老後の生き方

 老後の3大不安要素を尋ねたら、誰しも「お金」「健康」「生きがい」をあげるであろう。そのどれもが老後に必要であろうが、果たして、どれが一番大切であろうかと考える。しかしそれより前に、そもそも「老後」とはいつのことを指すのだ。「老後」の定義がはっきりしなければ、先の解答もはっきりしない。

 「老後」という言葉自体がおかしい。老いてさらにその後というようにとられがちである。ではなくて「老齢期」と呼ぶべきでないのか。Wikipediaによると、「老後とは、年をとってからのこと」とある。なんだこの解説は。つまり一定の年齢以降を老後としているようであるが、それでは一定の年齢とは何歳をいうのか。

 生命保険見直しのキャッチフレーズに「定年退職前後に老後を迎える人向けに、・・・・・・」というのがある。ということは、年齢ではなくてリタイア後を「老後」というのか。すると生涯現役を通そうとしている私には「老後」はないのか。また、専業主婦業の女子はいつをリタイアとみなすのか。どうも「老後」の定義がわからない。

 こんなことでつまづいていたら、ほんとうに「老後」になってしまうので、一般的にリタイア後を「老後」としよう。年齢にすれば、定年退職の65歳前後としよう。そうすれば、どちらにしても私は「老後」に該当しないから。
 
 さて本題であるが、「お金」「健康」「生きがい」のどれが一番大切かと尋ねても難しい。あり余る財産を抱えながら癌で余命幾ばくもない老人患者と一文無しの健康老人と、どちらが幸せかと言われても答えようがない。しかし、あり余る財産を抱えながら癌で余命幾ばくもない老人患者は沢山いそうだが、一文無しの健康老人というのは滅多にいない。お金がなければ健康も維持できないであろう。すると、「余命幾ばくもない」というのは少し極端にしても、まず「お金」あっての最低限の「健康」と考えれば、先立つものは一定の「お金」となろう。

 それでは、「お金」と「生きがい」はどちらが優先されるべきか。あり余る財産を抱えながら生きる希望のない老人と、趣味を生きがいにはつらつと生活するものの明日の生活費に苦しむ老人、どちらが幸せであろうか。あり余る財産を抱えながら生きる希望のない老人は沢山いそうであるが、明日の生活に苦しむ老人が趣味を生きがいにはつらつとするであろうか。そうすると、どちらが幸せというより、ここでもまず先立つものは一定の「お金」となろう。

 つまり、先立つものとして一定の「お金」がなければ、「健康」も「生きがい」もない。それでは「老後」に必要な一定の「お金」とはどの程度なのか。保険会社の試算による「老後」の最低日常生活費は、月額166,270円としている。内訳は食料費31,370円、住居関連費55,610円、被覆・履物費5,030円、雑費1(保健医療費・通信交通費など)39,700円、雑費2(小遣い交際費など)34,560円である。

 また、総務省が発表した「家計調査(平成17年)」によれば、高齢者世帯が実際に必要とする生活費は月額約27万円とされている。さらに、生命保険文化センターが行った「生活保障に関する調査(平成16年)」では、ゆとりある老後を送るために必要な生活費は月額約38万円が必要とされている。

 これらをまとめると、「老後」には最低生活費として17万円は必要であり、ゆとりある「老後」には月額30万円~40万円程度が必要となる。普通のサラリーマンが65歳で定年退職したとする。退職時に1000万円の貯蓄があるが退職金はこの不景気でなかったとすると、年金だけで夫婦2人の最低生活(月額34万円)はまかなえるが、ゆとりある「老後」(月額80万円)は3年ほどで底をつくことになる。幸い、独り身であったとしても6~7年で終わりとなる。

 そのような試算もしながら「老後」の生活設計もしないとなるまいが、何となくむなしい。団塊の世代が「老後」に突入し、ますます「老人」に対する社会保障は低下するであろうに。せめて「健康」と「生きがい」をよりどころに生きるのが賢明であろう。

 「生きがい」に関して、アスパラクラブの全国アンケートでリタイアした1869人に今の生きがいを尋ねたところ、「ない」と答えた人はわずか54人であったという。つまり、ほとんどの「老後」の人が楽しみや張り合いを持っていることになる。これには少し驚いた。

 「お金」はそこそこに生活設計の中でやりくりするとして、「生きがい」さえあれば、残りは「健康」である。「健康」だけは待ってはくれない。「老後」において「健康」が良い方向に向かうことはない。厄介なのは突然に破綻することがある。

