職業人としての父(その三)

 それだけの大病を患うと、人は普通、その後の人生をおとなしく自重して生きるものであるが、私の場合は逆らった。まだ30歳という若さがそうしたのかも知れぬが、一度命を亡くしてもうけものの人生という、変な開き直りがあった。

 退院する時に酒か煙草か、どちらかを辞めるように医者から言われ、パイプ煙草を辞めて酒を続けることを即答した。退院後も自重することなく、健康人と同じように振舞い、同じように働き、ほとんど同じように飲食した。実際、当時の会社での私の立場から、病気を言い訳にできるような環境ではなかったことも事実である。そうした挙行がもとで、何度か手術の後遺症で入院した。ある時は国のヒアリングで霞ヶ関の建設省ビルの中で発症した。病院まで搬送された救急車の振動は、助かるという安堵の気持ちに私を感じさせるに十分であった。

 胃の手術とその後遺症に加えて、さらに悪魔が襲った。中耳炎と思って耳鼻科で診てもらったところ、真珠種という重い病気であることが判明した。中耳炎が悪化して耳の内部が腐食し、痛みとめまいを伴い、放っておくと裏側の神経に及び顔が歪み、命を脅かすことになるらしい。顔面神経に係る脳外科や顔を中心とした手術には危険が伴い、臨床経験の多い名医に手術してもらうことが成功の秘訣という。

 かかりつけの耳鼻咽喉科医とできるだけ懇意になることからはじめ、次第に耳鼻咽喉学会での情報を得て、最終的に耳鼻咽喉学会では当時、著名な某大学医局の某教授に執刀してもらうことを決意した。医学会に縁遠い私に人脈はなく、かすかな人脈を探りながら、ようやく某教授にアポをとることができた。こうなったら度胸しかないと、ある日、医局に意気込んで参じた。紹介状を出しても、見ず知らずの患者にみるべくもなかったが、あらかじめ包んだ分厚い封筒をテーブル下で渡すと、教授はいきなり助教授を呼んで病室の空き状況を確認するに及んだ。

 大学病院の耳鼻咽喉科には舌癌などの患者が目白しで手術を何ヶ月も待ち望んでいるのに、私は飛び級の手術アポをとりつけた。自身に罪悪感は残ったが、これも生きるすべだと割り切った。

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職業人としての父(その二)

 一連の地震の調査が落ち着いた頃、私は営業所長に抜擢された。入社してまだ5年目のことである。技術屋の営業所長としての生活は過酷なものであった。入札や現説、見積といった営業行為はもとより、用地交渉から現場の段取り、技術屋としての本業の調査や報告書のとりまとめなど。夜を徹して仕事に明け暮れた。

 朝まで業者仲間と談合をすることもたびたびであった。考えてみれば、この頃、家にゆっくりいた記憶がない。娘や息子とゆっくり遊んだ記憶もない。ただ、仕事が忙しいことは苦にならなかった。就職までの苦難に比較すれば、十分に耐えられる内容であったからである。

 そんな無謀で多忙きわまる日々の中、広島に転勤を命ぜられたが、この時すでに体の臓器は犯されていた。転勤して半年経った頃、私の体は夢遊病者のように宙に浮いた。やがて黒い便を出して、意識が遠のいた。救急車に運ばれていくことに安堵を感じた。

 大学病院に到着した時の血圧は上が60であったという。その時、私には出血性胃炎という病名が知らされたが、ほんとはどうだかわからない。緊急手術をした。胃壁からの出血がひどくて大量の輸血が必要となった。親戚や会社から多くのA型血液が集められて胃の摘出手術を終えたが、術後も輸血した人さまの血液さえも大量に逸した。この間、今思うと不思議なくらいに死が怖くなかった。どうにでもしてくれ、早く楽にしてくれという気持ちが死の怖さを上回った。術後数ヶ月して、死の怖さを実感したが、その時が回復の兆しであった。

 6人の相部屋の病室は皆、違う臓器の患者であったが、共通している点は、私を除いて、のちに、みな別々の癌で死んでいったことである。私だけが例外というのもおかしな話であると、あとで気づいた。

 現役の銀行支店長だという隣のベッドの患者はすい臓癌だった。腰の裏に水が溜まって苦しみ悶えては、何度も何度もモルヒネを打った。本人には知らせてないらしく、奥さんからも固くそのことを頼まれた。最期まで本人には知らずじまいに逝ってしまったが、奥さん以上に私の方が裏切りの念でつらい思いをした。嘘かほんとか知らないが、上等なコーヒーとワインを毎日いただいてたらしく、そのためにすい臓癌になったとか。

 反対側の隣の患者は肝臓がんであったが、最期はまるでパンパンに腫れた山吹色のウリのような顔になって個室に運ばれた。斜め向かいの患者はまだ若かったが直腸癌であった。最期は便が口から出て、最もぶざまな最期であった。肝臓癌の患者がもうひとりいたが、彼は建材会社の社長とのことで、猿の腰掛が癌に効くと家族の手厚い加護があったが、それでも駄目であった。

 病室の中では患者どうしの無責任な死や癌に関する会話が行き交った。癌と自覚した患者や癌を疑っている患者が6人も寄り添うと、いろいろな会話も出てくる。一番多かったのが、死への誘(いざな)いの夢物語である。昨晩見た内容を報告しあったが、誘いの情景は多くの場合で共通していた。よく言われるように、両側を美しい花に飾られたロードの向こうから手招きされるというものがほとんどであった。しかし、どういう訳か私の場合は、小汚い居酒屋であった。それは、現世があまりに不徳なためだと同じ病室患者から非難されて、自分でも納得した。

 私を非難した患者も、最期まで仲良くお付き合いしていただいた患者も、最期まで嘘を通した患者も、ひとりまたひとりと去って逝き、結局、6人部屋で私だけが生還することになった。何と悪運が強い男だと思ったが、よくよく考えると、私の父親が私が2歳のときに亡くなった時と同じ年齢の30歳であり、しかも同じ病気にかかっていたことに気づいた。父の加護と考えるべきなのか、不思議な因縁である。

