自粛と希望

 魔の震災から20日が経過しても、誰もの脳裏にあの震撼が焼き付く。それどころか、魔のストーリーはホラー映画を見続けているように今も続いている。しかし、人間には恐怖と緊張に耐えられる限度というものがあり、そろそろボデイーブローのようにきいて、体に変調をきたす頃である。

 最近、私の廻りや知り合いに体の変調を訴える人が多い。女性が多い。ストレスとか行事とかが重なったことが直接的な原因と思われるが、体の変調の底辺には間違いなく震災後遺症が根付いているようだ。その証拠に、魔の事件以降、眠りが浅いという人や夜中にうなされるという人が多い。

 かかる事態であるから、自粛は仕方ないことである。節電やプロ野球の開幕を遅らすなどの処置は当然のことである。しかし、だからといって予定していた結婚式を中止するわけにはいかない。私も先日、結婚式に出席したが、披露宴の席で震災を口にする人などいない。その時ばかりはお祝いムード一色である。もうすぐ始まる入学式をなくすわけにもいくまい。出産祝いの家庭もあるだろうし、いろいろなお祝いもあるだろう。

 魔の震災が起きても日本各地で生活の営みが継続している。否、継続しなければいくまい。だとすれば、どこかの区切りで平常を取り戻すことも必要だろう。無論、節度ある言動は必要であるが。節度あるイベントが活気を取り戻し、節度ある笑いが希望をもたらす。国民全員が意気消沈していても始まらない。そろそろ、どこかで気持ちの区切りをつけなければなるまい。
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男にとっての仕事と覚悟

 私は仕事柄、非常に危険な現場に行くことが多い。地震、豪雨、台風などの災害直後の現場とか、絶壁に近い斜面の防災調査などである。

 今までも何度か、命からがらの現場を経験してきた。石川県白山では雪山山中で遭難しかけたこともある。伊豆半島沖地震の直後の現場では、2次災害で命を落とすところであった。今思えば、身の毛がよだつ恐怖である。

 私は頑強な体力を持ち合わせているわけではない。非常に華奢で、今では柔な老体である。レスキューとか特別の訓練を受けているわけではない。それどころか、私はどちらかと言えばいくじなしで、恐れで、おまけに高所恐怖症なのである。

 そんないくじなしの私がなぜそのような危険な現場に赴くのか。それはそのような仕事を天職とする仕事人としてのプライドかも知れない。仕事以外の話であれば、例えお金をいただいても間違いなく拒否する。今でこそ現場の安全が第一だと声高らかに言うが、災害現場においては安全もへったくれもない。その任にある者が、危険だろうが何だろうが、行かなければ前に進まないのだ。

 先週、東北・松島の被災地の幹線道路確保するための点検調査の依頼があった。すぐに出発して3月までに終わらすという工程のものであった。無論、仕事とは関係なくボランテイアとしてでも行きたかった。しかし、今かかえている仕事を投げ出してはお客さんに迷惑がかかる。それに、今は家に病人をかかえている。散々、悩んだあげく、仕方なく今回は断った。今でも手助けできなかったことを悔やんで、罪悪感から精神的に尾を引いている。

 今、福島原発における作業員の身の安全が問題になっている。誰しも安全な状態で作業してもらって、無事に事故回復してもらいたいと願うばかりである。しかし、そうはいかない場合がある。いざとなれば、誰かが身の危険も覚悟の上でやなねばならぬこともある。それは危険な仕事を取り扱う仕事人としての覚悟でもある。そしてその覚悟は、下請けに託すというのではなく、事業主体の責任者自らが範を示すべきである。職種によっても立場によってもさまざまであるが、男にとっての仕事と覚悟というものはそういうものだ。

情報の多寡と社会不安

 連日の放射能に関する報道に関して、ある人は情報が細か過ぎて多すぎると言い、ある人は情報はもっと詳細にできるだけ多く欲しいと言う。

 放射能に関する情報はかなり専門的なので、一般市民には理解が難しく、そのため数値だけが一人歩きして誤解したり、返って不安を煽ることにもなりかねない。しかし、ある程度の知識人にとってはさらに詳細なデータが欲しいと思うかも知れない。

 一方、情報が少ないと、正確な情報を隠蔽しているのではないかと疑う。その逆に、情報が多すぎても、過度な情報開示は最悪局面を迎えた場合の保身のためだと懐疑的になる。情報の多寡はこうした疑心暗鬼にも発展する。

 ここで基本的なことを確認しておきたい。この情報化社会においては情報公開は原則であること。公開する情報量は少な過ぎることがあってはいけないこと。逆に、情報が多すぎるということは決してないということ。上述した情報の多寡に伴い社会不安や疑心暗鬼をもたらしているとすれば、それは情報の発信と受信の方法に問題があるからであろう。

 正確な情報をできるだけ多く、できるだけ迅速に伝達することを基本とする。そのことを前提として、発信する側の問題を考えてみる。放射能測定結果などの刻一の詳細なデータは、例えばNHK教育とか専門チャンネルで四六時中流せばよい。つまり、事実としての詳細なデータは見たい人が見れる選択肢を設けておけばよい。

 何も誰もが見るNHK総合で細かなデータを示す必要はない。細かなデータの数値だけを示すから不安を煽る。一般報道では、計測結果から判断される評価だけをわかりやすく概括的に示せばよい。数々の専門家の勝手な論評はできるだけ避けて欲しい。集約した国としての見解を示せばよい。

 受信する側にも問題がある。情報は正確でなければならないことは当然であるが、情報化社会においては情報の見極めや分析能力が受信側に求められる。数ある情報チャンネルの中から、自分に合った情報を入手することが求められる。人によっては情報を聞くだけで不安に思う方もいるかも知れない。情報を受け入れないという勇気ある選択肢もある。信頼できる身近な人からわかりやすい説明を情報として受けるのも効果的である。

