ネット情報の管理力

 情報を人々はどのように入手しているのかと尋ねたら、8割近くの人がインターネットで入手しているという調査結果があるらしい。それほど今やインターネットが普及し、我々はその恩恵を享受しているわけであるが、別の側面では情報の坩堝(るつぼ)にさらされているといえる。

 検索によって得られるネット情報には問題も多い。怪しげな治療法や商品を勧めるサイトがあり、間違った情報も多い。間違った情報を信じて不利益を被ったり、見つけた情報でますます不安になったりもする。日本の検索エンジンの上位に並ぶのは企業や個人のサイトが多いという事情もある。ネット上にある膨大な情報は玉石混交状態であり、我々は情報の坩堝(るつぼ)にある無数の「石」の中から「玉」を見つけ出すことが不可欠となる。すなわち、無数の情報から有益で正しい情報を探し出す管理力が求められる。

 それでは、情報の信憑性をどのように評価するのかが問題となる。まず基本的なことであるが、情報の発信源が確実であるかという点を確認する必要があろう。情報の発信元が明記されており、場合によって連絡が取れるのかを確認する。次に、情報の適用限界が記されているのかという点である。例えばサプリメントであれば、こんな人には効果がないとか、薬ではないという断りがあるのかとか。つまり、いいことばかり並べる情報には気を付けないといけない。さらに、いつ頃更新されたのかがわかるものでなければならない。発信元と同様にこれも情報の基本的要件である。付け加えるならば、個人情報を守る断りなりシステムになっているかもチェック項目となる。

 いずれにしても、我々は自らの手でサイトを診断し、評価し、活用する情報管理力を醸成しなければ、情報の坩堝(るつぼ)に埋没することになる。
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野良になりたい

 人間は生まれながらにして、家族とか地域とか、会社とか国とか、多くの「しがらみ」を背負う。その「しがらみ」があってこそ、生きながらえてきた。しかし、こんな「しがらみ」なんかなければ、どんなにか自由に過ごせるのにと、瞬間、頭をよぎることもある。こんな考えは無謀なことはわかっているし、第一、ひとりじゃ生きていけるはずがない。なのに、ふと頭をよぎるのはなぜなのか。

 都会の浮浪者が寒さや飢えに苦しみながら、それでも生きようとしている。その姿は切実に映る。しかし反面、彼らに何の「しがらみ」がないことを妬んだりもする、もうひとりの自分に気づく。昔から、家を突然出て行方知らずの不明者がいたものだが、究極の状況を察すれば、その気持ちもわからないでもない。

 こうした「野良になりたい」という願望は、人間の誰しもの心に潜んでいるのではないのか。ただ、常識や理性、慣性によってそんな考えが打ち消されているのではないのか。それでは、なぜ「しがらみ」から遠ざかって「野良になりたい」という願望が潜んでいるのだろうか。

 そもそも「しがらみ」という言葉自体、心に潜む拒否反応を表しているともいえる。人間関係、信頼関係といったものが、いつしか「しがらみ」に変化していることに問題があろう。組織、運命共同体といったものが、いつしか「宿命」という気持ちに変化していることに問題があろう。

 それでは「しがらみ」に変化したのは、いつからなのか、どうしてなのか。もともと正常な関係であったものが、利害、不正、不純な要素が加わり、歪められたものが「しがらみ」ではないのか。

 そう考えると、「しがらみ」を捨てて「野良になりたい」という願望は、あながち浅ましい考えでもない。むしろ人間本来の、純粋な心に帰りたい気持ちの表れでもあり、人間としてまっとうに生きたい本性でもある。

 しかし問題なのは、仮に利害、不正、不純な要素が強い「しがらみ」があったとしても、その「しがらみ」から逃げようとしていることである。なぜ知恵を出して全力でその「しがらみ」と対峙しないのか。そこに人間の弱さがあるように思う。人間の強さと弱さの狭間において、葛藤するのが人生なのかも知れない。

読書する喜び

 私は元来、読書が好きな方でない。幼い頃から貧しくて本が買ってもらえず、読書の習慣がなかったからかも知れない。本を買ってもらった記憶といえば、小学2年生のクリスマスに「小学2年生」という本が枕元に置いてあったくらいである。その時ばかりは大はしゃぎした。親は本を買って与えるどころか、必須の教科書をどう工面するか、お古のあてを探したり金策に走ったりするので精一杯であった。だから、私にとって本はひとつの「トラウマ」でもある。

 朝日新聞の「天声人語」(11月3日)に立ち読みを巡る話が紹介されていた。19世紀の欧州で貧しい本好きの少年が書店の飾り窓の本を毎日眺めていると、あくる日、ページが1枚めくられていた。あくる日もあくる日もページが1枚めくられていた。少年は数ヶ月かかって読了したという。

 また同じ朝日新聞の「声」の欄に、同じく立ち読みを巡る青春時代の思い出話が綴られていた。弟と妹、合わせて5人の子供をかかえる親は教育費に苦労していた。高校1年のとき、参考書が欲しかったが親に言い出せず、古書店にあったのを毎日立ち読みした。アルバイトをしてやっと金策がついて今日こそはと店に行ったところ、棚にお目当ての本がない。立ち読みのたびに怒りの表情だった店主に恐る恐る聞いた。「あの本は売れたのですか」と。すると、店主は「あんたが毎日立ち読みしとるから、売れたらいかんと思って取っといた」と。

 このように、昔は本を買うにも読むにも少なからず苦労したものだ。しかし今では本が世に無数にあふれている。誰でもどこでも本を安価に手にすることができる。本を買わずとも図書館は充実し、最近では電子本まで登場している。このような本の飽和状態の時代にあって、我々は「読書する」喜びに改めて感謝しなければならない。深まりゆく秋には読書が似合う。

政治の末期症状

 宙に浮いた年金記録問題の発掘者である長妻氏。その年金問題を主要な争点にし、脱官僚を旗印に民主党を政権の座に押し上げるのに貢献した。長妻氏は民主党政権の最大の功労者であったはずである。

 民主党政権発足当時、選挙で国民の信任を得たマニフェストを実行して官僚の抵抗を退け、政治主導で政策を決めていく。従わない官僚は更迭する。そんな思いを民主党議員の多くが抱いたに違いない。菅氏も当時、民主党政権に協力できない省庁の官僚には辞表を書かせると言っていた。

 その誓いを忠実に実行した政治家が長妻氏である。厚労大臣に就任した彼は官僚にマニフェストを携帯することを求めた。就任直後から次々に指示を飛ばした。年末年始もなく働き続けた。もっともこだわった天下り規制については、1000万円以上の年収を得る事務局職員が100人以上いたという調査報告を公表した。せめて他の役所並みの天下り規制をと懇願する官僚を振り切るなど、その振る舞いは脱官僚の姿勢そのものであった。

 しかし、菅改造内閣に長妻の名はなかった。厚労省幹部からの更迭直訴に菅氏と仙石氏が応えたのである。ある民主党幹部いわく、官僚と仲良くするには、天下りと無駄使いに目をつぶることだと。なんということだ。最も忠実な政治家が更迭され、最も不誠実な政治家が大臣になる。こんなはずじゃなかった民主党。どうした民主党。長妻氏の怒りはおさまらない。国民の怒りも収まらない。

 脱官僚に限らない。危機管理能力、外交力、マニフェスト実行力、どれをとってもおそまつである。もはや現民主党に期待する国民はいない。日本の政治はまさに末期症状である。

晩秋

 リタイアした夫婦の晩秋のひとコマを記した随筆が印象的であった。
「・・・・・・冷たい風が吹く中、妻は地面に這うようにして次々に球根を植えていく。それを窓越しに家の中から見ている夫がいる。」

 私なりに、このように解釈してみた。妻が植えている球根は、おそらく来春咲くチューリップであろう。来年の春を夢見て一心に球根を植える妻。一方、窓越しにただ黙って見つめている夫もまた、同じ気持ちで来春を夢見ているに違いない。熟年夫婦の晩秋のほほえましい光景であろう、と。 

 熟年夫婦のふたりには、無論、若い頃のような壮大な夢があるわけではない。力強いバイタリティーがあろうはずもない。しかし、もしかしたら若い頃よりもはるかに深い愛がふたりにはあるのかも知れない。その愛は決して派手ではない。地味で静かなものである。限界を知りえたもの同士が分かち合えるものである。大きな望みや利益を求めるわけではない。ささやかな幸せを一時も継続したい、ただその思いだけであろう。