 それでは少しでも「健康」を維持するためにはどうすればよいのか。食とも関係しよう、気持ちの持ちようにも関係しよう。無論、持病にも関係する。よく高齢のお年寄りに「健康に気をつけているのは何ですか?」とインタビューする。彼らの共通した答えは、粗食であること、菜食であること、悔やまないこと、なるようになる主義であること、のんきであることである。これに照らして自身を考えると、暴飲して気短い私はとても長生きできそうにない、結局、私には「生きがい」が頼りとなる。ただし、私は自分の中ではまだ「老後」ではない。
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「頑張って」Part2

 私は昨日、『「頑張って」という言葉』と題するブログ記した。これに対して、早速、最愛のブロ友である憂国の詩人と浪速の才女、その他多くのブロ友からコメントをいただいた。 
  
 その内容はいずれも概ね以下の内容であり、共通して「頑張って」という言葉は不評であった。
①「頑張って」という言葉は好きでない、好ましくない。
②団塊の世代はひたすら走ってきた。だから、もう頑張らないでいい。
③今時の若者は必要とあらば頑張る。心配に及ばず。

 何という優しいコメントであろうか。肩を張らず生きようとする自身の柔軟性に加えて、私ごときにも気を使っていただいた上に、将来を担う若者に対しても寛大な心でいらっしゃる。

 その反面、硬派の私としては出鼻をくじかれ、忸怩(じくじ)たる思いでいる。①については好き嫌いの問題なので何とも言えない。ただ、サポーター的な定型句として「頑張って」という言葉を受け止めれば、さらりと言うなり聞き流せないものかと。なぜに敏感にならないといけないのか、そこに疑問が残る。

 ②については団塊の世代に対する労いの言葉であるが、最もショックを受けた言葉でもあった。言われるように団塊の世代は走り続けてきましたが、私は死ぬまで頑張りたいのです。否、頑張って生きなければ気がすまないのです。まあ、勝手にしなはれと言われるでしょうが。

 ③については今時の若者に対する評価の違いですね。私は今でも大学生の方々といろいろ話す機会がありますが、私には彼らがとても精神的にも体力的にもタフとは思えないのです。就職難、就職難だと騒ぐ割には自分から何かを切り開こうとしない、他人まかせであること、高望みすること、友や社会との接点を拒む者が多いこと、内向き志向であること、体育系のクラブに入りたがらない、自分で考えることが苦手なこと、などなどです。無論、人にもよりますが。

 ともあれ、「頑張って」という言葉に対する世間の抵抗が相当に大きいという事実を身をもって感じた次第であり、抵抗の原因が何処にあるのか、未だに分からずにいます。
 

「頑張って」という言葉

 相手を励ます時に普通に使用される「頑張って」という言葉。どうもこの「頑張って」という言葉に対する抵抗や非難の言葉を、最近よく耳にする。「頑張って」という言葉はもう死語なのか。

 北京オリンピックの時だったか、卓球の愛ちゃんが言っていた。“「頑張って」と言われなくても本人は頑張っているのだから、そんな言葉は掛けないで欲しい”と。「頑張って」って言われても体が動かないし、かえってプレッシャーになるという。この例のように、今から大舞台で何かをしようとする人には、「頑張って」よりも、かえって「気楽に」とか「張り切りすぎないように」とかの言葉の方が適切なのかも知れない。

 しかしながら、「頑張って」という言葉をそんなに毛嫌いしなくても良いと思うのだが。「頑張って」と声を掛ける側はそんなに深い意味で言ってはいない場合が多い。いわばサポーター的な定型句として言っている場合が多い。「頑張って」という言葉を掛けるのも、相手と状況によるでしょう。余ほど弱っている人とかに「頑張って」はどうかと思う。でも手術室に入る人にはやはり「頑張って」でしょう。さもなければ、「大丈夫だよ」か。とてもじゃないが「頑張らなくていいよ」とは言えないでしょう。ただ、当の本人は「頑張って」と言われても麻酔打たれりゃ頑張りようもないけど。

 「頑張って」の言葉に限らず、最近の人はやたらと言葉に敏感でナイーブである。それは精神的な弱さの象徴でもある。言葉は大切であり、相手によって注意して使用するのが賢明であるが、あまりに敏感すぎると、言葉を選んで何も言えなくなる。現代人に必要なのは、いちいち言葉尻を気にするのではなく、もっと精神的にタフになることではないかと思う。

組織と人の盛衰

 読書が大変苦手な私であるが、それでも以下の3冊を座右の書としている。
「エクセレント・リーダー」(T.J.ピーターズ)
「ビジョナリー・カンパニー」(ジェームズ・コリンズ)
「人生心得帖・社員心得帖・商売心得帖」(松下幸之助)