職業人としての父(その一)

 娘や息子には職業人としての私の姿をあまり見せたことはないし、語ったこともない。サラリーマンであったから、仕方ないと言えば仕方ない。娘や息子がよく目にしたであろう、夜遅く飲んだくれて帰る姿も確かに私のサラリーマンの姿であるが、昼間の姿について、これまであまりに語ることがなさ過ぎた。サラリーマンとして、そしてその後に企業独立した、職業人としての父の姿を伝えよう。

 高校、大学、就職と、私の人生に選択肢はなかった。その後の多くの資格試験も含めて、思い返せば、人生、受験はみな1回きりであった。1回しかないチャンスだからこそ、それを確実に活かすように最大限の努力をしてきた。また、周囲の環境にも最大限に順応しようと努力してきた。生まれながら負のスタートをした自分には、それらを否定するような立場にないことを十分に理解していた。サラリーマンになってからも、器用貧乏に部署や勤務地を転々とした。そのことを逆に、与えられたチャンスと思った。しかし、転勤や引越し、転校を余儀なくされ、そのたびに家族に迷惑をかけてきた。もっとも反省すべき点は、好きな仕事に打ち込むあまりに、家庭をまったく省みなかったことであろう。

 息子が浜松で生まれて間もなく、伊豆半島で地震が勃発した。運転免許を取得してから1週間くらいの頃だったろうか。はじめての運転実務は、何と浜松から東名高速を上って下田までの250kmの走破であった。被害直後の河津の町並みは壊滅的であり、そこから天城トンネルまでの10km、ズタズタに寸断された道なき道を必死の思いで被害状況を調査して登った。

 途中、東海バスの乗客が生き埋めの現場やセドリックが埋まった現場もあった。その場の私の任務は被害状況の速報を知らせることにあったが、悲惨な現場を目の辺りにしながら救助に手を貸さなかった自分を今でも悔いて恥じる。天城のトンネルに着くと、もうすっかり日は暮れていて、火の玉が出てきそうな暗闇をガクつく恐々とした足取りで河津の町まで一気に駆け下りた。それから半年間、余震が続く中で伊豆半島に泊りがけの単身生活が続いた。

父の生い立ちと青春(その七)

 専門の学部に進学した当初、配属された教室はもの静かな助教授が主任であったが、その助教授がすぐに留学してしまうと、その親分たるすご腕教授が直接、我々の面倒を見ることになった。巨漢もさることながら、もの言いからしぐさまで、まるでその筋の人間そのものであった。

 教授の言わんとすることは一貫していた。丁稚(でっち)(学生)たるもの師匠(教授)にすべて従え。大学は実験するところであり、勉強するところではない。専門書を読むんだったら家で読んで来い。人まねはするな。汗と努力だけが研究の成果となる。要領よく振舞うな。正々堂々とかかって来い。

 そんな教授のもと、教室はピリピリとし、寝袋での研究生活が続いた。ひとつ間違えば、唾を飛ばしながら学生をガンガン叱り飛ばすことの連続に、泣き崩れる学生、耐え切れなく辞める学生も続出した。親を連れてくる学生にはもっと厳しかった。なぜ親を呼ぶのかってことから始まって、ついには親まで説教する。親とともに大学を去る学生もいた。

 そんな教授のことだから、飲むのだって半端じゃなかった。正月明けの飲み会だと、各自、郷里の酒を一升瓶ずつ教室に持参するのが掟であった。その酒をまず教室で全部、飲み干すのが決まりであった。その後、やおら街に繰り出すが、ひとりの脱落者も許さなかった。とある大雪の最中、街に繰り出し、しこたま飲んだ勢いで、相撲を取ろうと教授が言い出した。「俺は学問だって何だってお前らに何ひとつ負けやしない.かかってこい!」雪の中で裸の巨漢が吠え、裸の学生がひとり、またひとりと、雪の上に放り投げられた。最後に相撲部の主将が勝負した。さすがに両者みじろいもせず、互角の勝負となった。裸と裸がぶつかって湯気が出る中、突然、パトカーがサイレンを鳴らして急行した。どうやら近所の人が通報したらしい。喧嘩じゃないんだと何とかおまわりを説得し、教授の務所行きだけは阻止した。

 団塊の世代は就職難でもあった。炭鉱が閉山して鉱山が斜陽の頃であった。大学教授に、とある会社に行くよう命ぜられた。命ぜられたというのはそのとおりで、当時、その教授のもとでは学生個人に就職の選択自由はなかった。仮に教授が勧めた会社を固辞すれば、教授の面子が立たないばかりか、二度とその会社はこの地方国立大学に求人に来ないであろうことが予想できた。私が命ぜられた会社はそれまで旧帝大ばかりを採用していたが、冷やかしのつもりでその時、始めてこの地方大学に求人にきたらしい。

 旧帝大から都(みやこ)落ちしてきた私の大学教授にしてみれば、都に対する意地もあった。結局、命ぜられるままに私はその会社に就職したわけであるが、就職して十年くらいたった頃、就職した会社の社長がこの地方大学をわざわざ訪れた。そして教授にこう言った。「東大、京大よりも是非、先生とこの学生さんが欲しい」と。なぜかと教授が尋ねたら、「ほとんどの学生がつらいと言ってすぐに辞めていくんですが、先生とこの子(私のこと)だけは辞めないんです」と社長は答えた。どうやら、頭が良いからでも仕事がよくできるからでもなく、我慢強くて辞めないこと、歩留まりが良いことが魅力であったらしい。