 ふと、男女が逆だったらどうだろうと。つまり、「・・・・・・夫は地面に這うようにして次々に球根を植えていく。それを窓越しに家の中から見ている妻がいる。」う~ん・・・・、しっくりこない。これでは夫があまりにも惨め過ぎるし、それ以上に窓越しに冷ややかに見つめる妻がいたら、もっと怖い。やはり、熟年夫婦の有りようというのは役割というものがあるのだろう。晩秋の訪れとともに、熟年夫婦にとって残り少ない思い出の1年がまた刻まれようとしている。

週末の過ごし方

 還暦を過ぎても、私は現役で働き続ける宿命にある。もともと今の仕事が好きなこともある。加えて、わずかばかりの社員ではあるが、その生活を支えるために会社をたたむことができないからでもある。仕事の関係上、四六時中、パソコンを叩く。若い者と一緒に、というよりも先頭をきって、危険な山に登ったりもする。だから、日常の仕事環境と週末をできるだけメリハリあるものに心がけている。

 週末は、瀬戸内を眼下に厳島を望むマンションにてゆっくり過ごすことにしている。瀬戸内の湾と島々を我が庭に見立て、厳島の頂にある崇高な弥山(みせん)を見上げる。弥山の麓には世界遺産となった厳島神社があり、遠くにこれを拝む。海には牡蠣筏が並び、遊覧船やレジャーボート、カヌーが行き交う。漣(さざなみ)の波間にトビウオが跳ねて、シキチドリがそれを追う。穏やかな中にもゆるやかな時間の流れが感じられるこのパノラマ空間を、何も考えずにぼんやりと眺める。それだけで心も体も癒される。日常の室内勤務でパソコン漬けとなった疲弊した眼球は、はるか遠く四国まで続く島々を望むことで癒される。

 テラスに白いテーブルとイスを置き、テーブルの真ん中に薔薇一輪。その横に白ワインを入れたクーラー、そして少しばかりの肴。ワインを一口飲んでは、テーブルの横に置いた歌詞台に目をやり、昔流行った音符をギターで奏でる。周囲を多少気にした小さめの低いギターの音色が一段と身にしみる。何とも贅沢なひとときである。

「耐えてこそ 陽はまた昇る瀬戸内の 島のかなたに また夢を追う」

 いいときもあり悪いときもあるさ。その場を耐えていれば、またいいこともあるさ。そう、辛いに一を足すと幸せだもんね。また明日から頑張ろうと気力が沸いてくる。私の大切な週末のひとときである。



瀬戸内風情

冬支度

 広島は暖かいという印象を持たれている方も多いかと思うが、これが意外と寒い。なぜなら、広島の市街地は狭小なデルタ地帯にあり、周囲を山に囲まれるているからである。住宅は山へ山へと追い込まれ、チベットのように斜面にへばりつく。広島県は長野県以南で最もスキー場が多い県でもある。

 昨日、久しぶりに自宅から車で45分の山小屋に行ってきた。冬支度をするためである。標高850mのこの地は平地と比べて気温が7℃も低い。夏はクーラー要らずであるが、冬は雪に埋もれる。窓はすべて2重ガラスである。11月のこの時期でも夕方からぐんと冷えて、そろそろ夜間の凍結が心配である。

 水道の元栓を締める。部屋中のすべての蛇口を全開にして水滴が水道管に残らないようにする。トイレに不凍液を投入する。薪割りをする。薪ストーブの準備をする。大量の枯葉を焼く。小春日和であった昨日は今年最後の陽気であろう。今度来るときには雪化粧に違いない。



冬支度

お返し文化

 知人、親戚の葬儀に参列した何週間か後に、必ず「香典返し」が届けられる。最愛の人と別れた遺族の気持ちを察しての心ばかりの香典に「お返し」を期待する人もいまい。まして、遺族にとっては葬儀後の後始末が大変なのに、「香典返し」の仕事が加わる。返しの割合をどうするのか、会社関係で一括していただいた場合はどうするか、親族と知人で分けるのかなど、悲しみに埋没している暇などない、厄介なことになる。

 いっそ、「香典返し」という悪しき習慣はなくした方がよいと、私は思う。心の底では誰しも「香典返しは必要ない」と思っているであろう。といって、自分が喪主の時に「香典返し」を辞めるわけにはいかない。せめて私にできるのは、参列した時にあらかじめ「お返し」を固辞するくらいか。それも相当に勇気がいるであろう。

 香典と同じように、結婚祝い、出産祝い、入学祝い、退院祝い、還暦祝いなど、祝い事においても「お返し」が普通に行われている。これもまた、「お返し」をする方も難義であり、「お返し」をいただく方も恐縮する。心ばかしのお祝いの気持ちで祝い金を渡したのに、「お返し」されたのでは、本人にとってはあまり嬉しいことにならない。

 日本には伝統的にお返し文化があるように思われる。それはそれで良しとする考え方と、形式的なしきたりは辞めようという考え方があり、世代の交代とともに、今後、両者の考え方が混在してくると思われる。

 自分亡き将来においてどうしたものかと思慮するつもりはない。生きている間の自身のこれからをどうしたものかと考る。元気な間はそれでも悪しき慣例にならうとしても、次第にそれも難しくなろう。そうなると、急に不義理だと思われかねない。そうなるのが嫌だ。それでは、今から徐々に準備してみようかと。つまり、自分がお祝いやお悔やみを託す立場においては、しきたりに習って失礼なきように与え、受ける立場においてはできるだけ失礼なき範囲で固辞しようと思う。だがそれも、はたしてできるのか、自信がない。

Skype

 昨日に続いてブロードバンドの話です。Skypeについて、私はほんの1ケ月足らず前まで知らなかった。シニア・ナビの山猫さんからのメールで「スカイプやってますか?」との問いに、「それって、何です?」と返したのが始まりである。珍しもの好きの私がすぐに飛びついたのは言うまでもない。早速、Skypeを無料ダウンロードし、家電量販店に行ってヘッドホンマイク(1,890円)を購入して準備OKとなった。先日、初めて山猫さんとスカイプした。この「スカイプした」という表現が、いかにもブロードバンドの仲間入りしたようで響きが心地よい。形だけでもブロードバンドの仲間入りを果たした瞬間である。

 このSkypeなるもの、よく聞けば周辺の友達もやっていて、今、急速に普及している。従来の電話回線ではなくネット回線を使用しての会話だから、複数人で会話したり、こちらの話を多数の人に聞いてもらったり、使い方によって非常に便利である。そして、何よりのメリットは通話料がゼロということだ。無論、海外との会話も通話がゼロである。ただ、難点は通話相手がSkype環境を整えていること、パソコンの前にいなくてはいけないこと、電話よりも声質がすごくきれいなのだが、マイクをつけているため咳払いや舌打ちなど細かな音まで拾うことなどがあげられる。もうすぐ販売されるAUとドコモのi-PhoneにはSkypeが搭載されているから、携帯形式で会話が可能となる。

 こうなると、日本全国通津浦裏まで光ファイバーが網羅されさえすれば、国民1人にi-Phone1台あれば何でもできる時代になる。まず固定電話が不要になる。チケット、フライト、劇場、病院などすべての予約と決済が可能になる。すべての商品の受け渡しは最寄のコンビニとなる。モニターを配備すればもっと便利になる。学校に行けない日の授業参観、会社の様子、駅の混み具合、気になる地域の気象状況など何でも検索して見ることができる。自分の生涯カルテを好きな病院に照会して治療のアドバイスを受ける。世論調査は無作為に国民のi-Phoneを選択する。それに受け答えするとポイントが加わり、毎月の光通信料までもタダになる。銀座三越の商品を注文してコンビニに受け取りに行く。学校では試験が終われば生徒がi-Phoneを当てて答案用紙をスキャンする。すると、瞬時に答え合わせして、日本全体における順位はや偏差値が見れる。

 このように考えれば、途方もなく夢が膨らむ。人員や設備の配備が大幅に削減される。コストが大幅に下がる。物流が想像以上に盛んになる。こうしたブロードバンド世界がもうそこまで迫っている。ただ、いつの時代にも、時代に乗り遅れた人に対するセーフティーネットの充実も必要である。

