今年一年に感謝

 今日28日は会社の御用納めです。大掃除も忘年会も既に先週終わっているので、今日は普通に仕事して定時に帰ります。明日から従業員はお休みですが、私は休み中も時々、会社に出没します。今年一年、会社は不況の影響でいろんなことがありました。来年1月の決算は散々な結果が予想されます。でも、事故なく無事に、一年を終えて安堵しています。「今年一年ご苦労さまでした」「来年もよろしく」と素直に言えることに感謝したいです。

 明日、東京から息子が帰り、広島市内から娘が初孫と帰ります。大晦日には娘婿も加わって、同居人との廃墟であった我が家に明かりが灯り、一時の賑やかさを取り戻します。

 我が家では毎年、大晦日に「今年の重(十)大ニュース」なるものをやっています。一年の各自の出来事、ハプニング、変化などを書き出し、上位10項目を選んで手書きで記録に残す。結婚してこのかたずっと続いているので、もう40枚近くの十大ニュースの紙切れがあり、これが我が家の財産となっている。

 毎年、過去の重(十)大ニュースの紙切れを見るのも楽しみになっている。その年の出来事もさることながら、手書きの字の様子などから、その年の様子が伺える。そのようなことを繰り返し、毎年の年越しをしている。そして、今年も家族に対してこの一年の幸せに感謝したい。

 今年5月にシニア・ナビに再入会した。その後、休日以外、ほぼ毎日、ブログを更新してきた。そのブログに多くのコメントをいただいた。賛同意見のコメントは励ましになった。賛同しない意見も有難かく頂戴した。それによって独りよがりでない柔軟な自分を研鑽することができた。

 シニア・ナビに入会してこの方、多くの友を得ることができた。「しあわせさがしさん」「山猫軒さん」「おしゃれ猫さん」「ブルさん」「グラニイ夕里子さん」「まこさん」「yayaさん」「みのりさん」「トパーズさん」「夏の華さん」「dekoさん」「オレンジさん」「みかんさん」「のんびり万歳さん」「かをるさん」「rippleさん」「まさよさん」「ひばりさん」「雪之丞さん」・・・・・・(順不同)。あげたらきりがないくらいの多くの方と知り得た。みなさんに感謝です。この一年、皆さんありがとうございました。

 一年の締めくくりに、まずこの世にまだ生あることに感謝したい。そして、家族、友、愛する人、同士、師、飲み屋のマスター、スナックのママ、魚屋の大将、八百屋の女将・・・・、関わったすべての方に感謝したい。一期一会を大切にしたい。ありがとう!
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「老い」の優劣

 もともと本嫌いの私であるが、最近はAmazonからコンビニ経由で本を多く仕入れている。今話題の「老い」に関する2冊の本とその著者2人に共通点を見出した。

 ひとつは曽野綾子氏の「老いの才覚」という本である。1931年生まれ79才の曽野綾子氏は、1967年の36才のときに「戒老録」を出している。つまり、彼女は中年から壮年への移行期に自らの「老い」を予測し、「老い」について考えている。そして後期高齢になって改めて「老い」についてまとめている。

 もうひとつは渡部昇一氏の「知的余生の方法」という本である。1930年生まれ80才の渡部昇一氏は、1976年の46才のときに「知的生活の方法」を出版している。つまり、壮年期に知的な生活のあり方について考えていたが、後期高齢になって改めて「老い」の知的生活についてまとめている。

 ふたりに共通しているのは、ふたりはともに現在、79才~80才であること。中年期から壮年期にかけて「老い」というものを意識した生活のあり方、考え方を予測したいる点。そして後期高齢になってから改めて「老い」を検証している点である。

 「老いの才覚」と「知的余生の方法」は内容も似通っている。ふたりによる「老い」のあり方をまとめると、概ねこうである。「老い」には品性、品格を伴わなければならない。他人の世話にできるだけならないように努力せねばならない。精神的にも金銭的にも自立することが求められる。より知的に生きることが必要である。老人の特典をできるだけ受けないようにしなければならない。

 彼らの意見の本質は理解できる私であるが、賛同する気にはどうしてもなれない。それは知的でエリートでお金を持つものの論理みたいなものが垣間見られるからである。誰しもできるなら生活保護を受けないでいたいであろうし、介護も好きで受けているわけでない。満足な介護も金銭的に受けられない人はごまんといる。知識も教養もあった方がいいに決まっているが、そうでない老人を責めることもできまい。

 「老い」に関する書籍は沢山あるが、そのどれもが自立した知的な「老い」を推奨している。しかしどこか現実と乖離していることは否めない。知的でエリートな「老い」が立派で、そうでない「老い」は下劣という考えが根底にあるようである。「老い」に優劣はなく、人生の先輩という点ではどの「老い」も公平である。人生の殊勲者である「老い」に対して、やさいさと労(ねぎら)いの気持ちが必要ではないのか。

紅白歌合戦への思い


 紅白歌合戦というのは、昔は重みがあり、豪華であり、尊厳すらあった。その年に大ヒットした曲だけが選ばれ、その年に売れた歌手だけが出場の機会を与えられた。毎年のように、歌手も曲も入れ替わる、歌謡界の激しい最高峰のバトルの場でもあった。大晦日にその年のヒット曲を思い出し、その年の個人個人の思い出でとともに、哀愁をもって、時には鳥肌が立つ思いで見たものだ。