 いずれにしてもこの情報化社会においては、情報のあり方(目的)、情報の管理、情報の伝達方法、情報の迅速性などが国民の財産と生命に大きく関わることは間違いない。

地震学者は要らない

 仕事柄、地震を含む地球科学を取り扱う者のひとりとして、今回の震災に関わる地球科学研究のあり方について警鐘する。

 そもそも地球科学とは、地形地質、地震、大気、自然災害、火山、宇宙、環境など地球に関する科学である。その基礎は地球の生い立ちにある。それゆえに、目に見えないものを取り扱い、予測が困難な分野である。このことは、他の科学と大きく異なる点である。

 近年、地震学者はプレート理論でもって地震のメカニズムを説明し、来るべき大地震について予測まがいの仮説を提議している。しかし仮説の基礎となるプレート理論そのものは、1970年頃に発表されて未だ40年しか経過していない。それまでは大陸移動説が主流であった。世界的に見てもまだ半世紀に満たない理論を基礎として、地震予知の研究が始まったというのが実情である。

 地震学者が地震予知の基礎とするのは、有史以来のほんの1000年足らずの地震データである。地球誕生から46億年という長い歳月に比べて、ほんの0.00002%に過ぎない期間のデータを基に憶測しているに過ぎないのである。なおかつ、その手法なるものは地震の発生間隔に頼った非科学的手法である。だから、地震学者のことを、私は「予想屋」と称するのである。競馬の予想屋は当たらなかったら謝るが、地震学者は謝ろうともしないタチが悪い予想屋である。

 もっと科学的に地震予知を行うためには、海底下のプレートのできるだけ深い岩盤位置に変位計を設置する必要がある。それも多数点が必要であり、変位計のデータを長期的に観測すれば微小な変位から大地震の予知が可能となる。そのような予算はとても一国でできるものではない。

 このように、地球科学技術とくに地震予知に関しては、「何もわかっていない」というのが実情である。それにもかかわらず、わかったような顔をして、まことしやかに地震予知だという。計りしえない自然の脅威をよそに、そのような科学者の傲慢な研究姿勢が大災害を招くのである。そして、原発の設計値に反映され予期せぬ震度によって原発破壊という人類滅亡に繋がる事故を起こしかねないのである。

 地震が起きた後で分析したり評価したりする地震学者は要らない。地震学者は「何もわからない」と素直になぜ言わない。地球科学に関わる研究者および技術者、とくに地震学者には、もっと謙虚に自然に対峙する姿勢、自然と共存していく姿勢が求められる。

救国

 散々たる今の惨状に対して、ある人は憂い悲しみ続け、ある人はただ唖然と佇む。また、ある人は復旧に奔走する一方、ある人は打ちひしがれたままである。さらに、ある人は疑心暗鬼を生じ、ある人は人による不手際や不始末を糾弾する。

 しかしながら、日本国民のひとりひとりがどのような行動をとろうとも、日本国民のひとりひとりがどのように思おうとも、惨状の現実は歴然とした事実として消えない。そればかりか、途方もない有形無形の負債を国民自らが背負わなければならない、現実がある。

 今の政権がどうであろうとも、将来、政権がどうなろうとも、この事実は決して打ち消すことができない。だったらどうする。考えてみるが良い。関東大震災が発生したわずか5日後には郵便局員が東京から東北に郵便物を配達したという。我らの先輩が残した日本再生の足跡を。日本全土が被災地、全国民が被災者という共通の意識のもとに、一歩一歩、少しずつでも前進するしかあるまい。

 幸いにもこの災害によって自粛の気運が盛り上がりつつある。国民ひとりひとりの少しの我慢と少しの辛抱。少しの節約と心使い、優しい行動が国を救う。この困難を皆で乗り越えてこそ、道が開ける。

 思えば、我々は今まであまりにも物質的な豊かさを享受してきた。あまりにも利便性と効率性を求めすぎてきた。今回の災害によってほんのわずかに得たものがあるとすれば、人とひととの絆がいかに大切であるかということを、改めて知ったことである。地域のコミュニテイというものががいかに大切なものかということ、人間の脆さと危うさ、優しさと強さを改めて感じたこと。「生きる」ということがこんなに大変であり大切なことであるのかを、思い知らされたことではないのか。

 これからの復旧のために、日本人ひとりひとりに何ができるのか、何をしなければならないのか、自らが考え抜くことが必要である。外国人が日本を去ろうとも、我々日本人は決して逃げない。我々日本人の手で必ずや我が祖国を立て直す。今、変わるべきは政治でもシステムでもない。変るべきは、国民ひとりひとりの覚悟である。救国とはそういうものだ。

放射能汚染による食品規制

 放射能拡散による食品への影響が、風評も含めて拡大している。それによって、被害地域の住民の不安が大きくなってきている。政府や東電の対応について、不満や憤りを感じている国民も多い。これらの事象や現象を寛容した上で、私の意見を以下に述べる。

 原発事故が起きたことについて、今、その原因や責任を議論している暇はない。落ち着けばやがて、しっかりと根本的議論を展開し、未来への対策の道程を探るであろう。今、最も大切なことは、この事故を速やかに収束すること、それに被害の拡大を最小限に抑えることである。

 基準値を上回る放射性物質が検出されたことにより、国が出荷制限や摂取制限を指示することは、至極、当然のことである。そして、その食品を例えば1年間摂取し続けたとしても安全であると国が説明する。これもまた、至極、当然のことである。ただ、問題があるとすれば、だったら安全な野菜をなぜ出荷制限や摂取制限するのかという点である。

 出荷制限や摂取制限の元となる基準は「飲食物の摂取制限に関する指標」を基に設定されている放射性物質に関する基準値である。この基準値がとてつもなく安全側に設定されているので、このような矛盾を引き起こすのである。かかる事態を想定していないで決めた基準値であるから、安全に安全を掛け合わせた数値となっている。したがって、かかる事態においては、現実的かつ厳密な基準値を緊急暫定的に設ける必要がある。