ブロードバンド革命

 昨日、11月18日の新聞各社にSoftBank・孫正義社長の意見広告が見開き半ページ一杯に掲載された。“「光の道」は、AかBか”というセンセーショナルな大見出しのタイトルであった。

 私の理解の範囲でわかりやすく説明するとこうなる。つまり、老朽化が進む電話回線(メタル回線)はそのまま活かして、光ファイバーの整備を並列に継続して進める(A案)のか、この際、日本全国・通津浦裏まで光ファイバーを網羅する(B案)のか、という選択を国民に迫っているのである。いわば、ブロードバンド革命宣言である。

 孫社長の提案によれば、A案の場合は税負担を伴い、光料金は5,000円/月であり、2025年以降の整備完了になるのに対して、B案の場合は税金ゼロ、光料金は1,150円/月であり、2016年には整備完了できるという。つまり、光ファイバーの整備を一気にやれば安くしかも早くできるという仕組みを提案している。

 この提案に対して、既にNTTとKDDIはともに反対の立場を表明している。税金や光料金の計算が違うこと、通常電話のみ使用の人やパソコンを使わない人の選択肢がない、などを反対の理由にあげている。確かに、この意見広告には税や料金、工事期間の具体的な根拠が示されていない。また、孫社長がSoftBankの利益を度外視して提案するとは思えない。しかし、NTTやKDDIとも協力して一緒に推進したいとも言っている。それでもNTTが反対するのもわかる。自社のドル箱である電話回線の付加価値がなくなるからである。
 
 仮にB案がを実行されたとしよう。日本のどんなへき地においても共通の医療と教育が受けられる。どの病院にかかっても国民1人に同じカルテが適用できる。過去の病歴、治療経過、測定経過などは、本人はもとより、どの病院の医師も確認することができる。重複した医療が不必要であり、遠隔治療も可能である。教育面においても学校に行けない子も授業が受けられる。国民の誰しもが大学講座も受けることができる。医療と教育だけではない。ブロードバンドによって国民が得る莫大な利益は計り知れないものがある。

 そもそも、孫氏が主張するまでもなく、日本におけるブロードバンド環境の遅れは今に始まったことではない。お隣の韓国では既に国内全土にブロードバンドが整備済みである。ブロードバンドの世界標準の潮流の中で日本が世界から取り残される危惧さえある。孫氏の革命宣言に、国として緊急に取り組むべきである。

「させていただく」という言葉

 最近、「させていただく」という言葉をよく耳にする。例えば何かのショーで司会者が、「それでは開演させていただきます」とか。また会議でも議長が「これより会議を始めさせていただきます」とか言う。この「させていただく」も、私にとって最近気になっている「はなし言葉」のひとつである。

 この「させていただく」というのは、一体、どういう意味あいがあるのか。作家の村上龍さんは、「自分が責任リスクを背負わない言い方」だという。確かにそういう意味もあるかも知れない。そうであったら、「それでは開演させてもらってよろしいでしょうか」と確認した後に、「それでは開演します」と言えばよいではないか。その方が正確であろう。

 そういう意味よりも、少しへりくだった言い方、丁寧な言い方をしようとしている結果ではないのか。丁寧なようで決して丁寧でもない、礼儀正しいようでそうともいえない、何だかわけのわからない言い方ではあるまいか。

 この「させていただく」という言葉に限らず、我々は言葉の意味を考えず、言葉の選択をしないで、なにげなしに使っている言葉があまりにも多い。とくに「あいまい語」が氾濫しているように思えてならない。こうした日本語の乱れは、日常の生活においても誤解を生じたり、懐疑的になったり、不信を招くこともある。ひいては、国際交渉社会においても国どうしの誤解を招き、国どうしの交渉の大きな障害となる。「丁寧」よりも「愚直」、「あいまい」よりも「的確」が、時にして大切であろう。

即レス症候群

 先日、私はこのブログにおいて「ケータイ依存症」を記した。現代人は知らず知らずのうちにケータイに依存してしまっている現状を、自身の反省も込めて書いた。その後も相も変わらず「ケータイ依存症」を患っている私であるが、ケータイとパソコンの私的メールに対して即座にレスポンスしている自分に気づいた。学生や若い人の中ではメールに対して即座にレスするのは今や暗黙の了解らしい。所謂、「即レス症候群」である。

 私の場合、ケータイメールの場合もパソコンメールの場合も、可能なかぎり、確認してほとんど即座にレスするタイプである。なぜ即レスなのかというと、早く返さないと相手に失礼だとか、相手が喜ぶだろうといった理由が大きい。しかし、本質的には私の気性に原因があるのである。つまり、一見、相手のことを気配っているようであるが、実は自身がどちらかというと、せっかちなのである。

 せっかちな人は、逆にこちらからのメールに対しの即レスまでも期待してしまう。なかなかレスがないと、見ていないのだろうかか、内容がつまらなかったのか、失礼なことを書いたのか、などと勝手に心配する。このように、即レスする人は相手からの即レスも当然だと思ってしまう。つまり、自分の物差しで相手を推し量っているのである。そのことに気づけば、相手からの即レスを期待しない方がよい。でなければ、結局のところ、自身にストレスが溜まり、自身が傷つくことになるからである。

星野哲郎

星野哲郎

 我が郷土が誇る偉大な作詞家、星野哲郎が昨日、亡くなった。85歳であった。四方を海に囲まれた山口県・周防大島出身の星野哲郎は小さい頃から海に憧れた。その思いは、商船学校を出て漁船の船員になることでかなえられたかのように思われた。しかし、病気のためにやむなく下船した。

 その無念が「船えん歌」に表現されている。兄弟船(鳥羽一郎)、函館の女(ひと)(北島三郎)、女の港(大月みやこ)などである。一途な男の歌も作詞した。柔道一代(村田英雄)、兄弟仁義(北島三郎)などである。葬儀委員長を務める作曲家・船村徹とのコンビが切ない情の歌を完成させた。昔の名前で出ています(小林旭)、みだれ髪(美空ひばり)などである。特定の歌手に限らず、いろんな歌手の歌詞を作ったことでも名高い。黄色いさくらんぼ(スリー・キャッツ)、三百六十五歩のマーチ(水前寺清子)、思い出さん今日は(島倉千代子)などなど、あげればきりがない。

 周防大島に建設された星野哲郎記念館には、えん歌ワールドが広がる。また、周防大島の小中学校の校歌を数々作詞している。周防大島には暇があれば訪れたという。それほどに星野哲郎は郷里を愛して止まない。周防大島に渡ったところにある「大観荘」というホテルには「えん歌風呂」がある。瀬戸を眺める露天風呂に「えん歌」を誰でも歌えるカラオケが備えついているのだ。真っ裸で露天にいながらにして歌う「兄弟船」は最高であった。

 「えん歌」とは、「艶歌」「演歌」「宴歌」「俺歌」と、いろいろな意味があるらしい。どれもに人間の情が込められている。星野哲郎はどこにでもいる気のいいおじちゃんであった。偉大にして驕(おご)らない気さくな性格も好きであった。ご冥福を祈る。(敬称略)

正義とは

 「正義とは共同的・長期的な合理性」と言っていた人がいた。うん?よくわからない。共同的とは国とか地域とか、ある集団にとってということだろう。長期的も抽象的だが、ある一定以上の年月ということか。つまり、「ある国にとって、ある時期において、自国に都合のよいこと」ということになる。そう考えれば、ある面、納得できる。

 ある時期、ある国にとっての正義は、別の国にとっては正義でないことも大いにある。広島の原爆投下は当時の米国にとっては正義だったのかも知れないが、日本にとっては全くの不正義である。ある国のある時期に正義であったものは時間が経過すれば不正義となることもある。広島の原爆投下は世界平和を願う多くの国々にとっては今や不正義と評価されているであろう。しかし、米国にとっては今もなお正義だと思っている人は根強く存在する。

 今の正義は将来、正義ではないかも知れない。過去の正義は今思えば正義でないことも証明されてきた。つまり、正義とは当事者と時間軸の変化の中で変化するものである。であるから、現代社会における常識(正義)は未来永劫、常識(正義)である保障はない。