 そんな紅白がいつからこんなにキャラいものになったのか。今年の出場メンバーを見ても唖然とする。HYだの、AAAだの、NYCだの、L’Arc~en~Cielだのって、アルファベットを並べられても、どちらが歌手名で、どちらが曲目なのかさえわからない。EXILEといわれてもExcellの間違いじゃないかと思うし、ポルノグラフィテイなんていわれても風俗映像まで流しやがってと思ったほどだ。そりゃ、流行遅れの拙者が知らないだけのことでしょうから、目をつぶらねばならないのか。

 しかし、川中美幸の「二輪草」だの、森進一の「襟裳岬」だの、石川さゆりの「天城越え」だの、中村美津子の「河内おとこ節」だのって、昔の曲をわざわざ引っさげて無理して出さなくてもよかろうに。曲が売れない往年の歌手を名声だけで出場さすのには理解に苦しむ。北島三郎「風雪ながれ旅」に至っては、星野哲郎の追悼に便乗したものとしか考えられない。極めつけは加山雄三の「若大将」である。確かに年の割には元気であるが、シニアへの応援歌のつもりなのか。これだったら、まだ往年の美空ひばりのCGでも出した方が気が利いている。いずれにしても、どういう基準で出場を審査しているのか、まったく理解できない。

 紅白の凋落の原因を考えてみるに、全般に曲が売れないことにつきる。既にレコードはなくなり、CDすら消えつつある。保存媒体は次第に縮小されつつある。曲は安価にダウンロードできる。コピーもはびこる。曲を聴く側の質の低下もある。カードやSDに凝縮された曲を聴いて満足している。レコードで聴いてもオーケストラで聴いても、その違いや価値が見出せなくなっている。音楽というものはこういうものだと既に思っているのかも知れない。歌謡界のみならず音楽会全体として、情報社会における音楽のあり方について真剣に取り組む必要があろう。

他人の評価

 人は本能的に他人に嫌われたくないと思う。「誰に?」と聞かれても漠然と、誰にでも、とくに、親や子供や親しい人に。とりわけ、好きな人や大切な人には嫌われたくないと思う。

 他人に嫌われているということを本人が悟らない場合はよい。嫌われていると感じない場合もよい。しかし、面と向かって自分が否定されたり受け入れられなかったりすると、そのことをさほど気にしない人と落ち込む人に分かれる。

 さほど気にしない人とはどんな人か。自分に自信がある人、他人に何と言われようが確固たるポリシーを持っている人、もしくは非常に鈍感な人か、いずれかであろう。ここで鈍感な人は、そもそも嫌われていると感じない場合も多いので、ますます嫌われることの弊害が少ない。だから、ここでは鈍感な人は問題から除外しよう。

 自分に自信がある人とは、本人の人間性を超えて自信過剰であることもあろう。確固たるポリシーを持っている人も、そのポリシーなるものに客観性がなく、世に認知されないこともあろう。

 こうして考えると、普通の人だったら他人に嫌われことに少なからず嫌悪感をいだくものである。すごく落ち込んだり、相手に憎悪を感じたり、避けるようになったり、その程度は人によってさまざまであるが。

 逆に、人は本能的に他人に褒められたいとも思う。相手が誰にしろ、褒められると嬉しいものである。とくに好きな人や大切な人に褒められると、なお嬉しい。褒められるという行為にはネガテイブなことが少なく、ポデイテイブになる。親にほめられて伸びる子供、上司に褒められて成長する社員、師に褒められて上達する教え子など、褒められることにより人は成長する。

 嫌われることにしても褒められることにしても、人はなぜこれほどに他人の評価を気にして生きているのか。一人ぼっちでは生きていけないことを承知した上で、できるだけ気持ちよく生きたいと願うからであろうか。そうだったら、嫌われるような言動を慎めば、少なくとも嫌われることは避けられる。自分の言動に自信がない場合はどうか。それだったら、自己主張しないで目立った言動を避ければよい。つまり、自我を捨てて生きてさえいれば、嫌われることも褒められることもないであろう。果たして、そうした生き方は人間本来の生き方であろうか。

 人にはそれぞれに好き嫌いがあり、人にはそれぞれに自我がある。それを互いにぶつけ合う。だから摩擦もおきる。その摩擦を英知でもって解決するのもまた人間の技ではないのか。私はこれからも人の評価を気にしながらも、人間らしく生きていきたい。嫌われもしよう、憎まれもしよう、たまには褒められることもあって欲しいと思う。私は生身の人間だから。

一陽来復

 今日は二十四節気の「冬至」である。一年で昼が最も短く夜が最も長い冬至は、一年の節目でもある。季節的にはこれから冬本番であるが、この日を境に日は長くなる一方である。その意味から「一陽来復」の言葉と重なる。

 大昔の中国の占い本「易経」によると、世の全ての現象は、陽の気が多くなったり少なくなったり、陰の気が少なくなったり多くなったりを繰り返しているとされている。陽の気がなくなり陰の気ばかりになっていっても、ある日を境に再び陽の気が復活してくる。これが「一陽来復」である。国語辞典によると、「逆境・不運など、良くないことが続いた後、ようやく幸運が向いてくること」とある。昔の人は、冬至を境に日が長くなることから、冬至は太陽の力が復活する日と考えたのであろう。

 現代における世情の閉塞感、世界平和が遠のく危機感、脱出できない経済情勢と、どれをとっても陰の気が強い。「陰極まって陽戻る」の諺のように、これを機に良い方向に向かうことを願わずにいられない。皆さんの健康、家計、人間関係、国政、景気が良い方向に向くことを、かぼちゃを食べて、柚子風呂に入って祈ることにしよう。