 そのことに加えて、放射性物質の分析検体がどの場所のどの状態のものなのかについて、明らかにする必要がある。例えば、同じ野菜でも露地ものとビニールハウスの中、出荷前の状態では全く値が違う。同じ露地もの野菜でも雨の前後で全く値が違う。できるだけ多くの分析結果をもとに、先の緊急暫定的な基準値と照らし合わせて、出荷と摂取に分けて現実的な立場から厳密に制限すべきである。

 今、放射性物質のことだけが話題になっているが、それ以外の物質についても基準値が設定してある。食品によっては1年間摂取すると基準値を上回り、健康を害するものも多いことを理解すべきである。たとえば、「めざし」には40PPMものフッ素が含まれているので、食べ続けると歯を溶かすなどの危険性がある。

 現在、内閣府の食品安全委員会が新たな基準値の策定に向けた議論を進めている。しかし議論は後でゆっくりすれば良い。今、まさにこの緊急事態においては、暫定的に厳密な基準値と流通システムを提示すべきである。

 最後に、私は、福島産のほうれん草を送っていただければ、全く不安なくいただきます。しかし、何も私がこのように言わずとも、菅さんが福島産のほうれん草を食べれば、そのことが安全の何よりの担保となり、大きな説得力になるでしょう。

「生と死の境目」Part2

 今回の地震によって実感した「生と死の境目」について、さらに掘り下げて考えてみた。

 地域によって多少の偏りがあろうとも、大局的にみれば、人が地震や台風などの自然災害によって命を失う確率はほぼ等しいと言える。地震予知技術が進んでいる国とそうでない国で大きく違うではないかという反論もあろう。しかし今回の震災でもってしても、そのことは完全に否定されよう。それでは、国によっても地域によっても地震が起きる確率が違うではないかという反論はどうだろう。しかし、これも残念ながら否定せざるを得ない。なぜなら、地震学者が扱う地震予測の基となるデータは有史以来のわずか1000年間足らずのものである。地球誕生から46億年という長い歳月に比べると、ほんの0.00002%に過ぎないデータを基に憶測しているに過ぎないからである。なおかつ、その手法なるものは発生間隔に頼った非科学的手法である。

 自然災害でなくとも、人は9.11のようなテロに遭遇すれば命を失うこともある。これだって、運、不運の問題であり、避けようとして避けられるものでは決してない。交通事故などの他の不慮の事故についてもしかりである。それでは病気死亡はどうか。無論、早期発見、早期治療に徹すれば長生きする確率は高い。しかしこれだって、突然、癌になったり重篤な病気で死なない保障はどこにもない。

 そうして考えると、「生と死の境目」は明確ではなく、背中合わせといっても過言ではない。いつ突然、「生」から「死」に直面することになるのか誰もわからない。まして、癌で余命宣告を受ける場合を除いて、その時期を予測することはできない。この点に関しては老いも若きもみな平等である。

 だとすれば、ある日訪れるであろう「生と死の境目」が到来する間、人には何が求められるのか。人は何を求めようとするのか。そこでは、その人の「生」に関わる価値観が出てくる。「生」ある限り思う存分楽しく生きようとする者もいよう。それはそれで立派な価値観であり、誰も咎めることはできない。しかし多くの人間は共通して、「生と死の境目」において満足感に浸りたいと思うであろう。

 それでは、「生と死の境目」における満足感とはいかなるものか。これも人によって違う。自身の幸せ度であったり、達成感であったり、残された者への思いであったり、最愛の人との絆であったりと。

 日常生活の中で我々は「生と死の境目」を意識しない。ややもすれば、「死」の存在すらも忘れている。否、忘れようとしているかも知れない。しかし、今回のような悲惨な被害を目のあたりにすると、改めて「生と死の境目」を実感する。その場合、大切なことは 「生と死の境目」の備えをする以前に、今ある「生」を大切にすることである。生かされていることに感謝して、今、大切に生きることがいかに大切であるかを思い知らされるのである。

ひとすじの光明

 依然として続く悲惨な惨状。避難民の極限に近い困窮。復旧にはほど遠い現状。もう撓(しな)えてしまった体と心。がむしゃらに何かを求めるが、何も手立てがないもどかしさ。放射能の恐怖と風評。号泣、落胆、震え、怒号が続く。                                                                                                                                     

 そんな中、災害から9日目にして救出された80歳の祖母と16歳の孫。励ましあって生きていた奇跡。瓦礫の山の廃墟に一筋の道が確保され、ようやくタンクローリーで油を運ぶことができた。災害ボランテイアが励ましの輪になって広がる。中学生や高校生が避難所を支える。避難所がひとつのコミュニテイーになりつつある。災害支援風呂に入った人に笑顔が戻った。簡易トイレを作られ、簡易住宅の建設も始まった。全国の自治体で避難民の受け入れが進む。福島原発では放水が成功する。冷却が少しずつでも進む。もうすぐ原子炉に配電が整いそうだ。

 こうした「ひとすじの光明」を大切に、大切にしていきたい。かすかな明かりを絶やすことなく、確かな明かりにしていきたい。今は、エゴを捨てて、日本中が輪になって頑張ろう。日本復興を目指して、心をひとつにして耐え抜こう。

今はただ

 いろいろと言いたい事もあるでしょう。文句のひとつもあるでしょう。でも、避難民をはじめとして、政府、東電、自衛隊、消防隊、警察、ボランテイア、NPOなど、現場はそれぞれに、決死の思いで頑張っています。

 首相の会見を見ればわかるじゃないですか。菅さんの目、顔つき、態度、発言内容を見れば、決死の覚悟だってこと、誰だってわかるじゃないですか。官房長官だってほとんど一睡もしていない。東電の現場社員は家族に当分帰れないと言い残したまま頑張っている。自衛隊の幕僚長はかなりのリスクを覚悟の上で実行すると言う。みな、一生懸命なのです。
 
 だから、今は批判することは避けて、今はただ、現場の決死の努力に敬意を払いながら、現場にエールを送りましょう。そして、ひとりひとり、どんな小さなことでも何か手助けすることはないか、考えてみましょう。

