パソコン夏の陣

 このところパソコンが急にダウンする。専門家に見てもらい分解してもらったら、どうやらこの暑さで内部の熱さましファンが機能してないらしい。SONY・VIOのこの機種にはよくあるとのこと。会社にある他のパソコンもSONY・VIOがやたらと調子悪い。パソコン命の仕事柄、てんやわんやの始末。結果、エコ対策の室内設定温度を1℃下げることにした。暑さで先にバテるのは人間よりも機械であった。ということで、ここのところブログの更新やお礼・挨拶がおぼつかない原因です。あしからず。
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災害現場

災害現場
 災害現場に行ってきました。災害の規模、原因、機構などを調査して、災害査定として国に申請する仕事です。私は雨や地震が起きるたびに忙しくなる因果な商売です。どうして特定な場所で自然災害が発生するのかを長年調査していると、必ず原因があることがわかります。断層などの弱い地質のところを切土したためとか、以前に地すべりが発生したことを知らずに道路を作ったりとか、概ね必然的です。しかし、災害は減りません。技術がいくら進歩しても、自然に対する人間の謙虚さがないためでもあります。

Coffe Break

サービスエリアにて

 出張中、高速道路のサービスエリアにて休憩した。車中でぼーっとフロントガラス越しに人の行きかいを眺めていたら、前の方に、よれっとしたワンピースにサングラスの見知らぬおばちゃん。とことこと私の車に近づいてくるではないか。そうこうしてると、私の車の助手席ドアを開けて、何と助手席に座ろうとするではないか。座る瞬間、隣の私を見て、ひえつと言って飛び出した。間違えましたもごめんなさいもなく、ドアを半開きでバタンと閉めて、とことこと去った。ったく、「このドアホ!」と叫びたい気持ちを抑えて、見守った。おばちゃんは大阪ナンバーの同じおばちゃん連中の車に、車の後ろに枯葉マークがあった。おばちゃんは高齢の大阪のおばちゃんだったんだ。もしかして、あのサングラスは目が悪いのかも。そう思えば、怒鳴らなくてよかったと。

携帯メールの怪

 遠距離友との携帯のメールのやりとりに関するトラブルである。携帯の機種は、先方がドコモで当方がAU。双方やりとりしている間に、送信したはずのメールが相手に届いていなかったり、相手のメールが受信できていなかったりというトラブルがあった。

 そんなことがあろうはずもないから、「確かに送っているよ、送信記録もちゃんとあるし」とか、「そう言われても届いてないものは届いてないのよ」といった問答を電話越しにした。そんなことが2度3度とあると、相互にやや不信感が募った。

 その友と久しぶりに会うことになった。そのトラブルが気になって、相互に携帯の送受信記録を確認しあった。確かに、相手が送ったというものはすべて送信記録があり、その中の何通かはやはり受信できていないことも確認できた。勿論、受信設定とかも確認して問題ないことも確認した。

 そんなことがあっていいはずないし、何でも原因をつかもうということになって、最寄のドコモショップを訪ねた。送っても届いていないメールを再送信してもらうと、確かに受信できないことを店員に確認してもらうことができた。しかし情けないことに、原因に関する言及は一切なく、最後は、相性がわるいんですかねえとか。相性がわるいって?それで済まされるん?、みたいなことを言って、らちがあかないので店を出た。

 どうでも釈然としないので、その後も喫茶店で互いの記録をチェックし続けた。そうしたら、恐らくという原因を掴むことができた。受信できていないメールの送信メールにはデコレではないが、どれも絵記号が使われている。さらに追求していくと、ドコモやAU独自のピカッと点滅するような凝った特殊な絵記号が犯人だということが判明した。その証拠に、それを消去して送ると送れた。完璧な解決ではないかも知れないが、その後、一切、トラブルがないから、恐らくピカチュウが犯人でしょう。

巻頭言

 この寄稿は、日本でも歴史的に古い山口地学会の50周年を記念した特集号の巻頭言を依頼されて投稿したものです。私の現在の仕事への思いと郷里への思いを感じていただければ幸いです。



巻頭言     「今こそ山(現場)に行こう」

 山口地学会に席をおきながら、活発な活動を横目に何のお手伝いもしないできた小生にこの記念すべき特集号に顔を出す資格はないものと心得ているが、西村名誉会長に後押しされて恥をしのんで筆を執った次第です。最大手のコンサルを長年勤めた後に零細コンサルを営みながら50の手習いで大学デビューした私の波乱に富む経歴から、ユニークな発言を求めているものと好意的に解釈し、山口大学および山口地学会の益々の発展に期待して雑感として記すことにした。以下は老犬の遠吠えと一笑に付していただきたい。

 最近、地質コンサルタントとしてさまざまな仕事をするたびに、現場(実際・実態)と理論(解析・基準・既成の枠組み)の狭間でいたたまれない矛盾を強く感じることが多い。その原因の多くは、問題の解決に立ちはだかる既成の枠組み、問題解決のために必要な人と情報のネットワークの不備、現場とデスクワークのかい離などである。このうち、既成の枠組みやネットワークの不備について言及すれば構造改革など政治的な話に発展するので遠慮するが、地質技術者としては現場とデスクワークのかい離という現象は最も気がかりな問題である。以下、斜面問題を例に話を進める。

 コンピューター解析が十分に普及した今日、有限要素法(FEM)をはじめとして各種の数値解析により斜面の安定問題を解くことが可能になった。近い将来においては、実際の土および岩の変形・強度・浸透特性を再現した3次元の数値解析により厳密解が得られるものと期待される。しかし一方で、日常の斜面安定問題において地表地質踏査を積算に組み入れられることは少なく、地質屋も次第に踏査をしないで斜面問題に取り組むことに不自然さを感じなくなり、さらに、最も重要なカテゴリーである地質を抜きに数値解析を進めようとする場合が多い。

