福島への想い、その実と虚







 福島原発は未だ終わっていない。それどころか未だ収束のメドすら立っていない。そのことを国民の誰しも重々、認識しています。その一方で、福島を見殺しにはできない、応援したいという想いが国民の誰しもあることも事実です。


 しかし、あなたは福島にボランテイアに行きましたかと尋ねると、NOと言う。では、あなたは福島のために何をしましたかと尋ねると、せいぜい募金の寄付程度です。それどころか、近所で福島県産の野菜やお米の応援バザーがあっても、買わないあなたがいます。それを責める私も、積極的に買って応援するかと言えばしない卑怯者です。被災地に寄り添うという言葉だけが空虚に通り過ぎます。


 「食べて応援」というキャンペーンや慰問で福島をたびたび訪問し応援した有名人が多くいます。北斗晶さん、大塚範一さん、今井雅之、さとう玉緒さん、坂本龍一さん、、西川きよしさん、松方弘樹さん、渡辺謙さん、地井武男さん。その著名人の多くが既に癌でお亡くなりになったか、癌との闘病生活をしておられます。


 このように、福島と癌の因果関係をこじつけるのは、全く千万、差別極まりなく、失礼なことです。しかし、まったくのデマと言えるのでしょうか。福島の医師が岡山に移り住み、福島の米農家が自身では他県産を買って食べているという現実。福島の子どもの甲状腺癌は180人以上であり、チェルノブイリの5倍以上という現実。それを無視できますか。


 福島のことを言うと過剰反応は凄いですが、誰かがきちんと言わないといけないのです。子どもの甲状腺癌の実態など、福島=癌を払拭するためには情報公開をすべきなのです。福島由来の放射性物質は約200種あって、実際に対策を行っているのはセシウムだけという有りさまであり、つまりセシウム外の対策の現実を公表すべきなのです。情報公開、この国に欠けているのはこのことです。




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知らぬは恥






 新入社員当時、建設省(現、国土交通省)に打ち合わせに行くと、相手はこちらが若造と見るや、根掘り葉掘りと意地悪な質問をしてくる。そんなとき、その場では知ったか振って適当に曖昧に答えた。知らないと答えたくなかったし、知らぬは技術屋の恥だという思いからだ。その代わり、打ち合わせから帰ると、夜を徹してそのことを調べ上げ、あくる日の打ち合わせにはにわか専門家になり、堂々とまくし立てた。ごめんなさい昨日まで何にも知りませんでしたと、無口の謝罪を残して。

 さて話変わって、先の国会での出来事。戦争に敗北した一国の宰相が「(私は)ポツダム宣言をつまびらかに読んでいない」と、開き直って平然と言うではないか。それも、日本の安全保障の命運を分ける安保法制国会の答弁においてである。郷里の宰相を応援したい気持ちを割り引いても、これは到底、看過するわけにいかない。現宰相が戦争を体験していない事実は、致し方ないことであり本人の責任ではない。しかし安保法制という重要案件を国民の大多数の反対を無視して通す国会において、日本の安全保障の根幹とも言えるポツダム宣言の内容を知らないとは不届き千万。一国の宰相の責任として済まされる問題でななく、恥の何ものでもない。

 事を身の回りの職場や会合に眼を転じてみると、「私は知りません」や「私にはできません」という言葉が氾濫している。それも臆することなく、恥じる様子もなく、堂々と淡々と述べるのである。そして最も危惧しなければならないことは、「知らない」ことを知ろうとしないことであり、「できない」ことをどうすればできるか考えようとしないことである。

 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」の諺のとおり、日本では知らないことは恥であるという文化があったはずなのだが、いつの頃から知らないことが恥でなくなってきたのか。敗戦の無念を胸に世界に追いつけ追い越せと頑張ってきた日本人の努力が実を結んだ後、政治と経済の低迷の時代へと世相が移ろい、日本人は自信を失い、いつしか知らぬが恥でもなんでもなくなってきたのだろうか。いつから日本人は恥知らずになったのか。平気で「知りません」を連発する世相を憂い、いきり立つ自分がいる。





大相撲に、待った!




