宮里藍に学ぶ

 宮里藍は2003年にプロデビューし順風満帆に成果をあげるが、2006年終盤から大きなスランプに陥る。海外遠征における外人プレーヤーの飛距離に圧倒されて、自分のゴルフができなくなったのだ。事実、2007年~2008年の2年間は優勝していない。しかし、2009年に見事に復活し、2010年に世界ランキング1位となった。

 スランプから脱却した彼女の経験談を聞いたことがある。飛距離で並ぼうとしてもできない苦悩の日々の中で、彼女は自分のゴルフは何かをとことん問い詰めたという。外人ロングヒッターを横目に、自分にはできない事実をしっかり受け止めることができていなかったことに気づく。できないことを無理して追っていたのだ。つまり、自分らしいゴルフができていなかったと反省する。自分の長所を伸ばし、自分を信じて戦う。失敗すれば、平常心をもって次に備える。それで克服できたと回顧する。

 人間にはそれぞれに、弱さとよさ、欠点と長所、非凡と才能を相持ち合わせているものである。自分の弱さや欠点、非凡は、それを自分で十分に認識する必要があるが、ことさら以上にそれを憂うことは発展性がない。むしろ、自分らしさや自分の長所を大切に伸ばすことの方が重要である。

 ブログや日記はそのことに一役買う。自分の思ったことや意見を文章にするということは、冷静に自己分析することになる。日記は気兼ねなく正直に心情を表すには良いが、逆に独りよがりになるのが危険である。その点ブログは、公にすることで共感を受け、反対に別の意見や思いも拝聴できる。共感してもらえば励みになる。別の意見や思いを知れば、広い見方を勉強できるし反省もする。そうして、少なからず人として成長するであろう。どの歳になろうとも、人は成長しなければならない。これが私の心情である。このことを、宮里藍に再確認させてもらった。
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受動喫煙

 年間6,800人が受動喫煙によって死亡しているという驚異的な事実がある。その半数が職場であり、残り半数が家庭であるらしい。つまり、本人は煙草を吸っていないにもかかわらず、年間3,400人が職場における受動喫煙によって、年間3,400人が家族による受動喫煙によって亡くなっているのである。

 煙草を吸う人はフィルターを通して煙を吸うが、煙草を吸わない人はフィルターを通さないで煙を吸っている。このため煙草によるリスクは、煙草を吸う人よりも煙草を吸わない人の方が高いというジレンマがある。

 分煙は少しずつ進んでいるが、それは公共施設と大企業に限られている。従業員5,000人以上の企業は100%分煙しているものの、中小企業ではほとんど実施されていないのが実態である。私の経験では、中小企業において煙草を吸う社長の会社は100%分煙がなされていない。煙草を吸うという社長個人の嗜好によって、従業員の健康を害しているのである。

 昨日、出張先で行ったスナックのママはガラガラ声であった。おそらく煙草で声を潰したのだろうと思って、おもむろに尋ねた。すると、主人は3年前に亡くなったが、ヘビースモーカーの主人からの受動喫煙によってこうなったと言う。今では肺にも影響が出ているらしい。勿論、そのママは生涯、煙草を吸ったことはないと言う。おまけに、主人は肺がんで亡くなったのではないと言う。う~む、これは一体どうしたものか、通夜みたいな雰囲気で静かに飲んだ。

 煙草を吸わない人が煙を吸わないようにする、この当たり前のことができていない。10月1日から煙草が値上げされる。値上げ幅は、値上げによる煙草人口の減少をあらかじめ予測し、それでも税収増加となるようなシュミレーションを行った上で決定している。別に国民の健康を考慮しているものでも何でもない。国民の健康を考慮するのであれば、煙草販売を中止すればよいし、さもなくとも、思い切った値上げをすれば済むことである。日本たばこ産業(JT)や厚生労働省の健康に留意して云々という広報はちゃんちゃらおかしい。

サプリメント

 最近、サプリメントのコマーシャルがやたらと多い。テレビでサプリメントのコマーシャルを見ていると、ややもすると、騙されたつもりで服用してみようか、そういう気持ちになるのが怖い。しかし、少し冷静になってみると、懐疑的な気持ちが彷彿する。一般人らしき人がサプリメントの効用を述べたりすると、この人は実在するのかと疑う。まして、芸能人が出演する場合は、その芸能人の生の意見なのか、あるいはギャラのための演技なのか、さらに疑わしくなる。

 そもそもサプリメントは、直接的に体の痛みを解消したり体の機能を改善したりするものではない。薬と呼ばれない所以がそこにある。だとすれば、何故に人はサプリメントに騙されるのか。人は誰しも年を重ねると老化し体に不安を持つものであり、それに目をつけた商売であるからであろう。そういう意味では、サプリメント商法というのは年寄りの弱みにつけ込んだ悪徳商法と言っても過言ではない。

 具体的に、どのような成分をどの程度、含有し、どの成分がどのような仕組みで効果をもたらし、どのような臨床実績があるなど、科学的な根拠の説明なくして宣伝することが許されて良いのか。これこそ、消費者庁の監督責任の範疇にある。

 新聞記事に、ある人の体験談の記事があった。定期健診で肝臓の数値が非常に悪いことがわかった。肝硬変寸前の状態であると知らされるが、缶ビールを1本程度しか飲まない本人は唖然とした。いろいろ病院を廻ったが原因がわからず、最後に見てもらった病院で原因がわかった。彼はいろいろなサプリメント30錠を毎日服用していたが、その副作用であることが判明した。事実、サプリメントの服用を中止したら、γ-GTPの値はいっきにに正常値になったそうである。

 サプリメントが体に効果がなくとも、害がなければまだよい。しかし、前述の例にみるように害がある事例もよく耳にする。実際のところ、効果も害もよく解明されていないのが実情ではなかろうか。それに反して、サプリメント商法は野放しの状態である。サプリメントが多くの人に害をもたらし大きな社会的問題になる前に、サプリメントに関する公式な研究成果と服用指針が示され、必要に応じて規制を断行し、場合によっては法制化することを強く望む。

十三人の刺客

 ベネチア映画祭の報道に触発されて観賞した。横暴・残虐極まりない明石藩主を討つ物語である。参勤交代で江戸から明石に戻る道中、藩主を守る300人の家来に13人の刺客が挑む。1963年に公開された映画のリメーク作品である。

 刺客たちの人物像の描写に、死に方の個性が出ている。13人の戦いぶりを演出するカメラワークも良い。クライマックスの戦闘場面は迫力満点である。主役・役所広司は適任であるが、それより、馬鹿殿様扮する稲垣吾郎が良い。