今、だからこそ

 シニア・ナビの多くの仲間もそうであろう。大震災と大津波が発生してこの方、私も無念さといたたまれない悲しみを感じ続けている。そしてその後、悲しみは脱力感と無気力感へと移行しつつある。だから、私だって正直、とてもブログを書く気にはなれないのである。

 しかし、だからと言って、無言でいても何も始まらない。どうしようもない惨状を目の当たりにして、私はせめて自身の気持ちを整理するために、また私の専門的立場からの意見を述べるべく、勇気を奮って書き込みをしている。無論、ブログに書き込みをしても何も解決しないことは承知している。しかし、今回の大震災について、シニア・ナビの多くの仲間が各々の立場で率直に意見を交換し、ともに共感したり、別の感じ方を知ることは有意義なことだと思う。

 そんな中、シニア・ナビの仲間のひとりが福島原発について正直に不安な気持ちを記した。それに対して、「不安を煽るものだ」とのコメントがあったそうだ。ブログの作者は配慮に欠けていたと反省し、すぐに記事を削除したそうだ。その上で、どこの誰かにどのように感じられるのかを意識しては何も書くことはできないと言い残し、しばらくブログをお休みすることを宣言された。

 私は投稿されたブログ記事の内容もそれに対する反論らしきコメントも見ていない。既に削除された後であった。だから、そのことについての具体的な評価はできない。が、一般的な意見を述べる。非常事態という今の状況を鑑みた場合、書く側にも一定の配慮が必要なことは当然である。しかし、例えば「不安である」といった正直な感想を書くことが、一般的には配慮に欠けることとは思えない。ただ、当該地域における方にとってはたまたま重い言葉であったかも知れぬ。

 もともとバーチャル的なな世界であるブログではあるが、友情も人情も育むことができる。そのためには、一定の配慮と秩序が必要である。その上で、記事やコメントの内容に関しては相互に寛容でなければならない。万一、一定の配慮を超えた行為があったとしても、相手を責める訳にもいかない。なぜなら、ブログに書き込む自由も閲覧する自由もあると同時に、書き込まない自由と閲覧しない自由もあるからである。

 だからこそ、ブログを続けるためには相手の記事やコメントに寛容であることが必須条件とも言える。寛容であるということは、必要以上に気にしないということである。つまり、都合の良い鈍感力でもある。

 その上で、私はこう考える。むしろこのような一件によって、正直な気持ちをブログに書き込むことが萎縮されることの方が恐い。折角、築き上げたシニア・ナビの仲間が離れ離れになることの方が恐いのである。一定の配慮のもとに、自由気ままに感じたことや意見、日常の出来事を綴るのがブログである。大惨事の「今、だからこそ」、この窮状に勇気をもって書き込むことが必要なのではないか。そして、シニア・ナビの仲間を互いに育てるという気持ちも必要である。

放射線量の報道に関する問題提議

 福島原発事故の放射線漏れに関する連日の報道に、地域の方々を始めとして広く国民は固唾を飲んで注視している。目に見えない物質の拡散が、場合によっては生命にも影響を与えかねないからである。

 放射物質も正確な情報も目に見えないところに、この事件の底知れない恐怖がある。報道はその仕方によって、ときに人を必要以上に不安を煽ったり、誤解を招いたりする。そのことによって、国民の的確な判断と行動を阻害する。正確な情報の伝達もさることながら、それ以前の基本的な問題として、連日の放射線量に関する報道の仕方に大きな問題がある。ここではそのことについて提議したい。

 問題は大きく分けて以下の3点であり、以下、問題点の内容を説明し、改善策を提案する。

① 放射線量の単位について
② 放射線量の総量と濃度について
③ 放射線の拡散について

① 放射線量の単位について
 放射線の量を報道する場合に、「ミリシーベルト(mSv)」という単位で表現したり「マイクロシーベルト(μSv)」と表現したり、まちまちである。単位系のミリ(m)とは10-3であり、マイクロ(μ)とは10-6である。したがって、同じ値でも単位によって1000倍違うことになる。つまり、次のような関係になる。 
1シーベルト(Sv)=1000ミリシーベルト(mSv)=100万マイクロシーベルト(μSv)
 私は日常的にもこの単位に親しんでいるが、一般の方には馴染みがない単位であろう。まして、時と場所によって違う単位で報道されると混乱するのは必至である。まず、報道においては単位を統一すべきである。

② 放射線量の総量と濃度について
 放射線の量を報道する場合に、放射線量の総量をいう場合と放射線量の濃度をいう場合があり、そこで混乱を生じている。放射線が人体に影響を与える場合の説明はすべて総量で言う。例えば、総量で100ミリシーベルト(mSv)以上の放射線を浴びると発がん性の可能性が高まるなど健康被害が出るとされている。それに対して、原発で測定された放射線量を発表しているのはすべて1時間当たりの量、すなわち濃度である。単位はミリシーベルト/時間(mSv/h)である。例えば、原発で100ミリシーベルト/時間(mSv/h)の放射線が測定された場合、そこに作業員が1時間いた時に先の総量100ミリシーベルト(mSv)となり、健康被害が出ることになる。報道は、総量と濃度を明確にして説明すべきである。

③ 放射線の拡散について
 放射能は大気中に放出されると希釈しながら拡散する。拡散の範囲と濃度の低下は容易に拡散式により求まる。無論、風速によっても異なる。半径20Kmとか30 Kmとかいった避難指示が出されているが、拡散範囲と濃度の関係の一応の目安を示すべきである。例えば、原発位置で100ミリシーベルト/時間(mSv/h)が計測されているので、半径20Kmの位置においては無風では10mSv/h、普通の追い風では5 mSv/h、普通の向かい風では15 mSv/hなどと発表すればよい。

 ともあれ、あれほどの数の科学者が入れ替わり立ち代わり報道に出ているのに、最も基本的な指摘を強調していないことが何よりも問題である。

非常事態における発信力

 かかる非常緊急事態においては、良識的な日本国民は誰しも協力を惜しまない。計画停電についても、企業も個人も全面的に協力している。被災地における苦難を思えば、たやすいことである。国民は協力することを良しとしている。

