男と女の愛・優しさ






 男からみて女の考え方や行動に腹が立つことがあっても、それは同じ人間だと思うから腹も立つのであって、女という動物だと思えば腹も立たない。逆も真なり。女からみても男という動物だと思えば、男の考え方や行動に腹を立てずに済むのである。男女の人間関係が窮地に立たされた折々、私は経験則からそのように考えるようにしてきた。曲がりなりにも人間関係を続行したければ、そう考えた方が楽だからである。


 断っておくが、この考え方は決して男尊女卑、女尊男卑とは関係ない話である。男と女はそもそも生理的に違う生き物だから、考え方や行動が違って当然だという基本理念に基づく。そしてこの考え方は、男女に限らず職場の人間関係や近隣、友だちとなど、あらゆる人間関係にも応用できる。そもそも生まれも育ちも、長年生きてきた環境も違う相手と意見の違いがあったとしても、それは至極当然なことであるという悟りの境地である。それでもって、初めて相手の意見を聞く耳が生まれるというものである。


 その女という動物とそこそこ恋愛の経験も重ねてきたこの歳になってみると、男から女への愛(優しさ)と女から男への愛(優しさ)では、普遍性に大きな違いがあることを感じるのである。そこで、偏見かも知れない持論の一端を披露しよう。


 男は好きな女に勿論優しいが、仮に嫌いになっても普通に優しくできる。というか、好き嫌いに関係なく男は普遍的に女に優しい。だからして、好きな女がいても他の女にも同じように優しくするから、誤解が生まれる。それは好き嫌いとは関係ないのだと言い訳しても、女には到底、理解してもらえない。それでは女の男への優しさはどうか。女は好きな男には事のほか異常なまでに優しいが、一旦、嫌いになると手の平を返したように冷淡になれる。この離れ業は何なのか。そこで男は考える。女の優しさとは、相手が好いてくれているという見返りあってのものなのだと。


 男女の関係に限っていうと、男は普遍的に普通に女に優しいのに対して、女は好き嫌いという感情に大きく左右されて優しさを表現するという持論に達する。このことをよくよく紐解くと、男は下心も含めて女という動物が先天的に好きなわけで、だからして、どんな女にも優しくできるのではないか。それに対して、女は男という動物を好きか嫌いかという選別にかけた上で優しさを表現しているのではないか。だとすれば、男はただ単に助べえな動物であり、女は好き嫌いを選別して行動できる進化した動物といえる。下等動物の男が進化動物の女に頭が上がらない理由がわかるような気がする。



男女の違い
イラストは海外人気サイト『Bright Side』から借用したもの。
日常生活の中にみる男女の違いをまとめたイラストの1枚。
恋人と別れた次の日、1週間後、1ケ月後の男女の心境の変化。



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軟弱な男ども





 タレントや国会議員の不倫騒動に関する話題が、円高株安の話よりも、中東を巡るテロや難民の話よりも優先して放映される。なんと日本は平和な国なのか、というか、なんと日本はボケた国なのかと、つくづく思う。テレビをつければどこの局でも追跡報道しているから、嫌でも耳にする不倫騒動。どうでもいい話ながら、一言物申す。


 ひとことで言って、男どもの体たらくである。不倫をしたことを責めているのではない。ただの遊びだったのならそれなりの処理をすればいいし、真剣だったら覚悟をもって言動すべし。いずれにしても、誤るべきは男であり、辞するべきは男なのである。それをおめおめ連れの女に相談したり責任とらせたりとは。タレントや国会議員以前に、男として失格であり、まさに下種(ゲス)の極みである。また、そんな男に惚れる女も女。これでは「浮気は文化だ」と言い放ったタレントの方がマシである。「恥をかいてらっしゃい」と諫めた国会議員の妻は立派である。仕事も恋愛も、人生、覚悟が必要である。軟弱な男どもよ、しっかりせい!と言いたい。





青春の淡い恋






 最近の朝日新聞の数々の失態に辟易している私は、もう我慢できなくて、いっそのこと購読をやめてやろうと思い立った。けれど、社会人になってから40年以上も購読し続けている朝日を断ち切るのは、悪妻といえども離縁できないでいる心境とどこか似ていて、哀れみの情から断腸の思いでいる。