 これら3冊は読んだときにこれだと思い、会社の本棚に飾っている。もう詳細な内容は忘れかけている。しかし、この3冊には人生、企業、組織に対して共通したメッセージを送っているいたように記憶している。

 「エクセレント・リーダー」においては、優良企業の具体例をあげて優良たる所以を示している。例えば、ゴルフ場の低迷期にあって広島の白竜湖カントリークラブは社員総出で塵ひとつないゴルフ場作りを行って危機を乗り越えた、といった話である。不景気であっても伸びる企業はどこにでもあり、その理由があるのだと。とくに優秀なリーダーがいることが条件であると提唱している。

 「ビジョナリー・カンパニー」においては優良企業の生存と飛躍の法則を見出している。逆に、優良企業が衰退する5段階のプロセスをも示している。そのプロセスとは概ね以下のようであった。

① 成功から生まれる傲慢(ごうまん)
② 規律なき拡大路線
③ リスクと問題の否定
④ 一発逆転策の追及
⑤ 消滅

 つまり、少しだけ成功すると傲慢になりがちになり、計画性も見通しもないまま拡大に走る。その途中段階でリスクや問題があることを認識しても修正することがない。追い詰められると苦肉の策で一挙に打開しようとする。そして、破産・消滅するというプロセスである。今の民主党政権に似てますね。

 企業に限らず、家庭でも地域でもどんな組織にも共通する存亡の理由というものがあるであろう。組織に限らず人個人にも共通するかも知れない。「家貧しくて孝子あらわる」「窮すれば変じ、変ずれば通ず」の言葉にあやかり、あくまでも奢ることなく身の回りを見つめなおすことから始めたい。

雨水

 今日は二十四節気の「雨水(うすい)」にあたる。空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始める頃という。『暦便覧』には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。それゆえ、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることもできる。

 ここ2ケ月ほど、ほとんど毎日同じ現場に行っている。毎日、同じルートの里の山道を歩くていると、かすかに生き物の鼓動の変化が感じ取れる。ここは、ちょうど1週間前の土曜日に大雪が降った。15cmくらいの積雪で山道と畑、林野の区別がつかないほど、あたり一面、雪化粧された。そのうち雪が溶けて、今日は陽気な快晴となった。

 今日も同じように里の道を歩いていくと、何と、山道の木々が一斉に花を咲かせているではないか。それも、蝋梅、紅梅、寒桜のそろい踏みである。黄色い蝋梅はかわいい、紅色の紅梅は色気がある。薄い寒桜は品がある。雪の中でも木々はもくもくと息をして春の準備をしていたのだ。





蝋梅

八百長論評に潜む日本人の深層心理


 また八百長問題なのかとうんざりされるのを覚悟で、あえて物申す。物申す発端は、八百長問題に関する識者の多くの意見を見聞きするに、八百長を概ね肯定するものがほとんどであることに呆れてのことである。最初にその代表的なものを紹介する。なお、紹介内容は要点を簡潔にまとめている。

 まず、政治学者の御厨貴さん(東京大学先端科学技術研究センター教授)の論評。彼曰く、例えば政治においても国対政治によるお金に絡んだ裏取引があり、国民もある程度、裏を知りながら政治がうまく廻ることをよしとしている。つまり、うまくやるのが大人の世界だと。

 次に、テレビでもお馴染み、国語学者の金田一秀穂さん(杏林大学教授)の弁。八百長には愛がある。日本社会の基本原理は人と人の情である。白黒つけないのが大人であり、日本人なのだと。

 さらに、ノンフィクションライターの柳澤健さん。八百長は番付を落としたくない保身が動機である。保身は人の常である。大部分が真剣勝負であればそれで何が問題なのか。
他にも多くの論評があるが、どれもこれも同じように肯定的である。

 これらの多くの識者・賢者を敵に回しても、私は敢然と異を唱える。私は2月3日、自身のブログで「茶番劇」と題して、八百長に関する意見の多くが茶番劇だと評した。その上で、大相撲が国技と思い公益法人であるから腹が立つのであって、大相撲をただの興行として見れば腹も立たないという内容を記した。このことは裏を返せば、仮に国技を主張し公益法人としての特典を得たいのであれば、断固として許されないことだと主張しているのである。