 とてつもなく極端な話をしよう。殺人はほんとうに不正義なのか。現代社会では誰が考えても罪であり不正義の象徴である殺人という行為であるが、未来永劫、不正義であり続ける保障はあるのか。「人間の本能こそ尊ぶべきであり、人間の本能に沿って殺人した人を間違って処刑した時代が過去にあった」と、未来の教科書に書かれることは絶対にないのか。誰も保障できるものではない。

 これは極端な例であるが、要するに、この世の中のさまざまな問題において、どちらが正義であるかというと、絶対的なものはないと考える。正義というのは人間の煩悩が作り出したひとつの概念ではないのか。

 まして、国に正義はありえない。尖閣諸島の問題にしても、北方領土の問題にしても、相手方が不正義だと言い切れるのか。相手方の主張は、戦争に負けた日本は黙りなさいと言っているのだ。まだほんとうの意味の終戦に至っていない。戦争に勝った国が正義、負けた国が不正義という考え方が根底にある以上、世界平和はほど遠い。

人との交流、徒然に・・・・

 「しあわせさがし」(略称:S)さんのブログに、初めて見た「演歌歌手・神野美伽」、そのショーを見て「神野美伽」が好きになった、とあった。どう考えても演歌とは似ても似つかないSさん。それもそのはず、「神野美伽」なんて初めて聞く名前だったそうで、友達に誘われて仕方なく(?)行ったらしいが、それが運のつき。

 その数日前のSさんのブログには、「圧巻、上村松園」とあり、「上村松園」の美に改めて感動したとあった。こちらは、Sさんにお似合いの才女を感じさせるコメントが綴られていた。このギャップがすばらしい。

 私の場合、「神野美伽」はよく知っている。「男船」だったら、たぶん歌えるだろう。しかし、恥ずかしながら「上村松園」は知らなかった。わたくし的には「神野美伽」も知らないのかと思うが、Sさん的には「上村松園」も知らないのかと思うであろう。それほどに、人それぞれである。無論、「神野美伽」を知って「上村松園」を知らない私と、「神野美伽」を初めて知ったが「上村松園」に憧れるSさんを比べれば、どちらが品位があるかといえば、それは明白である。

 この例にみるように、人はそれぞれに嗜好というかタイプというか、こうも違うものだなあと、つくづく思う。文系の人と理系の人、はたまた体育系の人。演歌をこよなく愛する人からクラシックやジャズが大好きな人。和食を好む人と洋食、中華を好む人。都会派から田舎派まで、人それぞれに千差万別である。

 趣味やタイプが似た人との交流は、それはそれですぐに打ち解けて話もはずみ、盛り上がるものである。しかし何かが物足りないのである。そうだそうだで終わってしまうのが嫌だ。お互いが慰めあっているみたいなのが嫌だ。そういう意味もあって、私は若い頃からできるだけ同業者とか仕事仲間とかではなく、まったく異業種の人と飲み交わすのを好んだ。利害関係のない人の方が気が楽だというのもある。たまたま居合わせた飲み屋の隣人とかが一番よい。

 圧巻は、東京出張の折によく行っていた新宿ガード下の汚い飲み屋である。浮浪者みたいな小汚いオヤジと口を交わす。人生のこと、政治のこと、考え方とか話していくと、そんな考え方もあるんだ、そんな生き方もあるんだと、いろいろ勉強になる。たまには怒られる、たまには慰められる。あるときなんか、一緒に泣いてくれたりしたこともあったっけ。お金もないのに、奢ってやるからとさかんに酒をすすめらたこともあったっけ。

 まったく違うタイプの人と多く接すると、違う考え方に出会える。必ずしも自分の考え方が正解ではないことにも気づく。思考の幅が増える。なんといっても、いつも発見があり、いつも刺激がある。こういう屁理屈でもって酒場の隣人と飲むのをよしとする、そういう自分がいとおしい。

月光仮面、その後・・・・・・

 私は11月8日のブログにおいて、尖閣流出ビデオの流出者を月光仮面と名づけた。その月光仮面がようやく名乗り出た。政府は犯人探しの腰を折られた形で、今度は、流出ルート、関係者、動機などの糾明にやっきになっている。そして、月光仮面を逮捕するのか否か、未だ結論が出ていない。
 
 逮捕するか否かの決断が難しいのは当然である。逮捕容疑である国家公務員の守秘義務違反にあたるか否かがはっきりしないからである。そもそも、中国漁船の船長逮捕当時、前原大臣の言葉「ビデオを見れば一目瞭然」の言葉に象徴されるように、ビデオは公開が前提であったのだ。それを船長釈放時点からビデオは極秘物件となった。流出したビデオの内容は極秘にする前段階に編集されたものである。

 果たして、月光仮面は英雄なのか罪人なのか、世論の意見も分かれている。月光仮面を英雄と罪人の狭間に立たせたのは、言うまでもない政府のあやふやな態度である。公開するのかしないのか、するならする、しないならしない、そうした一貫した態度がないことが今回の事件を難しくしている。

 名乗り出る前に彼のことを月光仮面と称したのは、国民が知る権利を提供した人物であり、その行為の意義が大きいと判断したからである。無論、守秘義務違反か否かに関わらず内部情報を流出した行為は、それはそれとして責めなければならない。しかしそれ以上に、海保内部の無念さを月光仮面が代表しているようでならない。職務規定に沿って粛々と公務を実行し、その結果として船長逮捕にまで至った。にもかかわらず、政府の一方的な方針転換で釈放を余儀なくされた。10月24日の那覇地検・次席検事の記者会見の模様がすべてを物語っている。政府から手渡された文面をそのまま読まされている苦汁に満ちた表情であった。

 11月8日のブログにおいては、流出ビデオにない漁船拿捕、逮捕までのまだ見ぬビデオの存在のことも記した。その後、情報が錯綜している。中国漁船に乗込んだ海保職員が漁民に突かれて海に落とされたとか、漁船は実はスパイ船であったとか、中国漁船から海上に落とされた海保職員のひとりは殉職したという話まで飛びび交っている。いずれにしても、月光仮面個人の思想と実行ではなく組織としての判断も働いている気がしてならない。まだまだ我々には見せてもらっていない多くの真実がありそうであり、月光仮面のその後に注視しなければならない。月光仮面を裏で操っているのは実はsengokuではないのか。


難しい漢字や言葉

 私は仕事柄、いつも報告書を書いている。報告書というのは地質調査や地質解析の方法・結果・考察をまとめたものであり、お客さん(最終的には国や県)に読んでいただき、わかりやすく理解していただくものである。それゆえ、報告書は基本的に現代当用漢字を使用する。最近ではできるかぎり「ひらがな」を使用するのが一般的である。例えば、「従って」「且つ」「及び」「通り」なども「ひらがな」が原則である。これは学術論文でも同様のルールである。

 文章はわかりやすく簡易にをモットーとしている。起承転結はもとより、句読点の位置やセンテンスの長さなどにも気を配っている。また、読みにくい言葉にはルビをつけて、専門的な難しい言葉には脚注をつけてわかりやすく説明する。朝日新聞の天声人語が文章のひとつの手本となる(これには異論があると思うが朝日新聞党である私の私見)。

 上記はあくまでも報告書という対価のある場合であるので、私的な文章や日記、ブログの類は別である。こうした場合は文章のうまい下手、構成や適用語句など、いわば何でもありで良いわけである。人に読ますとしても、人それぞれの調子でもって伝えればよいのであり、その方がその人のモチーフが出ておもしろい。

 しかしながら、対価のある市場に出回る本となれば、やはり最小限のルールが必要である。叙情的な小説や詩であれば一歩も二歩も譲るが、主張や公論、論文まがいの本ともなれば、やはり読みやすいものにする義務があろう。

 これまで専門書以外の書物を好んで読まない(今までは読む時間がないといった方が正確かも)私であるが、最近になって気になる本をamazonから仕入れては読んでいる。シニアナビの山猫軒さんのブログにあった「街場のメデイア論」(内田樹著、光文社新書)も最近仕入れて読んだ本のひとつである。ところが、ほんの2~3ページの間にも難しい漢字や言葉であふれていた。

