アナログへの郷愁






 仕事柄、よく観察する。観察の対象は、山であったり、岩石であったり、自然災害であったりと、いろいろである。時間をかけて観察すればするほどに、いろいろなことが分かってくるものだ。ただし、山も岩石も自然も、なにも喋ってくれないので、自ら山や岩石や自然の中に深く入り込み、よく観察して新しい発見をしなくてはならない。観察してスケッチして、さらにまた観察して、目の前の岩石の生い立ちや形成過程を思い巡らすと、いろいろと想像できてくる。深海で堆積した粘土と砂が海底地すべりによって大きく移動し、その後、恐竜がいる時代に火山爆発があって火山灰が積もり、さらにその後の断層活動によって地層がずれて今ここにある、といったようなストーリーが思い浮かぶ。そういう訓練と知識を積み重ねていって、ようやく精度が高い推理ができてくる。最終的には岩石の前に座って、岩石と会話できるようになれば一人前である。


 大学を出て入社したての頃、例えばダム建設予定地の地質を調べるために地方の現場に出張したとすると、「地質図ができるまで帰って来るな!」と上司に言われたものだ。それだけ、ちゃんと時間を掛けて観察して来いということだったのだろう。複数の社員で出張に行くと、夕飯の後、ワイワイガヤガヤとひとしきり人生論をぶちまけた後、深夜まで汗とインクの匂いの中で畳の上の地質図と格闘した。その精神を受け継いで、起業後も、社員には無駄を承知で自分で納得するまで徹底的にやるように指導した。その積み重ねが、根に足がついた真の技術力を磨き、ひいては人間形成に欠かせないと自負するところである。


 ところが時代が変われば変わるもの、今では余裕が全くない。「まだできないのか、適当に済ませて早く帰れ!」と上司から言われるのが関の山。社会全体、世の中のすべてがその調子である。新幹線や高速道路が整備されて泊まりの出張が少なくなる。必然的に出張先で会社の愚痴を言い合ったり、人生の議論をしたりすることもない。パソコンの急激な発達によって、なにもかもがあっと言う間に計算できたり、まとめたりできる。会話はメールかLINEが主流となり、実際に相手の目や表情を伺いながらの会話がなくなってきている。


 この発展した近代社会の恩恵に預かりながら、この情報社会の先端ツールにどっぷりと浸かっている身ではあるが、これではいけないという思いが強い。例えば私の仕事の関係で言うと、難しい計算を昔はすべて手計算でやっていたのが、今ではソフトを使って瞬時にできる。すごく便利な世の中なのだが、若い技術者は手計算でやった経験がないため、本質的にどのような計算をしているのか理解してない。計算する上の適用条件を把握してない。入力する値にどのような意味があるのか無知である。その結果、出力されたとんでもない値にも、おかしいと気づかないのである。


 技術に関わる問題だけではない。ライフラインが整備されてどこにでも短時間に行ける便利な世の中にあり、ギガからテラ、ペタへと大容量の情報社会の恩恵に与っている。しかし一方、地方ではかつては賑わった商店街がどこもシャッター通りと化し、人と人のふれあいが希薄になり誤解から摩擦になることが多くなっている。事の本質を理解しないで、メデイアに誘導された情報を信じる。ゆっくりと全体像を考えることなく、目先の数字にとらわれる。そもそも、人生とはなにかを考える余裕すらなくなっている。社会の効率化や迅速化に待ったをかけるつもりはないが、ときどきはスローの時間を持つのも大切だと感じるのです。人の話に耳を傾ける、各駅停車に乗って地元の人と触れ合う、大自然の中で過ごす、人それぞれの方法で、今一度立ち止まってみることも必要かなと。そうしないと、社会にも個人にも大きな落とし穴が待ち受けているように思えてならないのです。





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異端論者の礼節






 この情報氾濫社会においては、人はマスコミが流す選択された情報を正しい情報と思い、それによって世論が形成されていき、やがてそれがあたかも定説であり常識であると錯覚されていく。そのような中で、否そうではない事実はこうだと論じる異端論者は勇気がいることだ。