 ただ、不満な点もある。「これは広島・長崎に原爆が投下される100年前の話である」というプロローグなど、最初からベネチアを意識した作品であること。「おくりびと」にも同様の感じがあったが、国際感覚の平和に対する共通認識に日本独特の文化を加えた、いかにも国際映画祭向けの作品であることが見えすぎる。藩の一行は刺客たちの存在を意識しながらその待ち伏せを確認しながら下向するが、刺客が待ち伏せる落合宿を先発隊が来たときの村の様子などに不自然さがある。現実にはこのようなことはありえないと感ずる部分がある。さらに、下ネタ的な下品な描写があるが、これはこの作品に必要なのかと感ずるところもある。

 「天下万民のため」というのが藩主を討つ大義であるが、これは単なる建前であって、役人化する武士に飽き、武士が武士たる存在を見出すためであろう。「誰のために、何のために生きるのか」という永遠のテーマをこの作品は訴えている。

ああ、日本人の大きな勘違い

 最近の下請業者からの強い悩み。資格の時代だからと努力して資格を取得すると、逆に仕事がなくなってしまうという。元請も取得できていない資格を下請けが取得すると、下請けのクセに、生意気にといった、ねたみ・やっかみが働き、資格が返ってアザになるという。

 似たようなことが身の回りで多く見受けられます。大切な協力会社を下請会社と見下す。たいして大きくもない企業なのに、大会社と勘違いしていらっしゃる社長さん。会社の過去の栄光をさも自分の栄光と勘違いしている若い社員さん。下に驕り上にへつらうサラリーマン社会の習性。役所を神と信奉し、お上の言うことには、仮にそれが大きな間違いであっても逆らわない会社。悲しいことです。

 不景気の脱出の策とデフレ解消の鍵は、構造改革でも財政改革でもなく、実は日本人の意識改革なのではないでしょうか。いつになったら、良いものは良いと公平な評価ができる時代がくるのでしょうか。

国民の失望と良識

 今更しつこいと思われるであろうが、今一度、民主党代表選を題材にさせていただくことをお許しいただきたい。

 この代表選を通じて、国民はふたつの失望を感じたに違いない。ひとつは鳩山由紀夫に対する失望であり、もうひとつは小沢一郎に対する失望である。

 鳩山由紀夫に対する失望は、出処進退をめぐる動きに関してである。かねて「首相を退いた政治家は引退すべし」と主張し、実際、引退表明の直後には「次の総選挙には立候補しない」と断言した。ところがその直後、「引退するかどうかは来年4月まで考える」と軌道修正したかと思うと、さらに、トロイカ復活にまで行脚した。

 このブレはどういう人間性からもたらされるのか。羞恥心も自尊心もない、とても人間とは思えぬ宇宙人の言動と言わざるを得ない。さきがけ代表の経験がある武村氏はこう話している。「鳩山氏は普天間飛行場の移設問題で関係者に迷惑をかけた。頭を丸めて沖縄名護市辺野古の全戸を廻りお詫びすべきだ」と。これで済むべくもない。名護市辺野古だけでなく、日本中を道中引き回しの刑にすべき戦犯である。

 もうひとつの失望は、小沢氏が代表選に出馬することに対する失望である。思い出してもみてください。政治とカネの問題で3ケ月前に幹事長を辞任したのです。その人がのうのうと出馬したのです。党員・サポーターが失望したに限らず、多くの国民有権者が失望したと思う。これも戦犯なり。

 しかし皮肉にも、こうした失望は国民の常識を醸成するのに役立ち、結局は国民の良識が勝利した結果を代表選にもたらしたといえる。

夏から冬へ

 22日、日中の気温33℃。今日も会社はエアコンをガンガンつけている。設定温度を29℃にするとやはり暑い。結局、28℃で折り合いをつける。外との温度差5℃が最適というから、やはりそのとおり。夕方になってもエアコンを落とすことはできない。帰り際、エアコンを切るのを忘れないように頼んで家路へ。

 夜半から猛烈な雷雨となる。窓は開けてられない。ピカッツ、ピカッツという閃光とともに猛烈な雨。ジュン太がいたら怖がって大変だろうなあと思いつつ、自身も少し怖い。少し蒸す。なんだか今夜は寝つきが悪い。

 ビューン、ゴー、ヒューという嵐のような音で23日の朝を迎える。山側の北からの突風である。少し窓を開けると、ヴァオーンという突風が舞い込む。寒い。外はまるでピカソ風景となり、ベッドの傍にある扇風機がうらめしそうに睨む。これは、まさに木枯らしである。部屋のドアを逆なでしようものなら、バターンと大きな音を立てる。海は荒れている。ダンボールや何かが突風で飛んでいる。とにかく寒い。こりゃ、何だ。この激変はどうしたものか。

 テレビをつけると秋雨前線が南下している。これが季節の激変だとわかる。そうか、犯人は秋雨前線なのだ。秋雨前線は変化の境界である。そこから少しでも南側は真夏だし、そこから少し北に入ると冬になる。このような前線は人生でもありそうだ。人がいくらあがいても、前線は勝手に移動する。悪いときは前線の移動を待つしかない。

検察の闇

 日本の検察はおぞましいところだと、常々思っていた。別に確たる証拠があるわけではないが、きな臭い雰囲気を十分に感じ取っていたからである。今回の郵政不正事件におけるデータ改ざん事件は、まさにこの疑念を証明するものであった。

 おそらく日本の検察は、逮捕しようと当局が指令すれば、誰でもいつでも逮捕できるのではと思う。仮に相手が与党の元幹事長であったとしても。逮捕された検事は小沢の公設秘書を起訴していることから、これにも疑念が走る。つまり、指令する当局とは与党でもなく国家でもなく、闇の絶大な権力が暗躍しているのではと想像する。

 検察は国家の根幹である。仮にこのようなことがまかり通っているとすれば、日本の司法の崩壊を意味する。すなわちこれは、民主主義という仮面をかぶった国家主義の存在を意味する。

文章力

 シニア・ナビのブログには多くの小説家がいる。人それぞれに、個性あふれる文章が盛りだくさんである。そして、文章をみれば作者の人柄を髣髴させられ、会ってもないのに勝手に想像をかきたて、人格までを確立してしまっている。

 私には、Sさんのような流暢で知才あふれるしなやかな文章は書けない。Yさんのような研ぎ澄まされた感性的抒情詩は私の能力限界を裕に超える。さりとて、Bさんのような普段着でいてしっかりほのかな文面を書くほどの朴訥(ぼくとつ)さをもちあわせない。
  