 少しだけ例を出すと、以下のようである。 
「遡る」(さかのぼる)-----「溯る」、「泝る」とも書く
「奇矯」(ききょう)なこと----普通と違っていること
「倒錯」(とうさく)-----本来のものと正反対の形となって現れること。
「配架」(はいか)-----所定の排列順序に基づいて、書架上に並べること。
「リテラシー」-----読み書き能力。
「煽り」(あおり)-----あおること。
「使嗾」(しそう)-----人に指図して、悪事などを行うように仕向けること。
「信慿」(しんひょう)-----信用してよりどころとすること。信頼すること。

 これらの漢字や言葉をみるに、何ゆえにわざわざ漢字を使用しないといけないのか、何ゆえにもっと簡易な表現にできないのかと思う。難しい言葉が著者の品位を高め、本の商品価値を高めるとでも言いたいのであろうか。本は読もうとする万民に提供して理解してもらうことが使命ではなかろうか。もしそうでなかったら、本の表紙に難しい漢字知識が必要とか、読者限定条件を示したらどうだろう。
 
 この例に限らず、最近の書物には何ゆえにと思うほど、やたらと難しい語句や表現、カタカナ言葉が目立つ。古典的な小説に始まる小説家の特権意識がそうさせたのだろうか。小説は読める人が読めばよい。理解できる人が理解すればよい。そうした小説家気取りの意識がそうさせているのか。

 私にとっては、大江健三郎の論文よりも養老孟司の論文の方が読みよい。高木彬光よりも松本清張の推理小説が好きである。山口瞳の作品も読みよい。こうした人の作品に共通しているのは気取りがないこと、表現が素朴であることである。一般の読者を常に意識している。本に、むやみに難しい漢字や表現は必要ないのではと、いつも思う。


シニア・ナビ白書

 お昼休み時間に、シニア・ナビって一体、どのくらいの人が登録しているのだろうかと、ふとつまらないことを考えた。思い立って、シニア・ナビの地域別、男女別、年代別の検索機能によりExcelにて集計してみた。
 
 その結果、シニア・ナビ登録の概要は以下のとおりであった。なお、このデータは2010年11月8日12時30分前後のものである。また、少し気がかりなことは、同じ条件で検索しても結果が違う場合があり、この場合は何度か検索を繰り返して安定的数値を採用した。さらに、この統計は会員が正しく申告されたことを前提にしています。とくに年代に関しては虚偽申告もありうることを付け加えたい。登録員数は日々刻々と変化していることも付け加える。

1. 登録員合計-----1,541人
2. 男女別内訳-----男性1,123人(73%)、女性418人(27%)
3. 年代別内訳-----40代65人(5%)、50代315人(20%)、60代696人(45%)、70代465人(30%)
4. 地域別内訳-----北海道46人(3%)。東北61人(4%)、関東708人(46%)、東海180人(12%)、甲信越53人(4%)、北陸37人(2%)、関西288人(19%)、中国50人(3%)、四国31人(2%)、九州沖縄79人(5%)

 ここで特筆すべき特徴を、考察として以下に示した。

1. 北海道の70代男性の17人は年代別の一般的推移からして突出して多い。北海道の男性は年をとればとるほど元気なようである。
2. 関東、東海および関西の50代女性の男性に対する比率は一般的男女構成比よりもかなり多い。都市部の50代女性がとても元気であることを示す。
3. 関東の40代男性29人は年代別の一般的傾向からしても異常に多い。都心には物好きな若輩シニア男性が多いとみた。

 なお余談であるが、60代の696人から70代の465人への減少は、各々の年代で新規入会や脱退が平均的にあると考えるならば、その差231人は死亡した可能性もある?つまり、60代から70代にかけて3人に1人が死亡した可能性もある?これは無謀な推論ですね。第一、亡くなったらナビの脱退手続きができないものね。家族が脱退手続きしなかったら、どんどん会員数は増えるのだろうか。いえいえ、ちゃんと減少しているということは、病気されたとかいう状況において跡を濁さずにみなさんちゃんと処理されているということでしょう。

 以上、物好きな私の勝手なシニア・ナビ白書でした。


シニア白書

個人情報の壁

 かっては憧れのマイホームだった2DKのアパートは、最近ではどこも高齢者単身の団地と化している。それにつれて、孤独死も急増している。東京郊外の某都営住宅のケースを新聞記事で目にした。団地の自治会長さんの話では、今までに20体以上の孤独死を目撃したという。とくに今年は春から夏にかけて5件も孤独死があったという。家族が面会してもわからないほど痛んだケースもあるらしい。

 この自治会長さん、何とか孤独死だけはさせまいと、無報酬の自治会活動によって涙ぐましい努力をしている。しかし、都の担当者に連絡しても「プライバシーにかかわるので」と軽くあしらわれる。それではと、せめて電話番号付きの団地の名簿を作ってお互い連絡できるようにしようとしたら、今度は個人情報保護法に抵触するという。

 高齢者の孤独死の例だけではない。私の経験談であるが、マンション管理組合においても理事どうしの連絡網にとメルアドや電話番号の提示を要求しても個人情報云々を楯に出そうとしない。結局、メルアドを提示した理事だけで連絡を取り合い組合活動することになった。

 社内においても昔は社員名簿が全社に配布されていたから、年賀状だって電話するときだって役立ったが、今はない。学会においても会員名簿がなくなり連絡が取りづらく非常に不便である。こうした例に限らず、我々の日常の生活すべてにおいてプライバシーと個人情報の壁に阻まれた不便な生活を強いられている。そこで、プライバシーの保護とは一体、何なのだ、個人情報の保護とは一体、何なのだと思う。

 そもそも個人情報保護法は、情報化社会が進む現代においてプライバシーが侵害されやすく、個人情報が流出されやすい状況を鑑み、それらを保護されるべき大切な権利として制定されたものである。もともとは、国および地方公共団体が保有する情報が流出されてプライバシーが侵害されることを規制したものである。

 しかし一方では、各種会員名簿が流出して売却された事件が多発したり、顧客名簿が流出した事件も多発しているではないか。最も象徴的なのは、誰にも住所を教えていないのにあちらこちらからダイレクトメールが毎日のように舞い込むではないか。個人のパソコンメールにも連日猥褻な情報が流される。受信拒否をしてもいたちごっこである。個人のフルネームをパソコンで検索すれば、個人の経歴は一目瞭然である。もはや個人情報はいくら保護しようが白日のもとにさらされているともいえる。

 だからといって、プライバシーや個人情報は保護すべきでないと言っているのではない。プライバシーと個人情報の壁に阻まれて何もできない現実が問題だと言っているのである。つまり、制度の本質的なことをないがしろにして、やたらとプライバシーだとか個人情報だとか言うのはいかがなものかと。

 プライバシー保護や個人情報保護という言葉を言い訳に、我々は人付き合いの煩わしさを避けたり、事務的な煩わしさを避けたりしているのではないか。住居などのバリアフリーがいくら進んでも、心のバリアフリーはますます厳しくなっている。プライバシーの保護や個人情報の保護が人と人とのつながりを断ち切る呪文になっている気がしてならない。

月光仮面のおじさん

 尖閣衝突映像流出事件に関して、俊介さんの11月7日のブログに「ビデオに写ってない部分」という内容が紹介されていた。
 以下は、その内容を原文のまま引用する。

「海保船舶が中国船に横付け、海保職員が中国船に乗り込み、その後中国船が突如離船
取り残された海保職員が中国船員から飛び蹴れされて海に転落
海に落ちた海保職員に向かって中国船が進路変更
必死に泳いで逃げる海保職員に向かって中国船員が執拗に銛で突き殺そうする。
これを助けようとして停船する海保船舶
その後ろから中国船が溺れる海保職員目掛けて伸し上げる
沈んで見えなくなる海保職員
再び浮かんできた海保職員を海保船舶の後部から担ぎ上げて救助する
海保船舶に這い上がる海保職員めがけて中国船が全速力で海保船舶の後部に衝突。」


 この情報のソースについて俊介さんに確認したところ、石垣からの情報だということであった(詳細不明)。また、昨日の「たかじんのそこまで言って委員会」においても一部が暴露された。さらに、国家機密のプロである佐々淳行氏も、今日、詳細は触れてないもののそのような趣旨のことに言及している。仮にこの情報が真実だとすれば、政府が公開するか否かで揺れ動いた一連の動きも説明できる。こうした状況から、真実であろうと推測する。

