サッカーは格闘技である




 ブーイングが鳴り止まぬ中、時間稼ぎのパス廻し。その10分間、もどかしい思いや嫌な気持ちを抱いて見ていたのは、私だけではなかろう。試合が終了してトーナメント進出が決定した瞬間、ホッと胸をなでおろす一方、「なんだかねぇ~」との思いが残る。


 各国メデイアはこぞって痛烈に批判する。「茶番」「滑稽」「信じられない消極的な戦術」「次のラウンドでボコボコにされればいい」・・・・・・・・。日本人の中にも、「恥ずかしい」「日本文化に反している」と非難する向きもいよう。


 しかし、冷静に考えてもみたまえ。そもそも、サッカーはフェアプレーな競技であろうか。相手を蹴ったり蹴ろうとする(キッキング)、相手をつまずかせたりつまずかせようとする(トリッピング)、相手に過剰な力でぶつかる(ファウルチャージ)、ボールに触れる前に相手にぶつかる(ファウルタックル)などなど。


 これらはサッカーの規約に列記とあるファウルの1例だが、「蹴ろうとする、つまずかせようとする」という予備行為すらも本来、ファウルなのである、また、故意行為でなくともファウルなのである。そう考えたとき、果たしてファウルはどれだけ正当にジャッジされているというのか。


 フリーキックとPKの判別、イエローとレッドの判別、審判による個人差もあるが、決定的な問題は、審判の数の少なさである。あの広いグラウンドにたったの3人のサッカー。方や、あの狭い土俵周りに行司を加えて6人の審判の大相撲。サッカーの審判密度は大相撲の実に1000分の1なのである。


 そして、今最も問題になっているのが、技巧工作の偽ファウルである。シミュレーションと言われるものである。押されてもないのに押されたふりをしてわざと倒れる。ブラジルのネイマールを見ていると、実に巧妙な演技でファウルを獲得している。


 サッカーグラウンドは今、ファウルのやりたい放題、見逃し放題である。今やファウルは判定されるものでなく、技巧工作で判定させるものになっているのだ。相手のユニホームを掴み合うは当たり前。ハンドも見過ごされる。わからないように相手に足をかける。倒されたふりをする。曖昧模糊でやりたい放題の格闘技がサッカーなのである。


 そうしたサッカーであっても、ただひとつ、確かなのは「ルールはルール」ということだ。フェアプレーによって進出をきめたのだから、日本選手を胸を張ればよい。少しも臆することはない。次のラウンドでランキング3位のベルギー相手に勝利して見返してやるがいい。セネガルのシセ監督の「フェアプレーによって敗退が決まった。これもルールのひとつだ」の談話は実に潔い。




スポンサーサイト

メダルへのそれぞれの思い






 連日の日本人選手の活躍に眼が離せない平昌オリンピックであるが、中でもメダルを獲得した選手の表情は、それぞれにその思いが伝わってくる。


 羽生選手は怪我が完治していないことを最後まで自身の中に収め、それでも怪我を乗り越えて滑り終えたという達成感が満ち溢れていた。怪我が完治していないという事実よりも、それを隠して滑りきらないといけない使命の方がどれだけ辛かったであろうか。それを乗り越えての金メダルは、彼の類稀な精神力と努力の賜物である。神がそれに応えたとしか考えられない快挙である。


 対照的なのが銀メダルの宇野選手である。「最初の4回転失敗に笑えた」の言葉どおり、まだ恐さ知らずの飄々とした態度である。オリンピックやメダルに特別な想いもなく、戦う相手を全く気にせず、欲も何もないあどけなさが残る。そこに彼の伸び代を大いに感じる。


 一番に感動したのは小平選手である。金メダルに最も近いと評されてそれを実行することの凄さに敬服するが、それ以上にうならせるのが彼女の沈着冷静な態度である。金メダルを獲得した笑顔に奢りも誇らしさもない。自然体のあの笑顔は、普段どおりにすれば勝てるという自信の表れである。そして彼女の凄さは、自身の金に酔いしれるのではなく廻りへの気遣いである。次の滑走の邪魔にならないよう、サイレントを観客に求める。銀メダルに終わった韓国選手を励ます。隅々にまで気遣いする態度は金以上であり大いに感銘した。


 メダルを獲得した選手のそれぞれのメダルへの思いを私自身に反映させたい。メダルを獲得した選手も獲得できなかった選手も、凄まじい努力をしてきたことを想うと敬服する。少しでも不遇な環境だと愚痴を言って努力を止めていないか。身体が思うに任せないと自棄になっていないか。自身のことばかり考えて廻りの人のことに気配りしているか。オリンピックを見て、私自身の言動の質を向上させたいと思う。



広島カープの優勝に寄せて





広島の地の人間ではない

原爆に関わることもない

最初から応援してきたわけではない


それでも長くここ広島に住みつき

樽募金の時代からの貧乏な歴史を聞くと

目頭が熱くなり応援したくなるのが人情


お荷物で弱小チームと揶揄されたチームに

それでも孤高に異常なまでの熱烈な応援をし続けてきた

そんなファンに頭が下がる思いでいる


そんなチームが真赤激の旗印のもとに

若いヒーローとベテランが駆け巡り

25年振りのリーグ優勝を目前にしている


いま広島は真っ赤に染まっている

この赤は涙の赤であり執念の赤でもある

燃え滾った心の赤でもある


選手は決して器用ではない

ただ広島を思う気持ちと心意気は半端ない

金だけではないと吠え続けてきた


そんなチームとファンを祝福するVである

素直に喜び

素直に祝福して祝杯しよう








カープ

人はなぜ走るのか





 出張や多忙の日以外、ほとんど毎日、スポーツジムに通っている。仕事を遣り繰りしては、仕事の合間を見つけては、約2時間のジムの時間を作る。最初は一日一膳、体に何か良いことを、との思いであった。それにその頃はメタボ予備軍解消が大きな動機であった。