 前述した識者の主張は総じてこうである。「白黒させない、うまくやるのが大人の世界である。そこには義理も情もあろうし、多少の八百長も致しかたないのでは」と。そしてそのことの比喩に、政治の世界を持ち出したり人情相撲を持ち出したりしている。それに対して、「それとこれとはは違うだろう!」と敢然と言いたい。それではあなた方は子供に対して、「多少の嘘や偽りがあっても、うまく世渡りするのが大切ですよ」と教えるのですか。それは稚拙な意見だと私を愚弄できるでしょうか。私は甘んじてお受けいたします。

 御厨貴さんは「うまくやるのが大人の世界」と主張していますが、原文には「大きな声で言えないけどうまくやるのが大人の世界」と記しています。つまり、彼自身もそう言いながら後ろめたさを十分に感じているのです。金田一さんが例にあげている人情相撲に関してです。義理と人情を人一倍重く受け止め実践してきた私ですが、組み手の詳細までメールでやり取りしているのは人情ではないでしょ。これを人情だとすれば人情が汚れるというものです。政治や人情、大人の世界という言い訳で逃げんじゃないと言いたい。

 私とて政治の世界や経済の世界、大人の世界の随所に裏があることを十分に認識し、その必要悪を認め、ある意味、それを受容しています。しかし、それとこれとは違うでしょ。「あってはならないものは、あってはならない」のです。白黒つけることが稚拙な考えだと仰っている識者がいる限り、日本は自立できないのです。

求む悪役!

 家庭においても、会社においても、野球チームにおいても、マンションの理事会であっても、子供会においても、どんな組織にでも役割分担というのがある。この役割分担には、どのような任務につくかという名のとおりの役割分担とは別に、「悪役(あくやく)」とその反対の「良役」(正式には悪役の反対語はないのでこう呼ぶ)に2分される役割分担が必要となる。

 家庭において子供の教育をするのに、「勉強をしなさい!」だのとガミガミ言うウルサ型の母親がいるとすれば、一方では、「いいじゃないか、少しは遊ばせてやれよ」という父親がいるのが理想である。この場合、母親が「悪役」であり、父親が「良役」である。両親ともガミガミ言えば子供はひるむし、両親とも寛大であれば子供は勉強しない怠け者になるであろう。

 会社においても、部下に厳しい課長や係長がいるとすれば、一方で優しい部長がいるというものである。厳しい部長がいるとすれば、どこかで社長がカバーするものである。そうすることによって、部下は手厳しい指摘を受けながらも、ひるむことなく矯正しつつ成長していくのである。

 野球チームでは鬼コーチがいるとチームは強くなる。鬼の血相でノックをしたり激を飛ばしたりするコーチの存在がチームを強くする。しかし、一方で厳しいだけでは選手はついてこないから、時々は監督や別のコーチが優しい言葉をかける。

 このように、「悪役」と「良役」の双方が組織にいることによって組織の構成員が成長し、相乗効果としてバランスがとれた組織を作ることができる。しかしながら、やむなく「悪役」と「良役」が構成できない組織の場合は、1人2役の難しい選択を余儀なくされる。

 夫と死別か離婚するかして母親1人で子供を育てる場合、母親は父親としての役割も担う。母親本来の優しさとともに、時には父親代わりの厳しさも伝えなくてはならない。父親1人で育てる場合もしかりである。しかし男の方がどちらかというと不器用なので、父親1人で育てることは難しいとされる。

 私の会社ような零細企業においては、人数が限られているから役割分担が難しい。誰しも悪者になりたくない。だから、互いに甘くなる。社長の私だって好んで悪者になりたくないが、誰も「悪役」になってくれないから、仕方なく私が「悪役」にならざるを得ない。人間、そんなに手のひらを返したような真似はできないから、「悪役」から「良役」への変身は難しい。すると、社員を褒める機会を失うことになる。これは組織として問題である。そうだ、私の会社に必要なのは「悪役」である。求む「悪役」!

親爺とバレンタイン

 バレンタインが近づくと、ドキドキするのが学生時代、浮き浮きするのが青春時代。だとすると、鬱陶しく感じるのが熟年時代であろうか。一時前まではバレンタインになると嬉しい知らせやプレゼントが届いたものを。

 親爺がバレンタインを鬱陶しいと思うのは、まず第1に、1ケ月後に迫る3月14日の儀式のことを先に考えてしまうからである。3月14日という最も忙しい年度末に、お返しする品定めの時間などまずとれないと思う。それよりか、お返しする行動自体が馬鹿げていると考えてしまう。さりとて、親爺というのはエチケットや常識を人一倍気にする年代である。だから折角頂いてもお返しできないときの罪悪感に襲われ、それを思うと鬱陶しくなる。