 今回のビデオ流出の犯人は、犯人しか知りえない情報であるという意味で、海上保安庁、検察、官僚など関係者であることに間違いない。また、明らかにこれは政治的意図を持った犯罪である。今、政府は犯人探しにやっきになっているが、そもそも日本の態度が腰砕けであるから、このような事件に発展したのではないのか。

 私は流出犯人をあえて「月光仮面のおじさん」と称する。仮に「月光仮面のおじさん」が特定されたとしても、守秘義務違反でせいぜい減報程度であろう。「月光仮面のおじさん」に言いたい。正々堂々と仮面を脱いで出てきて欲しい。そして、政府の体たらくな外交姿勢に抗議する目的で実行したと明言してもらいたい。国民は「月光仮面のおじさん」を支持するであろう。

日本のガラパゴス化

 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP=トランス・パシフィック・パートナーシップ)に日本が参加するか否かで、政府内外でもめている。TPPとは、簡単にいえば国どうしの輸出入関税を撤廃するという仕組みである。当初、ニュージーランドなど数カ国の枠組みで協定していたものだが、米国の参加表明で一気に環太平洋における経済協定へと発展する気運となってきている。

 TPP参加反対派は農業族議員、JAなど、必ずといっていいほど農業の利権に関わる人たちである。反対派の主張は、参加すれば日本の農業に壊滅的な被害を及ぼすという。例えば米国農産物の輸入関税は最大700%(米の場合)である。関税を廃止すれば、米国から現在の1/7の安価な米が輸入されるわけであるから、日本の農業にとって少なからず影響を与えることは否定できない。

 しかし、必ずしも壊滅的な被害にはならないと私は思う。いくら安い農産物や畜産物が輸入されても、購買を選択するのは消費者である。いくら高くても品質を求める消費者は存続するであろうし、安価な農産物を求める消費者の選択肢も増える。今までのような生産するだけの農業から、自ら企画・生産・販売する農業といった農業スタイルを政府の援助で変革させる起爆剤にもなろう。

 そもそも反対派は日本の農業を死守するといきまいているが、日本の国内総生産(GDP)に占める農業の割合は全産業の2%に満たない。今、日本経済を支えているのは第三次産業や第二次産業の中の製造業であり、これらの業種にとって関税撤廃は大きな利益をもたらし、結果として日本に大きな利益をもたらす。

 日本の農業を軽視するつもりはない。日本の伝統的な米づくりも大切だと思う。しかし、いつまでも古いしがらみに固執していると世界から取り残されるといっているのだ。今回のTPP問題は農業に限ったことではない。航空業界でも同じである。地理的に不利なうえに着陸料が高すぎる日本の空港を現実的な価格で提供し、真にアジアの玄関にしなければならない。

 こうした問題の根底には、政府、官僚、業界における「しがらみ」、「もたれあい」、「タブー」の意識がある。歴代の政府はこうした問題を見て見ないふりをして、ずっと先送りしてきた。政府、官僚および業界ともに、こうした意識を撤廃し、新たな世界観で対応しない限り、グローバルな世界競争の場で生き残るのは厳しい。今、開国を恐れていると、日本のガラパゴス化は間違いない。

厨房より愛を込めて

 先週、「男子厨房に入らずんば」を公開したところ、異常なほどの反響がありました。ブログへの直コメント、シニアの足跡コメントの他、未公開のミニメールと私メールにまで、たくさんの方からコメントを頂戴しました。この場を借りてお礼申し上げます。同居人の土日厨房完全逃避のため、拙者の厨房作業が繁忙となりお礼が今に至ったこと、お詫びいたします。 

 さて、コメントの多くは、「そうそう」と同感していただいたものなど、概して好印象でありましたが、中には愛あるダメ出しもいただきました。厨房の話題にこれほどに反響があったのは、人として、とくにシニアにとっての「食」がいかに重要な要素であるかという表れではないかと思います。また、笑って読んでいただいた方の多くは、厨房や食に関して男子が女子に対して日頃思うことを、私が女子の生贄(いけにえ)を覚悟で代弁したことに対する賞賛であったかと思います。

 いずれにしても、シニアにとっての「食」は余命を少しでも長く維持するための基礎であることに違いありません。同居人と仲よい方、独り身の方、同居離婚の方、愛人生活の方、多世代家族の方など、人それぞれに食環境は違いますが、それぞれによりよい食を目指して、食に対する意識をさらに深めていただければ幸いです。

 厨房の片隅から愛を込めて・・・・・・きよし。

男子厨房に入らずんば

(一)

 例えば、今夜の料理は何にしようかと考えるとき、男子は、家族全体のことを包括的に考えて決定する。その点、シニアの女子は違う。まず、自分が食べたいものから考え、次に子供のことを優先する。間違っても、旦那のことを優先することはない。

 仮に、今夜何が食べたいかと質問されて男子が答えたとしても、それはどうのこうのといって却下される。男子はそのうち、聞かれて答えても却下されることを学習し、答えなくなる。と同時に、男子は自ら厨房に入るという英断をするのである。旨いものを自らの手で作りさえすれば、何の気兼ねも要らないのだ。かくして、男子と女子の厨房合戦が始まる。

(二)

 私は自分の朝ごはんは自分で作る。バナナとヨーグルトの同居人と違って、普通の朝ごはんがどうしても食べたいからである。バナナとヨーグルトに合わせられたら、仕事はできない。会社で大して知恵も力も使わないが、普通の朝ごはんを食べないと、ほんとに知恵も力も出ないし、生きた心地がしない。

 朝食に限らず、朝に夕に、料理の下ごしらえから、食器洗い、食器乾燥、後片付けと、最近、何かと厨房にいる時間が多くなった。もう老後の自立の域をとうに越しているのだが、厨房作業を先送りする同居人がいるから、仕方なくそうなる。同居人が厨房作業をなぜ先送りにするかというと、同居人はビールを飲みはじめたら食堂の席から立とうとしない。ワインを飲んだら居座る。にごり酒を飲んだらソファーに寝込むからである。

(三)

 私が飲まないわけではない。同居人とほとんど同じかそれ以上に飲む。私がとくにお酒が強いというわけではないし、潔癖症でもない。要するに、先送りされた食器の山を黙って見過ごすことができない、ごく普通の感覚の持ち主であるからだ。つまり、喜んで炊事をやっているのではなく、見るにみかねてやっているまでだ。

 洗い場がたくさんになると、ほっとくわけにいかない。洗えば乾燥しなければいけない。乾燥すれば片付けしないといけない。毎日、この繰り返しである。どっかと腰をすえた同居人を横目に。

 いつからこのような居候のような習慣がついたのだろう。多分、それは同居人の腹廻りが肥大化しはじめた時期と一致する。犬は最初のしつけが大切というが、我とて最初からほんの最近まで完璧にしつけてきたつもりである。ああ、それなのに、それなのに・・・・。そんな愚痴を言っても仕方がない。そういっている間にも作業が増える。

(四)

 だから、決して冷やかしなんかで厨房に入っているのではない、これだけは言っておく。それにしても、最初の頃は作業に戸惑ったものだ。それはそれは、低姿勢に師匠に教わりを請うたものだ。入幕したての相撲取りの形相を呈してきた師匠には感謝している。プロの職人芸に尊敬の念をいだきながら、その芸を盗み覚えもした。強い調子の教えも、愛あってのものだと間違った解釈もしてきた。その甲斐あって今では、師匠亡き後も自立できるまでに成長した。

(五)

 プロなるご婦人なら誰しも、厨房における自分なりのやり方やスタイルを持っているであろう。ここだけは譲れないというステータスがあるはずである。だったらプロらしく、「男子、厨房に入るべからず」ときっぱり言って欲しかった。そのお言葉なしに、毎日、一定時間を厨房で過ごすこととなった私にすれば、それなりに、やりやすいようにしたいと思うものだ。そのささやかな願望をめぐって、同居人とちょっとした摩擦が生じる。

 いや、何も喧嘩を売っているわけではない。これまで何10年もの長きにわたって粛々と作業を継続された厨房の神に、たてつくつもりは毛頭ない。ただ、許されることなら、ちょっとだけ意見を言わせてもらいたい、そんなちっぽけなお願いである。

(六)