 思い返せば、高校、大学、就職、資格と私には選択肢はなく一回きりの勝負の連続であった。後ろがないどころか、半分、徳俵を割った状態が続いた。かえってこれが良かったと思う。人間、後があると思うと必ず失敗する。また、文系を目指した私は、よりによって苦手な工学の道を歩むことになったが、これがまた幸運を招いた。苦手を先に克服することで、後が楽であった。それどころか、大学に行けたこと自体が幸せであり、母親や兄弟やその連れのお陰であることを忘れてはいけない。片親しかいないこと、極貧であったことなど、何て不幸なんだろうと嘆くより、これで良いのだと考えることで前向きに生きれることができた。その時々、生きるためのひとつの工夫として、そう思うようにしてきた。

父の生い立ちと青春(その六)

 大学に行けるのかどうか半信半疑の中、大学受験も本番を迎えたが、その頃も以前にも増して貧困であった。受験勉強の最中、寝不足で朦朧(もうろう)とした意識の中、腹が減った勢いから釜の中の飯を鷲づかみにほおばった。が、それをオヤジに見られた。

 大切な飯を泥棒猫みたいにと、こっぴどく叱られた。確か東京オリンピックの年だったから、世の中そんなでもない良い時代であったのに。これじゃ、受験勉強どころじゃないと考えた。母親が泣く姿を毎日目の当たりにして、どうにかしないといけないと決断した。

 既に結婚していた姉に借家を手配してもらい、ある日、私は母を連れて家を出ることを敢行した。義理のオヤジからの逆勘当ともいえる家出であった。勿論、大学受験どころか高校も中退して母を養う決意でのことである。すべてを投げ出しゼロからのスタートであったが、一番喜んだのが母親であった。とりあえず休学届けを出し、家計を維持するために奔走したが、姉の旦那が窮地を救ってくれた。

 姉夫婦の援助と奨学金で、たまたま地元にあった国立大学の工学部に入学することにした。そもそも文系志望であったし、京都に行きたかったが、そんな希望は無意味であった。私に選択肢はなく、大学に行けること自体、私にとって奇跡であった。当時の国立大学の授業料、月額千円と生活費はアルバイトをして十分にまかなえるとふんだ。

 しかし予期せぬ事態が起きた。どうやら1年間は35km離れた大学の教養学部に通わないといけないことがわかったのだ。同期で入学した友達はみな一年間の寮や下宿を手配したが、私は自転車通学を決めこんだ。9時からの講義に間に合うため、3時に家を出た。当時、まだガタガタの道を六時間かけて通った。のちに周囲の人には、1年間自転車通学したと苦学を鼓舞したが、実を言うと、試験の前日は友達の下宿に泊めてもらったし、雨の降る日には電車で通ったこともあった。

 そんな大学教養時代も終えて専門の学部へと進学したが、世の中、学生運動の真っ只中に突入していた。原理主義だ、革命だのと周囲の学生が騒ぐ中、東大安田講堂事件が勃発した。しかし私にとっては大学生活を早く終えて自活することだけが目標であり、世の中を批判する余裕はなかった。

父の生い立ちと青春(その五)

 そんな貧困と屈辱の日々を10年間過ごして高校へと進学したが、姉や兄は高校を卒業するやいなや一目散に出家し、取り残された私は母親と第二の父親との生活を余儀なくされた。

 第二の父親の正体がどんなものであったか定かではない。わかっていたことは、体が小さいが海軍上がりで筋肉質であったこと、体に小さな刺青があったこと、辰年で短気で気難しかったこと、煙草はやるが普段は酒を飲まない下戸であったこと、博打が好きなようであったこと、くらいである。

 末っ子の私がなつかないくらいだから、兄は嫌悪感をもっていただろうし、姉はといえば、女性故に憎悪に近い感情すら覚えていたろう。しかし、人質として残された私には、それなりに一緒に暮らして生き延びる知恵が求められた。

 私は県内で最も優秀な進学校に通っていたが、貧困に変わりはなかった。勿論、大学に行ける見通しはまったくなかったが、とりあえず大学受験を目指した。数年前から、第2の父親は屋台のラーメンを始めていた。朝からダシと焼豚を煮込み、昼から練炭に火をつけ麺を仕込む。夕方からネギやモヤシを準備して、カーバイトに灯りをともしてチャルメラを鳴らして町へ屋台を繰り出す。

 そんな毎日が続いたが、問題は屋台の稼働率が非常に悪いことである。気難しい第2の父親は、自分が納得するまでダシの味ににこだわる。出店前まで準備しても、今ひとつダシの味に納得しないと屋台の出店を止める。そんな日は、勿論、その夜もあくる朝も、オヤジが納得しなかったダシのラーメンを食べることになる。1週間に平均して雨で1日、ダシの不具合で2日、体調不良で1日というペースで休むから、平均して1週間2~3日程度の営業だったろうか。

 高校の授業料未納が頭をよぎり、屋台を出す日には、チャルメラを鳴らす屋台を私もうしろから強く押して送り出した。ともかく屋台が出ることだけを願ったが、屋台が出れば出たで、あくる日は、ダシのガラや練炭の灰を捨てに行くのが私の日課となった。半切りのドラム缶に一杯入った練炭の灰を片手で担いで、デコボコの路面の窪地に埋めた。ガラはガラでリヤカーで空き地に捨てに行った。今思えば、腕相撲が事の他強くなったのはこの頃からである。

早朝出勤のススメ

 少しでも気になることがあると、自然と三時、四時に目を覚まして出勤する。独立したとき、会社と自宅は切り離してしかも近くが良いという持論から、車で五分の会社に赴く。蒸し暑いこの時期でも、この時間、ひんやりして気持ち良い。誰もいない会社のドアを開け、照明をパシパシッと入れる。パソコン、プリンターなどの電源をポンポンと入れて廻る。

 誰もいない社内、切り詰めた空気が漂う。当然、電話の邪魔もなく、社員に気遣う必要もない。やがて、昨夜までのあらすじを復習して新たな作品に取り組む。頭が冴える。仕事が進む。少しあたりが明るくなった頃、かなりの成果と満足感それに空腹感を感じて、朝食をとりに家に一旦、帰る。