 第2の鬱陶しい原因は、親爺は基本的にチョコが嫌いであるからである。これがワインだとかマフラーであれば、どんなに喜ばしいことかと思う。さもなければ、いっそのことワンカップの方が良いと思う。親爺がほんとうに嬉しがる物の送り主は確かに他にあり、義理の場合は間違いなくスーパーのチョッコである。かくして、いただいた義理チョコは我が家に大切に奉納される。そして、太る太るとおっしゃりながら他人のチョコを許可なく勝手に食する同居人を拝謁することになる。

 第3の鬱陶しい原因は、親爺というものは人一倍気配りするからである。同僚も差別なくいただいただろうか、頂いたものをすぐに隠しておかないと他の男性に悪いだろうかとかと、人目を憚る。そんな行為は総じて無駄であり無意味なことは承知であるが、それでも気を使うのが親爺である。だから親爺にとってバレンタインは真に鬱陶しいのである。

創造力の源

 創造力は想像力とは違う。会話によって相手の人となりを想像したり、自分の将来を想像したりと、想像力は誰でもいつでも勝手にできる。しかし、創造力はそうはいかない。有形無形にしろ何かを作り出さねばならない。根拠が必要である。そして何よりも生産的でなくてはならない。

 すばらしいアイデアや発見をする人がいると、周囲はみな、彼は持って生まれたすばらしい創造力があると讃える。しかし、実際には違う。彼の頭の中に創造力というバッテリーがもともと詰まっているわけではない。その背景には血の滲むような努力がある。彼が努力の末に苦しまぎれに思いついた結果がアイデアや発見なのである。

 我々は自身では何も努力しないで、あの人は先天的に偉いと勝手に判断する。そうすることによって、自身が努力しないことの言い訳にしているのである。創造力とは汗の結晶であることを認識せねばならない。そして何よりも、創造力という成果ではなくて、その基礎となる努力にこそ賞賛せねばなるまい。

 例えば私がある面である人に劣る場合、私はある人より努力が足りていない。逆に、他人にすごいねって褒められた場合、褒められるに足りる努力が私にあったかどうか、反省せねばなるまい。いずれにしても、人は自省と自制の中での努力からしか、創造することができない。

憂国の詩人

 先日、私は東京出張を決行した。出張の建前上の目的とは別に、シニア・ナビでお馴染み、詩の料理店・店主Yさんに会うためである。私は彼(先輩ですがここでは「彼」と呼ばせていただく)の料理店にほぼ毎日、日参している。個人メールのやりとりもしているし、Skypeで声を何度となく聞いている。しかし、会うのは初対面であった。
 
 彼が料理する詩は叙情的であり感傷的であり寂寥的でもある。また厭世的な部分や革命的な所もある。さらに、どこかメルヘンチックな洒落た部分も持ち合わせている。彼は今では半ば世の成り行きに諦めたところもあるが、かっては国を思い、国を憂いし若き詩人であったと想像する。そうしたことから、私は彼のことを勝手に「憂国の詩人」と命名した(お許しくだされ梶川どの)。

 私は、彼というひとりの人格と風貌を会う前から勝手に自分の中で確立していたのである。だから初対面というのは、ネットで知り合っただけの見ず知らずの女性にはじめて会うドキドキ感とは違って、別の意味でワクワク感があり、反面、恐い。なぜなら、こちらが勝手に確立した人格や風貌が的中するのか、それとも予想もしない結果に打ちのめされるのか、見当がつかないからだ。

 人はその人が創造する詩や文章を見れば、その人の生きざまの根源というものがわかるものである。会う前に、彼のルーツは北の大地であると聞いていた。そのことに私はすごく納得している。なぜなら、彼の詩の根底にあるものは荒れ狂うオホーツクを髣髴させる「孤独」「貧困」「反骨」がキーワードとして感じさせられるからである。

 彼の詩は旋律でいうと♯ではない。間違いなく♭である。それも♭が二個や三個ついたものである。リズムも4分の4拍子ではない。恐らく4分の3拍子だろう。我が故郷が誇りにする詩人・中原中也の雰囲気を持つ。その内容は難解であり、とても私の能力の限界を超えており、私には意味不明なものが多い。

 彼と私とでは随分、生い立ちや生き方が違う。まず。彼は北の大地に生まれたのに対して、私は本州最南端である。彼は文学部に所属し、恐らく講義にろくすっぽ出ないで書物を読み漁っていたであろう。その頃、私は実験漬けの毎日を過ごす工学部の学生であった。しかし彼と私にも共通点がある。こよなく酒と女を愛することである。