 そんな朝日が、だらだらと綴る「こころ」から小気味好い「三四郎」へと連載を変えた。懐かしい「三四郎」を見てて、その冒頭に、列車で偶然に出会わせた女が出てくる。東京までの旅の途中、三四郎はその女の誘いで宿をともにすることになる。ひとつ部屋で一夜をともに過ごすことになるが、なにもなくて、明け方、女に「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言われる。・・・・・・・・・あっ、これが青春なんだと、遥か昔の己の青春を思い出した。

 あれは大学3年生のときだった。大学選抜で私は四国愛媛の別子鉱山に研修に赴くことになる。全国の大学からの推薦選抜者は私以外すべて旧帝大だったので、負けるものかと意気込んで乗り込んだ。新居浜駅にさっそうと降り立ち、駅前から市内電車に乗り変えた。すると、隣合わせに歳の頃なら30代と思しき女性が座っていた。

 すっとした目鼻立ちの和服姿の女性である。もうそれだけで心臓が鳴ったが、女性からの「学生さんですか?」の問いかけで話がはずんだ。「いつまでご滞在ですか?」「研修だとお休みはないのでしょ」などと。2週間の予定であったが途中の日曜日が休みだと伝えると、女は「そんじゃ、家においでんか」と言い、手持ちの籐籠からさっと紙切れと鉛筆を出し、行き方をメモして渡してくれた。「この停留所ですよっ」と言い残して、途中で女性は降り立った。

 研修の最初の1週間は有頂天に過ぎた。そして、いよいよ決行の日曜日。まだ匂いが残っていそうなメモを片手に、恐る恐る女性の家を訪ねる。古めかしい一軒屋の引き戸をトントンと叩くと、女性が出てきて、近所の手前からか、素早く中に招き入れた。

 家中をぐるりと見渡すも、だれかと一緒に住んでいる気配がない。そこでご馳走をよばれた。いろんな学生生活の話をしたと思うが、それ以外はあまり記憶にない。ただ、なにもなかったことだけは覚えている。果たして、女は昼飯をご馳走するだけで私を招いたのか。あるいは「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と思われたのか。今となっては、淡い青春の思い出である。




三四郎

私の恋愛論(六)

第六章【まとめ】

 このたびの恋愛論シリーズにおいては多くの方から賛同と異論をいただきました。ありがとうございます。自分には当てはまらないというご意見や、必ずしもそうじゃないよというご意見もありました。恋愛への思いやの感じ方は人それぞれですから、仕方ありません。ただ、ここに記したものは同じ恋愛でも「道ならぬ恋」を想定していただければ幸いです。

 恋愛に年齢はありません。一定のルールを守り、周囲に迷惑をかけなければ楽しいものです。かなわぬ恋の彼女や彼に思いを馳せるだけでもワクワクするものです。さらに言うならば、別に相手が異性でなくともいいのです。人間でなくともいいのです。恋愛とは、何かを愛でるというきもち、日々、新しい発見をすることではないでしょうか。人生、いくつになっても、ワクワク感やドキドキ感を忘れないでいたいものです。そして、失恋もまた人間を高めるものかも知れません。失恋を重ねるたびに、次なる質の良い恋愛が生まれることでしょう。
(完)

私の恋愛論(五)

第五章【その後】

 別れたあと、後に引きずるのは大抵の場合、男の方である。未練たらしくヨリなど戻そうとする。しかし、女のきもちはそのとき、既に別に向いている。さっぱりした清清しいきもちで次なる人生を歩み始めている。そんな女に、男はますます未練を寄せる。あくまでも、男は女々しく、女は男らしいのである。

 男は恋愛経験を過去の古いファイルにしまい、時々、思いついたようにファイルから出そうとする。しかし、女はその時々できっぱり新しいファイルに上書きするか消去するのである。

 そんな男女の恋愛は、普通であればそれで終わりである。復活することはまずない。しかし、いろいろな条件が備わった場合に限り、稀にありうる。最も大切な必要条件は、男の方から女々しい後追いをしないことである。これをすれば、完全に消滅する。

 次に、男はじっと忍耐強く、女の不幸を待つことである。そして、一定の時間を経過した後の運命的な出会いが必要である。女は運命的なことに弱い。ある程度、画策しようがもどうしようがよい。女が運命的な再会と思えばよいのである。その時、恋愛が再開するか否かは、やはり女次第である。

 かくして、男はいつの世においても女の支配下にあり、女は常に男を牛耳る。良い女に射止めれた男は出世し幸せな人生を送ることができるが、悪い女に捉えられた男は出生どころか路傍の石となる。何とも、男というのは哀れで愚かな動物なことよ。
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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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