一兵卒

 政倫審に拘束力がないことはわかっています。政倫審を開催したとしても自民が応じないであろうこともわかっています。さらに、検察に起訴された者が政倫審に出席するのもどうかと思います。ですから、実際には政倫審にあなたが出席することはないでしょう。でも、そんなことはどうでも良いことなのです。私が言いたいのは単純なことです。上司が命じたことに従わないのはどういうことですか、という一点です。

 あなたは自ら一兵卒として働くと明言したはずです。「一兵卒」とは、「一兵士」、「ある活動をする大勢の中の一人として下積みの任務に励む者」の意味です。一兵卒であるあなたがなぜ党の幹部の指示に従わないのでしょうか。逆に、党の幹部は従わぬ一兵卒に対してなぜ離党勧告をしないのでしょうか。

 あなたの政治手腕は評価しています。この政治混乱にあって、あなたのような強引な手法も必要だとも思います。しかし、「一兵士」と言いながら数と金の力であやつる手法、いつも表に出てこない陰の顔、言葉と行動の乖離、そういうあなたに国民はほとほと嫌気がさしているのです。あなたには壊す力はありますが、再生する力はありませんから。

年賀状

 早いものでもう年賀状の季節です。年賀状を出す人、出さない人、出し方や返信の仕方、年賀の内容など、人さまざまです。

 私の場合、まず昨年の宛先リストを印刷して、今年は誰に出すかを決める。正月三が日の間に相互に出入があった人、こちらからの年賀に対して返信という形で年賀を送っていただいた人、出したが返信がない人、喪中の人など、ランク区分しておき、今年の送信先を決定する。年賀はできるだけ縮小方向を考えているが、それでも来るものは拒まずを基本としている。こちらから出しても返信がないものは、無礼と判定し、逃げるものは追わずの考えから、翌年は出さないようにしている。

 毎年、年賀状を出したり頂いたりしていて思うこと。疎遠な人やあまり関係ない人、もう顔すら思い出さない相手なのに、年賀状を何年もやりとりしているという不思議さがある。中にはまったく覚えのない人からの年賀状があり、気味が悪い。でもちゃんと毎年くるから、これがまた不思議。結局、私みたいに年賀状を頂くと律儀に出す人は、どんどん年賀状の枚数が増えてくる。

 逆に、大変お世話になった人や挨拶しなきゃいけない人、ごくごく親しい人に対して、案外、年賀状のやりとりがないのも不思議である。年賀状を出さない主義の人もいるが、そんな御仁は、私の方で毎年出欠をとっているから、大丈夫。問題はたまたまその年に喪中の人は、あくる年に出すのを忘れて、結局縁遠くなることが多い。

 年賀の内容も人さまざま。私の場合は葉書一杯に世情や今年の所信表明などをこまごまと書きつくす。こういう濃い年賀をいただいた人はさぞ疲れると思う。一番つまらないのは通り一遍の挨拶を印刷したものである。手書きで何か一言添えればいいのにと思う。家族の写真や子供の写真を印刷したものは、親しい人には良いだろうが、会社関係にはそぐわない。

 日本古来の年賀状の風習、あれば鬱陶しいが、されどなくなると寂しいのが年賀状である。

物の心、人の心

 会社を設立した時、お金がなくて会社の備品を探しに中古家具屋を廻った。とある中古家具屋でスチール机やロッカー、回転椅子などを買い揃えた。戦争で片足が不自由な当時70歳の店長と交渉して、どれも新品値段の2~3割で買い取った。

 それから15年、事務所を引っ越すことになり、当時の中古家具が不要になった。しかしどれも愛着があり、廃棄するにも勇気がいった。同じことなら同じ家具屋で引き取ってもらおうと久しぶりに店長に電話したところ、しわがれの懐かしい声で快く引き取っていただけることになった。

 事務所に引き取りにきた店長はもう85歳になっていた。一段とやせ細り、足もほとんど片足の不自由な状態になっていた。店長はひととおり処分品を見て廻り、どれもこれも大切に使っていただいて・・・・・と感謝の意を示しながら、しかし今では時代も変わって、灰色の文具機はたとえきれいでも人気がなくて処分になると、うらめしそうに漏らした。結局のところ、ほとんど処分対象となり本来であれば処分費用をいただくところだけど、当時お世話になったことだし、大切に使っていただいたのでと、逆に数万円を申し訳なさそうに私に渡した。とんでもないと引き返したが、せめてものお礼ですと店長は固辞した。

 トラックに中古家具を積み込むのを汗しながら一緒に手伝った後、冷たいお茶を出した。ひとしきり、昔はよかったという話をした後、店長は玄関先で深々と頭を下げた。帰り際、店長にお茶とお菓子の袋詰めをそっと手渡した。

 あの店長は今ではもう90歳になるけど、元気にしているだろうかと気にかかる。この時代にあんな店長なんかもういない。物だって使い捨ての世の中、人の心だって殺伐としている。物を大切にし、人と人との会話にも心があった少し前のことが懐かしい。

「悩ましい」という言葉

 私は以前、このブログにおいて「させていただく」という言葉のあいまいさについて記した。同じように、最近、新聞や雑誌でやたらと目につく言葉のひとつに「悩ましい」がある。“消費税の引き上げは政治にとって悩ましい問題である”とか、“アメリカにとって不安定なイラク情勢が悩ましいところだ”という風に使っている。それも新聞の社説やコラムにもよく登場する。