 例えば、FBでもお馴染みの某医師。自ら「キチガイ医」と名乗る彼であるが、著書のひとつ『精神科は今日も、やりたい放題:“やくざ医者”の、過激ながらも大切な話』という長いタイトルを見ただけでも、やくざ精神科医に劣らずとも勝って過激なのは彼自身であることが読み取れようというもの。彼の言いたいことは、大雑把に言えば、薬漬けの西洋現代医療に対する警鐘である。「断薬のススメ」、「輸血を受けてはいけない」、「1日3食をやめなさい」、「不自然なものを食さない」、「油を変えなさい」、「トクホを買うのはやめなさい」、「大嘘医学に騙されるな」などなどである。FBにおける彼の主張に多く人が賛同しシェアされる一方、多くの批判で炎上することもある。


 こちらもFBでお馴染みの某評論家。『本当はヤバい!韓国経済』がベストセラーになり、リーマン・ブラザーズ破綻、ユーロ暴落の事前予測、韓国ウォンの暴落などの先見的な評論をする。その一方、彼が主宰するWeb連載『経済記事にもうだまされない!』で辛辣な批評をし、著書においても『マスコミが絶対に伝えない「原発ゼロ」の真実』、『移民亡国論-日本人のための日本国が消える!』、『日本「新」社会主義宣言-「構造改革」をやめれば再び高度経済成長がもたらされる』、『中国との貿易をやめても、まったく日本は困らない』など過激な主張が多い。


 科学の世界においても、先ほど東京大学を退官されたアメリカの地震学者某教授。私がこの世界で最も尊敬する先生であるが、彼はその著『日本人は知らない「地震予知」の正体』において地震予知は不可能ときっぱり主張する。涼しい顔をしてもっともらしく地震予知をする多くの地震学者にとっては正に目の上のたんこぶである。たんこぶだけで済めば良いが、先生が無意味とする地震学者の地震予知をもとに莫大な国家予算を3.11後の防災計画に投じているという現実がある。


 これら異端論者の主張することの多くは、納得できるものが多く、よく調べれば調べるほど真実であるか、あるいは核芯を突くことが多い。異論を主張することの意義は計り知れないほど大切であり、一般論者と公開の場で意見をぶちつければ良いのだが、どうも日本はそういうことにはならないらしい。日本人特有の長いものに巻かれる的な発想もあるが、陰で企画しない大きな力があるようである。私が知る限りでは、このような企画は関西系の「そこまで言って委員会」だけである。


 ただ、異端論者にも警鐘を鳴らしたい。彼らの主張は真実か否かは別として、一般人にはセンセーショナルに受け止められる。独りよがりの意見に聞こえたりもする。また、著名人であればあるほど、世に与える影響も大きい。だからして、より吟味して中立的な視点を加えて冷静に主張していただきたい。大言壮語的な発言や記述に終始すれば、ただのキチガイ論者か偏見論者になってしまう。





ふるさと納税拒否症候群






 そもそも納税というものは、自分が住んでいてお世話になっている地域、起業して利益を得ている地域へ、その恩返しとして収めるのが筋です。ふるさと納税の趣旨を鑑みて少し緩めに考えてみれば、自分が育った地域やお世話になった地域、思い出の地域にお礼の意味から納税する、これもありかも知れません。


 しかしなんですね、何とか牛とか何とかフルーツ、はたまた温泉旅行付きとか、ありとあらゆる手段でふるさと納税を自治体が企画して、目ざとくそれに呼応する国民がいて、あぁ、得のためならなんだってあるんだと、悲しい気持ちになります。


 いえね、そういう私もそれに同調して興じたい気持ちがなくはないですよ。ただね、それが過ぎれればどうなるのでしょ。企画力が優れた目ざとい過疎地にそぐわない巨大なドームが建てられて住民税が安くなり、反対に名産品が少ない都市では自治運営が破綻するということになるのは必定でしょう。自治体運営というものを、国が手のひらで遊んでいるように思えてなりません。


