世の趨勢と個の生き方





 ワールドカップで日本中が沸き立った。しかし敗退が決まると、世間はなにもなかったかのように日常をとりもどす。少し前は、ラグビーの悪質タックル問題を長引かせ、ああだこうだという展開を見聞きした。そしてその少し前は、森友・加計問題に政治が翻弄され、その前は・・・・・。


 スポーツ、政治経済、芸能と、ジャンヌに関係なく、そのときどきの話題に国民は一喜一憂し、世の趨勢の波に泳がされている。いわば、我々は無意識のうちに、メデイアという手品の術の中で踊らされる毎日を送っているのだ。


 メディアという巨大な手品の中に身を置く現代、ともすれば術中に浸り、メディアが発信する情報だけで世の趨勢を認識する。果たしてその情報は正確なものなのか、公平なものなのかを吟味するでもなく、鵜呑みにしている自分がいる。


 そのことに気づき、ふと立ち止まり、自身でどう生きているのかを考えると、自身の存在がないことに気づく。自身が、己の一度しかない人生の主人公であることを、まったく忘れてしまっているのだ。


 たとえば、道端の花の美しさに感動したり、自身の趣味が少しずつ向上したり。食や味の堪能があったり、技術が少しずつでも進歩したり。苦労して山頂を制覇したり、よれよれでもマラソンを完走したり。なんでもいいのだが、世の趨勢よりも自身が主人公で生きることの方が、どれだけ大切なことかを認識したい。


 今からでも遅くない。残りそう多くない時間を、自身が主人公の人生を送ろうと決意する。老いや病に逃げないで果敢に立ち向かい、今日という日をすこしでも充実したものにしたい。常に前向きに、日進月歩を感じる日を送りたいものである。



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「高考」に考える幸せ論






 中国における、通称「高考」と称される大学統一入学試験の異様さを見聞きするにつれ、ほんとうにそうなのかと、眼と耳を疑う。受験生にとって、その後の人生が決まるこの一大イベントがある6月上旬の2日間は、まるで戦時下か非常事態宣言下のように伝えられる。


 受験生がスムーズに試験会場に到着するため、試験会場周辺は車両交通止になるなど、交通規制が実施される。会場周辺は、騒音がでるすべての工事が禁止される。タクシー会社は予約専用回線を設け、会場周辺のホテルは数ヶ月前から予約満席となる。親は勤め先を休み、校門は受験生を上回るおびただしい親たちでごった返し、試験会場に入るわが子を見届け、終わるまで待ち続ける。


 半端ない数の警察や警備員が配置され、予期せぬ事態に備える。受験票や身分証明書を忘れた生徒のために、取りに行って届ける白バイが待機する。試験会場に入る際は、カンニング防止の厳しい検査が行なわれる。金属物は一切身につけることが禁止される。ズボンのチャックや女性の下着が引っかかって入場できないケースが続出する。まるでアメリカの空港の検査より厳しいと揶揄される。


 急速な経済発展と、その裏腹に一人っ子政策を推し進めてきた中国。子ども社会での競争が増し、いい会社に就職して高い収入を得るために、苛酷な学歴社会が形成されていく。格差が激しい中国において、「高考」は人生たった一回きりの夢の扉を開くチャンスである。


 そのために、親も親族もお金と時間を惜しまない。まず名門校学区のマンションを通常の数倍の価格で購入する。受験生の子どもには家事どころか、身の回りのことすらさせない。通学の送迎は当たり前。「良い成績を取ってくれれば、あなたは何もしなくていいから」というのが、大半の親のセリフという。両親とその父母の6人の大人に、1人の「小皇帝、小公主」が大事に育てられる。


 その結果、勉強の重圧と親の期待に萎える生徒が続出し、学校には心理カウンセラーが設置される。それでも、精神的に耐えられなくて自殺する生徒が跡を立たないという。総じて「わがまま」で「自己中心的」で「コミュニケーションが取れない」若者集団が形成されていく。果たして、こうした社会現象の中に生き抜く若者が、将来の中国を支える柱となるのであろうか。