 横綱・白鵬の審判部への批判会見が物議を呼んでいる。先の大相撲初場所で、横綱・白鵬は元横綱・大鵬を抜いて歴代最多33回目の優勝を果たしたが、物議の発端は一夜明けた記者会見冒頭の発言である。

 記者会見で横綱・白鵬は、優勝を決めた13日目の稀勢の里戦が物言いの末に同体取り直しになったことに審判部を批判をした。「なぜ取り直しなのか。子どもの目でもわかる。ビデオ判定は何をしていたのか。悲しい思いがした。」と。

 これに対して、横綱審議委員会の内山委員長は「良くない。審判はスポーツの世界で厳正なもの。批判することは、自分の未熟さをさらけ出している」と、白鵬の発言を強く批判した。北の湖理事長他からも、横綱としてあるまじき発言と大騒ぎになっている。

 さて、問題の稀勢の里との一戦であるが、ビデオを何度も見たところ、素人目には同体といえば同体だが、玄人的には稀勢の里の体(たい)は既に土俵を割っており死体とみなし白鵬有利と見る。ただ、審判も人がやること間違いはあるし、見る角度によっても違う。ただ、ここで問題なのはビデオ判定を導入していながら、ビデオ判定でもって審議した気配がないことである。白鵬にとっては記録のかかった大一番、それも全勝優勝がかかった大一番。もっとビデオを活用して厳正かつ慎重に判定してくれとの思いであろう。

 この審判問題もさることながら、横綱審議委員会の権威の問題、相撲協会の組織の問題、さらには親方株の問題や暴力問題など、大相撲には今なお改善されていない問題が山積すし、古い体質から抜け切らないことに嫌気がさす。それに加えて、八百長問題についても今なお限りなく疑わしい。八百長は今も公然と続いていると言わざるを得ない。

 八百長は勝ち越しがかかる千秋楽に多い。14日目まで7勝7敗の対で千秋楽に勝ち越しを賭けた場合、昔だったらほぼ100%、勝ち越しを賭けた力士が勝利していた。八百長事件以来、多少は控えめになっているが、本質的には変わっていない。

 ちなみに、この一年間の千秋楽に勝ち越しを賭けた一番を整理すると、下記表のとおりである。表の左列から、場所名、勝者力士名と勝敗、敗者力士名と勝敗を示す。黄色は勝ち越しを賭けた一番に成功したケース、水色は勝ち越しに失敗したケースである。

 結果として、成功は30例、失敗は9例、つまり8割近くの確率で勝ち越しを賭けた力士が勝利している。これすら統計学的にありえない数字である。しかしもっと中身を分析すると、失敗の9例のほとんどが、相手が三役に残るために星を残したいケース、相手が三賞候補にあるために10勝以上が欲しいため譲れなかったと推測される場合である。こうした相手に譲れない事情がある場合を除くと、実質的に千秋楽に勝ち越しを賭けた一番はほとんどすべて勝ち越しを賭けた力士が勝利している。そしてさらに興味深いことは、千秋楽に勝ち越しを賭けた力士が勝利した一戦に絡んだ力士は限られた力士が何度もでてくることである。豪栄道の4回をはじめとして、琴奨菊、玉鷲、碧山、豊響が各3回である。

 昔、大乃国という横綱は若い頃から八百長を拒み通したことで知られるが、今でもそういう力士もいるであろう。また、この表には勝ち越しを賭けた力士が自力で勝ったケースも無論ある。しかし、確率論的に見た場合、今なお八百長が蔓延していると考えざるを得ない。それも良しとして大相撲を観戦し応援することに何も文句はない。




大相撲

師走と世情




 街はイルミネーションで綺麗に飾られて、クリスマスモードまっしぐら。スーパーや百貨店はお歳暮とおせち商戦。書店に行けば来年度のカレンダーと手帳が並ぶ。どこか、行き交う人の気ぜわしさまで感じる。世の中、どこからどこまでも、すっかり師走である。

 ただ、師走といっても一昔前の師走とは随分と様子が違う。一昔前といっても、ほんの20年程度前までの話であるが。和室の仏壇前は贈られてくるお歳暮が山積みになった。貰うも貰ったが、贈るも贈った。お歳暮を運ぶ宅急便や郵便物が隣近所をわさわさと行き交っていたものだ。ピンポーンと鳴ると、今度はどこからだと。金も人も物も何もかも大きく動き、世の中がとにかくダイナミックに流動していた。

 あれから20年。今じゃ、お歳暮を貰うような世話もしていないし、お歳暮を贈るような世話にもなってない。仮に世話をしたりされたりしても、もうそんなご時勢じゃない。それなのに、なぜか世話にもなってない遠い親戚に未だにお歳暮を贈ったりしている。贈ったり贈られたり、そんな物々交換なんてもう止めようよと言うのだが、習わしという一言で却下される。