 なんでもお金が動けば経済が闊達になるという考え方は、いかにもあさましく、所詮は姑息なやりかたであり、経済の風上に置けません。物事には筋と道理があり、それによって国や地方の自治や安全が守られていると考えますが、どうでしょう。こんな硬いことを言うから煙たがられるのかも知れませんなぁ。



ポケモン現象







 幻の偶像を追い求めて、まるで夢遊病者のごとく人が行き交い、集う。人はみなうつむいたまま、無口に、気ままな方向に。人と人が交錯しながら、ときに接触しながら歩む。所かまわず、時間かまわず、意味もなく、ただただひたすら歩き進む。


 ポケモンGO現象の象徴ともいえるこの情景に、なんとも世紀末を目の当たりにしたように感じる。現実の人生に夢を追い求めるわけでもなく、現実の課題に果敢に挑戦するわけでもない。ただただ現実から逃避し、貴重な時間の多くを虚偶という罠に興じる者たちを見て、呆れる気持ちを通り越し、腹立たしくもあり、嘆かわしくもある。


 私は他人の趣味嗜好に一言の文句もつけるつもりはない。勝手といえば、人の勝手。とやかく言う筋合いはないし、ましてや、いい悪いの議論を起こすつもりもない。だから、あえてこれを容認した上で言おう。他人に迷惑かける行為に対する責任の所在を明確にして、罰則を規せよと。そして、それによって生じる本人の被害に情けは無用だと。


 広島や長崎の平和記念公園や原発敷地内、その他重要な公共施設などにポケモンが現れないよう、関係各機関が開発会社に要請したと言う。そもそも開発時点で混乱や事件に繋がりかねないことは十分に予見できた筈である。なのに、開発会社や販売会社に社会的責任はないのか、それを罰する規範はないのか、はなはだ疑問である。


 鳥取砂丘でゲームに興じる人に、熱中症に気をつけてくださいとアナウンスされているとか。これって、必要でしょうか。意地悪なようですが、熱中症になればいいし、街の中で電柱にぶつかって怪我をすればいいと思うのですが。日本という国はどこまでお人よしなのかと、つくづく思う、自称、ゲルマン系日本人であります。




入学の季節に思う







 朝駆け、夜なべが続いた3月の繁忙期を過ぎ、今はぽっかりと穴が開いたような空虚な時を過ごしている。気がつけば、いつの間にか春の装いとなり、桜が開花し、世の中は新しい年度を迎えて準備が進んでいる。


 娘の休日勤務に合わせて、わが家でお泊り保育を続けてきた孫娘も6歳となり、ようやく保育園を卒園し4月から小学生となる。それに合わせて、ランドセルや学習机、制服と準備してやったが、これらがどれもこれも随分と高価なのに驚いた。


 例えば制服は安いものでも3万円代、高いものになると8万円代である。オーストラリアやニニュージーランドから輸入した生地を、丈夫で長持ちさせるため国内で丁寧に縫製するから高価になるらしい。その制服が買えない人が多いため、地域によっては使い古したものを新品同様に再生して新品の半値以下で売っていて、これがすこぶる盛況なのだ。


 小学校の新1年生は学問の最初の門出。制服にしてもランドセルにしても、せめて新1年生にはみなに等しく与えたいと切に思う。制服もランドセルも買ってもらえなかったわが身だからこそ余計にそう思うのかも知れない。今時の若い夫婦は共働きが普通であり、シングルマザーも多い。四苦八苦の生活の中でも、わが子の門出を祝ってやりたいのは誰も同じ。みなに等しく祝ってやれる仕組みはないものか。


 先日、待機児童に関するSNSの投稿が世間で話題となり、国会でも取り上げられていた。投稿記事は短絡で乱暴すぎる表現であるが、その気持ちは痛いほどわかる。一億総活躍社会の実現のためには、まず働く女性のサポートが第一ではないのか。東京オリンピックも北海道新幹線もそれはそれでいい。新国立競技場建設費を少し削るだけで、待機児童の問題は解消され、新1年生への制服とランドセルの無償配布が実現するのに。一億総活躍社会の実現というスローガンは一体、、何なのか。




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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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