 文章を書いていると、ついつい、句読点は適切か、主語と述語は、送り仮名は、論理性は・・・・などと考えて筆が止まる。いかん、いかん、硬すぎる。しかし、それは一種、私の職業病でもある。理系の論文や報告書には正確な文章が不可欠だし、一切の感傷は弊害であり、あくまで論理性を追及するからである。

 文章力にとっては、必ずしも正しい文章は必要としない。まして、論理性などほとんど関係ないのだ。要するに、読むものが感動し、読むものが納得すれば、それこそが文章力であろう。第一、小説に対して文章的に正しいとか間違いだとかいった論評を聞いたことがないし、論理性がある小説なんて見たこともないし面白くもないだろう。

 文章にはその人の過去の経験が見え隠れし、それが文章力となる。このことに関して、大江健三郎が東大在学中に恩師、渡辺一夫教授からしっかり読むように言われたという本が一冊ある。ジョルジュ・デイアメル著、渡辺一夫訳『文学の宿命』の第二部である。

 そこには、作家志望の若者への語りかけ調で以下のように記されている。
〔注:文面は大江健三郎の引用文をそのまま掲載したものである。古文(歴史的かな使い)であることから、原文訳と同じと考えられる。〕

 「それぢゃ、まづ 第一に生活なさいよ。さう、人生の乳房からたつぷり乳をお飲みなさい。将来生まれる君の創作を養ひ育てるんですね。君は、立派な小説を作りたいと言ふんでせう?そんなら、よござんすか、どこかの船にでも乗込み給へよ。さゝやかな仕事をしながら世界を駆けまはり、貧乏も我慢し給へ。急いで筆を採るのはおよしなさい。苦しみも試練も忍従なさい。幾百となくゐる多くの人達を見給へな。そして、私が多くの人達を見給へと言ふ場合、その意味は、人々によって不幸に陥れられたり、また人々を幸福にする為に不幸になったりするのを拒むな、といふ意味なのです。(中略)立派な小説を作りたいと言ふのでせふ?それぢゃ君!まづ手始めに、そんなことをあまり考へないやうにし給へな。行手をきめずに出かけ給へ。眼や耳や鼻や口を開けて置くのだ。心を開け放しにして、待ち給へ。」

 小説に限らず、文章力ある文章を書くには多くの人生経験が糧になるということでしょう。そして、眼や耳や鼻や口をしっかり見開いて人生を送りなさいという人生論をデイアメルは提言しているのであろう。


敬老の日に

 義母を亡くし北九州の息子夫婦に引き取られた義父の悲しみを少しでも癒そうと、敬老の日に旅出つことを思い立った。

 北九州の分譲マンションの2Fに息子夫婦が住み、1Fに義父が住む。息子の嫁Y子が献身的に義父の世話をし、日に3度、義父を2Fに招き入れて食事をする日常生活だと聞いている。息子が不在であることが多いため、嫁Y子と義父の2人きりの生活も多いとのこと。今回の旅の目的は、義母を亡くした義父の悲しみを癒すとともに、嫁Y子に一時の安らぎを与えるために義父を連れ出すことにある。

 広島から高速で約4時間、ようやく北九州の義父のマンションに到着する。2Fの息子夫婦に挨拶した上で、1Fの義父の生活ぶりを確認する。義父と義母の2人に生活してもらう予定だった2LDKの部屋は義父1人では広すぎる。寝室の一角に、義母の分骨と位牌があり、毎日、そこで祈るそうである。「トイレ」「洗面所」と各部屋に嫁Y子が紙を貼っている。玄関ドアの裏側には、食事のとき2Fに上がる順路が大きい矢印付きで貼ってある。壁には携帯電話の短縮ダイアルが貼ってあり、生活における最小限の注意事項も貼ってある。オール電化だから安心だし、使わぬスイッチに義父が間違って触れぬように紙がかぶせてある。ようやく一人でシャワーをすることができて、風呂の湯の溜め方も覚えたらしい。IHでお湯を沸かすこともできる。洗濯もできている。外にはテラスがあり、その向こうに4.5畳ほどの畑がある。草地であったのを義父が掘り起こして畝を作ったそうであり、大根などの野菜が成長している。

 義父の暮らしぶりに安堵して、義父を連れ出した。小倉城に近いホテルを拠点に、小倉城、松本清張記念館、皿倉山と案内し、夜は義父を囲んでゆっくりと食事をした。義母の思い出話、義父の現在の心境、これからの生き方、生活の不自由さ、趣味のことなど。そして、世話になっている嫁に嫌われないような最小限の注意もこちらからした。相当の年金も入っているのだから、孫にもたまにはお小遣いもあげたらとか、みんなのいる前で入れ歯を出したりしないようにとか。これみな、嫌われずに気持ちよく生きるすべであると諭して、義父もうなずいた。義母亡きあと、あれほどの大酒飲みがほとんど禁酒状態であったらしいが、この夜ばかりはたくさん飲んだ。上機嫌の義父であった。

 たまには今回のように義父を連れ出し、双方、気晴らしをすることも大切である。しかし、問題は日常生活において義父自身がいかに生きる望みをもてるかにある。趣味のこと、老人会のこと、散歩のことなど、そのための廻りの知恵と工夫が何より大切である。

 ラジオの深夜放送で、一流と言われる人の共通点は何か、というトークがあった。そこで、「憤」をあげた人がいた。この「憤」とは、情熱をもって語る・行動するという意味もあるが、それと同時に感激の意味もあるらしい。孔子の書にもあるようですが、人間、感激することが大切だということらしいです。  

 この題材を私なりに発展させてみた。「憤」とは文字どおりの憤慨も含み、感激、感動、高揚、情熱、哀愁、悲観など喜怒哀楽のすべての五感を指すとも考えることができる。つまり充実した人生とは、人それぞれに与えられた環境のもと、与えられた使命にできる限り傾注し、素直にその結果を喜怒哀楽として表すことができること、そんな風にとらえたらどうだろうかと思う。一流人といえども、そのような生き方が根底にあるような気がする。

 年年歳歳、私たちは歳をとるにつれて日々の暮らしの中に感動や感激を忘れがちです。それは、感動や感激ができないほど目が見えなくなったとか、耳が聞こえなくなったとかではないはずです。感動や感激を忘れがちな原因は、気持ちの劣化ではないかと思う。常に五感を研ぎ澄まし、探究心をもって物事にあたる。そして、これまでと違う視点で小さな発見に心がけ、小さな感動、小さな感激をして生きていきたいものである。