 はたと戸惑い、違和感を覚える。「悩ましい」とは、例えば“香水の香りが悩ましい”とか“彼女の悩ましいしぐさに惚れて”という風に、もっぱら官能的な情緒を示す言葉であるはずである。それを、苦悩しているとか、困難であるという意味で使っているのが気にかかる。

 前述の例題だと、“消費税の引き上げは政治にとって悩みの種である”とか、“アメリカにとって不安定なイラク情勢はやっかいな問題である”というのが正解であろう。どうも言葉の使い方が乱れている実感がするのは、私だけではなかろう。もっと日本語を大切にしよう。

「食べる」ということ

 人間、生きるためには食べなくてはいけない。食べるためには殺生しなければならない。牛、豚、鶏などの肉類を食べずとも魚を食べるであろう。魚さえも食べずに、宮沢賢治に習い菜食主義に徹したとしても、生ある植物を切り取って食べることになり、所詮、殺生に変わりない。すなわち、生きることと殺すこととは不可分の関係にある。

 しかし、我々は日常生活において生きるために殺していることを忘れている。子供だって少し考えればわかることを大人になればなるほど忘れている。いや、忘れているというよりも、ごく当たり前のことと思っているに違いない。怖いことである。その一方で、生き物の保護を声高に訴えもしている。

 そう考えると、人間にはそもそもおぞましい暴力装置が備え付けられているのではないかと考える。その暴力を問い、否定するということは自己を否定することにもなる。殺されたくない、殺したくない、死ぬのも怖い。だとすれば生きるということはどういうことなのか。人間にとって食べるということは何か。魯山人は、食べることとは、「殺した相手からの愛に貫かれて食べること」としている。つまり「食うとは食われること」なのか。今流行の生物保護を声高に訴える前に、「人間と食」について今一度、考え直してみる必要があろう。



寡黙がそれほどに美徳なのか

 増位山が歌った「男の背中」という曲がある。「♪男の肩と背中には ♪むかしの影がゆれている ♪恋も涙も悲しみも ♪誰にも言えない傷あとも・・・・・」言葉に出せない男の胸中を男の背中に例えた名曲である。「沈黙は金なり」に始まり「男は黙ってサッポロビール」に至るまで、寡黙、とくに男の寡黙は日本において賞賛されてきたように思う。

 中日の落合監督の息子である落合福嗣さんは、父の寡黙な仕事ぶりをある記事で賞賛していた。選手としても監督としても実績は十分な父(落合監督)であるがなぜか嫌われる、という嘆きからその記事は始まった。嫌われる理由をこう解説している。発言を曲解され、何を言っても無駄だという思いから多くを語らず、それがさらに誤解を招いているからであると。

 具体的な例として、日本シリーズに敗れたとき「一番低い山でけつまずいた」と言い、対戦相手のロッテを見下す発言だと批判されたことをあげている。ほんとうは違うのだと息子はいう。シーズンが最も高い山で、次いでクライマックスシリーズ、日本シリーズと続く。だから「3番目に高い山」と言ったのだと。「低い」という表現ではないと。父はむしろロッテを賞賛していたとも、つけ加えた。

 彼にはコラムニストという肩書きがついていた。いつからコラムニストになったのか、私は知らない。コラムニストにしてはあまりに稚拙な文もさることながら、父をかばうあまりのその言い訳もあまりに筋が通っていない。「低い」という表現ではないと言ったって、現に「一番低い山でけつまずいた」と言っているのである。誰が聞いても、一番低い山はロッテということになるであろう。実際に落合監督がロッテを賞賛しようがすまいが関係ない。言葉は言葉である。

 この例に見るように、単に話すのが苦手であったり、舌足らずであったり、話し言葉が不適切であったことを、すべて寡黙のせいにすることが多い。失言や無礼を寡黙のためだと容認したりする風潮もある。少し厳しい言い方をするようだが、寡黙は美徳でも何でもない。誰しもわざわざしゃべりたくないこともあるが、しゃべらないといけないのが世の中である。しゃべらなければ何も始まらない。しゃべらなければ何も伝わらない。しゃべらなければ何も解決しないのである。寡黙は美徳でも何でもない。

交通安全協会

 免許更新の知らせが来て、誕生日まで1ケ月を切った今日、待ってましたとばかり更新に出かけた。晴れて念願のゴールド免許の授与である。先犯は右折の信号無視であった。黄色で侵入して赤になったのでそのまま右折したところ、背後に待ち伏せしていたパトカーに御用となった。警察官に「そんなことしていたら性格悪くなるよ」って、要らぬことまで言っちゃった。本人は全く納得していないブルーの免許に、この3年間、心もブルーであった。

 さっさと優良講習を受けてゴールドの授与と相なったが、免許更新のときいつも不快に思うのが、交通安全協会への入会斡旋である。交通安全のため児童の交通保護のため、こんなにもあんなにも役立っているという説明をくどくどとして入会を斡旋する。年会費は500円、5年間で2,500円。安くはない。第一、免許更新には必要のないし、予定外の出費である。強制でもないが半強制的な斡旋の仕方も不愉快である。

 この交通安全協会っていうもの、その実態がよくわからない。警察OBの団体であるが実際にどのように使われているのかはっきりしない。入会のメリットは交通安全協会の手帳をいただくこと、免許更新の連絡がくることなど。手帳など要らないし、免許更新の連絡は警察からちゃんとくる。従って私の場合は、はっきり拒否し、入会しないことにしている。交通安全にほんとうに必要なお金であれば制度化すれば済むことである。警察OBの温床のために出費するのは馬鹿げている。