 しかし、それにしても東京電力の発信力のないことよ。非常緊急事態であるがゆえに、時間もなかろうし多少の混乱もあろう。だからこそ、しっかりとした発信力と説明能力が望まれる。細かなことを言っているのではない。計画停電の大枠の趣旨と大方針を明確に説明すればよいことである。

 非常緊急事態とはいっても経済を完全にストップするわけにはいかない。私の息子も計画停電に沿って会社の指示によって待機と出社を実行したものの、見当違いな結果となっている。企業はどこも混乱している。ただ不満はかかる事態においては遠慮している。民間の率先的需要抑制によって電力は予測を超えて足りていることと思う。需給バランスが多少、持ち直したといって計画を変更しているが、これは返って混乱を招くだけである。

 福島原発においてもしかりである。細々と技術的なことを述べるのではなく、わかりやすく明確な説明を堂々と述べて欲しい。他に人材はいないのかと疑いたくなるような説明能力のなさである。電力にその力がないとなれば、国家としての非常事態であるから、政府主導で行うべきであろう。

生と死の境目

 まさに、地獄絵図とはこのことか。大津波は家も車も道路も鉄道も電柱も、すべての物という物をなぎ倒して呑み込んだ。物だけではない、人の心も、人と人との絆をもすべてを呑み込んでいった。未曾有の大地震と大津波が発生してこのかた、ペンを握る気力も失い、ただただ途方もなく、繰り返し速報を見守るすべしかなかった。

 あの地はもともと風光明媚なリアス式海岸である。入り込んだ小さな海岸線は、太平洋からの荒波が鋭角的に入射する海からの営力と河川から海に流れ出す営力のせめぎあいの場である。わずかに自然堤防がそのせめぎあいの境界を印すものの、もともと海と陸との境界に「境目」はなく連続的であった。堤内地は時に荒波が越流し、時に河川が氾濫する自然淘汰の場であった。縄文時代より人は高台で暮らしていたが、徐々に住みの場を低地に移し、自然が淘汰する戦の場を人間の理由によって埋め立てて宅地化したものである。

 学者は言う。想定していた宮城沖地震とは桁外れの規模であったとか、同じ太平洋プレート上で震源が移動する可能性もあるとか、甲信越の地震は触発されたものだとか。さらに、福島原発の揺れは設計震度をはるかに超えるものだったとか。ここで明確に言えることは、どの学者も起きた事象を結果論として展開しているのであって、的中した学者は誰もいないということである。私は、自身の会社のホームページにプロローグとして明確に記している。「地震予知は何もわかっていない」ということを。

 地震学者には予想屋が多い。東南海地震だの南関東直下地震だのと、来たるべく大地震を警告する。プレート理論でもって、まことしやかに運動のメカニズムを説明する。しかしながら、こと予測となると、その根拠たるや非常に希薄で貧弱なものである。有史以来のほんのかけらばかりの実績でもって、その頻度から推し量っているだけである。今回と同じような規模の地震は、日本のどこで起きても不思議ではない。なぜなら、概括的にみて日本は複数のプレートの境界に位置し、全国いたるところに無数の活断層が存在するからである。その意味で、地震被害による死と生の背中合わせの「境目」は日本全国のどこも同じである。

 今回の未曾有の大地震と大津波による被害は家族も友人も離れ離れにした。大津波が来て家族で手を取り合って逃れてたまたま助かった夫は、妻や子供の名前を叫ぶ。一人だけ助かったことを責める。大津波の激流の中で電柱にしがみつき助かった人がいる。しかし、助けを求める人を助けることができなかったと悔やむ。屋根の上に登り、沖合いまで漂流しながら助けを求めた男性がようやく救助された。たまたま流れてきた畳につかまって助かった女性もいた。夫婦別れでもう諦めていたら助かって抱き合う夫婦もいた。ちょっとしたことで生死の「境目」がある。それを見るのは痛ましい。

 地震発生の直前、我々は一体、何をしていたのか。政治においては、菅さんを降ろせとか、予算を通すや通さないとか。超就職氷河期だとか不正受験の話題とか。今にして思えば、どおっということもない話題で盛り上がってた。我々といえば、どっぷりと当たり前のように幸せな日々を送っていた。

 しかし、今回の大災害で改めて実感する。我々の幸と不幸、生と死は常に背中合わせなのだと。生と死の「境目」、それは明確ではないことを。その上で、今、生を与えられて生きていることに感謝して精一杯生きなければならないことを教えられる。家族や友を大切にしなくてはならないことも。相反する意見の人ともできるだけ話し合い、手を取り合って生きていかなければならないのだと。この災害は我々に「生きる」という原点を教えてくれたようでならない。そして何よりも戒めなければならないのは、何もかもわかったような振りをする科学における人間の驕りである。最後に、この災害でお亡くなりになった方、被害に遭われた方、その家族にお悔やみを申し上げる。

「なぜ」

 「人間は考える葦である」とは、確かパスカルの言葉であったと記憶している。そして、「考える」という行為の中で最も原点となるのが「なぜ」という言葉であろう。人間は「なぜ」と問う唯一の生き物である。「どうやって」を問うだけでは人間ではない。

 人間は赤子から少し成長すると、「お母さん、どうして○○は○○なの?」を連発する。それは、人間として最初についた知恵の証でもある。人間としての原点ともいえるこの「なぜ」という言葉。いつしか我々大人たちは口にしなくなってきている。

 大人の我々は現実を現実として受け止め、現実を当たり前の常識と誤認し、「だから仕方ないのだ」と諦めていないだろうか。「仕方ない」の前に「なぜ」と、なぜ疑わないのか。「なぜ」がないから、物の本質を見逃していないだろうか。