第三土曜日

 私の会社は、創立以来約20年、月に一回の第三土曜日を出勤日としている。

 完全週休二日制にしたかったが、やむなくそうした。ひとつの理由は、月に一度くらい、みんなで手分けして掃除しようという発案である。己が汚したものは己が掃除するのは当然のことであり、掃除屋に頼むとその意識がなくなる。事務所の中は無論のこと、社有車、近所廻りなどを掃除する。掃除することで、日常ぎすぎすしたムードが少し和む。助け合う気持ちを取り戻し、互いに気配る。

 掃除の後は、ランチをみんなで食べに行く。月毎に順番で好きなお店を選ぶ。少人数だから半年もたつと順番が廻ってくる。日常の仕事以外の話題がでるから、ランチの効果は大きい。

 ふたつめの理由は、午後、勉強タイムにするためである。家で勉強してこいと言ってもなかなかしない。だったらと、わざわざ勉強タイムを設けた。第三土曜日の午後は開店休業とし、日常の仕事は一切行わない。日常の仕事に必要な情報、知識を学ぶ。

 苦肉の策として設けた第三土曜日、会社が存続するまで継続する。

世論とネット世論

 世論調査とは、無作為抽出という手段を使って民意を目に見える数字で表すものであり、一言でいえば、社会全体の意見分布といえる。現在ではほぼ定着したこの世論調査による「世論」に対して、近年、「ネット世論」なるものが台頭してきた。

 最近の例で言うと、民主党代表選において小沢人気がネット世論として波紋を呼んだ。ジャーナリストや評論家が適切な根拠を示さずに、「ネットではどうやら小沢さんが人気らしいと」と発言したことに端を発する。小沢さん自身も選挙中、ネットなどで私を支持してくれていると主張している。そして、噂が噂を呼び、ネット上で小沢人気なるものが爆発した。

 この「ネット世論」なるもの、例えば、菅さんと小沢さんのどちらを支持するかクリックしてというネット上の人気投票であるが、これは民意に程遠く、あくまでも限られた少数意見である。第一に、ネット上で人気投票する人は概して若者である。同一人物が何回も参加できる。さらに、一方の意見に傾きがちであるからである。もっと言うならば、「ネット世論」なるものの実態は、ごく一部の人がネットの片隅で大声をあげているだけなのである。

 無論、現在の世論調査はサンプル数、調査方法などの点で完璧なものとはいえない。しかしながら、世論調査は統計学に基づいたサンプル数、サンプル方法などを採用した科学的手法であり、民意を反映する上で現時点では最良の方法といえる。報道機関各社の世論調査結果に大きな違いがないこと、選挙の出口調査においてもほぼ予想どおりという実績がそれを証明する。すなわち、政治、あるいは日本のあり方を考える指標としては、現状では報道機関などが行っている世論調査しかないと考える。

 問題なのは、民意を反映するこの世論調査による「世論」が「ネット世論」によって犯されかねないということである。この点に関して、ジャーナリストや評論家、メデイアは肝に銘じて発言してもらいたい。

 正しくない言説を広めて一部に有利な状況に導く行為は、あらゆる社会的な決定を非効率的にする。

NATMに学ぶ子育て論

 トンネルの掘削工法にNATM工法というのがある。NATMとはNew Austria Tonnel Methodの略であり、訳せば、新オーストリア・トンネル工法となる。アルプスを擁するオーストラやスイスは山岳トンネルのメッカであり、日本は彼らに学んだ時期があった。私もNATMの権威であるオーストリア・チューリヒ工科大学のコバリー博士に学んだ時期がある。

 日本においては、岩盤を掘削したら鋼の支保工を組んで立て、岩盤と支保工の間に板を差し込む工法が一般的であった。しかし、アルプスなど地圧が大きく膨張する岩盤では鋼材が曲がり、トンネル空間が押しつぶされる。このため、地山自体を補強しながら地山の挙動を計測し、計測結果から次なる補強工法を変更しながら進めていく工法(NATM工法)が採用され、現在ではNATM工法が世界標準となっている。日本では中央自動車道あたりから本格的に採用されて20年になる。

 従来工法が鋼に対して鋼で受けるのに対して、NATM工法は地山を補強し地山の状態を伺いながら、補強方法を変更しながら掘り進める方法である。もっとわかりやすく言えば、従来の方法は、力には力で対抗し、当初の方針に沿って最後まで突き進める、やや剛腕な手法である。これに対してNATM工法は、最終的に安全に掘り終えるという目的のために、何段階もチェックして、その都度、より良い方向に変更していくという、柔軟な手法である。

 このNATM工法を支えるNATM理論を応用して、子育ての道しるべを探る。例えば日本においては、幼稚園、小学校、中学校、高校とその年代にあった標準以上の子であって欲しいと教育する。しかしこの場合、教育の目的が何かという点が明確でない。どの段階においても標準以上の優秀な子であることが必要なのか、有名大学に入学させることが最終目的なのか、優良企業に入社させることが最終目的なのか、その目的によって育て方や指導の仕方が違うだろう。

 仮に、20歳の時点で立派な社会人になることを最終目的とした場合を考える。この場合、通して学力におもむきを置かなくとも良い。仮に中学校のときにタバコを吸ったとしても、それ自体あまり問題ではない。多少、軌道修正すればよい。仮に高校のときにお酒を飲んだとしても、さほど気にしなくとも良い。もう少ししたら飲めるようになると諭す程度で良い。それより、挨拶はできているか、ちゃんと目上の人に礼節を尽くしているか、約束は守っているか、こんな社会人としてのイロハをそろそろチェックすれば良い。要するに、その段階、段階で、社会でいう良い子でなくともよいのだ。20歳の時点で立派な社会人になるという最終目的と現在との誤差を時間軸とともに次第になくしてやればよいのである。そして、最終的に立派な社会人の20歳を生み出せばよいのだ。

 それでは、世の親はどのような将来設計で子を教育しようとしているのか。具体的な教育方針のイメージがわかない。漠然と、勉強はできた方がよいとか、漠然と、いい子であったらよい、有名大学や優良企業に入れたに越したことはないとか、ざっと、こんな程度ではないだろうか。ある程度もの心つくまでは仕方ないだろう。しかし、もの心ついて以降は、子と相談しながら子の将来設計を親と子の共同作業で作っていくことが肝心である。この場合、あくまで主役は子である。子の希望を聞きながら子の意に沿って、親としてのアドバイスを加えて最終目的のためのサポートをしていく姿勢が大切である。すなわち、親に必要なのは道しるべと支援である。


民主党代表選の総括

 1ケ月半の政治空白を犠牲にしてまで実施した代表選がようやく決着をみた。菅・小沢両氏の論点・争点を立候補したときから終盤選挙まで追っていると、見えてくるものがある。