 こうした現場とデスクワークのかい離は斜面問題に限らず、多くの建設現場において見られるが、その基本的根源は、現場を重視しない傾向(風潮)に起因しているように思われる。昨今の論文や報告を見聞きするに、洗練された文章や高度な解析結果が盛り込まれ、CGを駆使するなどアカデミックで華麗な論文・報告がある反面、実際の現場の生き生きとした泥臭い匂いが感じられないものが多い。まさに、この事実が現場とデスクワークのかい離を象徴している。

 地質学がお金を稼ぐ道具として世にデビューしたのは地下鉄銀座線の地質断面図作成だと、故・陶山國男氏(応用地質㈱初代社長)から聞いたことがあるが、それから半世紀もの間、多くの先輩たちが地質学の普及と地質屋の地位向上に苦労されてきて今日がある。しかしながら、地質学がグローバルかつ緻密で最も基本的な調査手法の基礎であること、建設において地質屋の情報は必要不可欠であることなどがほんとうに理解されているだろうか。また、地質屋は社会においてほんとうに重宝がられて応分の報酬をいただいているだろうかと考えるに、否定せざるを得ない。それどころか、前述した現場とデスクワークのかい離の中で地質学そのものが埋没しかかっているという危機さえ感じる。

 地質屋は一般に無口で一人よがりで、宣伝が下手で要領が悪く、社会性がないという不名誉な定説から脱却し、これからは地質屋各々が勇気をもって地質学を世に普及し、勇気をもって自己主張しなければならない世の中となっている。そして地質学が単なる学問としてではなく世のために役立つということを事細かに説明する責務もあろう。

 山口地学会におけるこれまでの地道な努力はまさに地質学の原点でもあるが、さらに地方におけるメジャーな会として発展していくためにも、上述した趣旨のもとに勇気ある行動と継続性を期待する。ここに集う技術者および研究者は、今こそ、現場・実際主義に立ち帰ろう。今こそ、山(現場・地質)に帰ろう。そして地質屋の気概を山口から世に発信したいものである。


薬味の妙

 料理に薬味の役割は大きい。料理皿の品の良さと薬味ひとつとで料理は随分変わるものです。今日はそんな薬味のお話。

 通夜の夜は長い。故人を偲ぶ話も底をつくと、おばちゃまたちは主婦自慢をはじめる。だいたいがしょうもない話が多いが、たまに役に立つ情報もある。

 先日の通夜の場合がそうだ。どうやら薬味の自慢話らしい。ネギ、大葉、貝割れ、ショウガ、ミョウガの5種類を混ぜ合わせた薬味がいいという。肝心なのは、貝割れは半分程度に切るが、他はどれも細長くせん切りにすること、大葉、貝割れ、ミョウガはしばらく水に浸してアクをとること。

 家に帰ってさっそく挑戦してみる。これが、まっこと、スゲー旨いの何のって。冷奴、ほうれん草のおひたし、パスタ、そうめん、何でも合う。沢山作ってナイロン袋に入れて冷蔵庫で保管しておけば、とっさに使える。袋からちょこっと取り出して上にかけるだけ。ショウガとミョウガのコラボレーっションと食感がたまらない。お勧めの薬味です。

 お試しあれ。

御礼

 「談合列島」を完結いたします。読者のみなさまに御礼申し上げます。

一 指名競争入札

二 談合のしくみ

三 談合入札

四 OBの暴挙

五 プロポーザル方式

六 談合列島

談合列島(最終章)

 今でも談合は日本列島に蔓延している。以前のようにお手前付きというわけにはいかないが、手を変え品を変えて談合は繰り返されている。最近では、談合できないほんとうの意味での電子競争入札も浸透しているが、どこも社員を遊ばすよりはとの思いから、予定価格の半値以下で落札する。それを繰り返すと、利益が出ない、次第に業界全体が沈む。建設関連だけみても公共工事は半減以下になっているのに業者の数は半減してないことにも原因がある。

 通常の入札にしても電子入札にしても入札参加の条件という規制が厳しい。業界団体の協会員であることが入札の条件であったり、従業員の数とか、実績とかが入札参加条件にある。だから、実績のない企業はいつまでたっても入札に参加できない、参加できないから実績もつめない。規制の弊害はこんなところにもある。

 天下りの撤廃が世間で騒がれている。確かに、談合の根元は天下りにあるかも知れぬ。それでは、天下りは撤廃できるのか。それは、公務員改革をしないと無理である。一部の天下り公益法人など撤廃するとか言っているが、所詮、トカゲの尻尾切りである。OBは別の形で行脚する。すべての公務員が原則、定年までいることができる、基本的に能力給であり、相当以下の能力の場合は辞職勧告できる、逆に組合活動もできる、そのような公務員改革をしないと、談合体質はなくならない。

 私の場合、談合に手を染めたくない思いもあって起業した。だから、そもそも入札に参加する意志はない。入札参加に伴うお金や時間を費やしたくない。無論、業界の協会にも参加していない。団体に参加するメリットが全くないからだ。すなわち、起業した時から、下請け零細企業に徹している。

 だから、どこが受注しようがよいのだ。力量以上の仕事を受注する会社があればあるほどよい。大手の技術力が低下すればするほどよい。相手はどこであってよい。一社に偏らないで満遍なく受注する。偏りすぎるとその会社と心中することになるから。品質が高い成果品をできるだけ速く、そこそこの価格で届けることができればよい。価格の値切りには基本的に応じない。無論、立場をわきまえて、低平に丁寧に接する。それでも依頼してくるバランスが重要である。談合は改善されないと見越した、私なりのやり方である。

 そもそも、契約というのは甲と乙が同等でなくてはいけない。しかし、この日本、どうみても官尊民卑である。役所を「お上」といい、そこから発せられる声を「天の声」という。どうしてこのような体質で談合がなくなるであろうか。いや、談合は極論すれば、お上自身が罪をかぶることなく積極的に押し進めてきた政策なのである。