 しかしである。驚くことに、多くの人が入会しているのである。以前は10人が10人、入会していたようである。日本人というのは何てお人よしなことなのか。それともその程度の出費はどうってことないとおっしゃるのか。拒否するのがおっくうなのか。さもなくば、ほんとうに交通安全のためだけに使われていると信じているのか。あきれてしまう。交通安全協会の存在そのものを仕分けしていただきたい。

無知庵

 今からかれこれ15年前、車でふと通りかかった山里に温泉付き別荘地が開発されていた。気まぐれと遊び心で、その場で土地の購入を即決した。その無謀さに同居人が驚いた。このときが「無知庵」構想の原点である。と同時に、同居人との「無知庵」抗争の始まりでもあった。
 
 私は、常々、男には夢とロマンがないといけないと主張してきた。そう言うたびに、同居人からあきれ顔で叱られた。「いいよね~、男って、夢だのロマンだのって、家庭を顧みずにのんきなこと言って・・・」と。私は、そのような嫌味や罵倒に屈することなく、ひたすら己の夢とロマンを追い求めた「野風増」である。

 私の夢とロマンのひとつに、地質屋仲間や気のおける仲間と大いに人生を語り合いたいという願望があった。それには遠慮のない山里の山小屋がよい。自宅では招く側がしんどく、招かれる側も遠慮がある。近所に居酒屋や店など邪魔なものがない方がよい。自宅に帰るにはちょっと遠いが、帰ろうと思えば1時間くらいで戻れないことはない、そんなほどよい距離感がよい。テレビもなく電話も繋がらない、そんな田舎がよい。邪魔なものが一切なく、真剣勝負で語り明かす。それが山小屋「無知庵」の原点である。

 「無知庵」とは、ソクラテスの「無知の知」から引用した。我々はとかく何でも知っていると勘違いしているが、ほんとうは何もわかっていないのである。老いも若きも男も女も同じである。何ひとつ知らないという共通認識を原点に人生を語りたい。先入観や経験談は要らない。まして、人さまの受け売りは以ての外である。自分の頭で考えたことを自分の心情でもって心底語り合いたい、そんな思いで命名した。

 「無知庵」を少しだけ紹介しておこう。標高850mのこの地は気温が平地より7℃低い。だから夏はクーラーいらずで快適である。逆に、冬は積雪がひどい。数年前の冬には積雪深が1mに達してテラスごと雪の重みで壊れた。冷泉であるがラドン温泉が楽しめる。水が美味しい。空気が美味しい。ギターの音も気にすることなくできる。陶芸もできる。勿論、気のおける仲間と大いに語ることもできる。こんな「無知庵」にてシニアの仲間と語る日もあるだろう。




無知庵

トヨタとマツダ

 企業によって体質はさまざまである。企業体質は経営によって育まれ、その企業体質が企業発展の命運をかけることになる。こうしたことは頭では容易に理解できるが、実際にそれをじかに身をもって経験すると、さらに実感としてわかる。

 独立する前に私がいた会社は、大学の助教授と助手が始めた小さな個人商店であったが、創業38年にして一部上場し、一躍、同業種の最大手にまで登りつめた。しかし反面、会社体質はきわめて質素であった。同業他社の会社の社長が運転手付きのベンツで出社するのに対して、わが社の社長は電車と徒歩で1時間かけて通勤する。それも誰よりも早く。会社の接待費はゼロ円、ゴルフ厳禁、真面目一徹の会社であった。その体質が驕りを戒め、不景気な中でも成長する原動力になったであろう。ベンツで出社する社長の会社のいくつかは、その後、倒産したと後になって聞いた。

 名古屋勤務の時代、トヨタはお得意さまであった。新たな工場計画の打ち合わせに本社ビルに行った。質素な打ち合わせ室に通され、お茶のひとつも出てこない。室外の自販機で勝手に購入してくれという。どんな大切なお客様でも同じ待遇だという。おまけに12時になると自動的に部屋の照明が消された。

 2~3年の後に広島転勤になり、今度はマツダの本社ビルに行く機会があった。埋立地に立つ本社ビルに亀裂が発生したので、その調査と修復のための打ち合わせであった。マツダの敷地に入るにはマツダ車でなければならない。わざわざレンタカーを借りて入場した。絨毯がひきつめられた綺麗な部屋に通され、秘書風の若い美人がお茶をもってきた。それも少しぬる目の高級抹茶を。

 質素で効率的で敷居の低いトヨタと派手でしがらみが多いマツダ、この企業体質の違いは歴然としている。その後の両者の成長振りをみれば、どちらが健全な企業体質であるかは一目瞭然であろう。その後、マツダは外人社長となり、マツダ会と称されるそれまでの協力会というしがらみを全廃し、企業体質も変革した。そして、マツダは成長路線に戻した。

イルミネーション

 クリスマスが近づくこの時期になると、日本全国どこの街角にもイルミネーションが輝く。最近では一般家庭でもイルミネーションをする家が多い。イルミネーションの飾りつけがある家を見ると、勝手にこう想像する。家の主は年の頃なら40歳代まで、夫婦とも健在で、中学生までの子供がいて、奥さんが明るくどちらかと言うとミーハーで、いずれにしても幸せで円満な家庭であろうと。そりゃそうだろう。食べるに困窮したり、年寄りだけの家だったり、ひとりやもめにイルミネーションはないだろう。