 まず、菅さんは一に雇用、二に雇用、三に雇用と一貫して叫んできた。そして、雇用の基盤は新成長戦略だという。しかし、どうもこれは財務省の呪縛にのっかったものであろうことが見えてきた。菅さんの雇用論には論理性がない。成長するから雇用が生まれるのであって、雇用を生み出したから成長するわけではない。すなわち、雇用、雇用と叫ぶのなら、雇用を生み出す具体的な戦略を示さないといけない。

 次に、小沢さんは当初、随分と自信ある発言をしていたが、裏づけがない。そのうち、問い詰められると次第にボロが出てきた。普天間については妙案があるような発言から、とくに具体的な案を今持ち合わせているわけじゃないと開き直る。マニフェストの実行を掲げても、一向に具体的な財源を示さない。地方交付金の一括給付によって浮いた分を回そうとする魂胆がはっきりしてきた。しかし、これは地方への交付金の削減に他ならないことから、地方が賛同するとは到底、思えない。消費税についても、終盤には検討してもよいとまで変化する始末である。要するに、小沢さんの政策は底が浅いということが見えてきた。

 それにしても、小沢氏を支援してきた石原都知事の選挙結果に対する発言は、はなはだ腹だたしい。「大差で菅氏が勝利しましたが・・・」という記者の質問に対して、「何が大差だ。国会議員の得票数は僅差だろ。永田町と国民の意識のズレだよ」と放言する。この人は何を言っているのか。国民の意識や判断は間違いだと言いたいのか。国民主権ではなく永田町主権であるべしと言いたいのか。発言内容もそうだが、この人の傲慢な発言態度が鼻持ちならない。

 いずれにしても、円高、雇用問題、経済再建、普天間と難題をかかえた菅丸の船出となる。願うべきは、選挙後の菅氏の演説にあるように、命をかけて政治を実行していただきたいものである。

温泉の定義

 昭和23年に制定された温泉法には以下のように温泉が定義づけられている。

(定義)
第二条  この法律で「温泉」とは、地中からゆう出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭化水素を主成分とする天然ガスを除く。)で、別表に掲げる温度又は物質を有するものをいう。
別表 
  一 温度(温泉源から採取されるときの温度とする。)摂氏二十五度以上     
  二 物質(左に掲げるもののうち、いづれか一)
     物質名            含有量(1キログラム中)
溶存物質(ガス性のものを除く。) 総量1000ミリグラム以上
遊離炭酸     250ミリグラム以上
リチウムイオン        1ミリグラム以上
ストロンチウムイオン 10ミリグラム以上
バリウムイオン 5ミリグラム以上
フエロ又はフエリイオン 10ミリグラム以上
第一マンガンイオン 10ミリグラム以上
水素イオン 1ミリグラム以上
臭素イオン 5ミリグラム以上
沃素イオン 1ミリグラム以上
フッ素イオン 2ミリグラム以上
ヒドロひ酸イオン 1.3ミリグラム以上
メタ亜ひ酸      1ミリグラム以上
総硫黄         1ミリグラム以上
メタほう酸     5ミリグラム以上
メタけい酸      50ミリグラム以上                 
重炭酸そうだ   340ミリグラム以上                   
ラドン 20(百億分の一キユリー単位)以上
ラヂウム塩 1億分の1ミリグラム以上 


 これを要約すると、まず温度が25℃以上あれば問題なく温泉である。また25℃以下の水でも水に溶け込んだいろんな物質の総量が1kg中1000mg(一杯のユニットバスの水に缶ビール1本位)あれば温泉となる。さらに水素イオンなどであれば1kg中1mg(一杯のユニットバスの水にスポイド数滴位)あれば温泉となる。つまりこれらの条件はandではなくorであるところが味噌である。
  
 日本の地温勾配(地下で次第に温度上昇する割合)は平均して1m当り0.03℃であるから、1000m掘れば30℃となる。地上温度が仮に0℃であっても深さ1000mの地下から汲み上げた水は、瞬間5℃冷えても25℃だから温泉ということになる。すなわち、1000mも掘れば、日本中どこでも温泉法でいう温泉が出るわけである。

 かって、景気回復策としてふるさと創生1億円という制度があった。市町村は競って1億円の使い道を模索した。その結果、多くの市町村が採用したのが温泉である。当時、ボーリング井戸掘削工事の単価はm当り10万円であったから、1000mでちょうど1億円になるし、温泉法でいう温泉が確実に出るからである。

 このように一口に温泉といっても、ただの風呂であったり、ほとんど効用のないものまで含まれる。それを承知で温泉を利用しているとすれば、それはそれでよかろうが、温泉という狭義のイメージで利用していたとすれば、多少騙された気分になろう。

 そこで、温泉を利用するにあたって最小限のチェックをしていただくことを薦める。まず、「成分表が掲げられているか」という点。成分表すらないとなれば、非常に怪しい。名前だけの温泉ということになる。次に、「温泉としての認可書が掲げられているか」という点である。温泉法に照らし合わせて確かに温泉ですという県知事の認可書です。最後に、成分表をよく見て、どの点で温泉なのか、どの成分が特化しているのかをチェックする。源泉の深さを確かめる。1000mに近い深い源泉はかなり無理があろうし、浅くてもちゃんとした成分があればその方が良質なことが多い。携帯で成分表を撮影して帰ってよく吟味するまですれば、温泉の通に一歩近づく。

現代若者論

 「近頃の若者は・・・・・・・」と論じると、必ず、若者は「若者を皆一緒にして欲しくないです」と反発する。言われなくとも、人それぞれに違うのを承知の上で言っているのだが、それより、そのようにいきがって反発すること自体、裏返しとして、概して画一的である証拠と言える。なぜなら、昔から「近頃の若者は・・・・・・・」の言葉は繰り返されてきたであろうし、我々も記憶にあるが、当時の青年には個性の自覚と自負があったのでとくに反発はしなかったのである。
 
 現代の青年男子は、よく草食男子と揶揄される。果たして本質的に草食だろうかと疑問をもつ。確かに、おとなしくて消極的な青年が多い。しかし、草食か肉食かという動物学的観点からみると、彼らは間違いなく肉食なのである。彼らの多くは文字どおり野菜を好むのかというとそうではなく、やたらと肉を好んで食べるか、食べたいけど金銭的に抑制しているのかのどちらかである。次に、性欲はないのかといえばないとはいえない。ただそれは内なるものに発散する傾向がある。アダルト業界では最近、巧妙な男性用オナニーグッズが開発されて、その売り上げが半端じゃないらしいことがそれを証明している。