 この会社にはもともとタイムカードとかいうものはない。基本的にいつ出てもいつ帰っても良い、いわば一日中フレックスである。ただし、自分の責務は自己裁量できっちり実行してもらう。給料は最初から年俸制。不満があれば、場合によって成果を数字で示す。独立したときからの姿勢である。

 社長の早朝出勤を知ってかどうか、やり手社員はこっそり自宅で仕事をしてきたり、忙しいときには会社に泊まったりしている。そんなことは百もお見通しであるが、それでよいのだ。

 何も互いに気を使って仕事をする必要はない。自分のペースで自分のやり方でやればいいのだ。それで会社の生産性が上がればよい。マニュアルであってはいけない。いつも疑ってかかる気持ち、新しい視点でものをとらえる姿勢が要求される。そして、どうしたら楽にできるかという怠惰な気持ちが能率を高める。

父の生い立ちと青春(その四)

 やがて小学校に入学したが、最初は姉のセーラー服を着せられた。ピカピカの一年生ならぬヨレヨレの一年生であったが、しばらくして母親は借金して学生服を買ってくれたが、その時の喜びようは、不思議に今でも記憶に新しい。
 しかし、ほんとうの意味で貧困と屈辱を自覚し始めたのはこの頃だったろう。小学校ではいつも学級委員であったが、授業中の華やかさとは対照的に、課外はいつも暗かった。

 弁当の時間がきつかったし、遠足となると、もっとつらかった。遠足といえども日の丸弁当しか持たされなかったが、それでも母親はりんごを一ヶ、小さなリュックに入れておいてくれた。仲間から外れてひとりでりんごをかじる私に、担任の女性の先生がそっと寄り添ってくれた。

 幸い、貧困と屈辱の意識が団塊の世代という大きな潮流の中で多少緩和された。中学生になると、一クラス六十名、一学年二十五クラスという大所帯となり、多少の貧困や異民族、障害はさして大きな話題にならなかったからである。

父の生い立ちと青春(その三)

 第二の父親がどのような形で我が家に入り込んだのか、私には記憶がない。これまで姉や兄もそのことを話そうともしないし、今となっては、この件は兄弟の間ではタブーである。

 ともかく気がつくと、我々は一時は炭鉱で賑わった隣町に移り、普通だったら幼稚園に通う私をひとり家に残して、母とその男は毎日、行商に出かけた。六歳年上の姉と三歳年上の兄は小学校に逃避した。

 母は毎日、口癖のように私にこう言って行商に出かけた。「お前は高杉晋作の子孫だから、ひもじくても(腹がへっても)人にものをもらっちゃいけないよ.武士は我慢するんだよ」と。

 母親が行商に出かけると、最初の頃、近所のおばさんがちゃんちゃこを着た幼な子に干し柿やお団子を持ってきてくれた。しかしその度に、「高杉晋作の子孫だから」と首を横に振って断った。こんな子供をかわいいとも思わなくなり、次第に、かわいくない子供として相手にされなくなった。

 のちに調べてわかったことだが、どうやら我が家が長州藩の武士の末路らしいことだけは間違いはないらしいが、晋作を持ちだしたのは、貧困に絶えて我慢さすための母の究極の嘘であったであろう。

父の生い立ちと青春(その二)

 しかし、父親が逝った時、どのように父親と最後のお別れをしたのか記憶にない。父親の生前、姉も兄も名門幼稚園に通ったほどに家は裕福であったらしかったが、亡きあと、生活は一転した。生計を立てるべく、母親は男衆に混じって労働者となり、二歳の私を毎日、飯場(はんば)に連れて通った。

 姉や兄は今でも父親の生前の豊かな暮らしぶりを懐かしがるが、私にとってはこの貧乏が原点であり何の違和感もない。戦争で夫を亡くした未亡人労務働者は、当時、めずらしくなく、トラックで労務者が出陣したあと、飯場は置き去りされた多国籍軍の子供の遊びと戦(いくさ)の場となった。幸い、私は朝鮮人の子供から火箸で左手首に火傷を負わされた程度で済んだ。今でもその傷は鮮明に残っている。

父の生い立ちと青春(その一)

 そんな娘や息子であるが、いまだかって、私は親として彼らを教育しようとしたことが一度もない。どちらかと言えば、怠慢な父であり、家庭を返り見ない父であった。それでも彼らと接する時には、子としてというより、むしろひとりの人間として彼らと真剣に接してきたつもりである。

 そのたびに、娘や息子は彼らにしては異常とも思える私の人間性に接したであろう。この人間性は、団塊の世代に生きた過去の私の生い立ちや生きざまによって形成されたものである。そう言えば、今まで私は娘や息子に私の過去についてほとんど語ったことがなかった。

 私は、姉と兄に続いて、次男の末っ子として生まれたが、二歳の時、父が逝った。市役所勤めの父が胸を患い、戦争に行かずに写真屋を始めた頃のことと聞いている。物覚えが悪いと父親が苛立(いらだ)って、まだ五歳にならない兄をクジラ尺で叩くシーンが今でも脳裏に焼きついている。またある時は、水屋の上に置いてあった五十銭を八歳の姉がネコババしたことがある。たとえ五十銭たりとも人さまのものを盗むということがどんなことかって、延々と叱る父親の姿を生々しく記憶している。

 まさか二歳に満たない私がそのように記憶していたとは到底思えないのであるが、その時々の情景や身振りまで鮮明に記憶しているのが不思議である。そんな厳格な父親であったが、私にとっては、寝床で糸巻き車を作ってくれたり、やさしい父親であった。おそらく父親は、自分の短かい命を承知して、あせる気持ちで物心ついた姉や兄を教育しようとしていたに違いない。

父から娘へのメッセージ(その九)