 しかし、一般家庭のイルミネーションも度を越すと、とんでもないことになる。広島市郊外のとある高級住宅街はイルミネーションで有名である。これは半端じゃなく、クリスマスのデイズニーに負けていない。1軒で100個以上のサンタを飾り付けしたり、壁面から屋根まで色とりどりのハイテンションのイルミ、さらに室内には蝋人形の飾りつけまでライトアップして外から見えるようにしている。

 まるで生活感が感じられないここの住民とは、アメリカ帰りの富豪人とか、どこかの大病院の院長とからしい。街角は他府県の見物客の車でごった返し、テレビの放映もしばしば。最初は簡素だったらしいが、次第にヒートアップ、虚栄心の競争から10年にしてこの有様。聞くところによると、1軒の電気代が別に10万円以上かかるらしい。公共料金の支払いにままならない我々には気が遠くなる話である。

 ところが、このイルミネーション界隈に異変が起きた。今年からイルミネーションが中止されたのである。聞くところによると、見物人が多くて、違法駐車が後を絶たない。第一、家の住人が自分の家に入れない。一晩中光々とした明かりで近所迷惑の苦情がでる。犬や猫が落ち着かない。

 今年も見にいこうとした矢先の知らせに少しがっかりしたが、まあ仕方ないだろう。一般家庭のイルミネーションは、やはり、ささやかに飾りつけするのが一番だろう。幸せのシンボルのイルミネーション、私はこっそり胸に灯すとしよう。

賞与

 例年、この時期になると賞与のことで頭を痛める。会社を設立して18年、会社の経営はその時々で浮き沈みはあったものの、賞与は必ず支給してきた。景気の良いときには1人100万円を超えた年もあった。しかし、リーマンショック以来の不景気で、会社の経営がままならない。実際のところ、賞与なんてとても出せる状態ではない。

 しかし、従業員にはそれぞれに家庭があり、正月を迎えるに準備もいるであろう。不景気と承知の上でも、多少はあてにしているであろう。それに、景気の動向とは関係なく従業員は同じように働いている。評価は別として、少なくとも本人は頑張っていると思っているであろう。さて、どうしたものか。

 散々悩んだあげく、役員報酬から泣く泣く捻出することにした。私の役員報酬も従業員給与と大差ないことを従業員は知っているので、かわずかばかりの賞与にも喜んでくれた。本心は万札についていきたい思いであるが、これもいたしかたない。これでみんなが笑顔で正月を迎えることができそうだ。

芸能報道に物申す

 私にとってはどうでもいいことだけど、近頃、どのチャンネルをつけても歌舞伎役者の不始末に関する報道だらけである。とくに昨日は、記者会見に報道陣500人という異常なまでの盛り上がりであった。しまいには、NHKまでがトップ報道する始末である。なぜこれほどに、一芸能人の不始末に報道が支配されるのか。世界では朝鮮半島情勢に関する日米韓の共同声明があり、米国の失業率発表があり、政治・経済とも難しい局面にあるというのに。

 そもそもこの事件は、泥酔者同士の暴力事件に過ぎない。東京の大都会で明け方まで飲んで泥酔すれば絡まれることもあろうし、喧嘩になることもあろう。こんな事件は東京のあちこちで起こっていよう。怪我の程度は別にして、普通であれば被害届を出しても受理されるかどうかも知れぬ。仮に受理されても警察が本気で捜査するか疑問である。これが芸能人だから別扱いなのか。

 報道は道行く人に声を求め、コメンテーターにも意見を求め、事件を面白おかしく誘導・展開する。そうした声の多くは、「将来の歌舞伎をしょって立つ人だから」とか、「来春の顔見せ興行を何としても・・・」とかである。そんなこと、一般市民には全く関係ないことである。歌舞伎役者である前に、社会人として、人間としての評価をしたらどうか。役者という立場を考慮してあえてこの事件を見るならば、この事件には裏があるのことは間違いない。それ以上はあえて言わないが。

 以前の麻薬に関するいろいろな芸能界事件もそうであったが、芸能人に関する野次馬的な過度な報道には、ほとほとうんざりしている。さらに、国民の興味を誘導する形の報道手法にも辟易している。もういいかげんにしてくれ。芸能報道一辺倒から脱却しろ。これでは報道の質があまりにお粗末すぎる。

嗜好の相関関係

 私は若い頃、煙草をやっていた。それもパイプ煙草を。こだわりのある舶来製のパイプに、これも舶来のもぐさをつめて火をつける。ほのかに揺れ漂う煙を眺め、パイプをくわえながら地質図を描く。これが当時、地質屋のステータスであった。そんな私であるが、30歳のとき煙草を止めた。胃の全摘手術後、医師から好きな煙草かお酒か、どちらかを止めるように言い渡されたからだ。結局、私はお酒を選択した。

 その後、どんな人がどんな風に煙草やお酒をたしなむのか、観察してきた。そして、嗜好の相関関係について、常々、考えるようになった。どの嗜好とどの嗜好が結びつき易いか、相関性があるかということである。飲食する嗜好の3要素を「酒」「煙草」「コーヒー」とし、それぞれを正三角形の頂点に置いて考えてみる。その三角形相関座標において、この人はどのあたりのポジションにあるのかを考えてみるようになった。

