当たり前のように日常化している。どうして建設的な意見が出ないのか。国家や政府が国民に何をしてくれるのかではなく、国民一人ひとりが国に何ができるのかを考えるときである。誰が一番悪いのかを究極的に問い詰めて考えていくと、あんな体たらくな政治家であっても、それよりも国民が悪いと言わざるを得ない。
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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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