核の矛盾




 北朝鮮が行った5回目の核実験に対して国際社会の非難が高まっている。安全保障と国際社会の平和と安定への脅威であると各国が非難し、日本政府はアメリカ、韓国と協調して北朝鮮への制裁を強化する構えである。


 しかし制裁といっても、中国が裏で支援している以上、何も変わらないのです。北朝鮮にとっては制裁は痛くも痒くもなく、間違いなく今後も核実験を続ける。北朝鮮を国際社会から孤立させるという手法とて、中国とロシアの反対では骨抜きなものになることは必至。もはや国連は不要で無意味な存在と化している。


 北朝鮮を核保有国として認めないアメリカであるが、認めようが認めまいが、北朝鮮の核保有はもはや現実である。核は既にアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国が保有し、インドとパキスタンも保有を表明している。


 核兵器のない平和社会を実現しようといくら叫んでみたところで、核兵器先制不使用の宣言すらできないのが現実である。核不拡散、核兵器撲滅に関するどのような提案も、どれもこれも綺麗ごとで説得力はない。


 なぜ説得力がないのか。少し冷静に考えてみらたすぐにわかる。核保有国が非難するから説得力がなく、自ら保有する核を手放す決意もなく相手を非難するから説得力がないのである。北朝鮮からしてみれば、自分は持っていて相手に持たせない、それはないでしょ、と思うのは当たり前。ピストルを持っている相手からピストル持つなと言われて、決闘しかけられているようなものである。


 北朝鮮を核保有国として認めないアメリカの態度は、手のひらで太陽を隠そうとしているようなもの。核不拡散、核兵器先制不使用に関してアメリカが毅然とした態度で対峙し、決死の覚悟でもって率先して行動する以外に解決の道はないと思う。


 アメリカが過去に繰り返してきた核実験は許されるというのか。なぜ北朝鮮が核実験を行ったらいけないのか。先に核を保有する国が核を手放さなさず、相手には保有を認めない。核の矛盾についての根源的な議論をしない限り、核のない平和の実現は無理である。




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空虚な自己責任論





 世界の誰もが今最も危険と認識する地域に、国や周囲の警告や抑制を振り切っての入国。どのように崇高な目的を掲げようとも、どのように敬虔なる実績があろうとも、所詮はそのことで糧を得る目的の一民間人の行動である。しかも、自身でも事前に、何があってもこの行動の結果は自己責任であると言って出ている。いわば覚悟の上の行動である。

 それでもである。拘束されて人質になったとなれば、国は総力をあげて救出するための行動をとらざるを得ない。それこそ、国のトップが不眠不休の救出作戦を展開する。少なからず国の行政にも影響を及ぼすであろう。秘密裏に、解決のために莫大な国家予算が投入されることもある。自国のみならず、世界がそのことで翻弄させられる。

 もういちど確認しておくが、これは組織への攻撃の最中に相手に拘束されたものではない。平和な都市での自爆の犠牲になったものでもない。安全と思われる場所での拉致の話でもない。ただの一民間人が自己責任を覚悟の上で最も危険な地域に入ったことによる事件である。

 世界は「断じて許せない暴挙である」と相手組織に強く抗議する。確かに相手の行動は許すことのできない暴挙である。しかし当方の行動だって無謀と言わざるを得ない。「命は地球より重い」「命は金に代えがたい」と、まことしやかに言われる。一民間人の無限なる無謀な行動であってもそうなのか。無限なる無謀な行動の結果に対しても、国や世界はこれほどに多大な犠牲を払わないといけないのか。それでは一体、自己責任という論拠はどこに消え失せたのか。

 人によっていろんな意見があろうと思う。この危険な時代であるからこそ、もう一度、「自己責任」のあり方について考えてみよう。この文は議論のためのひとつの叩き台として紹介する。




Gゼロの世界



 アメリカ大統領選の結果が今日にも出る。しかし、オバマが勝利しようがロムニーが逆転勝利しようが、アメリカの経済情勢に大きな変化はない。もはやアメリカには、経済力に裏づけされた、かっての世界におけるリーダーシップはない。

 国力の指標なるものは、経済力と軍事力と言っても過言ではない。軍事力に劣る日本は経済力でもって世界に台頭してきた。アメリカが牽引するG7やG8の一員として世界に羽ばたき、経済発展をとげた。しかし今や、頼りにしてきた牽引役のアメリカは存在しない。さりとて、西を向いてもユーロが危うい。

 そうした中にあって、好むと好まざるにかかわらず、中国が目玉となるのは間違いない。今や中国の経済力は日本を抜いて世界2位であり、いずれアメリカを抜いてトップになりかねない勢いである。

 しかし、巨大なエンジンをかかえて爆走してきた中国であるが、ここにきて曲がり角にさしかかっている。これまでハンドルを切ったこともなく、ブレーキを踏んだこともない中国である。共産圏における自由経済という矛盾を抱え、これに経済の停滞が加わると、危ういことこの上ない。

 すなわち、今世界はリーダー不在のGゼロの世界に突き進んでいる。Gゼロの世界とは、どの国にもチャンスがある一方、リーダーによる管制がなされない無秩序の世界でもある。したがって、戦争という2文字がどうしても現実になることを想像させるのである。今世界のどこで戦争が勃発してもおかしくない状勢にあると考える。

 では、このGゼロの世界にあって、日本の歩みゆく道筋はどうあるべきなのか。中国が領土問題や歴史問題についてやがて矛を収めるであろうとう甘い認識は捨てるがいい。いざというときはアメリカが守ってくれるという風な楽観論も禁物である。日本が歩むべき道は、技術力に立脚した経済力を取り戻すこと以外にないのではないのか。先進技術、医療、新しいエネルギーの開発、ライフラインの企画、新時代の文化芸術の創造など、テーマは限りがない。

 だからして、解散総選挙だの国会審議などと内輪もめしている場合じゃないだろう。そうこうしている間でも、科学技術に携わる者は日夜懸命に努力していることをお忘れなきように。せめて、口出さず金を出せと願うばかりである。




拙速

 「拙速」とは、“仕上がりはまずいが仕事が速いこと”を意味する。中国の列車事故はまさに「拙速」そのものである。世界の誰もが「やっぱり」と思ったこの事故。メンツで急いだ中国の高速化が重大事故のツケとなってわが身に返った。

 半世紀をかけて新幹線網を築いてきた日本に対して、中国はその4倍もの距離を数年で成し遂げた。それも、他国の技術を継ぎ合わせての突貫工事である。他国の事故を笑うのは品位に欠けるが、最近の中国のやり方を思えば、少し冷ややかな視線を浴びせたい気にもなる。

 日本の鉄道技術は満州鉄道から100年もの蓄積がある。それを数年で盗もうとする姿勢。さらには、それを我が技術として特許まで取ろうとする姿勢。こうした中国のやり方に腹立たしさを覚える。

 しかし、この事故は皮肉にも「日本の技術は盗まれていなかった」ことを証明したわけである。技術とは知識ではない。技術とは経験とそこから生まれるノウハウである。何度も何度も失敗を繰り返していくうちに、技術は醸成されていく。どこの教科書にも書かれていない。中国の事故を見て、日本における技術継承の尊さを改めて思うものである。

 中国の「拙速」はこの事故に留まらない。開放政策に始まった中国の発展は、多くの矛盾を抱えたまま、あまりに急速に行われてきた。国による思想監視、情報管理への不満は国民の中にに確実に浸透してきている。そしてこの事故である。事故を契機に国への不満が一気に噴出するであろう。
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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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