 私の考えでは、相関関係が最も強力なのは「煙草」と「コーヒー」であると思う。例えば、「煙草」好きの下戸は必ずといっていいほど「コーヒー」が大好きである。逆に、「煙草」と「コーヒー」のどちらも大好きの人は、下戸かもしくはお酒を好んで飲まない人が多い。こういう人が「煙草」と「コーヒー」のどちらかを止めないといけないとなると、一番やっかいである。本人は相当に悩むであろう。

 「酒」と「煙草」は相関性があるが、時と環境に支配される。お酒を飲んだり食事をしたりするときに相関性は強力になるが、普段はそれほどでもない。お酒を飲んでいると無性に煙草を吸いたくなる。食後に無性に煙草が欲しくなる。煙草を止めてもう30年になる私でさえ、食後に煙草が吸いたいと、一瞬、頭をよぎるほどである。

 「酒」と「コーヒー」は最も相関性がうすいと考える。酒飲みにはコーヒー嫌いが多い。現に、私自身も好んでコーヒーを飲もうとしない。というよりも嫌いに近い。逆に、下戸にはコーヒー好きが多い。

 「酒」「煙草」「コーヒー」のどれも大いにたしなむ人がいるが、結局は、絶対に止められない嗜好の本命があって、努力すれば他の2者は止めることができるであろう。酒派なのか、煙草派なのか、コーヒー派なのかによって人間性がかなり違う。その辺りの見解は差し障りがあるので、ここでは遠慮する。




嗜好の3成分

女性力のさらなる活用

 女性が社会進出してもう100年も経とうか。しかし、まだまだ道半ばであり、社会は女性の活力を十分に活用しているかといえば否定的な思いが強い。それに加えて、ここにきて女性の社会進出に関して気になるデータを目にした。

 「夫は外で働き妻は主婦業に専念」という古典的な考え方に賛成する既婚女性は、40代で最も少なく、若くなるにつれて増加するという。とくに20代では5割近くになるという(国立社会保障・人口問題研究所2008年調査結果)。つまり、専業主婦願望の若い女性が増加の傾向にあるのだ。以前は男子以上に自立志向が強い女子ばかりであったのに、これはどうしたことか。

 また、別のデータによると、東京の独身女性の4割が年収600万円以上の結婚相手を望んでいるのに対して、その条件を満たしている未墾男性は3.5%であったらしい(山田昌弘・中央大教授の調査結果)。年収600万円以上の若いイケメンの独身男性なんて、ちょっとやそこらいようはずがないのに、どうしたものか。

 こうした現象の原因を考えるに、若い女子世代は別に昔の姿を望んでいるのではなく、閉塞状態の不景気な今日において、自己防衛の思いに走っているのではないかと思う。ただし世間知らずの思いであることも否めない。経済的に安定した主婦の座が就職より狭き門であるのは今や常識のようである。これに加えて離婚率の増加を勘案すれば、ようやく手に入れたに思えた主婦の座を易々と手放している現実もある。

 私は、かねがね女子には男子と違ったパワーがあると思っている。それは、シニアを見渡しても明白である。男子の朴訥とした素朴さ、おひとよし、遠慮がちな面に比べて、女子のしなやかさ、したたかさ、前向きな姿勢、切り替えの早さは見事なまでである。

 若い女性の主婦願望を改善するためにもシニア女性の活力を活かすためにも、女子の社会進出への戸惑いや不安、障害を少しでも解消すべく努力することが喫緊の課題である。その努力とは何か。託児所や保育園を増やすとか育児休暇の徹底など、国がその気になればすぐできることである。民間企業では既に女子ならではの観点からの開発・分析が行われているが、こうした取り組みを国レベルで実施すべきである。シニア女子の復活を創作する環境作りなど、やれることは山ほどある。大げさに言えば、日本女子のパワーを活用することが将来の日本のGNPを押し上げる原動力になることは間違いない。

東北新幹線へ馳せる思い

 昨日、東北新幹線が青森まで全線開通した。私は、万感の思いでこの知らせを耳にした。

 私が東北新幹線の現場に最初に乗込んだのは、昭和46年、入社した最初の暑い夏であった。もう、かれこれ40年近くも前の話である。全国から精鋭4人が選出されて、盛岡に終結した。新潟大学のK、高知大学のN、福島大学のBと私の4人である。本社統括部が陣頭指揮をとった。

 計画当初、東北新幹線は岩手県盛岡市に停車する以外、停車地は白紙状態であった。だから現地調査も秘密裏に行われた。岩手県水沢市の駅前にある東海林旅館を本部とした。旅館の主は直立不動で我々を迎えてくれた。誰かに似ていた。数日して、その主が東海林太郎の弟であることがわかった。

 我々4人はジャンケンをして、仙台~青森間を4等分した分担エリアを決めた。私は盛岡~一ノ関間を分担することになった。そこは数億年前の古い地質からほんの数千年前の非常に新しい地質まで混在する最も難しい地質エリアであった。新幹線を建設するにおいて、致命傷となるべき地形地質、ルートの優劣、土工的問題点などを競って調査した。連日、日が暮れるまで現地調査して、宿で明け方までまとめた。

 旅館にK子という少し小太りの仲居の娘がいた。東北弁のK子は我々によくしてくれたが、時々、何を言っているのかわからなかった。K子はとくに私に親切にしてくれた。そのうち、K子と私がいい仲のように周囲に思われていたようである。