 私は彼の料理店の暖簾をはじめてくぐった。その第一印象は、誰かの言葉ではないが意外性があった。やせぎすで髭をはやしたアイヌ的風貌の初老の詩人を想像していたのだが、ごくごく普通の方であった。大手企業を定年まで勤めあげ孫が2~3人いるといっても不思議ではない、ごくごく普通の体型と人格の日本人であったのだ。人の想像力というものはいかにいい加減なものなのか。ここで私の想像力は早くも完全に打ちのめされる結果となった。その彼と夜、遅くまで酒を酌み交わした。またいつしか、彼とじっくり人生を語りたいものである。

自己客観視

 人前で話したり講演するとあがり症の人がいる。討論会や意見交換会で自分の意見を言うのに、思うように言えない人もいる。私に限らず、普段の生活においても、人間関係においても、なかなか自分らしさが発揮できないこともあろう。その原因を考えてみると、自意識過剰というのが大きな要素となる。格好よく話そうとか、うまく話そう、自分をよく見せよう、自分らしさをアピールしようとか。自己能力以上に披露しようとする気持ちである。

 プロのアスリートの場合は、それこそ平常心でプレーすることが必須となる。コチコチになったりドキドキしたりすれば、プレーする前から負けたも同然である。アスリートに限らず、平常心をいかに持つかが一流の必要条件でもある。

 かって、メジャーリーガーのイチローと松井秀喜が平常心について語っていた。そこで彼らは、不思議なほど同じような言葉を口にしていた。「自分をコントロールできることと、できないことを分ける。そして、コントロールできないことには関心を持たないこと」というような内容であったと記憶している。

 また、プロ野球選手会長でもあった古田はこう話していた。「プレー中にピンチになると自分の肩の後ろにもうひとりの自分がいる。命まで取られるわけやないんやでと、そいつが言う」と。つまり、キャッチャーである彼は、自分の後ろの審判位置にもうひとりの自分がいて、自分を客観視していたのである。彼の師匠は野村監督ではなく、もうひとりの自分であった。

 こうした談話は平常心を持つためのひとつの方法論を諭(さと)しているといえよう。つまり、平常心を持つためには自分を客観視することが必要であると。まず、あまり自己評価を自ら上げないことである。「こんな人間で、ごめんね、ごめんね~」位の気持ちを持とう。そして、幽体離脱するかのように自分を天井に押し上げる。すると、ちっぽけな自分が見えてくる。そうしたら、すっと楽になる。真の自分が表現できる。自己客観視能力は日常生活においても役にたつと思う。

食の工程

 食べるとき、人はそれぞれに食の工程をあらかじめ意識し、その工程に従って食を実行する。例えばラーメンを食べるとき、つるつるっとまず麺を一口、口に入れる。もう一口、つるつるっと麺を流す。ここで、スプーンでダシをすくい、ずるっと飲み干す。ここからは、連続して三口、四口と麺を食する。その後に、やおらチャーシューに手をつける。こういった食の工程は、人によってさまざまである。

 ラーメンにしても、うどんや蕎麦にしても、最初の一口をダシにするか麺にするか、ここで大きくその人の食に対するこだわりが違ってくる。普通に空腹のときやあまり食にこだわらない人は、まず麺から手をつけるのが一般的であろう。しかし最初の一口でダシを飲む人、しかも難しい顔をして味をかみ締めるようにダシを飲む人は食にうるさい。そのダシが満足した場合は、麺2回とダシ1回の割合で交互にかみ締めながら味わうであろう。しかし満足でないダシの場合は、その後はほとんど麺だけを食して、最後に不機嫌そうにダシを一気に飲む。

 美味しいそうなものや好きなものから先に手をつけるのか、苦手なものや嫌いなものから先に手をつけるのか、その選択はその人の人間性が絡んでくる。普通に考えれば、美味しいそうなものや好きなものから先に手をつけるのが当たり前であり、そのような人は普通の善人であり、素直な一般人である。反対に苦手なものや嫌いなものから先に手をつける人は、その人は出された食事を残さず食することを念頭に食の工程を考えているのである。だから、そのような人は状況把握に長けており、思慮深く、計画性がある。しかしそのような人は、何かの事情で残すことが許可されたと知るや、一切、苦手なものや嫌いなものには手をつけなくなる。

 鍋を囲むとさらに人間性が出てくる。すき焼きの肉、蟹鍋の蟹と、最初からメインだけをごっそり持っていく人、バランスよくよそう人、遠慮気味に脇役ばかりをよそう人など、さまざまである。こういう公共的な食の場合には、その人のエゴや主張、気配りや配慮、公共意識の差などを垣間見ることができる。