 だったら、彼らはなぜに女子に挑戦しないのか。それは、振られる(負ける)のが怖いからである。勝ち負けを避け、ましてや1位や2位を競わない教育を受けた彼らを待ち受けるのはまさしく勝負の実社会である。そこで彼らはたじろぐ。勝ち負けを経験したことのない彼らは勝負を避ける。プライドが負ける怖さを募らせるのである。

 団塊世代の青春時代にはダンスパーテイーなるものが流行った。そこで壁際に居並ぶ女子に手当たり次第に声をかけたものだ。そこから勝負が始まっていた。ダンスが苦手な男子は別の手段で女子に声をかけた。まるで野獣が獲物を追うような戦いが実社会に出る前から繰り広げられた。それでは昨今の合コンはどうだろうか。集団のお見合いのようなものであるが、だからといって彼らは所謂、お見合いを嫌う。両親とかが関与し、誰かに迷惑をかけるのを嫌う。そして何よりも、自らが傷つくのを嫌う。合コンであれば、誰が誰を射止めたという明確な結果がその場では出ないことが多い。そしてなによりも、仮にパートナーがみつからずとも負けたという敗北感が薄い。やがて彼らは戦わずして負傷する。そして、それに業を煮やす実益女子は結婚相談所に走る。高額な入会金を女子にも課すセレブ結婚相談所が盛況なのはわかる。

 現代若者男子を批判しているのではない。すべては社会構造であり、教育が原点であると思う。別に、勝負にこだわる教育が良いとも思わない。さりとて、わざわざ勝ち負けを避ける教育が良いとも思わない。今一度、教育のあり方を見直す必要があろう。


34,000人の悲劇

 昨年1年間の自殺者の数である。交通事故による死者数7,700人の何と4.4倍。1時間に実に4人もの人が自殺している計算になる。経済的な理由が自殺者の急増になっているらしい。交通事故も減らさなきゃならないし、凶悪事件も撲滅しなくてはいけない。災害による被害も最小限にしなくてはいけない。世界の難民を助けなきゃいけない。しかし、この平和な日本において、自ら命を絶っている人がこれだけの数もいるという現実を我々は認識しなくてはならない。

公共事業の裏事情

 公共事業削減が叫ばれて久しい。国家予算をみても、公共事業費は最盛期の頃の半分位になっている。しかし建設業者の数は半分にはなっていない。なぜだろう。省庁指導の並々ならぬ(?)予算措置の工夫があるからである。

 要するに、公共事業を削減すればよいのであるから、公共事業という科目に該当させなければ良いのである。障害者支援○○事業、ふるさと振興○○事業、社会資本整備○○事業、情報環境整備○○事業といった、よくわからない名前にすり替えた事業を展開させているのだ。

 例えば、障害者支援○○事業というのは、もともと何のことはないごくごく普通の道路建設事業(公共事業)であるが、これではすんなり予算確保できない。そこで、ある集落からある道の駅の温泉まで障害者が車椅子で行けるようにというお題目を掲げ、当初予定にない歩道まで付けた道路建設を支援事業と銘打って展開する。

 無駄な「高速道路」建設反対の気運が高まると、今度は「高規格道路」という名称の道路を建設する。少しだけ道路構造規格が違うものの、高規格道路は高速道路に違いないのである。

 このように、公共事業削減だけを見ても、数字には表れない別の実態がある。「環境」「ふるさと」「自然」「支援」という言葉に弱い国民性を見抜いた官僚たちの施策が展開されている。

あるから論とあるべき論

 現実に起きていることや実態があるからそれを容認する。仕方ないと思い、従うべきだと考えるのか(あるから論)。いやいや、それは筋が通ってないしおかしい。そもそもこうあるべきだと異論を唱えるのか(あるべき論)。おおむね議論は大きく分けてこのように2分される。平たく言うと、現実論と理想論ということになる。

 年をとれば守りに入り現実論者が多くなり、現実に疎い若者は理想に走るというのが常識であったように思う。安保闘争時代において理想論を唱える学生と現実論で阻止する国の抗争がそれを象徴する。しかし現代社会において、意外にも若者に現実論者が多く、団塊の世代にあるべき論を唱える者が多い。団塊の世代は年だけ重ねて考え方はそのままスライドし、若者は時代の閉塞感から現実を容認することを余儀なくされたのか。

 そこで世代を超えた若者と団塊の世代では議論がかみ合わない。現実社会においては、この両者のバランスが問題となる。現実ばかり見据えては何の改革も生み出されないし、理想ばかり追い求めてもこれまた破綻する。若者が若者らしく、はつらつとがむしゃらに、あるべき論を唱え、中高年層が経験を糧として、自信をもって現実と理想の狭間を埋める議論ができる時代にならないものか。

地質学の裏事情(断層の定義)

断層露頭の例

 断層というと、素人だったら誰しも危険だと思うでしょう。また断層というと、断層=活断層というイメージをもつ人もいるかも知れない。まして、自分の家や近所の地下に断層があるとなると、気が気じゃないでしょう。しかし、これは大きな誤りなのです。

 断層とは“岩石の中にある割れ目の中で割れ目に沿って目視できるくらいの変位があるもの”と定義づけられています。ですから、ほんの数mmの変位(ズレ)があっても断層なのです。岩盤が露出している崖面があったら、よく観察してみて下さい。岩盤には無数の割れ目があることでしょう。その割れ目をよく観察すると、割れ目は延々とどこまでも伸びてはいません。どこかで途切れたりして、切れ切れになっているはずです。

 写真を例に説明しよう。地層Aは割れ目BによってA‘までズレています。この場合、割れ目Bは断層です。変位(ズレ)量は矢印の長さ分です。さらに割れ目Bは割れ目Cによってズレているので割れ目Cも断層です。変位(ズレ)量はBからB’までの矢印の長さ分です。ここで問題です。できた順序はどうでしょうか。正解は地層A、断層B、断層Cの順です。まるで地学の時間ですね。

 このような露頭はどこにでもあります、すなわち、断層はどこにでも無数にあるのです。自動車のフロントガラスがこっぱ微塵に壊れた時のスローモーションを想像して下さい。細かな割れ目が徐々に広がっていくでしょう。これすべて、地球に例えれば断層なのです。すなわち、断層は特別なものではなくご近所のどこにでも無数にあるのです。

地質学の裏事情(竹林と断層)

嵯峨野の竹林
 「地震が起きれば竹林に逃げろ」という昔からの言い伝えがある。竹林は横に根を張り、撓(たわ)みに強い。また鬱蒼(うっそう)と繁茂する場合が多いので、確かに地震で岩塊が転がり落ちてくる場合は防護になる。