「沖縄には米軍基地が必要だ」---------------「なぜ?」
「二大政党制がいい」---------------「なぜ?」
「規則正しい生活が健康にとって重要である」---------------「なぜ?」
「メタボは健康上良くない」---------------「なぜ?」
「宇宙には人間以外に生物が存在しない」---------------「なぜ?」
「電気自動車は環境に良い」---------------「なぜ?」

 こういう風に思いつくままに列記しても、なぜなのかわからないものだらけである。

 前述したように我々は現実を当たり前の常識と誤認し、諦めていなのだろうか。真実を見逃していないのだろうか。今日、この「なぜ」という真摯な問い(態度)が欠如している。単なる現実追認でも現実逃避でもいけない。私はこれからも「なぜ」を問い続けたい。なぜなら、私は人間だから。

正しい文章と良い報告書

 私の仕事の成果物は報告書である。良い報告書を書くことは私の仕事の生命線である。日常的に報告書を作成している仕事柄、文章にはうるさい。正しい文章とわかりやすい記述から構成される、良い報告書を求められるからである。

 正しい文章というのはどういう文章なのか。まず、主語と述語がしっかりしていることが基本である。句読点が適切に配置されていること、送りがなが正確であること、現代当用漢字にしたがっていること、などもあげられる。これらの条件は普遍的である。

 それでは、わかりやすい記述とはどういうことか。まず、ひとつのセンテンスが短いことが基本となる。センテンスが長いと主語と述語が分かり難くなる。どの言葉がどの言葉を形容するのか不明確になりがちになる。読者は息つく暇もなく、全体としてみた場合に分かり難いものになる。センテンスをつなぐために、接続詞の存在価値がある。この観点から古典的な小説を見ると、センテンスが長たらしくてほとんど失格である。

 わかりやすい文章にするためには、できるだけ難しい言葉は避けた方が良い。読み難い漢字にはルビを入れるか、むしろいっそのこと「ひらがな」にすべきである。ここ四半世紀、できるだけ難字を避けて「ひらがな」を使う風潮にある。学術論文においてもできるだけ「ひらがな」で表示することになっている。「かつ(且つ)」「したがって(従って)」「なお(尚)」「とおり(通り)」「ゆえに(故に)」「こと(事)」などのように。専門的な言葉には脚注を入れて、わかりやすい説明を加える。わかりやすい記述のためには、場合によっては箇条書きも良い。最近ではイラストも多用する。

 それでは良い報告書を書くのにどのような注意をしているのか。我々は文章で伝えるわけであって、おのずから話言葉とは違う。文章で物を伝えるというのは難しい。話せばわかってもらえることが、文章ではなかなか伝え難いことがある。書き言葉には話し言葉のような曖昧な表現が許されない。表情や身振りといった装飾も許されない。それだけに書き言葉(文章)は難しい。

 また、文章は後世まで残る。まして、国や地方自治体の重要な判定に関わる場合は慎重にならざるを得ない。一言一句、表現方法に気をつけなければ、反対の意味にとられることだってある。かといって、廻りくどい文章はご法度である。理路整然と考え方が論理的であれば、結論が箇条書きで表現できるものである。それを、ああでもない、こうでもないと、くどい文章を書くのは、結果に自信がもてていない証拠である。

 良い報告書と良い文章の条件として、簡潔で分かりやすいことの他に、起承転結がしっかりしていることも重要である。また、報告書や論文の著者は作家ではないので、情緒的表現、叙情的表現、曖昧な表現は禁句である。適切なタイトルであることは何よりも大切である。参考文献、引用文献も必須となる。

 私はこれからも日々精進して、分かりやすい良い文章と良い報告書を書いていきたい。なお、ブログなどの私的な文章の場合は必ずしも上記に該当しないことを付け加えておく。さらに、私の文章が堅いのは職業病によることなのでお許し願いたい。

メア氏の沖縄発言

 ケビン・メア米国務省日本部長が2010年12月、国務省内で行われた米国人大学生への講義で飛び出した沖縄に関する発言が物議を呼んでいる。講義においてメア氏は「合意に基づく『和』の文化が日本文化」と説明した。これに続けて「日本人は合意を模索するふりをしながら、できるだけ多くのカネを得ようとする。沖縄の人々は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ」と語ったという。

 また、日本の政治家は本音と建前を使い分けると指摘した上で、「沖縄の政治家は日本政府との交渉で合意しても、地元に戻れば合意していないと言う」と発言。普天間問題に絡み「日本政府は沖縄県知事に『カネが欲しいなら(移設計画に)サインしろ』と言うべきだ」と述べたという。

 メア氏の発言に対して日本政府は、「オフレコかどうかにかかわらず、極めて不適切であり、沖縄県民のみならず日本人の心情を傷つけるもので容認し難い」と抗議した。

 本音と建前は別に日本に限ったことではない。世界のどの国にでもある。メア氏がオフレコだと注釈した上で発言したこと自体、本音と建前を使い分けている証拠である。「沖縄県民のみならず日本人を侮辱した発言である」という「建前」の抗議はそれはそれとして、メア氏の発言は日本人、とくに沖縄県民の「本音」の一端を言い得た発言だと、私は思うのである。

 確かに、沖縄県民を「ゆすりの名人」という言い方は無礼である。しかし、そのようなふしは全くないであろうかと考えるに、残念ながら肯定せざるを得ないのである。普天間基地の移転、さらには米軍基地の海外移転に、現時点では過半数の沖縄県民が賛同した形となっているが、その陰には賛同せざるを得ない地域事情がある。さらに、実際に移転すれば多くの県民が経済的に困窮することは目に見えているわけである。移転反対と移転賛成の意見の狭間で、拮抗した力関係を推移してきた沖縄の歴史が苦渋の事情を物語ってもいる。

 メア氏のこのような発言や沖縄県民の苦渋の歴史の陰にあるのは、沖縄県民の貧困である。米軍基地があることによる危険性、米軍基地があることによる抑止力の評価という日本の防衛に関する議論とは切り離して、沖縄県民の経済的自立を急がねばなるまい。それによってはじめて、真の沖縄県民の声が聞こえてこようというものである。