談合列島(プロポーザル方式)

 指名競争入札に代わって、最近ではプロポーザル方式なるものが多くなってきている。ある仕事に対して、何社か(通常は10社程度)指名し、各々の会社に、自分の会社だったら、このような着目点でこのようなやり方で行うというプロポーザル(企画書、通常「プロポ」という)を提出させる。つまり、技術力を競争させようというもので、建築の世界のコンペに相当する。

 このプロポーザル方式の趣旨自体は非常に良いものであるが、そもそもどの業者からも受け付けるのではなく業者を指名すること自体に問題がある。さらに、真剣勝負かと思いきや、発注者には意中の社があって、デキレースのことが多い。つまり、談合撤退の旗印のもとに、手を代え品を代えて官製談合が息づいているのである。

 プロポの指名を受けた中央大手コンサルが、こともあろうに、片田舎のこの零細企業に助けを請うことがある。それも同じ仕事で複数社から来ることも。さすがに、同じ内容のプロポは出せないので、最初に依頼された1社以外は、手が空かないと断る。かくして、プロポの仕事は指名した業者ではなく、専門的な零細企業に流れるのである。この現象はどうしたものか。大手の技術力が低下してきているのか、それとも技術力が分散しているとみるべきか。ともかく、プロポーザル方式に代わっても官製談合は歴然として存在する。

談合列島(OBの暴挙その二)

 OBと役所の親分子分の師弟関係の絆は強い。落札予定価格も、発注予定もOBが役所に聞きにいく。最近では談合を意識して、役所内の立ち入りは難しくなってきたので、外で会う機会が多い。かって岡山市の繁華街には、建設省という名のスナックや農林省という名のスナックがあった。そこでは公然と、現役とOBが出入りする。業者の営業マンも別に役所に行かずともそこで公然と接待する。どこの街にも同じような飲み屋がある。

 少し前までは、官公庁からの金品要求も公然とあった。私が前にいた会社は概してそういう要求は拒否していた。というよりも、業界最大手の会社であり、そのような要求を受け入れない社風を知ってか、それなりに向こうも一目置いていたからだろう。同業他者の話を聞くと、ひどかった。オールドパーの何年ものを持って来いとか、来週潮干狩りにいくので、室内試験で使う網の試験器具を持って来いといった調子である。こういったことにOBが仲介役で加担し、若い営業マンは小間使いのようにOBの手下として働く。まさに、役所とOBの暴挙の時代が続いた。

 役所とOBは自分らのエゴのために、つるんで何でもする。こんなことがあった。それは防衛庁(現在は防衛省)の米軍基地に係る仕事である。この業界では際立った一件数億円の仕事が発注されようとしていた。発注元の局長から事前に呼び出しがあった。これこれの数社に指名を出すが、決して他言しないようにと。これが味噌である。当然のことながら本社にこのことを報告して、他言しないように言われたので是非そのようにと念を押した。そうしたら本社は、それは表向きなことだよと一蹴され、本社サイドで残り二社とコンタクトを勝手にとった。数日後、局長から私は呼ばれた。あれだけ言ったのに他言したねと。そのことを理由に我が社は指名から外れた。

 後日、本社の部長と局に詫びに言った。「あれだけ他言しないようにと社内に通達したのに、この若い支店長が粗相をして、大変申し訳ありませんでした」と我が社の部長。その横で深々と頭を下げる私がいた。後日わかったことであるが、防衛庁はOBがいる地元最大手に受注させたかったが、中央最大手の我が社を指名から外す理由もなく、罠にかけたのだと。

洪水の恐怖

洪水の恐怖

護岸のコンクリート擁壁は長さ200mにわたって破壊。
SPOT-5の温泉は難を逃れる。
Aの萱葺きのレストラン、Bのログ蕎麦屋は流されて破壊。
河川の猛威を侮ってはいけません。
河川敷にある石の大きさを見れば、わかるでしょう。
流水はこれら巨石をいともなく運ぶのですから。

とくに河川が屈曲する攻撃側(写真上の上流側から下流に流れると写真右側が攻撃斜面となる)は洗掘が著しく危険なのです。

談合列島(OBの暴挙その一)

 業種を問わず、日本の大企業(一般に従業員300人以上)の多くは何らかの形でOBをかかえている。官僚であったり、国の出先機関の肩たたき者であったり、地方自治体の定年退職者であったり、防犯対策用の警察であったりと、OBにはピンからキリまでいる。

 そして、どこの役所にもOBを斡旋する窓口がある。国の機関だと総務部長、都道府県だと出納長といったぐあいに。OBが欲しい場合はそこに「割愛申請」なるものを提出する。例えば、次官級が欲しいとか、部長クラスが欲しいとか。どのような立場でお迎えしたいとか。しかし、実情は必ずしも業者は欲しくないのである。欲しくなくとも、割り当てが決められてくる。それなのにこちらが嘆願する。おかしな話である。

 OBの報酬は最低でも現役報酬を確保すると決められている。OBを雇うと、最初だけ「みやげ」なるものがある。つまり、挨拶代わりにOB受け入れの見返りに、役所がOBに仕事を見繕って、その会社に持たせるのである。みやげは一回きりで、後は、OBの力量が計れる。

 現役時代にやり手のOBが実績を残すかといえばそうでもない。やり手のOBは部下をいじめている場合が多いので逆に反感を買い、受注できるものもできなくなる。技術屋よりも当たり障りのない事務屋の方がリスクが少ない。最悪は、現役時代ずっと窓際の技術屋OBである。プライドだけ一人前にあって劣等感からくるひがみが強いから。

 支店長時代にそんなOBに出くわした。OBはたまに出社すると机に足を上げてパチンパチンと爪を切る。社員の士気にも影響するからと、悩んだあげく、それだけは辞めて欲しいとお願いした。すると、数日後、建設省の局長に呼ばれた。何でもかわいがってくれているそうじゃないかと、皮肉られ、こっぴどくお咎め。一事が万事、お上には逆らえない、「お上社会」なのである。