 悲劇は離婚理由にあった。仮に娘が夫以外の(男性)を好きになったというのであれば、離婚させられた彼は、どんなにか救われたであろうことか。

 そのような愛について、父親である私がある程度、理解したとしても、周囲が認めるはずはなく、金銭面の代償もさることながら、土下座に近い形で償ったのは言うまでもない。

 憔悴する母親を尻目に、父は娘とともに相手に面会した。無論、娘を奪還するためである。相手は涙ながらに詫びた。ふたりを相手に、人としての道を延々と授けた。しばらくして、二人は別れた。

 後に娘から聞いた話である。その事は事実であるが離婚した本当の理由はそうではなかったと。共働きの二人のいない間に義母が部屋の掃除をしたり、旦那に弁当を持たしたり、マザコンの彼はそれを良しとしていたり、兎も角、別れたかったと。「彼は優しすぎて優柔不断でだめだった」と。「父さんみたいに引っ張ってくれる人であったら」と。母親には入れない、父と娘の二人だけの会話であった。

 その後、娘はイタリアンのシェフと再婚して子供を生んだ。あれだけ好きなお酒を、妊娠中から今もなお絶っている娘。我が子のことにすべてを尽くす娘。そんな娘を目の辺りにすると、過去のあやまちはすべて許してやろうと思う。
                                                  完

 

父から娘へのメッセージ(その八)

 そんな仕事に明け暮れる娘だから、普通の結婚話は娘には縁がないと決めつけていた。その娘がそろそろ三十路に手が届きそうな頃、一人の男性を連れてきた。

 何でも既に同棲して長いという。娘の男性遍歴のすべてを父親が知るよしはない。しかし、これまで娘から紹介された男を含めて少なくとも四~五人はいたと思う。いえることは、男は少しずつでも進化していることである。娘のことだから、どうせ長続きしないだろう。もう二~三人もとっ換えれば、数段に良くなるのに。そんな思いもあった。

 「娘さんをいただきたいんですが」と、男はありきしの言葉を少しオドオドしながら発した。「もし嫌だって言ったら、どうする?」と、男に聞き直した。男は、いえとか、あのーとか、わけのわからない言葉で濁した。だったらと、「娘は我がままだから、言わんことないからやめといた方がええで.苦労するで」と、娘の目の前で男に忠告した。結局のところ、娘が決断したことに父親の私が反対するはずがないことを、娘が一番、承知していた。

 「ま、ちょっと恩着せがましくかっこつけただけだよ」、と最後は穏便に済ませた。しかし娘の旦那になる予定の男にこうも付け加えた。「もし嫌だって言ったら、どうする?って、さっき聞いたろう?そんな時、反対されても連れていきます、ってなぜ言えないのか!!」と。

 結婚して一年後、私の忠告どうり、二人は離婚した。



父から娘へのメッセージ(その七)

 それから、娘には大学を卒業するまでの1年半の学費の保障はしたが、生活に関する援助は一切していない。あとで聞いた話だが、家出してしばらく、母親は友達の家に間借りした娘と連絡をとり、何か必要なものはないか、お金は足りているかとか尋ねたらしい。

 人一倍負けず嫌いで自立心が強い娘は、ほとんどの場合、あっさりとかわしたらしい。娘がどうのようにして生活費をまかない、どれほどの友人の家を転々としたのか、のちに娘の結婚式で居候された複数の友達から知らされる結果となった。

 それでも娘は大学を正規の四年で卒業した。三年の半ば、四年間の学費仕送りの延長はないことを申し伝えたのが功を奏した。卒業式に出席した私たちであるが、親元を離れていても、少しも悪びれることなく、楽しそうに多くの友の輪の中にいる娘を遠巻きに眺めた。

 大学を卒業した彼女はイベント会社に勤めた。モーターショーやキャンペーン、プロモーションや結婚式など、各種のイベントに女性を派遣する会社であり、勤務は不規則・不定期でべらぼうに安い給料で働かされる。これはもう会社とかではなく、今風の置屋みたいなものである。

 しかし、束縛されたくなくて気ままで目立ちがり屋の娘にとっては、好きなことしてお金がいただける格好の職業だと応援した。地元テレビ局の番組の手伝いもするため、有名なタレント相手にバニーガールなどのコスプレでテレビに出ることも多くなった。テレビ画面一杯に大きな文字で本名と3Sが出ることもしばしばとなった。

 最初、テレビに出ると聞いた母親はいそいそとテレビをつけたが、その姿を見たとたん、「親戚には見せられない」と落胆しながら画面から目を逸らした。それを横目に、「別に悪いことしているわけじゃないし、いいじゃん.俺は自慢したいくらいよ」と。事実、私はビデオを編集して親戚に見せたりもした。

父から娘へのメッセージ(その六)

 自宅から私立の大学に通う娘に異変が起きたのは大学三年生の頃だったろうか。毎日の帰宅が深夜になり、ついには無断外泊の日々が続いた。その度に、理由を問う母親と干渉されたくない娘の対立が強まっていった。

 そんな日々が二~三ヶ月続いたろうか、ある日の深夜、帰宅した娘に言った。「こちらの生活リズムまで狂うので、頼むから出て行ってくれ」と。あたふたする母親を尻目に、娘は「わかりました」とだけ言い残してその夜は二階に上がった。

 さて、あくる朝、娘が重そうな荷物を二階から下げて降りてくるなり、いきなり、「長い間お世話になりました」と。家出にあたり娘にこう申し伝えた。「いいか。これからは自活するんだから親に遠慮する必要はない。何をやっても良い。ただし、売春と薬(やく)だけはするなよ」と。娘は「わかった」と答えて、淡々として玄関を出る。泣きすがり止めようとする母親がそこにいたのはいうまでもない。

父から娘へのメッセージ(その五)

 喉元過ぎれば・・・・の諺どおり、その後しばらくの間の日々を過ごすと、我々はそんな苦労を忘れてしまっていた。忘れるどころか、娘に人並みから人並み以上を望むようになっていった。