 鍋はいろいろな問題を抱えた難しい食である。誰が陣頭指揮して作るのか、味付けは誰に合わすのか、完成したら誰がよそうのかなど、公共性と協調性を試されるからである。仲間に奉行がいるときはいいが、奉行がいないときは誰が作成するのか気をもむ。仮に奉行がいてもあまりにワンマンな奉行の場合は、とんでもないことになりかねない。場が白ける場合もある。

 女性の立場で言うと、男女で鍋を囲むのは嫌なことだろう。それも女性1人で残りは男性という場合は最悪である。なぜなら、どういうわけか女性がよそうものだというムードが最初から漂っているのである。そんな場合は先手を取って、「じか箸でいいよねっ!」とみなの同意をとるといい。そうすれば、各自がよそうルールが一気に定着する。少なくとも自分ひとりが犠牲にならなくてよい。いちいち他人のをよそうほど嫌なものはなかろう。それも嫌いな男性のをよそうのは最悪だろう。

「名曲は歌い継がれる」のか

 「名曲は歌い継がれる」という言葉がある。しかし、ほんとうにそうであろうか。とある記事を見て、そう思った。その記事は、元横綱審議委員である内館牧子さんが現在、客員教授をしている武蔵野美術大学での講義のことである。シナリオ制作の実習授業として「美空ひばり」を題材にした論文を求めたところ、女子学生の誰も「美空ひばり」そのものを知らなかったというのだ。

 考えてみれば、一昔前の名曲である「悲しい酒」(S.41)、「よこはま・たそがれ」(S.46)、「昔の名前で出ています」(S.50)、「北の宿から」(S.50)、「津軽海峡冬景色」(S.52)、「与作」(S.53)、「みだれ髪」(S.62)と、どれも24年前かそれより以前の曲であり、学生たちは生まれていない。知らないのは当然といえば当然かも知れない。

 しかし我々団塊の世代は、東海林太郎の「赤城の子守唄」(S.9)を知っているし、岡本晴夫の「憧れのハワイ航路」(S.23)も知っている。生まれていない頃の数々の懐メロをなぜか知っている。グループサウンズやビートルズに夢中になっていたにもかかわらずである。この違いは何か。それでは、昔と今でどう違うのか。「名曲は歌い継がれる」ことがなくなったのか。

 昔は娯楽が少なく歌謡曲に憧れた。そのうちカラオケが出たが、限りある少ない曲本をめくっては1曲、1曲、丁寧に歌ったものだ。廻りの客も頷きながら聞き、上手くても下手であろうとも、拍手し合ったものだ。今時のカラオケボックスはどうか。曲が無数にある。人が歌っているときに自分の曲を選曲する。ほとんど他人の歌は聞かない。歌うというより声を張り上げて騒ぐ。

 遊びも無数であり娯楽も多様化している。演歌が廃(すた)れたことも大きい。歌詞を大切にしていた時代から、いつしか速いテンポの意味不明な曲へと時代変遷していった。いろいろな要素があろうが、いずれにしても寂しいことである。今の若者に孫ができた頃、KARAやAKB48の歌が名曲となって残っているだろうか。はなはだ疑問である。

 そういう愚痴を言いながら、昔を懐かしんで今日も昔の名曲を歌う。やはり昭和に生きててよかったと思う瞬間である。

茶番劇

 「底の見え透いたばかばかしい物事や振る舞い」を「茶番劇」という(明鏡国語辞典)。今回の大相撲八百長事件に関する関係者の言動は正に「茶番劇」である。疑惑の力士をはじめ、理事長、解説者、メデイア、国民のすべてが異口同音に「あろうはずがない」「たまげた」「もしそうなら裏切られた」を連呼している。ちゃんちゃらおかしい。

 私は1月24日に「大相撲の闇」というタイトルのブログで八百長について記したばかりである。何も今回のような証拠メールを待たずとも、過去の暴露発言を待たずとも、統計学に立脚した論理的手法によって八百長の存在は立証できるとしている。

 私が言うまでもなく、国民の多くが八百長の存在を認識しているはずである。さらに大相撲は実は国技でも何でもないという信頼できる意見もある。それにもかかわらず、メデイアも国民も国技という前提のもとに八百長の存在を否定しようとし、大相撲を擁護しようとする。八百長は現に存在すると、なぜ正面きって言わないのか。大相撲は国技でないと、なぜ声高に言わないのか。白黒はっきりしない建前主義の日本社会に私はもう辟易している。