談合列島(談合入札)

 業者間で談合によって事前に落札予定業者を決めていたとしても、どんなふうにその業者が落札できるのだろうか、誰しもそんな疑問をもつであろう。つまり、落札予定業者が実際に落札するには2つの条件を満たすことが必要となる。1つ目の肝心なことは発注者の予定価格をできるだけ正確につかむことであり、2つ目は他の業者の入札価格を管理できることである。

 1つ目の発注者の予定価格であるが、これは役所に聞くのが一番である。はっきり教える場合もあれば、こちらが予想した数字を用意して、それより上だとか下だとかやりとりして間接的に教えてもらう場合もある。いずれにしても、発注者が談合を認知した上で教えているという事実があるのである。これこそが「官製談合」である。つまり、発注者としては好みの業者に好意的に教える場合もあるが、例え好みの業者でなくとも、教えないで不調になったのでは、仕事の停滞につながり、発注者自身が困るのである。

 談合における実際の入札の仕方はこうである。例えば落札予定業者をA社としよう。A社は自分の札(入札金額)をB社~E社(5社指名の場合)に提示し、それより上の金額で札を入れてもらうよう事前に頼む。B社~E社が勝手にA社より上の金額を入れても良いが、A社1100万円、B社~E社はすべて1200万円といった不自然なことになると怪しまれる。そこで、入札の直前にB社には1回目1350万円、2回目1080万円などと入札金額を指定したメモを渡す。C社~E社にも同様に渡す。次なる入札結果の例を見ていただければ、相互に矛盾がないことが理解できよう。なお、発注者は入札毎に、最低価格のみ公表する。

落札予定価格 1000万円

1回目入札
 A社1100万円 
 B社1350万円 C社1200万円 D社1500万円 E社1400万円
 
2回目入札
 A社1000万円(落札) 
 B社1080万円 C社1090万円 D社1050万円 E社1020万円 


 つまり、各社の1回目の入札金額(札)は当然A社より上でなければならない。各社の2回目の札は公開された最低価格であるA社の1回目の札より下で、なおかつ自社の1回目の札より下でなければならない。

落石注意の嘘

落石注意
「落石注意」という看板よく見かけますよね。あれは、事故があったときに道路を管理するお役所が、一応、注意を促していたというジェスチャー(責任逃れ)なんです。専門家の立場から言えば、「落石注意」のところは、注意しないで、さっさと通っちゃってください。

Coffee Break(口蹄疫殺処分問題)

 宮崎県の口蹄疫(こうていえき)問題で、殺処分を前提としたワクチン接種対象地域となった同県高鍋町の牛農家1戸が種牛の殺処分を拒み、その取り扱いを巡って国と県が対立している。

 山田農相と東国原英夫知事が会談したが、議論は平行線のまま物別れ。知事が分厚い資料を持参して説明をしようとすると、大臣は冷たい口調で 「そこに置いて!」と。そして、代執行も辞さないと。

 法律に従えば、当然のことながら殺処分しなければならない。しかしながら、種牛の重要性を知っている農家は県に授けるとまで言って例外的に殺処分しないように嘆願している。
 
 この種牛は隔離されており現状、口蹄疫の疑いはない。また、規定の半径何キロ以内に感染の対象となるものもない。だったら、様子をみたらどうだろう。

 いずれにしても、テレビに映る大臣と県知事はまるで悪代官とへつらう商人のようで、みっともない。もう少し大人の対応ができないものか。

談合列島(談合のしくみ)

 業者間では事前に「落札予定業者」を決める。バブル期までは談合の専門ルームがオフィス街にあった。その後、大胆になって、現場説明終了後、近隣の料亭か喫茶店で行うようになった。

 落札予定業者の決定経過はこうだ。まず、この仕事を受注したいか各社に希望を確認する。会社によっては、手一杯とかで今回はと拒否することもあるからだ。次に受注希望業者の中で「事情」がある業者を確認する。これが曲者(くせもの)である。その事情とは、本件の計画に携わってきたとか、前々からの継続的業務であるとか、役所の意向があるとかである。一番やっかいなのが、役所の意向である。つまり、この仕事はうちにやってくれとの発注者の意向があるというものだ。これが、つまり「天の声」である。天の声はそれとなく感じる場合もあるが、あいまいな場合は発注者に確認に行く。

 こうした事情が納得できるものであれば、事情がある会社が落札予定業者となる。事情と事情がぶつかる場合は、当事者間で話し合う。どこも事情がない場合は「星取り表」により決める。星取り表とは、発注者毎に指名された都度、白星がつくものであり、白星の数が多い会社が優先的に受注できるルールである。一度受注するとその時点でそれまでの白星はチャラになる。この星取り表なるもの、「公取委」(公正取引委員会)が公正取引法により検挙する動かぬ証拠になる。そのため、その管理には神経を使う。

 地方における落札予定業者決定の経緯はざっと以上のようであるが、中央業者だけの大型物件では星取り表なるものでは管理できないので、事情だけの話し合いになる。今回はどうしても弊社にという泣き寝入りから、大臣や議員の名をちらつかせるものまで、さまざまである。

 トーナメント方式で1対1で談合を行って勝ち残り方式にする場合もあるが、この場合は営業マンの力量がものをいう。女性社長が色仕かけで勝ち上がる場合もある。昔は保険勧誘のように役所に入り込んでは、色仕かけで役人を陥れる女社長もいた。どこも仕事がない時期は明け方まで談合を続けることもざらである。最後は酒が強い社長が生き残ったり、くじで決める場合もある。くじのイカサマプロもいた。受注するのに手段は選ばないのが実態であった。このようにして、日本列島においては連日連夜、談合が繰り返されてきた。

 最近では電子入札になって談合はやり難くなったが、それでも手をかえ品をかえ、談合は後を絶たない。

談合列島(指名競争入札その二)

