永遠はあるのか




 永遠の愛、永遠の友情、永遠の命などとか言うが、果たして本当に「永遠」はあるのだろうか。至って現実論者である私でなくとも、未来永劫という時間軸の意味の「永遠」などあろうはずがないことを、人はみな承知しているはずである。それでも「永遠」を信じようとするのは、切なる願望からであろう。願望の最たるものは命の「永遠」である。死後、別の世界に移り、先に旅立った人に再会できるなどという願望は、死への恐怖から逃れるための方便であり、そのために宗教としう職業が生まれたのである。同じように、愛も友情もすべてのものに「永遠」という時間軸など現実的にありはしない。

 ただ、愛する人といるとき、親しい友と過ごすとき、楽しく家族と暮らすとき、その瞬間、瞬間において、自身の感覚が果てしなく平穏に、楽しく、愛おしく埋め尽くされるときがある。そのときまさに、この愛や友情は「永遠」であると感じるのである。つまり、これが心の「永遠」なのだろう。われわれは理性的に「永遠」がないと承知しながらも、心の「永遠」を願い、それを実行しようとしている。「永遠」への扉は自身の心によっていつでも開けられ、いつでも閉じることができる。

 そう考えれば、あまり杓子定規に頭で推考することはない。普段の生活の中にしあわせを感じ、満たされ感を味わい、瞬間、瞬間の心の「永遠」を感じて生きていく方が楽ではないか。そういう風に最近思うことがある。





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日本人としての矜持




 韓国の大型客船沈没事故はさまざまな教訓を我々に与える。国、組織、個人としてのリスク管理のあり方、緊急時における初動捜査の重要性、事故報道のあり方などさまざまであるが、もっと大きくみると人間の生死に関わる哲学にまで及ぶ。そのもっとも象徴的な出来事であったのが、行方不明者家族が国や船会社へ詰め寄る場面の発狂的かつ凶暴的な言動であった。

 自分の子供や家族が船に閉じ込められて沈没したというのに捜索が難航する事態にあっては、一時を争う家族が究極の感情に至るのはよく理解できる。そして、その感情が国や船会社に凶行な言動として当てられたとしても、責めることはできないとも思う。そこまでは誰しも考えは同じだろう。ただ、どこか日本人と違うなぁと秘かに思うところがある。夜の酒席で何人かとこの件について話をしたら、異口同音の返事であった。

 東日本大震災の直後、家族を失った人の悲しみや悔恨の言葉を数多く聞いたが、避難指示など国や自治体の事後処理を強く責める言動はなかったように思う。相手が自然災害だったからというのであれば、過去における数々の人災や人的事故において残された被害者家族の言動がどうであったか思い出すがいい。あれほどまでに発狂的かつ凶暴的な言動はあっただろうか。

 日本人はもっと感情や自己主張を前面に出すべきだとか、否、大陸の国民のそういう言動はあるまじきことだなどと言っているのではない。どちらが良いとか悪いとかいう議論をするものではない。そうではなく、国民性の違いといって割り切ることのできないこの違いは、一体どこから生まれるのかと単純に思うのだ。

 人災にしろ不慮の事故にしろ、家族を亡くす悲しみの大きさは国によって変わるものではなく、同じ人間であれば等しいに決まっている。ただ、悲しみの感情の矛先をどこに向けるのかが違う。さらに、亡くした家族の命はもともと誰から授かり誰に返すのか、究極的には人間の生命に対する哲学にも及ぶ。

 この哲学の違いを考えるに、どうしても宗教の違いに行き着くのである。その違いについての記述はこの場では避ける。ただ言えることは、日本人としての矜持をもつことの尊さと誇りを懐に生きたいと思うばかりである。


 マンションから見る瀬戸内海は今日も穏やかだ。
今朝の瀬戸内海


正義とは

 「正義とは共同的・長期的な合理性」と言っていた人がいた。うん?よくわからない。共同的とは国とか地域とか、ある集団にとってということだろう。長期的も抽象的だが、ある一定以上の年月ということか。つまり、「ある国にとって、ある時期において、自国に都合のよいこと」ということになる。そう考えれば、ある面、納得できる。

 ある時期、ある国にとっての正義は、別の国にとっては正義でないことも大いにある。広島の原爆投下は当時の米国にとっては正義だったのかも知れないが、日本にとっては全くの不正義である。ある国のある時期に正義であったものは時間が経過すれば不正義となることもある。広島の原爆投下は世界平和を願う多くの国々にとっては今や不正義と評価されているであろう。しかし、米国にとっては今もなお正義だと思っている人は根強く存在する。

 今の正義は将来、正義ではないかも知れない。過去の正義は今思えば正義でないことも証明されてきた。つまり、正義とは当事者と時間軸の変化の中で変化するものである。であるから、現代社会における常識(正義)は未来永劫、常識(正義)である保障はない。

 とてつもなく極端な話をしよう。殺人はほんとうに不正義なのか。現代社会では誰が考えても罪であり不正義の象徴である殺人という行為であるが、未来永劫、不正義であり続ける保障はあるのか。「人間の本能こそ尊ぶべきであり、人間の本能に沿って殺人した人を間違って処刑した時代が過去にあった」と、未来の教科書に書かれることは絶対にないのか。誰も保障できるものではない。

 これは極端な例であるが、要するに、この世の中のさまざまな問題において、どちらが正義であるかというと、絶対的なものはないと考える。正義というのは人間の煩悩が作り出したひとつの概念ではないのか。

 まして、国に正義はありえない。尖閣諸島の問題にしても、北方領土の問題にしても、相手方が不正義だと言い切れるのか。相手方の主張は、戦争に負けた日本は黙りなさいと言っているのだ。まだほんとうの意味の終戦に至っていない。戦争に勝った国が正義、負けた国が不正義という考え方が根底にある以上、世界平和はほど遠い。

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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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