 ただ、A型の我が家でただひとりO型の娘の言動は我が家においては奇怪に思えることが多かった。ガチガチのA型である母親と息子からすれば、宇宙人という感覚であったらしく、O型に近いA型の私にとってはある種、同感する部分もあった。

 好奇心が旺盛であり、何にでもチャレンジするその生きる力は未熟児とは思えないほどエネルギッシュであった。負けず嫌いで目立ちがり屋の性格も私そっくりであった。生徒会長に立候補しようとする娘と、会社で人に指示されることの嫌いな私。できるだけ目立つことが嫌いな息子と、ひっそりと暮らすことを望む母親。やがて、我が家は娘と父親、これに対する息子と母親という対立軸を形成していった。

 しかし、娘の強烈な性格を見るたびに、我々はその原因を出生のせいにして、不憫(ふびん)にすら思った。

歓喜の勝利

 ものの見事に予想を覆した歓喜の勝利であった。

 カメルーンのチーム事情もあったようだが、そんな事はどうでも良い。ワールドカップに美技は要らない。必要なのは、貪欲と執拗である。

 かってのNAKATAや俊輔を司令塔としたチーム編成ではない。誰もが司令塔となり得るチームプレーである。かっての日の丸を背にした硬さはない。ひとりひとりが思う存分サッカーを楽しむこと、それが勝利への道標である。

ワールドカップによせて

 今ひとつ盛り上がりに欠けるワールドカップがいよいよ開幕し、日本も今夜、初戦を戦う。

 報道などで戦況がいろいろと予想されているが、どれもこれも日本人びいきなもので、ベスト4も夢ではないという意見まで出る始末。

 私の予想はずばり、0勝3敗か0勝2敗1分である。何も日本を応援していない訳でもなく、消極的な訳でもない。いろんな情報を分析し公平に評価すると、そうなる。
 
 日本人が体力的に劣ることは無論であるが、メンタルな面でも劣る。

 サッカーという競技は野趣な競技であり、ルーズな競技であるというのが私の持論である。敵国からの攻撃や占領を繰り返してきた大陸人と島国の日本人では攻撃的メンタルの強さが違うのは当然である。また、あの広いピッチに主審と副審を配するだけのサッカーと狭い土俵の周りに多くの審判を配する国技と比べれば、競技の厳格性がまったく違い、日本人的な競技ではない。
 
 私の予想が外れることを期待する。

父から娘へのメッセージ(その四)

 娘の命を取り留めるのに、とりあえず大量の輸血が必要になった。運が悪いことに娘の血液型はO型であった。身内は皆、A型であることから、同じO型の血液を採取すべく、会社に戻り頭を下げて回った。幸いにも、数人の方の善意を集めることができて、全く別人の血液に入れ替わった娘は、一命を取り留めることができた。この時こそ輸血の善意を身にしみて感じたが、自分自身も何年か先に輸血のお世話になるとは、この時、知るよしもなかった。

 胎内七ヶ月で生まれた娘は、よくしたもので、ちょうど三ヶ月間入院したのち、退院した。私を含めて身内は、最初、ただただ生きることだけを望んだが、この段になると、ようやく、手と足はちゃんと五本の指がついているか、五体満足なのかと心配しはじめた。そしてそれも大丈夫だとわかり、さらに落ち着くと、今度は人並みの成長を期待した。しかしそんな期待も束の間、退院してしばらくして、定期健診で未熟児網膜症と診断された。

 若い親にとってすべてが耳慣れない言葉であった。名医と評判の女医によると、当時、未熟児網膜症の手術法として光凝固法という新しい方法が日本で普及し始めたとのこと。光で悪い部分を焼く方法の光凝固法が成功すれば目は回復するが、リスクも多い。最悪、失明もあるという。しかし逆にこの手術をしない場合、網膜症は一生ついて回る。この二者択一を迫られて、我々は希望の道を選択した。数時間の手術の末、「うまくいきましたよ.もう大丈夫ですよ」という女医の言葉は天の声にも聞こえた。

父から娘へのメッセージ(その三)

 パレードの終盤あたりから陣痛が始まり、かかりつけの団地の産婦人科に緊急入院を余儀なくされた。うとうととした明け方、泣き声とともに出生が知らされた。が、その直後の看護婦の言葉が嬉しさを一瞬にかき消した。

「お子様は体重が1000グラム少しの超未熟児です.すぐに未熟児の施設に運びますが、十中八九 無理だと思いますので、その覚悟と準備をしておいて下さい.」と。その準備とは何を意味するのかくらい、若い私にも十分に理解できた。「奥さんにはとりあえず内緒にしておいて下さい」と産科医は念を押した。

 看護婦が運転する軽自動車の後部座席に、わが子を抱えて乗り込んだ。1000グラム少しの超未熟児は人間の態をなさず、まるで少し大きめの肉の塊を両手で大切に抱えるように、コロニー(未熟児施設)へと搬送した。

その時、わが子のことで動転していてコロニーでのことはあまり覚えていないが、あとで思い返すと、ギョとする。頭がドテカボチャみたいに大きな子供、手や足のない子、顔や体がゆがんだ子など、日本以外の子供もいた。その愛知県コロニーは、たまたま当時、アジアでも有数な施設であったのだ。そんな施設だからかどうかわからないが、ともかく患者(娘)の名前がないと入院も処置もできないと言う。

「そりゃ、七ヶ月で生まれる子供に名前がついていなくったって当たり前じゃないか」といきり巻くが、相手はとりあわない。仕方なく区役所に走った。区役所の所員に事情を話し、とにかく仮にでも出生証明が欲しいと言うが、らちがあかない。考えていた名の候補を二~三あげるが、今度は当用漢字にないから駄目だという。時間が命を切迫するさなか、こちらにしてみれば名前なんてどうでも良かった。それならと、「当用漢字表をもってこいっ!」、「これとこれとこれっ!」と三文字を指さし名前にした。