 指名された業者に連絡がいく。指名された業者は事前に「現場説明」(通称、「現説」)なるものを受けに発注者のもとに出向く。その場で、仕事の目的とか内容とかの説明を受ける。これは形式的なものであって、営業マンに仕事の内容がわかるはずもない。だから、異議とか質問とかもない。一応、内容を承知してもらったよという前提で、1週間後くらい後に、「入札」を行う。

 入札は業者が順次、入札金額を書いた入札書を提出する。発注者は入札金額の最低価格が「落札予定金額」(役所が積算した価格)以下であることを確認して、その業者を落札業者と認定する。最低価格が予定金額以上である場合は入札を繰り返すが、3回程度やっても予定価格を下回らない場合は、「不調」と称し、業者選定からやり直す。

 なお、指名競争ではなくて随意契約というのがある。これは特定の業者1社を指名して入札さすものであり、公益法人、財団法人など官庁OB母体の温床会社がとってつけたような理由で特命受注する。

談合列島(指名競争入札その一)

 談合との最初の出会いは、入社5年目で営業所長になったときだろうか。それまで、仕事というものは公正に入札が行われて決まるものだと考えていたし、技術屋の私にはそもそも縁遠い話であったから。しかし、営業も兼任することになって、否応がなしにこの慣例ともいえる社会の悪事に手を染める結果となった。実はこの悪事から逃れたいという気持ちが、後の辞職の理由でもある。

 国の出先とか都道府県の出先(「発注者」という)から発注される仕事の発注形態のほとんどは「指名競争入札」である。指名競争入札の一般的な流れはこうだ。発注者は仕事の内容(高度なものか単純なものかとか)と規模(発注金額が一千万円以内か以上かとか)によって、事務所で「指名委員会」(通常は所長、部長、課長)を行い、業者を選択する。

 選択はあらかじめ作成されている業者評価書をもとに決められる。業者評価書なるものには、会社の規模、資産内容、技術力、折衝力、成果品の品質はもとより、当時は発注者に媚びてるかみたいなものまで評価点として示されていた(懇意の所長に見せてもらたことが何度かある)。OBの数も勿論であるが名刺の数もある。よく営業マンが役所に行って名刺を配る風景を知っているであろう。所長に何枚、部長に何枚と数えて評価して点数化する役所もあった。まったく、くだらない体たらくな話である。

御礼


「父から子への遺言状」を完結します。閲覧された読者の方に御礼申し上げます・


一 父から息子へのメッセージ
二 父から娘へのメッセージ
三 父の生い立ちと青春
四 職業人としての父
五 兄の号泣
六 ジュン太
七 父から子への遺言状

最終章:父から子への遺言状(その三)

 君らは父の母親やジュン太の最期を見届けてきたよね。大切なことは家族の絆というものがいかに大切なものかということだ。家族や隣人、友人、それぞれに出会いがあり、その出会いを大切にして、絆を深めていくことがいかに大切なものであるか。

 父は仕事にかまけて、ろくに君らと時間をもてなかったことを悔いる。その反面、事あるごとに、君らと、ちゃんと正面から向き合ってきた自負がある。派手なコスプレの広告塔姿も立派な仕事だと声援した。茶髪のロン毛で何が悪いと世間を一蹴もした。調理師になりたいと言えば、すぐになれと言った。たまには勘当という荒業もした。わかって欲しいのは、その際の言動は、決して世間体や親のエゴからではないことだ。むしろ世間体を気にせずに精一杯生きろと伝えたつもりだ。

 父が生い立ちから経験してきたことは、苦労や羞恥に値しないだろう。世界中を見渡せば、どれだけの貧困、飢餓、虐待、辱めがあろうことか。それを考えれば、この世に生を与えられ、今、ここに生存することがどんなにありがたいことか、よく考えてみるがよい。君らにはまだ時間がある。一度きりの人生を、自分のしっかりとした意志でもって、思い切り生き抜いてもらいたい。その際、大きな財産は要らない。大きな名誉もなくていい。つつましくていい。大切なことは確固たる目標と意識である。そして、地域、会社、日本を乗り越えた、地球規模の大きな視点と寛容な心で物を考えられる人間に成長することを、父は願う。



最終章:父から子への遺言状(その二)

 息子よ、君の真面目で大人しい性格は母親そっくりだね。だからこそ、現実から逃避しそうなこともあったよね。調理師になりたいと言えば、すぐにそうしろと言った。ギターは趣味以上で仕事以下だと言ったときは、就活からの逃避だと一喝もした。でもその都度、君とは正面から向き合ってきたつもりだ。

 やりたいことがあれば何をやってもいいんだ。だけど、やるからには死に物狂いでやれってことさ。君が女子であったなら、違ったかも知れない。しかし、男子は一生掛けて何かをやりとげないといけないことを、父は肌身で感じているから、どうしても伝えたかったのだ。幸い、今、君はコンピューター関連に就職し、今の仕事が楽しいと言っている。いいことだ。楽しいなら、とことん極めたら良い。

 君がバツイチの子持ちと結婚しようとしたことを、父は責めてはいない。それはそれでよいことだと祝福もした。問題なのは、そう決断したにもかかわらず、結納までして、それを成し遂げられなかったことだ。そこに君の弱さがある。

 これから年を重ねるにつれて、君は仕事や健康や家庭のことで、いろんな壁にぶつかるであろう。そんなとき、真面目で大人しいだけじゃ解決しないぞ。決断が必要であったり、喧嘩腰にならないといけないこともあろう。とっさの判断も重要だ。潔さやあきらめも大切である。たまにはハッタリも必要かも。世の中、きれいごとばかりじゃないぞ。むしろ理不尽なことだらけだ。こんな世の中を生きるってことは並大抵のことじゃない。信念をもて、もてなければ開き直れ。まず行動してから考えろ。

最終章:父から子への遺言状(その一)