電子書籍

 私は最近、電子本を読んでいる。電子本を積極的に読もうとしたわけではなくて、欲しかったCASIOの電子辞書にたまたま日本文学700冊と海外文学300冊の電子本が付いていた。もったいないので、今はそれを読んでいる。

 確かに電子本には紙の本とは違った便利さがある。まず持ち運びが軽い。わずか100グラムに1000冊の本が入っている。飽きたらすぐに別の本に移れる。文字の大きさを変えることができる。ページをめくるのも楽である。付箋をつけることもできる。

 しかし反面、電子本には欠点が多いことも実感した。第一に目が疲れる。これは相当なもので、パソコンのモニターを凝視している状態が続くわけだから、当然といえば当然である。全体のどの部分を読んでいるのかわからない。あとどのくらいで完結するのかわからない。終わりは急を告げる。要するに手でページをめくっていく感覚がないので、読み進めている感覚が薄い。

 考えてみれば、電子本は冊子ではなく巻物である。電子書籍はアクセス権だけであり実物の物ではない。我々はその得たいの知れない架空の巻物にローリングされながら読まされている。電子本は商売になるからこれからどんどん普及するであろう。しかし人間の生理や思考への影響もあると思う。そうした研究もしないままに進めていいものか、疑問に思う。なぜか電子本を読み終わったとき、本を読破したときの満足感が得られない。なぜだろう。

ネット社会の入試制度

 私は入試問題のインターネット投稿問題にまだ尾を引いている。というのは、あれからいろいろと考えめぐらした結果、あの投稿受験生以外にも少なからず不正をした受験生が沢山いるのではないかという疑問をもつ。さらに言うならば、投稿受験生はネット社会の入試制度に生け捕りされた被害者ではないか、という結論に達したのである。

 ここまでネットが普及し進化してくると、知らず知らずのうちにネットが人間の生活に影響を与えていることが、冷静になるとよくわかる。ネット社会になって「調べる」というハードルが格段に低くなった。いつでもどこでも情報を検索できる。ネットで調べられることは無理に覚える必要はない。「大化の改心」を645年と覚える必要はない。知識や記憶を自身の脳に求める必要がないのだ。それでなくとも年をとれば脳の働きが悪い。思い出すのに時間がかかる。脳は今や、「遅い」「使えない」装置となっているのではないか。恐ろしいことである。

 学生はネット上の文章をコピーして自身の文章に貼る。学生に知識や記憶のアウトソーイング(外部化)が起きる。その結果、論文の引用ではなく論文の盗稿が広まる。そして盗稿した文章を見分けるソフト「コピペルナー」まで出現し、イタチゴッコとなっている。

 こういった時代において、知識を求めたり、応用問題といえども情報によって正解が得られる内容の入試問題が果たして適切なのか、疑問に思う。まして英語の問題において英訳しろとか和訳しろという問題は、時代遅れではないのかと。今のネット社会における入試のあり方について、今一度考え直すべきときにあると考える。さらに言うならば、大学の受験制度そのものをなくしたらどうだろう。勉学意欲のあるものは誰でも好きな大学、好きな講座を受けることができるようにしたらどうだろう。無論、その後の進路は学生の努力と能力次第であるが。

入試漏洩問題

 現代のこのコンピュター時代にあって、こうした事件は起こって当たり前である。むしろ今まで起きなかったことが不思議な位である。それなのに、今更ながら大騒ぎしている様は、何とも時代遅れというか、対応遅れであり、お粗末である。お隣、韓国では数年前から既に対策も講じていると聞き及ぶのに。

 京都大学学長の弁がこの事件に対するリスク管理の姿勢を象徴する。「受験生を見れば泥棒と思え、という見かたは教育者としてはできない」と。何を綺麗ごとを言ってるのですか、と言いたい。投稿した受験生はカンニングという意識はむしろ薄いのかも知れない。文明の機器が身近にあり、それを利用したまでと思っているかも知れない。そもそも、そういう行為はしないはずだとする性善説なる考え方こそが現実離れしている。

 どういう方法で投稿しただとか、どうしたら防げるのかとか、事細かに報道されている。方法はいくらでもある。対策として、携帯の電源を強制的に切らすとか、試験監督員を増員するとか言っているが、これだって甘い。要するに、携帯電話をはじめとした電子機器類の一切を試験会場に持ち込ませなければ済むことである。

 日本には性善説がまかり通っている。誰しも、人を信じたいし、こうあって欲しいと思う。規則や罰則はない方がいいに決まっている。しかしそれができないのが現実であれば、現実に沿った考え方をせざるを得ないのではないのか。「人を見たら泥棒と思え」ではなくとも、少なくとも「人は泥棒をするかも知れない」と考えるべきだし、泥棒したとしても2重3重の監視システムを構築するのがリスクマネージメントの基本だと思う。

ああ、雛人形

 娘が出産し初孫が姫であった。その初節句である。母方の実家(私方)が「雛人形」と「つきたての餅」を準備するという慣わしがあると、父方(相手方)の実家から聞いた。母方の実家が「雛人形」を贈るというのは何となく聞いたことがあるが、「つきたての餅」とは父方(相手方)実家の田舎の風習だろう。

 この際だからと、節句の風習を調べたら、調べるほどに分からない。地域によっても、考え方によってもかなりの違いがある。桃の節句を例にすると、「羽子板」と「雛人形」をセットで贈ったり、「雛人形」のみだったりする。贈る日もお正月だったり、桃の節句だったりする。贈り主については母方の実家という説が一般的だが、どちらでも構わないという説まである。とかく風習というのは地域によって異なり、千差万別である。こういう場合は、嫁に出した身だから、父方(相手方)の実家の仰せのとおりにする方が無難であろう。

 ということで雛人形を買ったわけだが、買ったのはもう随分と前になる。どうせ買わなきゃいかんものだったら早く買っても一緒である。そうだ今だっったら、年賀葉書の下2桁とか下3桁の割引がある。ということで1月中旬にこの特典に便乗して購入した。