 その中国では「勉強と人格、どっちが大切?」「勉強だけできて、何になる?」という議論があるそうだ。その際、日本が引き合いに出される。去年の秋、日本の小学校での給食の様子を撮影した録画が中国のネットで大きな話題となった。料理を運ぶ様子から最後のお片づけ、掃除まで、当番の生徒を中心にクラス全体が協力して行う。そして、食べ物を残さずきれいに食べる様子に、多くの人が驚き、感動したという。


 「高考」という試験制度が象徴する現代の中国の社会制度や国のあり方をみるに、今後の中国の将来はどうなるのか危惧する。ただ、これは隣国だけの問題ではない。程度の差はあれ、かつて日本も受験地獄を経験した。私の時代の団塊の世代である。私の場合、中学校は1クラス60人、1学年25クラス。進学校では2学年ですべてのカリキュラムを終わらせ、3学年は受験勉強1筋。高校の中に予備校があり、生徒会で文化祭も修学旅行も拒否した。高校3年間の思い出は、相手を振り落とす以外に意識はなく、楽しいこともなにも記憶に残っていない。


 そのような環境で育った団塊の世代が、その後の人生において、弱者を支える、慈しむ心、自然を愛でる、そんな気持ちに容易になれなかったのは間違いない。競争社会の荒波を経て、今ようやくそのような気持ちを持てるようになったが、それは時既に遅く、不幸なことであり、国としても大きな損失である。その後、ゆとり教育、女性進出、働き方改革など、その時々の政府が大きく舵を切ってきた。しかし今になって思う。最も大切なことは、国民ひとりひとりが、どのような人生が幸せなのか真剣に考えることだと思う。そして、国任せではなく、国民自らが自身の信念に基づいて人生設計を選択することであろうと。




努力と成果





 サントリーの「プレミアムモルツ」というビールがある。正式には「ザ・プレミアム・モルツ」と言うらしい。この夏、お中元にその「プレミアムモルツ」をいただいたのだが、どうにも飲みなれてないため、のしが付いたまま放っておいた。が先日、いつの間にか1本だけ冷蔵庫にあるのを見つけた。「溢れ出す華やかな香りと深いコク」が謳い文句のその高級感漂うビールを恐る恐る口にしたが、さほど美味しいとは思わなかった。その感想を友人に話すと、「なんて失礼!起死回生をかけて頑張って作ったサントリーの人々の苦労を知らないな」と叱咤された。「苦労したかどうかは別として、不味い物は不味い」と内心、思った。


 いつもは、「のどごし」や「グリーンラベル」といった安いビールを美味しく飲んでいる。嗜好の問題だから誰がどれを美味しいと感じるかは千差万別。ただ、価格も関係する。「プレミアムモルツ」を美味しいと思っても手が出ない人もいるかも知れない。私みたいに舌が肥えていない輩もいよう。そこで、どんなビールが売れているのか、ちょっくら調べてみた。 ビール系飲料の売れ筋ランキングの1位は「のどごし生」(キリンビール)である。2005年発売以来11年連続ナンバーワンという。2位以下は、「アサヒスーパードライ」(アサヒビール)、「クリア」(アサヒ)、「一番搾り」(キリン)、グリーンラベル(キリン)、「麦とホップ」(サッポロ)と続く。


 ビールの味自慢はさておき、ここで問題にしたいのは、起死回生をかけて頑張ったとしても必ずしも売れ筋にはならないということだ。努力すれば努力したほど良い成果が生まれるとは限らない。毎日、深夜までバットを振っている野球選手だって、試合で結果が出なければなんにもならない。私の仕事でも同じだと思う。地質を調べて報告書を提出するのだが、時間をかけて丁寧に詳細に作ったと思っても案外、評判が悪いことがある。逆にそんなに手をかけていなくとも、「このポンチ絵分かり易いね」、「素人にも分かるね」と高い評価を受けることもある。また、自他ともに立派な成果が作れたとしても、請求書を見て驚嘆し、客を失うこともある。