 娘よ、君は超未熟児でこの世に生を授かり、持ち前の生命力で大きくなったね。生きてくれさえいればとの親の思いが、次第に人並みであることを期待し、さらにそれ以上のものを願うようになったね。大学生の君が帰宅しなくなったとき、これではいけないと思った。

 大学生の君を勘当したこと、その時の言葉、それは、親としての究極の選択であった。原点に立ち返り、一人の人間として生きることの大切さ、難しさ、だからこそ、せっかく掴んだ生命に感謝し大切に生きることの重要性、それを自身が肌で感じてもらいためだったんだ。

 勝気で目立ちがりで、行動的で前向きな性格は父の私にそっくりだね。単身カナダに長期ステイしたのも、イベント会社に就職したのも、派手なコスプレを好んだのも、みな君の性格そのものだね。そういえば、「今、タイにいるの」ってやぶからの海外電話も何度あったことか。超未熟児で生まれた自身の出生地を確認したいって、いきなり夜行バスで名古屋に行ったこともあったね。そう、その積極性と行動力はすばらしいと思うよ。これからの人生においても、自分らしく前向きに生きるんだ。

 ただ、君は今、ひとりじゃない。結婚も離婚も再婚も経験し、かわいい子を授かり、イタリアンシェフの旦那と三人暮し。再婚してもいいかって君が相談に来たとき、もうすでにおなかに新しい生命が宿ってた。そのとき、高卒の彼を立てるんだよ、決して上から目線しちゃいけないよ、旦那が夜の仕事ですれ違いが多いから心のつながりをどうするのか工夫するんだよ、旦那と何でも相談するんだよ、旦那の両親を大切にするんだよ、って涙ながらに話したよね。

 そう、もうひとりじゃないから、寂しくない、だからその分、まわりを気配って。超未熟児が紆余屈曲してようやく掴んだ幸せを大切に。超未熟児でありながら生きながらえてきた感謝を、今度は、旦那や子供や周りの人に授けるのだ。

ジュン太(その二)

 そんなジュン太をペットショップに預けて海外旅行に出かけたのが悪かった。旅行から帰ってペットショップに迎えに行くと、ジュン太は一目散にショップから出ようとし、出るすがらお漏らしをした。外で延々とおしっこをした。何でも散歩には連れて行ったが、他人の前でほとんどおしっこをしなかったという。

 それがきっかけで、ジュン太は腎臓を悪くし、毎日、1万円の点滴の日々が続いた。ジュン太をそうさせた罪の意識が増し、容態は益々悪化していった。目も衰えろくに歩くこともできないジュン太を、朝もやの中で抱っこしては公園でおしっこさせる日々が続いた。

 そして、ジュン太の最期は私が出張から帰ったときにやってきた。まさに私を待ってたかのように。ヒィーともなんともいえない甲高い声を発して逝った。その時、私は腎臓や目を少し悪くしていたが、私の身代わりになったように思えた。また、娘や息子が我が家から巣立った直後でもあった。家族の絆を守る自分の役割を終えたように逝ったように思えた。ごめんね、ごめんね、そう何度も繰り返してジュン太を抱きしめた。


ジュン太(その一)

 ジュン太を飼い始めたのは確か、娘が高校生のときだったろうか。それまでにも散々、犬を飼いたいという話が食卓で持ち上がったが、女房の独裁却下となった。誰しも犬はかわいいものであるが、死んだときの悲しさを経験した大人であれば賢明な判断であったろう。

 それは5月のゴールデンウイークだったか、少数反対派の女房も連れて全員でペットショップに行った。見せてしまえばこちらのもの、との賛成派連合軍の策略がみごとに効を奏して、許可の裁定が下った。

 さて、何犬を飼うかが家族内で議論された。土佐犬や秋田犬、柴犬を飼いたがる私と、マルチーズやヨークシャー・テリア、プードルなどを飼いたいと言う娘、はたまた、ボクサーやブルドッグを飼いたいと息子が入り込み、なかなか決着がつかない。そこで、各自、1番に飼いたい犬に5点、次に飼いたい犬に4点、と5番目まで投票していき、その合計点で選ぶことにした。その結果、誰からも2点か3点の平均点を獲得したシェットランド・シープドッグが最高点を獲得した。

 ジュン太はうすい栗毛で首回りと4本足のつま先が真っ白な、かっこ良い犬であった。ジュン太という名前も家族投票した。よく走り、すごく利口であるが、臆病であり、犬一倍、人見知りする。中庭で飼っていたが、雷がなると、きちがいのように吠えた。窓を開けると、一目散に家の中に入り込み、隅っこで震えた。今思えば、娘や息子が一番難しい年頃にジュン太は我が家にやってきた。娘や息子の機嫌をとったり、父と子らの仲たがいも仲介し、時には私と女房の縁もとりもった。

兄の号泣

 私が母親のもとを離れ就職してから、母親はしばらくひとり暮らしをしていたが、その後、姉夫婦が一緒に暮らすようになり、兄が結婚するのを契機に、当然のことながら長男たる兄が母親の面倒を見るようになった。しかし、兄の嫁さんは女兄弟ばかりでみな嫁いでいたから、むこうの両親を誰が面倒みるのか問題になった。

 こんな話はよくある話であり、問題になるのは最初からわかっているはずである。しかし、事が深刻になるまで誰も触れようとしないのもまた人の常でもある。結局、兄夫婦は嫁さんの両親の面倒を見ることになり、母親はすがる思いで私たち夫婦のもとに来た。というよりも、娘の早産というのがひとつの契機になり、母の手助けが欲しくて呼んだのであるが、母は兄夫婦の家で何があったとか愚痴や悪口を言うような人ではなかった。