 まず、食器の洗い方である。我が家には食器洗い機というものがあるが、それは使用したくないという点では意見が一致している。食器洗い機ではよく汚れがとれないという細やかな感覚は同居人もお持ちのようである。我が家の食器洗い機はいつのまにか乾物の倉庫となっている。

 男子は全般に洗剤を多く使い、おまけに水を多く使うという。先日も食器洗いをしていたら、水道水の音だけで、ソファーに横になっていた同居人に注意を受けた。寝ていても水量を察知する、その研ぎ澄まされた感性には敬服する。男子は金銭感覚がうすいと言われればそうであるが、しっかり洗わないと気がすまないのだ。一生懸命な男子に対して、そのようなケチなことで注意すると、男子はあまり伸びないと思うのだが。

(七)

 食器乾燥機に入れる場合も性格が出る。乾燥機に入れる順序、油もの、大きさ、長物、切れ物、割れやすいもの、そうしたことを総合的に勘案して、洗いの順番を見定め、順次、丁寧に、効率よく乾燥機に収める。こうしたいのだが、プロの師匠はそんなことにはこだわらないらしい。とにかく少ない洗剤と少ない水量で仕事が速い。これがプロの仕事なのか。

 たまに、里帰りして娘が手伝ってくれるが、彼女の場合は論外である。プロ以上に速いがとにかく雑である。拙者どころの水の量ではない。全開にして洗うから、そこらへんに水が飛ぶ。おまけに汚れが落ちていないとくる。時々、ガラスものが割れる始末。師匠も見習いの私には手厳しいが、娘には注意のひとつもない。結局、娘が洗ってくれた食器は、娘にさとられないよう、拙者が洗い直しをする。

(八)

 最も摩擦が大きくてもめるのが冷蔵庫の中身のことである。こういう風にいうと、ケチな男に思われるかも知れないが、この際、言わせてもらう。男子は冷蔵庫の中身をその都度、点検する。賞味期限をいちいち確認する。過ぎたるは使わざるが如し、捨てる。

 冷蔵庫の中はできるだけ簡素に配置したい。軽いもの、重いもの、汁もの、チルド用、冷凍もの、生もの、そうした条件で、できるだけ簡素に、しかも適材適所に配置したいのである。しかしながら、年をめされた女子は違うようである。

 まず、賞味期限をあまり気にしない。仮に賞味期限が過ぎたのを知っていたとしても、捨てることはまずない。とりあえず置いておく。もうとても食べられそうにないとわかっても、どういうわけか処分しない。野菜室もそうである。腐りそうな野菜とか、変色した野菜はとても男子には耐えられないのである。女子は冷蔵庫の温度調整にも鈍感である。夏なのに氷混りのチルド状になっていたり、冬なのに少し開けただけでチャイムが鳴ったり、全く季節感がないというか、無頓着なのである。

(九)

 男子は食材を贅沢に買うという。つまり、高い食材をポンポコポンポコ考えずにレジかごに入れるという。言われてみれば、そうである。さほど単価を気にしない。同じ品物でも単価が高い方がいいに決まっているという観点がある。何を作るか決めたら、その目的に沿ってできるだけ良い食材を買う。それを、金銭感覚がないと女子は注意する。確かにそうかも知れない。

 しかし女子は、安売りがあると、必要もないのに、決まってとりあえず買っておく。それも大量に。冷蔵庫にしまい込み、結局、用途がなく腐らせる。そんな女子と比べて、金銭感覚がないのはどちらであろうか。

 男子はそれでも鮮度には気を使う。豆腐一丁買うにも、女子はただ陳列の奥のものを無造作に手にするが、男子はいちいち賞味期限までチェックする。陳列の奥のものほど新しいという定説は時々狂うからである。新鮮なものほどいいという常識も女子には必ずしも当てはまらない。賞味期限がたっぷりの商品よりも賞味期限が迫った半額を選択する。夕方のスーパーには半額シールを待つ主婦がまだかまだかと徘徊する。家計を何とか切り盛りしようとするその努力は涙ぐましいのであるが、何とも惨めな気がする。

(十)

 一般に、女子は調理においてメジャーを多く使う。大さじや小さじなど、レシピ本をみながら忠実に調合する。お米1合の計量もカップの上面をシャープに切る。それに対して男子は違う。レシピを見るとしてもそれは参考までで、だいたいに行う。いい加減なようであるが、決してそうではない。決められた調合ではなく、できている実際の味を大切にする。味を確認しながら自分好みに調整するのである。女子はいわばハンドブックシェフあるいはマニアルシェフとでも言おうか。これに対して、男子はフレキシブルシェフあるいはイメージシェフといえる。

 女子は一度に大量に作ろうとする傾向がある。明日や明後日の炊事作業の簡素さを考えてのことであろうが、それによって、3日も連続してカレーやおでんを食べさせられることになる。それだけではない。あげくの果てに廃棄されることもある。男子とて手間は省きたいが、料理に対する愛は省きたくない。できるだけ旬なものを少しでも短期間に味わうことをモットーにしている。ネギを大量に切って冷凍庫に入れるなど、男子には考えもつかない。味噌汁や冷奴のネギはその都度、切ればよいではないか。凍ったネギを振り掛けた冷奴は男子には耐えられない。

 女子と男子では食に対する考え方が違うのである。つまり、家庭での料理を女子は作業として考えているのに対して、男子は文化として芸術としてとらえているのである。

 しかし、女子は外食すると豹変する。家庭での単品大量摂取の反動なのか、女子は外食すると、「少しずついろんなものを食べたいのよね~」と言う。これって究極のムダである。また女子は外食すると、料理の単価に対する料理の量と質を厳密に評価する。盛り付けがどうとか、調味の具合とか、場合によってはウエーターの態度にまで言及し、クレームまでつけるのは大抵、女子である。人に手厳しく自分に優しい女子。人に優しく自分を律する男子、この人類学的な相違がさまざま場面で現れる。

 ただ、女子は例えばお友達の家にお呼ばれしたときなどは、やたら美味しいを連発する。金銭の代償のない場合に、これほどまでにかわれるものかと、男子にはおどろきである。

(十一)

 女子はやたらと食器を買う。だから、食器棚は次第に満杯になる。食器を買うのがいけないと言っているのではない。気に入った食器を必要な数だけ揃えて、不必要な食器は処分したらどうかと言っているのだ。1年も使わない食器はまず使うことはない。これはこれで捨てきれないと反論する。かくして、コップや皿を何枚も重ね、バカラのグラスと100円ショップのマグカップが混在する食器棚となる。

 食器棚の食器だけではない。若い頃からの引き出物の食器が箱ごと大量に押入れで眠っている。食器に限らず片付け上手とは、いかに捨てきれるかどうかということである。かくして、男子は食器の格納に時間を費やし、ここでも不合理性に屈するのである。

(十二)

 同居人亡きあと自立するための訓練の場と思いたった厨房入りであるが、始めてもうかれこれ2年が経過する。男子厨房に入らずんば、食を得ず。厨房作業とは意外に大変でもあり楽しいものである。厨房のイロハはもとより、料理をすることの楽しさ、美味しい料理の秘訣など、本では学べないことも多く学んだ。厨房に関する男子と女子の考え方も知った。相互理解のためには相手の職業を知ることが大切であることも実感した。

 男女平等に始まり、女子の社会への進出と参画が叫ばれて久しい。厨房も必ずしも女子の仕事と限ったことではない。子守だって洗濯だって何だって、どちらの仕事と決まったわけではない。しかし、どちらかが主でどちらかが従であるのか、その役割分担を明確にする必要がある。厨房においてもそうである。男子が従としてお手伝いのつもりでやるのはいい。

 しかし、主としてやるにはそれ相応の覚悟と周囲の認識も必要というものである。私の場合、同居人亡きあと、この経験を実践する日をおごそかに待つのみである。なお、世の女子の名誉のために言っておくが、ここでいう女子とはおそらく我輩の同居人に限ったことではないかと思う。

男子厨房に入らずんば(一~三)

(一)

 例えば、今夜の料理は何にしようかと考えるとき、男子は、家族全体のことを包括的に考えて決定する。その点、シニアの女子は違う。まず、自分が食べたいものから考え、次に子供のことを優先する。間違っても、旦那のことを優先することはない。