 成果が芳しくなかったとき、人は、こんなに努力したのにと嘆く。しかし、その努力は自己満足に過ぎない。顧客が満足する品質と価格こそが正解であり、目的がそこにある以上、それを達成するための努力の方向性を吟味すべきである。無論、顧客の満足を得るための努力は必要であるが、結果として成果が芳しくないということは、努力の方向性が間違っているということになる。努力と成果は比例しない。がむしゃらな努力より賢い努力を選択したい。ただ、ときどきは、成果に直結しないが、とことん追求する努力を遊び心でやっている。




黄昏の抗い






 なにが不満というわけでもない。贅沢してないが今の恵まれた余生に満足もしている。それなのになぜなのか。


 ときどきは外で美味しいものを食べたいと思う。でも、家で食するひじきやごぼう、白菜の漬物の生活に馴染んでいる。それなのになぜなのか。


 たまに旅に出たいとも思う。だが、馴染んだこの地でゆっくりと過ごすのが心地いい。それなのになぜなのか。

 高望みしているわけでもなく、今の生活に満足している。それなのに、これでいいのかと、ふと思う。


 負けたくないとがむしゃらに頑張ってきた人生。大方は勝利したと自負する。だが、今思うと、そんなことは価値のないことだと思う。


 お前は現状に満足していいのか。お前はほんとうに、この人生でやり残したことはないのか。そう、自問自答する。


 紳士ぶった顔して、実は私は不道徳者だと思う。偉そな振りして、さして頭も良くなく、さりとて腕力も体力もない。臆病者で、それでいて片意地を張る。


 この歳にしてまだ地団駄踏み、歳をかえりみずにまだなにかリアクションを興そうとしている。まだ燃焼しきれてないと見栄を張る。


 心の中で叫ぶ。畜生!畜生!と。世間や社会や人に対してではなく、自身の不甲斐なさに対して。夢や目標を忘れようとしている吾に対して。そして安穏としている自分に対して。そういう自分が悔しいのです。涙がでるほど悔しいのです。


 行き着くところ、一体、人生にとって一番大切なこととはなんだろうか。



意識して体で覚える





 メタボ予備軍という健診結果がきっかけでスポーツジムに通い始めて、もうかれこれ3年経つ。厳しいトレーニングの甲斐あって、今ではメタボの面影は微塵もない。ただ、一番に効を奏したのは、厳しいトレーニングよりも何よりも、普段からの意識なのだと今では思う。普段から背筋を伸ばし、常にお腹を引っ込める、そうした意識をもつことなのだと。


 長い間、筋トレを暗中模索で継続してきて、ようやく掴んだ感触。それは、トレーニングする体の部位を意識し、可動域を広げて、ゆっくり行うことである。例えば胸の筋トレの場合、両腕をできるだけ広げた状態から、胸を意識しながらゆっくりと挟み込む。少し軽めのウエイトでゆっくり10回を1セット、5セット位行う。
 

 ほぼ毎日、ランナーマシンで5km走っている。最初の間は超ゆっくりで走っていたが、それでもきつかった。1年間継続して、時速10kmで30分の記録が出た。しかし、そこが限界で初めて知る。継続的に同じスピードで走れることが大切であることを。ゆったりした走る姿勢と呼吸が大切であると。金哲彦先生著「ランニング・メソッド」には肩甲骨を使った走り方が記されている。最初は理解できなかった。でもランニングを継続してみてわかった。時速8 kmを9kmにスピードアップしても、腕を振って肩甲骨を使えば、推進力が上がって8 kmと同じペースで走れることを。


 スポーツに限らず、私の好きなギターにしても、ライフワークとする学問にしてもそうだ。上達の基本は書物の中にあるかも知れないが、実際に上達に導くためには体で覚えるしかない。頭であれこれ考えても駄目だ。実際にやってみて、訓練に訓練を積んだその後に、実感として得られる感触、それがひとつ壁を乗り越えることができた成果なのだ。ヒントは机上の頭にあらず現場の体にあり。


 「生きる」においても、生きる目的のために、苦労し汗をかいて、初めて生きている実感がつかめるというものだ。そしてなによりも、「生きている」という実感と意識が人生にとってとても大切なのだと思う。 




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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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