 しかし、竹林は地質学では地質が悪いひとつの指標でもある。竹は適当な水分を欲する反面、同時に水はけもよくないと生育しない。この性質をもつ土壌とは、地下水の供給が絶えることのない緩んだ砂質地盤ということになる。

 こうした竹林と土壌、地下水の関係に経験を踏まえ、地質屋は竹林を見ると地質が悪いとまず想像する。斜面崩壊による土砂が堆積した斜面、河川沿いの緩い砂地盤など。そして、竹林が直線的に分布する場合は断層と思って間違いない。無論、嵯峨野の竹林(写真)のように人工的なものは別であるが、谷あいに沿って直線的な竹林が存在すれば断層と考えられる。活断層の可能性もある。事実、活断層沿いにはこのような直線的竹林がよく見られる。竹林沿いの断層であれば地震時に駆け込むのは最も危険である。

 すなわち、「地震が起きれば竹林に逃げろ」の言い伝えは誤りであると言わざるを得ない。こうしたように、昔からの言い伝えには間違いのものも多くある。

石川遼に学ぶ

 男子ゴルフ第38回フジサンケイクラシックの最終ラウンドにおいて、単独首位に出た石川遼だが通算9アンダーで薗田峻輔に並ばれ、プレーオフの末に石川遼が優勝した。優勝が決まった瞬間、石川遼は喜びの表情を見せることなく、むしろ押し殺した表情で相手の薗田を讃えた。

 今季2勝目の通算8勝目、自身初の連覇に加えて賞金ランキングのトップに立ったのだから、石川にとってこの優勝の喜びはひとしおのはずである。しかしながら、精神と体力の限界までの死闘を演じたにもかかわらず、敗れた相手を慮(おもんぱか)り、讃えることを忘れてはいなかった。

 この年になっても、ややもすると忘れがちな気持ち、相手の気持ちを考えること、相手の立場に立つこと、相手を気配ること。1991年生まれの若干20歳の石川遼に改めて学習させられた思いである。

成熟社会の落とし穴

 効率化や能力主義が叫ばれて久しい。最近では成長戦略を売り物にしている。そして、社会は確実に高齢化、核家族化、ネット社会へと進化している。果たして、このまま社会は成熟社会へ突き進んで良いのかと考える。

 成熟社会においては勝者と敗者の明暗が明瞭に分かれる。勝者は膨大な富を一夜にして得る。勝者の論理はこうである。能力あるもののみが富を得る。効率と実益のみが優先するのだ。利口に利益を生めばよい、利口に財産を運用すればよいと。このような勝者の陰で、ネットすらできない真面目で愚かな力なき民は敗者となっていく。最大の敗者は被虐待者や自殺者であろう。

 例えば親から受けた子の虐待事件をあげよう。誰しもまず事件を悲しみ、哀れむ。そして次に出てくる言葉は、周囲はなぜ察知できなかったのか、児童相談所や学校はなぜ予見し対策を講ずることができなかったのか、と。つまりは周辺社会に対する批判である。さらに、虐待の対策強化のための法制化が叫ばれる。とどのつまりは国家政策に問題があると。

 これらはみなごもっともな意見である。しかし、待てよと踏みとどまる。親のことがあまりに語られていないのである。つまり、親はなぜ虐待に至ったのかという根本問題である。親としての資質の問題、親としての自覚の問題、親としての教育の問題、家族の問題、経済的な問題などである。個々のケースによって原因は異なるであろうが、総じて言えるのは社会構造の変化が根源ではなかろうか。

 核家族化、高齢化、ネット社会といった社会構造のすさまじい潮流の変化が凶悪事件の根源にあると考える。加えて、大きなターニングポイントになったのがバブル崩壊にあったと考える。給料カット、非正規社員、リストラ、倒産、産休、離婚など経済的問題が深刻化している。なぜ、虐待が増加するのか、なぜ自殺者が増加しているのか、根本的問題を解決せずして問題は何も解決しない。国家の成長戦略もいいが、こうした社会構造変化に対する対策を国家戦略として取り組んだらどうか。

 利便性ある新しい技術、システムを積極的に取り入れる一方、過度の効率化や能力主義に陥ることなく、過去の良きものも取り入れた、バランスのとれた柔軟な社会制度が望まれる。

義父のこと

 義母が亡くなって早いもので、もうすぐ100日となる。義母と義父には3人の子供がいる。長女が拙者の家内であり、次女がいて、末っ子が長男である。生前、北九州に住む末っ子の長男は両親を迎え入れる準備をしていた。長男家族は分譲マンションの2Fを購入したが、同じマンションの1Fを両親のために同時に購入していた。病気療養が長い母(義母)とひとりで何もできない父(義父)を引き取るのは時間の問題であったからだ。しかし、父母ともに北九州のマンション行きを嫌がった。古い家であっても畑がある。住み慣れた環境からコンクリートの家に移ることを嫌がる気持ちもよくわかる。しかしそのことで、子供たち3人が遠くから交代で世話に行くのも大変であった。

 義母が亡くなって、義父は必然的に北九州の長男のマンションに連れて行かれた。連れて行かれたという表現がピッタリなほど、義父は後ろ髪を引かれる思いであったろう。長男夫婦は両親の足腰のことを考え、またわずかばかりの庭があった方がよいと考えて、マンションの1Fに決めたと思う。しかし、庭の向こうはコンクリートの塀があり、外が見えない。世話になっている長男夫婦には無論、言えないが、娘たちには、まるで牢屋にいるみたいだとこぼす。

 長男の嫁は献身的に義父に仕え、義父の3度3度の食事を作っては2Fに呼び寄せるのが日課である。医者の長男はほとんど家にいないし、子供たちはみな大学生として家から出ているので、食事は長男の嫁と義父の2人きりのことが多いらしい。義父の入れ歯の調子が悪かったり、体の調子が悪かったりするたびに、長男の嫁は雑炊や煮物やと、あれこれ手をかえ品をかえて工夫しているらしい。

 義父にとっては、それでも食事のときは話せるし、2Fから外を眺めることもできる。しかし、食事が終わって1Fの自分の独房に戻ると孤独に際悩まされる。実家に置いた自動車にはもう乗らない方がいいだろうという周囲の猛反対があり、自分の意思で遠出することはできない。たまに外に散歩に行くが知らない土地なのでつまらないと嘆く。