 娘の出産以来、母は我々夫婦と、娘と息子の成長を見ながら一緒に暮した。私は仕事の関係で転勤や引越しを数多くしてきたが、母は少しも嫌がらずについてきてくれた。我々夫婦は母に甘え、母は母で我々を頼りにした。我々が若い間、母に子供の面倒を見てもらい、子供が少し大きくなると、母は、主婦は家に二人も要らないと仕事にでかけ、家に毎月食事代を入れた。

 安サラリーマンの家族であったが、毎週のように母も連れてどこかに遊びに出かけた。この頃よく女房の母親と間違えられた。どこの家庭にもある子の成長を記録するアルバムが20冊以上あり、そのどれにも母の姿があるのが何より仲の良いことを物語る。母との生活の15年間で、嫁姑のいさかいは聞いたことがない。私がいない時も含めて、一切なかったと今でも言う。いつしか我が家は母親の味付けが浸透し、昔料理のレパートリーも増え、娘や息子もおばあちゃん子となっていった。

 そんな母親であるが、70歳を越した頃から、若い頃からの無理がたたり、病気がちとなった。そして、ついに山口の姉夫婦のもとに行きたいと言いはじめた。母親は結局、最後は娘のもとに帰りたがるものだとよく聞いたことがあるが、それが現実になった。時々、山口に顔を見せに帰ると、身ぎれいにして化粧をしていた。年をとっても母は女であり、息子である私にぶざまな姿を見せたくないという気持ちが伝わった。

 姉夫婦のもとに移って1年後、母は持病の肺を患い入院し、徐々に弱っていった。こんな時、母は娘である姉につらく当たり、姉は姉で母親に冷たかった。逆に姉の旦那がやさしく介護した。病院内では姉の旦那と母が親子と見られた。母はついには痴呆となったが、姉夫婦は病院に通いつめた。

 母の危篤の知らせが夜、あった。とるものもとりあえず、家族全員で駆けつけた。当然、兄にも知らせたが、最初は仕事の関係がどうとか言って行くのを躊躇していた。結局、何時間か遅れて兄は嫁を伴わずひとり駆けつけた。母は朦朧と生死をさまよっていたが、明け方、「ヒイー」という言葉を残して逝った。その瞬間、それまで気丈な兄がベッドの母を抱きしめ、人目はばからず号泣した。姉と私は兄の号泣の意味をその場で察知した。姉と私は互いに、悲しいながらも満足感とも安堵感とも知れぬ思いを共有した。

職業人としての父(その八)

 世の中、不況の中でも回復基調となり、仕事も順調に伸びていったが、今度は売り手市場で人材難となった。無論、この零細会社に大学の新卒が来るはずもなかったが、あちこちの大学教授から訳ありの人材を何人も紹介された。大学に七年も在籍しているが卒業できない学生、どこの会社を受験しても受からない学生、自閉症の学生、女性ながら現場に出してほしいという学生など。結局、会社は訳あり人間が集う駆け込み寺の様相を呈してきた。訳あり人間は順次、再生して世に送り出していった。

 その後、世の中は激動の時代を迎えた。規制改革、公共事業の抑制、省庁の再編、予算の削減、インフレのスパイラル、IT改革、温暖化、サブプライムローン、原油高、食糧難など。建設関連業の廃退・倒産が相次ぎ、私の会社も当然のことながら変革をとげた。小さな集団、新規顧客の開拓、ITを活かした高品質高度化、低価格への挑戦と。そしてこのような変革の時代に何よりも大切であるのが、社長たる私の意識変革と判断のスピードであったと、今思えば、まだある会社の存続理由にあげたい。

 サラリーマンであれ、起業家であれ、商売人であれ、各々、立場が違えども、みな職業人であることに違いはない。今ある立場や環境を真摯に受け入れて、発展的に考えることが何より大切である。悲観する暇があったら、自身の努力のなさを反省すべきである。ダメな社員がいたら、そこではじめて社長が成長すると考えればよい。優秀な社員ばかりだと社長は必要ない。動かない社員がいれば、社長の使い方が下手なのだ。仕事がうまくいかないのを世の中のせいにするな。1%のアイデアと99%の汗、これこそがプロの職業人たる使命ではなかろうか。

職業人としての父(その七)

 会社を辞めて独立すると、私の周りの交友関係はガラリと一変した。会社のネームバリューと役職の肩書きの恩恵に預かろうとたむろしていた業者はあっと言う間に散った。同業者はこの際とばかりに罵声を発した。

 ささやかな起業祝宴の際、「これまでは大手の支店長だから頭を下げてきたけど、これからは一介の下請け業者だからな」と、同業の友人が傲慢にいきがって放った。そのとおりである。この友人と先日、飲んだが、「あの一言が私を助けた。ほんとうにありがたい言葉だった」と礼を言った。

 今までお役所にもあまり頭を下げなかった人間が、誰にでも頭を下げるようになった。それは、別に苦でもなんでもなかった。立場が代われば自分が代わればよいのだ。頭を下げるのはタダだし、プライドは内にしっかりもてば良い。仮に相手が理不尽なことを言う場合は、一旦、頭を下げて、後ろを向いてベロを出しておけばよいのだ。

 捨てる神あれば救う神あり、とはよく言ったものである。コピー屋さんとか写真屋さんとか、今まであまり気にとめなかった人が案外に親切にしてくれた。また、役所の人は「会社に仕事をお願いしてるんじゃない、お前にお願いしてるんだ」と言って、仕事を手配してくれた。そのうち、罵声を発した同業者からも仕事を頼みたいと言ってくるようになった。

職業人としての父(その六)

 広島に戻った1月15日夜、家族に会社を辞めることになったと始めて告げた。とくに大きな反応はなかった。何でもひとりで決めてきた慣れなのか、それとも私を全面的に信頼していたのかは別として。あくる日から、会社設立の準備をし、2月始めに公証役場に書類を届けに行った。「司法書士の方は?」と係員に咎められた。何でも司法書士を通さずに素人が持参したのは始めてらしい。