 この時期、業者がカレンダーや手帳を持って廻ったものだ。そこらじゅうにカレンダーや手帳がころがり、処分に困ったものだ。カレンダーも手の込んだものが多く、手帳だって立派なダイアリー調のものまであった。それが今じゃ、カレンダー不足で自分で買う派目に。カレンダーを自分で買うなんて想定外である。

 年賀状も年々、出す数を減らそうと努力している。個人名ごとに星取り表を作っていて、当方が出しても返信もよこさない不届き者は来年は没。出さないけど来たものは仕方なく出す。そんな努力を数年間続けた結果、結局、毎年出したり出されたりする相手は日頃付き合いのない人や親戚ばかりになった。もういい加減にこんなしきたり止めようよと言うんだけど、これも習わしという一言で却下される。

 世の中、不景気なので人も金も物流も動かない。数が減り、華やかさが減り、お金をかけない現実的な師走を迎えている。しかしその反面、習わしや慣習、見栄や世間体によって究極の非現実的な無駄な行為がなされている。現実的なのか非現実的なのか、効率的なのか非効率なのか、よくわからない世情になったものだ。




「最悪の想定」その取り扱い



 最悪のケースを想定し、それに備えることは悪いことではない。こと、人間の生命財産に関わることとなれば、むしろそうすべきである。そのことを確認した上で、では「南海トラフ巨大地震、死者32万人被害想定」という見出し記事をどう見るのか。

 南海地震、東南海地震、東海地震が互いに連動した場合を想定し、しかもマグニチュード9.1を想定した場合のシナリオである。無論、万が一でも起きないという確証はない。むしろこれだけの最悪の想定に備えれば、さぞ安心である。備えあれば憂えなし、あっぱれあっぱれ、なのか。

 仮に100年確率を想定しよう。すなわち、今生まれたての赤ちゃんが100歳になるまでの期間を想定しよう。100年間に南海地震が発生する確率はどうか。オフィシャルには公表されていないが、伝え聞くところによって仮に1/100としよう。つまり、今から100年の間に1回発生するとする。東南海地震も東海地震も同じ発生確率だとしよう。すると、100年の間に3つの地震が起きる確率は1/10,000となるが、これは別々に起きるケースである。これらの3つの地震が同時(同日)も起きる確率となれば、(1/100×365)×(1/100×365)×(1/100×365)=1/50億となる。さらに、これらが全体としてマグニチュード9.1になる確率は1兆分の1という途方もない確率の世界である。

 それでも備えるべきだという正論をあえて甘んじて受けよう。では聞くが、1日に2~3人しか通らない村道の斜面に大きな転石があって、偶然でも落石に遭遇すれば確実に命を失う。その対策はせずして、最悪の地震想定の対策を行うというのか。2~3人と32万人では話にならないと言うだろうが、片や現実に見えているリスクである。では交通事故死や自殺者は数では負けまいというと、それは自然現象ではないという。だったら火山噴火や地すべりなどを最悪のシナリオで想定すればいくらでも32万人を超す。

  「南海トラフ巨大地震、死者32万人被害想定」の発表に全国の市町村は困惑している。既に開始している避難対策が根底から揺らぐからである。避難所の想定から覆され、既に立てた10mの津波タワーも台なしだと言う。とても30mの津波対策など無理だと言う。

 そもそも「南海トラフ巨大地震、死者32万人被害想定」は、対策の実現が無理な想定である。仮に対策をするとなれば、最も安価で確実は対策は「住居規制法」を法律で作ることである。すなわち、「住居は標高30m以上の岩盤地帯に設けること」とし、それに補助金をつけるのである。30mの防波堤を建造したり、30mの津波タワーを建てたりするよりもよほど安価で確実である。無論、国土法によって高台を住居地として国が買い取る法整備も行う。最悪の想定に対策するつもりならば、その位の覚悟は必要である。

 最悪を想定して国民に知らせることはいい。しかし、言いっぱなしだからいけないのだ。最悪このようなことも想定されるので、対策の基本方針をこのように定め、このようなタイムスケジュールでこのように対策を進めるといった青写真を示すべきだろう。

 国が最悪を想定して国民に不安を煽らなくとも、国民には覚悟ができている。人間にはそれぞれに生き方というのがあり、対策は、覚悟した民の生き方を尊重することから始まる。3.11と同じような地震が来ればそれはそれで仕方ないと覚悟して漁村を守る人もいよう。10m以上の津波が来たときには仕方がないと腹をくくる人もいよう。覚悟がないのは国なのだ。




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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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