 仮に、今夜何が食べたいかと質問されて男子が答えたとしても、それはどうのこうのといって却下される。男子はそのうち、聞かれて答えても却下されることを学習し、答えなくなる。と同時に、男子は自ら厨房に入るという英断をするのである。旨いものを自らの手で作りさえすれば、何の気兼ねも要らないのだ。かくして、男子と女子の厨房合戦が始まる。

(二)

 私は自分の朝ごはんは自分で作る。バナナとヨーグルトの同居人と違って、普通の朝ごはんがどうしても食べたいからである。バナナとヨーグルトに合わせられたら、仕事はできない。会社で大して知恵も力も使わないが、普通の朝ごはんを食べないと、ほんとに知恵も力も出ないし、生きた心地がしない。

 朝食に限らず、朝に夕に、料理の下ごしらえから、食器洗い、食器乾燥、後片付けと、最近、何かと厨房にいる時間が多くなった。もう老後の自立の域をとうに越しているのだが、厨房作業を先送りする同居人がいるから、仕方なくそうなる。同居人が厨房作業をなぜ先送りにするかというと、同居人はビールを飲みはじめたら食堂の席から立とうとしない。ワインを飲んだら居座る。にごり酒を飲んだらソファーに寝込むからである。

(三)

 私が飲まないわけではない。同居人とほとんど同じかそれ以上に飲む。私がとくにお酒が強いというわけではないし、潔癖症でもない。要するに、先送りされた食器の山を黙って見過ごすことができない、ごく普通の感覚の持ち主であるからだ。つまり、喜んで炊事をやっているのではなく、見るにみかねてやっているまでだ。洗い場がたくさんになると、ほっとくわけにいかない。洗えば乾燥しなければいけない。乾燥すれば片付けないといけない。毎日、この繰り返しである。どっかと腰をすえた同居人を横目に。

 いつからこのような居候のような習慣がついたのだろうか。多分、それは同居人の腹廻りが肥大化しはじめた時期と一致する。犬は最初のしつけが大切というが、我とて最初からほんの最近まで完璧にしつけてきたつもりである。ああ、それなのに、それなのに・・・・。そんな愚痴を言っても仕方がない。そういっている間にも作業が増える。

通勤電車の日本事情

 通勤電車の乗客の様態は、居眠り派、ケータイ依存派、読書派、ぼんやり派に分かれる。そして早朝の通勤電車になると、圧倒的に居眠り派が多い。あたりを見渡すと、居眠り状態の人が何と多いことか。

 なぜ日本人は電車の中で眠るのか。職場と住居が離れているのも理由のひとつであろう。通勤時間が長いのも理由のひとつであろう。日本人の平均50分という通勤時間は、イギリスの39分、ドイツの36分に比べても確かに長い。さらに、日本のサラリーマンの労働時間が長いことも無関係ではないと思われる。

 外人の友達は、なぜ日本人は電車の中で眠るのかと不思議そうであった。眠ること自体にではなくて、あまりの警戒心のなさに驚いているのである。外人にはとうてい理解できないらしい。そう言われれば、膝の上にのせたカバンやバッグはいつでも盗んでくださいといわんばかりである。

 日本人の6割以上の人は日本の治安の良さを誇りに感じているという。確かに、世界から見れば日本は安全な国なのかも知れない。パリやローマに海外旅行すると、決まって誰かスリか置き引きにやられる。それも、子供がまとわりついて遠くで大人が監視するという手の込んだものまである。

 何も通勤電車の居眠りのことを避難しているのではない。外人の観光客に信じられないとまで呆れられる日本人の警戒心のなさに、老婆心ながら疑念をいだいているのである。平和ボケの日本人の感覚を矯正しないと、日本はいずれどこかの植民地になるのは必至であろう。

観察力

 地質学を仕事にしているので、露頭を観察することが多い。露頭とは、岩盤などが露出した法面や斜面のことである。露頭を観察することにより、地質の構成や形成史(生い立ち)を知ることができる。若い人に、露頭を観察してきなさいというと、10分も経てば帰ってくる。それじゃだめだと、また行かす。それでも20分もすれば帰ってくる。「だって、もう観察するところもないし」と答える。「ほんとにそうかな?」と言って、最終的には一緒に観察に行って手本を示す。

 最初は遠巻きに露頭の全体像を天下の大勢としてつかむ。そして、おもむろに露頭に近づいて細部を観察する。それをスケッチブックに書きとめる。スケッチブックに書いていると、いろんな矛盾や疑問が彷彿する。そして、スケッチが完成したら、再度、じっとひたすら観察する。1日同じ露頭を見ていたって、私は飽きない。見れば見るほどいろんなことがわかってくる。想像が膨らむ。そうしたら、物語ができる・・・・・・・・・。1億年前の恐竜が行きかう時代に海底で砂が堆積したあと、地盤隆起し、その後火山の噴火の影響を受け、さらに断層活動によって切れ切れになり、縄文海進によって埋没し、新しい堆積物が被い・・・・・といったロマンが展開できる。つまり露頭と対話することができる。

 地質の露頭観察に限ったことではない。目に見えるものであれば、観察により知りえることが山ほどある。観察すればするほどいろんなことがわかる。静物でもよい。風景でもよい。動物や人の表情はもっとわかりやすい。観察することで、目に見えないものまで見えてくることがある。花や果物の鮮度、水分、風景が示す風土の形成過程、動物や人の心・・・・・。

 観察には不思議な力がある。心配な木や花があれば、もっと観察するがいい。心配な動物や人があれば、もっともっと観察するがいい。観察に過ぎるということはない。時として日によって表情が違うからである。化石になった地質にしても、同じ露頭でも晴れの日と雨の日では表情が変わる。晴れの日にカラカラに乾いた露頭も雨が降れば割れ目から湧水する。ポーラスな岩と緻密な岩では濡れ方も違う。化石がそうであるから、まして生き物は表情が日々刻々と変化する。もっと観察すれば、心配なものや心配な人の気持ちもわかろう。そうして洞察力や感性が磨かれよう。そうなれば、目に見えないものまで読めるかも知れぬ。相手の気持ちが理解できないと言っているのは、実は、我々に観察力が足りないのかも知れない。

事業仕分けと国家財政

 特別会計にメスを入れた事業仕分けの第3弾が終了し、事業仕分けのほぼ全容が明らかになった。もともと事業仕分けは、国家予算の見直しにおいて、国民への透明性を確保しながら、予算執行の現場の実態を踏まえて、そもそも事業が必要か否かを判断するものである。無駄をなくすのは大変、結構なことである。また、国家予算の使い道について少なからず透明性を垣間見ることができ、国民の関心が高まったという点で、事業仕分けの試みに対して素直に評価したい。

 しかしながら、特別会計を対象にした今回の事業仕分けにおいては、重点施策の財源として活用できると期待した「埋蔵金」がほとんど発掘できていない。それどころか、廃止や予算縮減の判定が出た一部特会にしても、法改正など多くのハードルが待ち受ける。無駄削減などで巨額の財源を捻出できるという政府・民主党の見通しの甘さが改めて露呈した形で、増税論議が勢いを増す可能性が高まったように思える。

 廃止や予算縮減と判定しても、実際には手を変え品を変えて復活しているという事実を我々は見逃すことができない。なぜなのか。それは、事業仕分けという行為そのものが制度として法制化されていないからである。よって、で強制力がないのである。

 基本的なことに立ち返ろう。家計を例にすればわかる。家計が苦しいといって主人の小遣いの使途に無駄があるとか、光熱費のこの部分に無駄があるとか、重箱の隅をつっついて騒いでいるのである。それは順序が違うのではないか。まずもって、家計がどの程度に苦しいのか財務諸表(貸借対照表)を明らかにしなければならない。次に、財務諸表という共通認識のもとに、大きな入り(収入)と出(支出)についての問題点について議論することから始めるべきであろう。

 蓮舫行政刷新担当相のさっそうとした姿は格好いい。パフォーマンスとしては良い。しかし、国家財政はパフォーマンスだけでは良くならない。地に足がついた基本戦略を立てるべきではないか。それにはまず、国家の予算と仕組みの透明性が最重要と考える。与野党ともこれに及び腰である。小泉純一郎の政策は良いとは思わない。小泉純一郎の性格も個人的には嫌いである。しかし、彼のように命をかけたリーダーシップが国家の長に求められる。
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