 ある日、いつものように現場に出かけ、もうとっぷりと日が落ちて宿に戻ってきた。すると、旅館がざわついていた。仲間もみな帰っていたが、いぶかるように私を見つめた。K子をどうしたんだと、主が私を責める。どうも合点がいかない。よくよく話を聞くと、K子が突然、いなくなったのだという。てっきり私と駆け落ちしたのだろうと。そんなはずないし、今日はどこそこを廻っていたと調査資料を見せて納得してもらった。後で聞いた話によると、K子は花巻温泉に行ったらしい。

 そんなこんなの思い出のある東北の地である。いつしか東北新幹線に乗って、そんな思い出を胸に旅したい思いである。

有識者

 政府は何かといえば有識者会議を開く。国でも地方でも、役所は自ら判断しかねる場合に、何かと有識者の指導をいただいてこいという。今時、あちらでもこちらでも「有識者」という言葉がひとり歩きしている。一体、「有識者」とは一体、誰のことを指すのだ。

 先日も、知り合いの会社が災害の調査・解析を実施してまとめたところ、国は有識者に最終判断をお願いしてこいと、注文されたという。つまり、有識者の「お墨付き」をもらってこいということだ。その会社にはそれ相応の技術力と資格があり、実際、担当した技術者も非常に優秀である。その彼が、有識者って誰ですかと国に尋ねたら、名の通った大学の先生だという。大学というところは専門的な研究をするところであり、今回のような自然災害を対象として対策も含めた総括的判断するには大学の先生では無理だと主張するが、聞き入れない。結局、全く専門外の大学の教授を、国は「有識者」に指名した。

 そういういきさつから、某国立大学の教授に「お墨付き」をもらいに行く段取りとなり、私に同行して欲しいという。私がその教授とは旧知の仲なので、仲を取り持つて欲しいという依頼のようだ。しかし、その教授は全く専門が違うのに大丈夫なのかと、疑問に思った。

 疑念をいだいたまま大学を訪問すると、その教授はいきなり、「やあやあ」と挨拶した後、列席者を目の前に「私はこの件については全くのど素人ですが・・・・」と、いきなり断りを言う、予想された展開となった。だったら最初から断れよ、と言いたかったが、そこは大人の対応をした。

 有識者とは専門的かつ高度な知識を有するものであることに間違いはない。しかし、それがなぜ大学の教授に絞られるのか。民間にも優秀な研究者や技術者が沢山いるのに、役所の連中はなぜに官を選択するのか。そもそも、「お墨付き」とはどういうことなのか。

 その根底理念を考えるに、そもそも役所には官尊民卑の精神が根強くあること。次に自らの保身をまず先に考えるためであろう。万一の不測の事態を招いたときに自らの責任を回避し、「お墨付き」という担保によって、金科玉条のごとくプライドを守る。それがお役所仕事である。それにしても、「有識者」という意味がわからない。

第二東名

 第二東名の計画は、もうかれこれ35年前にあった。その後のバブル期に一気に実現の運びとなり、とにかくお金を使わなきゃならないというお題目から、片側3車線、最高速度140kmの高速道路の建設とあいなった。

 片側3車線のトンネルの断面積は片側2車線のトンネルの2倍、工事費も倍かかる。普通のトンネルで延長1m当り250万円、高速道路のトンネルで1m当り350万円のところが、第二東名の場合は700万円かかる。1kmのトンネルを建設するのに70億円、用地費などを加えると100億円となる。途方もない数字である。

 加えて、最高速度140kmというのは日本の現法では違反となる。したがって、道路構造令そのものを変更する必要がある。出来たあかつきには、中国自動車道と同じように冬場に走る車は少ないことが予想される。トンネル1本やめれば、幼稚園を200箇所建設することができる。老人施設なら100箇所建設することができる。第二東名の計画に少なからず関与したことがある私にとっては、懺悔の思いが強い。

常用漢字の怪

 常用漢字表が改定となり、昨日、内閣告示された。なんと29年ぶりの改定である。この改定によって、あまり使われない5字が削除され、新たに196字が追加された。

 仕事上、報告書や論文はすべて常用漢字表を使用している私の立場からすると、歓迎すべき漢字も多い。常用漢字表にないという理由だけのために、専門的用語の一部をやむなく「ひらがな」使用し、わかりにくい用語になっていたからである。今回の追加漢字に「湧」、「剥」、「崖」、「鍵」、「柵」「汰」、「溺」、「斑」などが追加されたことによって、「湧水(ゆうすい)」、「剥離(はくり)」、「崖錐(がいすい)」、「鍵層(かぎそう)」、「防護柵(ぼうごさく)」、「淘汰(とうた)」、「溺れ谷(おぼれだに)」、「斑岩(はんがん)」などの用語が日の目をみる結果となった。

 しかしながら、考えてみるとこの常用漢字の選定には不思議なことが多い。今回追加された漢字には既に誰でも使っているなじみ深い漢字がたくさんある。「嵐」、「虎」、「誰」、「脇」、「亀」、「柿」、「串」、「韓」、「熊」、「腎」、「尻」などである。こうした漢字を今の今まで追加しなかった理由は何だろう。と思えば、これは誰も滅多に使わないだろうという漢字が既に登録されており、今回、削除にもなっていない。「謁(エツ)」、「虞(おそれ)」、「脹(チョウ)」、「朕(チン)」、「濫(ラン)」などである。

 こうしてみると、この常用漢字表なるものは誰が協議して選定しているのだろうかと、不思議に思う。どうせ国文学者などの寄り集まりが検討委員会なるものを立ち上げて協議・検討しているのであろうが、市民感覚との食い違いがはなはだしい。選定委員に一般市民を加えて国民的コンセンサスを得るべきであろう。


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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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