 そんなことから、寂しい義父は長女と次女に毎日、電話をかけてくる。互いに同じソフトバンクの携帯を持たせて存分にタダ電話してもらおうという配慮であった。携帯を通じた会話は日に2度、3度と、長いときは1時間以上にも及ぶ。年寄りのことだから、当然のことながら何度も何度も同じことを繰り返すことも多い。何でもないことも親身になって聞く。電話は仕事中でも夜明け前でもお構いなくかかってくる。父と娘の関係とはいえ、さすがに長女である家内もやや疲弊した様子をみせる。そのたびに、遠くにいて孝行できないのだから、せめて電話孝行をと諭す。

 義父はしきりに、義母に何もできなかったと悔やむ。そんなことはない、十分してあげたよと言って聞かせる。また、しきりに寂しいを連発する。寂しい気持ちはよくわかるので、それをまぎらわす術(すべ)を授ける。ご近所の老人会に参加してみてはとか、散歩しても誰かに話しかければ友達にすぐになれるよとか、好きな書道を習ったらとか。しかし、教職員を通した義父には変なプライドが身についていて人とのふれあいが苦手である。義母の生前も介護人の世話を断ったくらいである。だったらと、先日は絵手紙の道具一式揃えて送った。「お父さん絵が上手だから、絵を書いて送って」と。義父は到着を心待ちにするくらいに喜んでくれた。が到着すると、絵を描く題材がないとか、あまり下手だと嫌なので習いたいとか、テスト用の半紙が実家にあるので取りに帰りたいとか言って、なかなか始まらない。そのたびに、題材は何でもよいのよ、下手でも自分なりに描けばその方が趣きがあっていいのよ、半紙は百円ショップで売ってるからとか、そんな返答で1日が過ぎる。

 こんな調子で遠くからいろいろと励ましても、顔が見えない義父にとっては励ましになってないかも知れない。ということで、1ケ月に1度位は北九州まで赴き、近隣の温泉場にでも連れていってやろうということになった。義父の気晴らしと励ましは言うまでもないが、それよりも3度3度の食事を作っている長男の嫁に、せめて連れ出している間だけでもゆっくりしてもらおうという思いからである。

 こんな調子で義母の亡き後、100日が過ぎようとしている。考えてみれば、義父は恵まれていると思う。長男がマンションまで用意して、長男夫婦の加護のもと恙(つつが)なく生活できること、愚痴があればいつでも娘たちに聞いてもらえること。孤独死が多く、親子の縁遠い昨今において、やはり義父は恵まれていると思う。

 しかし、反面教師として自分のことを考えてしまう。私は間違っても子供の世話にはならないという覚悟がある。また、ひとり残されても女々しいことは言わないで淡々と生きていってやるという覚悟がある。しかし、それだって自身の意思に反して周囲がどうするかわからない。それに最期は誰かの面倒になる。その時に備えて、年老いてもできるかぎり自分で何でもできるように、気持ちも体も前向きに精進していくこと、できるだけ周囲と協調することを心がけること。最期の面倒をできる限りかけないよう準備すること。義母の死をきかっけに、いろいろと学ぶことが多い日々である。




民主の森の物語

 朝日新聞の天声人語に、カブトムシ(菅)とオオクワガタ(小沢)の戦いと比喩していた。よく言ったものだ。まさに、一般昆虫から進化したカブトムシと森を牛耳る影の実力者であるオオクワガタの一騎打ちである。しかし森にはもうひとつ、伝書鳩という脇役がいる。

 この脇役の伝書鳩は不思議な鳥である。3ケ月前にオオクワガタと抱き合い心中したのもつかのま、今回はカブトムシとオオクワガタの仲介を買って出た。あの抱き合い心中は何だったのか。

 さらにこの伝書鳩、仲介を買って出たにもかかわらず、対決のお膳立てをしただけでロシアに飛び立った。そして、ロシアから越冬してくるやいなや、カブトムシを支えるとしていた伝書鳩がなぜか今度はオオクワガタの応援に回ると言い出した。まさに宇宙人ならぬ宇宙鳩のような不思議な鳥である。さらに、民主の森まで焼いてなるものかと最後まで談合の手配までする。伝書鳩の羽ばたきで消える火種ではなかろうに。 

 オオクワガタは強面だが、実は怖がりで危険を感じると巣に隠れる。隠れることで威厳を放つ。臆病だから、決して自身の手は汚さぬ。周りの虫どもを派遣する。そして、失敗すれば自身の責任じゃないと。目的のためなら手段は選ばない。自尊心が虫一倍に強く、森の昆虫どもに後押しされないと出てこようとしない。それなのに、我に力ありと強がる。オオクワガタにはかって隣の森を焼いたロッキードのくすぶりの匂いが消えぬ。

 一方のカブトムシは一般昆虫から這い上がった普通の昆虫である。森の厚生を担当した頃はとても潔癖で凛々しい昆虫であった。自壊の念から白装束でひとり森を行脚した頃も好感がもてた。しかし、このところオオクワガタの恐怖に怯えている。オオクワガタに出て来ないでといったり、森の将来備蓄を上げようと宣言したり、すこしそそかしい。

 ともかく、民主の森を2分する壮絶な戦いが始まった。周りを群れ飛ぶカナブンの羽音はブンブンブンと分裂を予感さす。しかし、やるからにはガチンコ勝負を期待するが、国民の思い、厳しい経済情勢とかけ離れた民主の森の争いであることには違いはない。

地質学の裏話(原子力政策の裏事情)

 原子力の立地条件は何と言っても原子力サイトが活断層上にないことである。そのため、第1次の広域調査においてサイトを中心として何と100Km圏内の活断層分布の抽出から始める。次第に調査範囲をサイト周辺域に絞り精度を高めていき、最後は、サイト周辺の活断層の有無を1本1本、トレンチ(掘削)により確認する。幅1mmの断層シーム(粘土)もその伸びを追っかけていくという、途方もない作業である。

 国の政策に何にでも反対する性質(タチ)が悪い団体がいる(あまり詳しく書けないが)。こういう団体が住民を巻き込んで反対運動を展開する。原子力でもダムでも住民の反対運動がよく報道されるが、影の団体があやつっている場合が多い。彼らの究極の目的はお金である。反対運動を展開しながら補償費の高騰に導き、自らの利も得る。やがて、住民の移転先には原子力御殿とかダム御殿と言われる屋敷が建設される。

 反対派の団体は学者とも連合する。反対派の学者は文献をもとに活断層が近くに存在すること、環境保護を御旗に原子力の立地の不適合性を強調する。推進する国や電力会社はそれに対抗するために、膨大な予算で活断層調査と環境アセスメントを展開する。その結果、とてつもない時間と費用をかけた高価な原子力が建設される。
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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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