 しかし、雛人形にはいろいろとやっかいな面もある。贈る側からすれば、これが結構、高価である。5~6万円から30万円、高いものは100万円のものがある。贈られる側の事情もある。若い夫婦の狭い住宅事情では部屋のどこに飾るのか、一時的に飾れたとしても、普段はどこにしまうのか、悩みの種である。結局は、贈ったとしても儀式が終われば返品されて、実家で一時預かりとなりかねない。雛人形店は商売だから毎年高価なもの、大きなものを提供するが、いっそこの時代に合わせてミニ雛にしたらどうだろうか。

 女性にとって「雛人形」というのは特別な思いや憧れがあるようである。それも年齢に関係なく。むしろ、年齢を重ねるほどに思いが募るようである。今、古い街並みを残す各地で雛人形が飾られている。西日本だと、大分・日田、山口・柳井、福山・鞆の浦などが有名である。そこには若い女性の姿よりも圧倒的にあばさん連中が多い。

 私の同居人などは子供の頃から雛人形に憧れていたが買ってもらえなかったらしく、50歳になってその願いを叶えた。それも私の同意なしに、何段飾りの高価なものを。子供の頃に買ってもらえなかったと言われても、私の責任ではない。でもまだ女心があることだけは容認した。しかし、飾り付けを見たのは後にも先にもその年だけである。今頃、あの高価な人形はどこどでお眠りのことやら。

 伝統的な雛人形ではあるが、風習という名のもとに、贈られる側、贈る側、雛人形店の思惑がぶつかり合い、両家のプライドが重なり合う。それに住宅事情が障害となる。加えて、女心という感情が絡み合うので、余計に厄介なものとなるのである。

だったらどうする

 自民党の古い政治に飽き飽きして、民主党の新しい手法に国民は誰しも期待した。しかし、その民主党の能力と組織力はマニフェストを実行するには及ばず、国民の期待を物の見事に裏切った。そして今、政局を憂う人が多い。怒っている人もいよう。もう諦めている人もいるかも知れない。

 菅を退陣させろという声しきりである。小沢もしかり、今の執行部は全員、退陣せよとの意見もある。だったら、民主党の誰だったら政局を乗り切れるというのか。民主党の中に首相にふさわしいスーパースターがいるとは思えないが、仮にいたとしても、ひとりでは何もできないではないか。それより民主党内のゴタゴタを解消するのが先決だろう。

 それにしても、民主党の脱会派組や政務官の辞任は一体、何なのだ。誰のためのどういう目的の行動なのか理解に苦しむ。これだったらまだSoftBankのコマーシャルに出ている落武者の元政治家の方がましに見えるから恐い。脱会派組は見たこともない顔の面々、彼らはこれまで国のためにどう働いてきたというのだ。彼らが政治に戻ることはもうないだろうけれど。

 今とりあえず必要なのが来年度予算であり、今日未明にどうにか可決した。しかし予算関連法案可決の目処は全くたっていない。だったら解散・総選挙しかないのか。ほんとはそんな暇があろうはずがない。今、解散・総選挙すれば民主党は大敗する。さりとて自民党が大勝することもない。どこも一党支配することにならない。だとすれば、またネジレになること必至である。解散の意味もなく、また元の木阿弥である。

 政治家が党利党略だけで動いているからこんなことになる。国民のためにどういう行動が望ましいのか、わかっていない。すべての政治家の感覚を疑う。しかし、こうなった責任は政治家だけにあるのか。

 福田であれ麻生であれ、鳩山であれ菅であれ、能力的に多少の違いがあれど、五十歩百歩である。国民は何か失態があればこけ落とす。リーダーシップがないと批判する。能天気だと揶揄する。確かに首相を国民が直接に選んだのではない。しかし間接的に国民が党と人を選択して首相を指名したも同然であろう。

 だったらどうする。今の政治の体たらく、指名権者の国民に責任はないのか。国民が一度は選んだ党と人をもう少しじっくり我慢して見守ることはできないのか。それもできないとなれば、どうすればよいというのか。代案もなく、さりとて革命を起こすほどの勇気と真剣さもなく、批判を繰り返す私自身を含めた国民に、ほとほと飽き飽きしているのだ。

団塊世代のひとふんばり

 私は1949年生まれ、まさしく団塊世代の頂点の年代である。その団塊世代が今、ぞくぞくと定年を迎えている。その結果、働き手が急減し国内総生産に大きな支障を生じている。そればかりか、超高齢化時代の幕開けを迎えている。

 団塊の世代は思想的・文化的・科学技術的に大きなうねりの時代を経験してきた。私自身も大学四年生の時が東大・安田講堂事件であり、学生運動最盛期にあった。日本の生きるべき道について学生も市民も真剣であった時代でもある。今、超就職氷河期と騒がれているがその頃だって就職難であった。しかし今と昔と違うのは、我々の世代には職業選択の自由がなかったことである。現に、私も大学教授の指示する会社に行くことに反論の余地なく従った。

 団塊の世代はいろいろな難局をいろいろな犠牲を払った上で、工夫とユーモアで乗り切った。今では死語となった持ち前の「根性」もあった。難局を乗り切るノウハウも持ち合わせている。そして何よりも今時の65歳という定年世代は若い。

 このような団塊世代が今一度ふんばれば日本再生は夢ではないのではなのか。ふんばりようは人それぞれでよい。NPOを立ち上げるのも良いだろうし、ボランテイアに励むのもいいだろう。趣味を生かしてお年寄りの活性化に貢献するのもいい。団塊の世代が自分ができることを、できる範囲でやればよい。それだけで日本再生に大きく貢献できると思う。私自身はわずかばかりであるが現在の雇用を維持していくことで貢献したい。さらに、地盤に関する無償相談をこれからも続けていこうと思う。あれこれと政治に批判するのはたやすいが、批判してもどうにもならない。だとすれば、団塊の世代が日本国に対して何ができるかを考えた方が解決が早いと思う。
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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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