義母との告別

 滅多にない郷里・宇部への出張。そのさなか、同じ宇部に住む義母が危篤状態で救急車に運ばれたとの知らせを受ける。折りしも、菅直人総理を励ます会が母校(宇部高校)同窓会有志で始まった直後の夕刻であった。とるものもとりあえず病院に駆けつけると、うろたえる義父とすでに息をひきとった義母がいた。享年、83歳。

 息子よりも娘たちよりも早く、私が一番に死に顔に対面することができた。生前、義母は子供たち以上に私を頼りにしていた。そんな義母が私を一番に呼んだのであろう。

 教員の義父を手助けする一方、義母は日本舞踊に一生をささげた。藤間流の名取であった義母にちなんで、栄華な晴れ舞台のパネル、扇子、衣装などをを式場に展示した。教室の生徒たちが式に列席し、しめやかに、つつがなく式を終えた。ただ、喪主である落ち込んだ義父のたどたどしい挨拶の姿が参列者の目を引いた。

 義母のただひとつ心残りは、無論、ひとり残された連れ添い、齢86歳の義父のことであろう。義母のこれまでの温情に報いるため、義父を見守り世話をすることが、残された遺族の仕事となる。

父から娘へのメッセージ(その二)

 「何よニコニコしちゃって!こんな時、たいがいの親は涙を流すものだよっ!」のちに、結婚式を編集したビデオを見ながら親戚一堂が私を非難した。式場で父親たる私が、終始、笑顔で娘のメッセージを聞いていたからである。

 「式の途中でも花嫁と一緒に、見上げてごらんを三番まで歌っちゃって.花嫁のオヤジってのはこういう時、だいたい後ろの方で静かにしていて、お酒を注(つ)いで廻るもんだよ」と非難が続いた。そういえばそうだ。しかし、別に泣くのを我慢していたわけではないし、無理してはしゃいでいたわけでもない。ただ単に、娘が結婚するのがうれしくて、楽しかったからだけである。

 思い返せば、息子より五歳年上のこの娘が長女として生まれたのは、昭和四十九年の秋のこと。折りしも、名古屋市内は久しぶりにセリーグ・ペナントレースを制した中日ドラゴンズの優勝パレードで沸いていた。高木守道や大島と握手せんとばかり、ごった返す群集の中に私たちもいた。

 紙ふぶきとテープが舞う栄の繁華街は、さながら織田信長の凱旋を思わす名古屋独特の派手さが感じられた。しかしあとで冷静に考えれば、妊娠七ヶ月の妻をパレードに無理やり引きずり出したのが、そもそもの間違いであった。

ご迷惑をおかけします。

ご迷惑をおかけします
明日、明後日と出張のため、休館いたします。

父から娘へのメッセージ(その一)

 娘の結婚式は両親への感謝の言葉というラストシーンを迎えていた。イベント業に勤める娘の職場の若者が企画した楽しい式がようやく静寂を取り戻した一瞬である。

 会場のうしろに両家両親が立ち並ぶ見慣れた場面、真っ暗な会場の中でスポットライトがお台の花嫁一身に当てられ、やがて娘が語り始めた。

「お父さん、お母さん、長い間ありがとう.小さなちいさな生命(いのち)を大切に育ててくれてありがとう.お父さん、大学生のとき、私に家を出て行けって言ったよね.あの時のことがなかったら、多分、今の私はないと思います.生きることの大切さ、生きていくことの難しさ、人のやさしさ、何も学べなかったと思います.家を出るときお父さん言ったよね.何をやっても良い.だけど、自分のやったことには責任もてって.その言葉を大切に生きてきました.お父さんの積極的で何にでも前向きな性格に私はそっくりです.これからも、厳しく、そして少しだけやさしく見守ってください・・・・・」

 娘が大学生の頃、家を出るときの言葉、実を言うと、正確ではなかった。さすがの娘も、これだけは晴れの舞台で言えなかったのだろう。

緊急! 菅首相に問う

 菅直人は宇部高の私の二年先輩である。私が入学した時、彼は高校三年生で、まもなく東京に転校したという。彼が郷里の長州を思う気持ちと同じように、私も長州の田舎侍を自負する。そんなよしみで彼を応援してきた。

 貴殿の政治姿勢に敬服もしてきた。とくに、橋本内閣の厚生大臣の時、原告団の前で土下座した貴殿の振る舞いは立派であり、今でも目に焼きつく。

 今回、鳩山代表の後任に立候補して当選した。もうすぐ第94代の首相に指名されるでしょう。

 鳩山政権の政治課題を継承するという。経済成長路線と財政規律、社会保障を同時に進めるという。しかし、考えてみれば、貴殿は鳩山政権の副総理兼財務大臣であったはずです。鳩山さんが普天間の件で思い悩んでいる間、防衛、外務の官僚に指南されている間、貴殿は何をしたというのでしょうか。政治と金の問題がとりざたされた時、どのような発信をされたでしょうか。

 副総理としてできなかったことが、総理となればできるというのでしょうか。ほんとうにその覚悟があるというのであれば、どうぞ、日本の再生を願った国民の希望を絶やさぬよう、もう二度と国民を失望させないよう、維新ならぬ平成の志士として、身を粉にして世直ししていただきたい。

父から息子へのメッセージ(その六)

 ロン毛の茶髪でギター三昧の大学生活を送った息子であったが、幸いにもコンピューター関係の会社に就職することができた。今では、いっぱしのサラリーマンとなっている。

 その後、ばついちの子持ちと結納を交わした。佐藤浩市似のいい男がよりによって、という気持ちがあったが、本人の気持ちを尊重した。が、結局、式の直前で破談した。彼の優しさが裏目になったようである。力量のない彼に背負わされたであろう将来の負担を思うと、親として正直、ほっとした。
 