 相手が認めないなら、相手が変わらないのであれば、こちらが変われば良いのだ。大相撲を国技と考えるからおかしいのだ。公益法人であること自体がおかしいのだ。それよりも、大相撲はスポーツでも競技でもない。ただの興行なのだと思えば良いのか。それにしても割り切れない気持ちになるのは、私だけであろうか。

日本茶を飲もう

 どこかのテレビ番組で人口10万人以上の都市を対象に、都市別の癌死亡率ランキングというのをやっていた。そこで発表された癌死亡率最低の都市が静岡県掛川市であった。また、埼玉県・三重県・鹿児島県下の都市も癌死亡率が低いランキングに多く含まれていた。

 この癌死亡率ランキング、低い原因は市民の日本茶摂取量に関係しているという。そういえば、静岡県掛川市は川根茶の産地である。埼玉県には狭山茶があり、三重県には伊勢茶があり、鹿児島県には知覧茶がある。どこもお茶の産地であるから、説得力がある。これらの都市は医療費も少ないという。

 お茶には次のような成分と作用があると言われている(「お茶街道文化会」による)。
1)エピガロカテキン
 お茶のにが渋味のもとになるタンニンの母体となるカテキン類の一種であり、抗酸化、抗菌、血中コレステロール上昇抑制、血糖上昇抑制抗う食(虫歯を防ぐ)脱臭など、さまざまな生理作用がある。
2)カフェイン
 軽い苦みがある。 血液の循環をよくし、心拍数を増加させ酵素消費量を上げる。利尿作用があり、中枢神経を刺激し、脳の働きを活性化させる。等など、さまざまな生理作用がある。 
3)ビタミンC
 水溶性で熱にも強い為、緑茶浸出液には多い。レモン果汁10cc分のビタミンCは緑茶なら2~5gの浸出液に含まれる。
4)テアニン
 お茶に含まれる旨味成分であるアミノ酸の一種で、一番茶ではそのうち約75%を占める。根で作られ茎を通って葉に移り貯えられる。葉に日光が当たると、次第にカテキン類に変化するため、覆いをかけて育てる玉露に多く含まれる。

 私は元来、無類のお茶好きである。お茶を飲むことを日常化しているが、お茶を飲むことで癌死亡率のリスクが少なくなると聞けば、ますますお茶を飲まずにはおれない。こうして、最近では焼酎もお茶割りにしている私であるが、お茶による癌のリスク軽減よりも何十倍もお酒による癌のリスク増加があることを無視している自分が滑稽である。

伊達マスク

 風邪でもないのに、花粉症でもないのに、年中マスクをしている人がいる。中学生とか高校生とかにも多い。ゲーセンやファミレスなどであっけなく見つけることができる。「伊達直人」ならぬ「伊達マスク」である。

 そういう「伊達マスク」の子に関する記事によれば、彼らは、例えばファミレスにおいてコーヒーカップを持ち上げたときだけ、マスクをあごにずらす。ひと口飲むごとに、またすぐに戻すのである。外に出るときは基本的に着用して、完全に外すのは、ご飯、風呂、寝るときだけという子もいるらしい。「伊達マスク」を手放せない理由を聞くと、つけると何となく安心するという。そしてもっと不思議なのは、親も教師も注意をしないらしいことである。

 さて、「伊達マスク」着用の真意は如何に。シニアの「伊達マスク」であれば理解できようというものだ。例えば私の同居人が朝スッピンでゴミ出しをしようものなら、マスク着用を切に願うというものだ。シニアの女子が集まるとマスクを着用して欲しいほどに騒々しい。口の周りに泡を出している老人にもマスク着用をお願いしたい。このように、シニアの「伊達マスク」は景観維持と環境保全を目的とする。問題は若い子の「伊達マスク」である。

 思春期において顔に自信がないとか、顔にコンプレックスがあるといった理由でマスクを着用したいという思いもあるかも知れない。それはそれで理解できるが、恐らく「伊達マスク」の子は標準的な顔立ちと推測する。ならば、なぜに。結局のところ思いたどるのは、マスクで隠しているのは「自信のない自分」なのではないのかと。マスクで自身を隠すことで素の個から離脱して別の個となる。親や先生の言葉を他人の言葉として聞き流し、素の個としては答えない。

 この「伊達マスク」は「伊達サングラス」にも似たところがある。「自信のない自分」を隠すという共通点がある。「伊達サングラス」により「自信のない自分」を隠すと同時に、自分ではない別の自分を演じることができる。人と話すときには相手の顔を見て話しなさいとは、昔からの教えである。「伊達マスク」にしろ「伊達サングラス」にしろ、自ら顔の一部を隠すということは、自ら社会との関係を拒絶したことになる。社会からの逃避である。
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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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