 2月8日、記念すべき会社設立の日を迎えた。社名は家族会議で決めた。事務所は当初、自宅のリビングとした。食卓テーブルに電話を1本、それに秋葉原で買ったノートパソコン1台、これが会社の全備品であった。

 支店長時代にアルバイトを使い面倒を見ていたが、そのアルバイトから俺も雇ってくれと懇願された。専門的な知識が全くない彼を雇い入れるのはあまりに無謀であると一端断ったが、彼の情熱に負けた。ところが、あくる日、彼は高校時代の同級生を連れてきた。ひとりで細々やる計画であったが、結局、経理担当の女房と併せて4名の社員での船出となった。

 世の中、バブル崩壊による不況に突入し、絶好のタイミングでの船出となった。仕事もなく降りしきる雨を眺める日々を送っていた矢先、一本の電話が鳴った。支店長時代にかわいがっていただいた県の所長からであった。とりあえず、○月○日の○時に所長室に遊びに来いという内容であった。

 行ってみると、どうやら大きな仕事の現説(現場説明)があったらしく、所長室には大手同業会社の営業マンが勢ぞろいしていた。そんな中、所長は彼らに何とこう言ったのだ。「どこがとっても(受注しても)この男に下請けに出すように.わかったな!」と。所長室から出るとき涙が出るほど嬉しかったが、後に、彼らの反発を買うことになった。「そりゃ、そうだろう、最大手の支店長だったか知らないが、辞めてしまえばただの人間、そんな人間に貢げって言われてもな」という声が聞こえた。

 結局、この仕事は私がいた会社が受注したのだが、後任の支店長が所長の意見に逆らって、私に声をかけないで仕事をしようとした。前にいた会社は県から指名停止となり、二重に迷惑をかけてしまった。

職業人としての父(その五)

 転勤の話が巷に横行する頃、私は自分の性格から、地方都市であればどこの支店長でも行くと会社に宣言していた。しかし、平成5年1月12日、折りしも誕生日の日に突然、大阪本社への転勤内示を受けた。本社は嫌だと宣言しているにかかわらずの内示であった。

 ひとつ返事で私は固辞し、辞表を提出した。転勤は受けるか反るしかないという持論を実践する時であると心得た。毎年、1月15日の成人式に全国の管理職が一同に会する恒例の管理職会議があるので、それまで保留ということになった。

 管理職会議の前日、私は本社社長室の大きなテーブルで、多くの役員から慰留説得を延々と受けた。最後には転勤は白紙にするとまでの話が出たが、最後まで固辞した。白紙撤回は涙が出るほど嬉しいことであるが、私だけが白紙ですまされるわけがないし、廻りまわれば部下に知れることになり、それでは人事は進まないであろう。まして、転勤は受けるか反るしかないと部下に言い張ってきた覚悟があった。さらには、内示といえども撤回するほどの柔は示して欲しくなかった。情に落とされないよう、社長室の大きなテーブルの木目を数えた。

 私のあまりの頑固さにある役員が言いは放った。「もういい、明日の会議は出席しなくていいから」と。なんと大人気ないことよ、これでは一流企業とはいえない情けなさを感じて本社を飛び出た。日はとっぷり暮れていたが、私の心はハツラツとし、明日への希望を見据えていた。あくる日、私は秋葉原に行き、ノートパソコンと「会社を作る方法」という本を一冊買い、広島行きのフライトに乗った。

職業人としての父(その四)

 耳の手術は、セパレート手術により結局、前後2回に分けて行った。一度開いて切除して閉じ、半年経って再度開いて化膿していないのを確認したのちに人工鼓膜を張るという手術である。胃の手術の時のように、全身摩擦はまだ良い。眠っていてすべてを委ねるだけだから。しかし、部分麻酔はきつい。手術と反対側の耳元で、今から開けますと言って、凍りついた耳を根元から切り開く。これはどうですかと顔面神経を確認するたびに震え上がる。終わったら今から閉じますと丁寧に告げる。これらはすべて顕微鏡下で行う、いわば神業である。ともかく、手術は成功裏に終わり顔のゆがみもなく耳の機能を回復することができた。

 その後も病魔が襲った。左の腎臓の奥に2~3センチの結石があるという。これは、爆破処置するしかないため、痛むたびに薬で難を逃げることにした。左目の手術も部分麻酔で行った。もともと遺伝的に肺が弱く、風邪を引くと肺炎や気管支炎になった。結局のところ、手術を4回、入院10回を経験し、病院の問診の病歴欄は入力する行が足りない状態となった。

 そんな病弱な私ではあるが、40歳でようやく支店長になった。支店の人数は50名、営業所も入れると60名。経営面で切り盛りする一方、技術屋であるため技術のすべてを見た。そして、社員ひとりひとりと向き合った。仕事の面でも飲みの会でも、いつも私は熱く語った。時はバブル崩壊直後、QC活動とか効率とか、能力主義とが叫ばれはじめ、リストラが横行した。

 そんな時、社員にはいつも「転勤は受けるか反るしかない」というのが私の口癖であった。これは、サラリーマンたるもの覚悟して仕事せよということが言いたかったのであるが、事実、私はいつも辞表を内ポケットに忍ばせていた。飲みに行くときは、最悪割勘の時もあったが私の奢りがほとんどであった。

 支店の管理職が部下と東京本社に出かける時には、管理職たる資質が反映された。だいたい会議の前日に新幹線で東京に入るが、管理職に許可されていたグリーン料金の扱いで人間性が分かれた。ちゃんとグリーン車両に乗って(部下は普通車)グリーン料金を請求する者はまとも。悪質なのは、グリーン車両に乗らないでグリーン料金をポケットマネーにする者。そして最も嫌いなタイプは、グリーン車両に乗らないでグリーン料金を請求しないで、いかにも節約したと本社に良い子ぶってアピールする者である。ちなみに、私の場合は、グリーン車両には乗ることはなく、請求するグリーン料金で部下に飲ました。
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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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