 男子は誰も、いつか父を越えようとする。その時、あがきもがく。そして、自己主張を最大限に行い、ややもすると、自己の意思に反する方向に暴走する。自己主張する若者ほど、実は内向的でナイーブなのである。あれだけ昔興じた野球やギターは、今では話すら避けている。

 父はどんな局面でも真正面から向き合ってきたじゃないか。お前は学歴や資格、生き方などすべての面で、父に引け目を感じているようでもある。また、私と違って不器用で優柔不断でもある。しかし、そんなことは人間の価値とは一切、関係ないことではないか。まして、君には、私にはない、人間にとって一番大切な「優しさ」があるではないか。ただひとつ、男はどんな困難にも逃げてはいけない、と付け加えた。五月の連休帰省の折、こんな話をしながら、酒の勢いもあって互いに涙した。
                                   完


父から息子へのメッセージ(その五)

 大学生の息子を連れて、正月に石垣島に遊びに行ったことがある。ようやくお酒が飲めるようになった息子と、ホテルのラウンジでカクテルグラスを傾けた。

 ひとしきり昔話が出たところで、中学生時代のタバコ窃盗事件の時のことが話題になった。すると息子の口から意外な言葉が返ってきた。「お父さんがあんな形で僕をかばってくれたから、僕はグレなくて済んだ」と。

 ロン毛の茶髪の大学生である息子は、就職を前にしてギターに取り付かれていた。息子の部屋には何本ものギターが屹立し、大小のアンプがゴロゴロしていた。週末には決まって、市内のライブで演奏や練習をしていた。ギター仲間とのホームページも盛んであった。そんな息子も四年生の夏には、いよいよ就職の決断を迫られた。

 ロン毛の茶髪の息子と、久しぶりに茶の間で向き合った。就職どうする、ギターを続けたい、それだったら大学辞めてプロのミュージシャンになれ、そういった押し問答の末、最終的に「お前にとってギターとは何なんだ」と問いかけた。その問いに息子は、「僕にとってギターは趣味以上で、仕事以下だ」と、ほざいた。「冗談じゃない! 仕事以下ってものはすべて趣味に過ぎないんだ.世の中、そんなに都合よくできちゃいねぇんだ」と、久しぶりに吠えた。数日後、息子は母親にリクルートスーツを買ってくれと申し出たらしい。またその数日後、床屋に行って、ロン毛の茶髪をさっぱり切り落とし黒の短髪にした。遅ればせながら、息子の就職活動が始まった。

父から息子へのメッセージ(その四)

 息子が選択した大学は、自宅から通える私立の専門大学であった。はからずも父親である私の専門とも大きな枠で一致したが、別に推薦した訳でも勧誘した訳でもない。

 その頃、既に事業を独立していた私であるが、事業を息子に引き継ぐ考えはさらさらなかった。身内企業の難しさや失敗例を幾多も見てきたからである。まして、就職活動に際して、知り合いの会社にお願いしたりすることはなかった。女房は頼んでみたらと言っていたが、きっぱり断った。この就職難に非情な父親よと揶揄(やゆ)された私であるが、未勝利の息子をマイナスからスタートさせたくない思いがあった。

 しばらくして、息子が通う大学の学長に、知り合いの国立大学の教授が就任することになった。知り合いの業者から学長の就任祝いをしようと誘われて、新任学長になった教授と酒席をともにした。その教授は就任してわずか数ヶ月というのに、学生をすべて把握したとやる気満々であった。

 しばし歓談した後、その新任学長が「ところで、・・・」と私に話しかけた。「私んとこの学生に、珍しいあなたと同じ名字で、ロン毛の茶髪の学生がいるんですよ」・・・と。「あ、そりゃ、私の息子ですよ」と直ぐに切り返すと、学長は「世間は狭いものですね・・・」と、気まずそうに言って話を終えた。

父から息子へのメッセージ(その三)

 希望の高校に入れずに腐った日々を送っていた高校三年の夏の頃、ある日突然、息子は調理師になりたいと言いはじめた。何かのテレビドラマか漫画を見て板前に憧れたに違いない。

 それよりも大学受験からの逃避とも思えたが、本人はいたって真面目な口調であった。だったらと、高校の二年半が無駄になるけど、もっと無駄な半年の高校生活を過ごすよりも良いだろうと決断し息子にこう言った。「そんなに調理師になりたいのだったら、明日にでも今の高校を辞めて大阪の調理師学校に行くが良い」と。あくまで冷静に、なおかつ誠意をもって応えた。

 以来、調理師志望の話は途絶え、息子は自分の意思で大学受験を選択した。

父から息子へのメッセージ(その二)

 思えば、息子は小学校四年生の時から野球のリトルリーグの一員であった。今ほどサッカー熱がなかった当時、野球のリトルリーグは少年にとって最も盛んなスポーツであった。リトルリーグは野球に精通した地域の保護者が指導するチームであり、地域ごとにリーグ戦を組んで全国大会の出場を競った。学校のクラブと違うため、教育的指導から逸脱して、勝つことだけを目標とした。その一方で、自分の子をレギュラーにしたいという親のエゴが炸裂した。

 そんな中、六年生の卒業に伴うメンバー編成で、息子は背番号2の正捕手の背番号を獲得した。六年生直前の春季リーグで真新しい正捕手のユニホームを着た息子はハツラツとしていた。しかし、息子のハツラツした姿は長続きはしなかった。最初、元気のない息子を見て、練習がきついせいだと思った。が、ある日、久しぶりに試合を応援しに行ってその訳がわかった。息子は背番号2の正捕手の背番号を獲得しながら、六年生になった四月以降、一度もレギュラーで出ることはなかったのだ。息子に代わって、レギュラー捕手は背番号十一番の子であった。その子の父親が監督と親密なコーチであった。しかしながら、親のひいき目で考えてみても、息子より体が大きくガッツがあるその子の方が確かに正捕手として適任だと納得した。息子にとって不幸なのは、思わせぶりの正捕手の背番号を得たことだ。以来、息子の挫折の日々が始まった。
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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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