 通い始めてやがて2年になる。惚れやすの飽きやすの私がよく続いたものだと、我ながら感心する。さてその成果は、体重は59kgが55kg台に、ウエスト82cmが77cmまで絞り込み、体脂肪率10%代で落ちついている。お陰で着れなかった背広やジーンズがはけるようになった。

 ジムではストレッチと筋トレをやった後、ランニングマシーンで仕上げる。最初のうちは5kmを6km/hの速度で歩いていたが、徐々に速度を上げていき、1年前から9km/h前後の速度で5kmを33分から34分かけて走っている。昨年の正月、5km30分切れを目標にしたが、年末までついに達成できなかった。そこで今年の正月、再度同じ目標を立てた。そして先日、ついに達成できた。実に1年と2ケ月振りである。

 走っていて楽しいと思ったことは一度もない。今は5kmを私としては全速力の10km/hの速度で、30分で完走するのが限界である。走ってる途中、テレビを見ながら走る余裕はない。音楽を聴く余裕も水を飲む余裕もない。10分も走るとまず頭皮から汗が出てくる。次いで額、首筋、背中と汗が廻る。20分過ぎには、拭いても拭いても滴り落ちてくる。いつ倒れてもおかしくないとも思う。でもほんとうに限界なら、目の前のSTOPを押せば済む。

 息絶え絶えに完走する頃にはシャツもパンツもタオルも汗でびしょびしょになる。徐々に速度を落とすが5分も過ぎないと心臓の鼓動は鳴り止まない。ようやく水分補給する気になる。水分を口にすると、五臓六腑の隅々にまで浸透し、その全量が一気にドバッと汗となって全身の皮膚から出る。これぞ新陳代謝の極みと感じる。徐々にクールダウンして5分。ようやく完走できた達成感を感じる。

 5kmですらこんなにきついのに、42.195kmのフルマラソンを完走する人は、私にとっては尊敬する雲の上の人である。だって、私の全速力の10km/hの速度を維持して仮にフルマラソンを完走できたとしても、4時間13分かかるのである。だからフルマラソンを2時間台で走るというのはどれだけ驚異的なことか。

 今や、マラソンブーム。どこの公園でもジョギングやマラソンをする人を見かける。では、フルマラソンを走る彼らはなぜ走るのか。どのランナーもきつかろう。なぜそんなにきついマラソンを続けるのか。必ずしも体に良いとは思えない。ただの有酸素運動とも思えない。

 そもそも、なぜ人は走るのか。達成感とか満足感だけでは片付けられない何かがあるのかも知れない。ただ言えることは、私の場合、走った後の旨いビールを飲みたいからである。それに私は煩悩だらけの人間である。煩悩にまみれているからこそ、無心を求めて走っているのかも知れない。





ジム
(スポーツジムの写真をお借りしました)

日本人とサッカー




 こんなことを書くと非国民だと叱られそうだけど、それでもあえて言いたい。日本人というのは何て楽観的というか、ボジティブな国民なんだろう。つくづくそう思う。今、日本も世界も白熱するワールドカップにおけるザックJAPANの試合予想のことである。

 はっきり言って、初戦のコートジボワール戦の前から、私は今大会の日本を全敗と予想している。無論、私だってザックJAPANに勝ってもらいたいし、是非とも1次リーグを通過してもらいたい。それは山々であるが、冷静に分析すればするほど悲観的にならざるを得ないのだ。別にFIFAランキングだけの話ではない。フィジカルな面、メンタルな面、あらゆる面で大きな差を感じるのである。

 フィジカルな面でどうしても劣勢な日本が勝つためには、点を与えない堅守と速攻のサッカーしかないと私は常々思う。それをあえて攻撃サッカーを目指すというなら、それもよかろう。だったら、多少のリスクを覚悟でも前線を押し上げないといけないのだが、コートジボワール戦では逆に尻すぼみしていた。前に進まないどころか、一人でねじ込んでシュートする選手もなく、守りもサイドが完全に破られていた。これでは攻撃サッカーどころか守りのサッカーもできていない。

 もともとサッカーはある種、格闘技だと思う。あの広大なピッチに審判員は主審1人、副審2人の3人しかいない。あの狭い土俵下に5人の審判員がいる大相撲と比べればその違いがわかるというもの。個々の細かいプレーまで見ちゃいない。いわば無法地帯の暴力劇が行われているようなもの。だからしてフィジカルな面が優位性を発揮するのである。

 サッカーの審判員が10人程度に増員されるとか、反則行為をさらに厳しくするとか、違反行為をビデオによる可視化によって判定する時代になれば話は別。しかし今のルールが続く限り、日本人が世界のサッカーと肩を並べるには頑強な体力作りしかないように思う。

 楽観的でボジティブなことは悪いことではないが、もう少し冷静な判断も必要なのではと思う。一過性のサッカー熱に終わらずに日本サッカーが世界で躍進するためには、ファンも国民も冷静な視点で厳しく選手を見守ることも大切である。日本人にとって世界のサッカーはまだ50年早い。そんな気がするほど、サッカーの歴史の重みの違いを感じるのである。





(悲観論者の弁)

プロフィール

geotech

Author:geotech
geotechのブログへようこそ!

団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
blogram投票ボタン
フリーエリア
シニア・ナビ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR