ブロック塀は脆い






 今日朝、大阪北部を襲った地震による被害が次第に詳らかになってきた。震源地は有馬高槻断層帯と生駒断層の延長線がクロスする辺りである。



震源地
(写真は自作)

 有馬高槻断層帯も生駒断層も、その活動性の議論の部会作業に携わってきた経験があり、とくに有馬高槻断層帯は400年も活動していないことから学者から蔑ろにされていたので、それみたことかとの思いでいる。仮に、今回の地震が有馬高槻断層帯の中の断層の活動によることが明らかになったなら、有馬高槻断層帯の別の断層、さらには周辺の断層を刺激する可能性は十分にあり、今後、余談を許さない事態となる。


 そのことはさておき、ここではこの地震により小学生が壁の倒壊によって亡くなった痛ましい被害について議論する。小学校のプールを囲む壁の倒壊であり、倒壊後の写真を見ると、中央付近から上の部分が真っ二つに倒壊している。


倒壊前
(写真はネットより引用)


 倒壊前の写真を見ると、高さ3.5mの上1.6m部分が嵩上げされたのがわかる。以前は低い壁とフェンスであったものを、プールから目隠しするために嵩上げされたと考えられる。問題は元の壁と嵩上げの壁の間の接合が認められないことである。通常は鉄筋を入れて上下を接合するが、上に重ねただけの構造とみられる。



倒壊前
(写真はネットより引用し編集したもの)


 仮にこれが事実とすれば、耐震上の構造として問題があるばかりか、最も安全であるべき通学路沿いに危険因子があったことに刑事的な違法性は問われないのかという点である。阪神淡路、東日本、熊本の地震においても壁の倒壊による死者は多い。その多くが嵩上げによる構造的な欠陥によるものである。正確な地震予知も完璧な地震対策もおぼつかない現状ではあるが、欠陥構造の壁の倒壊被害を回避することは、今すぐにでもできることである。



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愚かな歴史的会談






 世界が固唾を呑んで見守る。世は、それを歴史的平和の会談だと賞賛する。当人にいたっては、まるでノーベル平和賞に値する偉業をなしえたごとき自画自賛する。


 しかし私は、非常に冷めた白けた見方をしている。疑念と空虚だけが頭をよぎる。全くリアリテイ―のない茶番劇にしか見えないのだ。考えてもみたまえ、つい先ほどまで罵りあっていた仲ですぞ。相手は側近の幹部を平気でさらし首にする人ぞ。血の繋がった兄をも消す首長ぞ。そして、今までの国のありようと欺瞞に満ちた過去の数々を忘れてか。


 非核化とはなにか。全く具体性のない約束は無に等しい。その空手形でもって体制を保障するとは、一体どれだけお人よしなことか。なんともアバウトで能天気な大統領に対して、相手は1枚も2枚も上である。経営の手腕はあっても相手を見抜く力がない。楽観主義者と究極の現実主義者。勝負はこれまでである。


 それにしても、世界各国の首長はなぜその茶番に意見しないのか、なぜ彼に、騙されているのだと忠告しないのか。日本の首長に至っては、なぜ人気取りの拉致にだけ執着するのか。


 約束は破られるためにある。悪魔は細部に宿る。少し時間が経てば、あれが愚かな歴史的会談だったと、世界のみなが気づくことだろう。



糖尿予備軍の奮闘記






 毎年の健診の結果、ここ数年、糖尿病予備軍と診断されてきた。ついでに、高血圧も指摘されるまでもなく自認している。一昨年、糖尿内科にかかって食事療法を勧められた。若くて美しい女医のお言いつけをしっかり守って奮闘したら、みるみるうちに回復し、もう来なくていいと女医に言われた。もう会えないショックでまた生活が乱れた。


 その後どの位の数値なのか、かかりつけ医で検査したら、案の定、糖尿病予備軍に舞い戻っていた。若くて美しい女医ならずとも、ここは対策を打たねばと重い腰を上げた。まず、タップリの野菜を先に食べる。次にご飯を白米と五穀米のブレンドにし、ご飯の量を2/3に減らした。それを10日間実施して再度検査したら、血糖値は半減していたがHbA1cの値は0.1の低下に留まった。そりゃそうだわ。その日その日の血糖値は下げれても10日やそこらではHbA1cは下がらない。つまり生活習慣を継続的に変えないと。


 悪しき生活習慣の最たるものは飲酒である。いくら二日酔いの日でも夜になると酒が飲みたいと思う。これこそが正真正銘の依存症の証である。では、どうしたら酒の量を減らせるかと、いろいろ考えた。そうだ、わが家の居酒屋がタダの飲み放題ってのがいけないのだと、1杯飲むごとに小遣いから百円を貯金箱に入れるようにした。自分で稼いだお金で買ったお酒にお金を払って飲むなんぞ、酒税の二重払いのような気がして、もったいないと思う。そう思うことこそが抑止力なのだ。


 わが家の居酒屋が飲み放題から有料制に変わってから、確実に酒の量は減った。有料制に加えて1杯の酒量を分かり売りにしたからだ。白米と五穀米のブレンド米も継続しているが、ときどきは白米も食べたいと思う。そこで調べに調べて、糖分をカットしてくれる炊飯器を見つけた。


 この炊飯器、炊飯して米から出てくる糖を含んだ研ぎ汁のような湯汁を下の桶に落とし、最後に蒸すというメカニズム。そのため、メッシュのある内釜と炊飯する外釜に分かれており、湯汁を落とす桶が下にあり、その結果、胴体がでかい。糖分を33%カットするというキャッチフレーズに引き寄せられて注文した。何でも注文生産らしく、実際に商品が届いたのは発注から2ケ月後であった。


 恐る恐る梱包を開けて炊飯器を取り出す。やはりデカい。とてもレトロである。ガチャとか切り替えの音大きく、炊飯時もいろんな音がする。湯気がでる。細かな設定はできない。保温は2時間まで。そうした不便も手間も糖質カットのためだったら仕方あるまい。ところで糖質33%カットというのは本当なのか。実験データをよこせと頼んだが梨のつぶて。恐らく企業秘密とかなんとかで非公開だろう。ここは信ずるものは救われる精神に切り替えた。さて肝心なお味であるが、これはまずまず。33%の糖質カットだから67%の旨みと考えればよかろう。糖質33%が本当かどうか、結果は2~3ケ月後に判明するであろう。




カット炊飯器-1

カット炊飯器-2

セクハラ疑惑の疑惑






 もしそれが事実としたら、というか事実でしょうが、勿論、歴としたセクハラですし、即刻、辞任すべきでしょう。ただね、どうもこの問題、世に言うセクハラ問題として素直に受け取れないのです。


 そもそも、あの人は名うてのセクハラ名人と評判じゃありませんか。そんな人と、取材とはいえわざわざ2人きりで食事しますか?会社だって、有力なネタを取るために女性記者を送り込んでるわけであり、わざわざ2人きりでの食事という危ない設定の技を使っているわけじゃありませんか。そういうのは出版業界では常識のようですが。それとも、女性記者の独断による勇気ある取材だったのでしょうか?それだったら、危ないセクハラ話が少しでも出た時点で、即刻、退散すればいいじゃないですか。それを、セクハラを誘導して一部始終録音していたということですから、これは初めから仕組んだ「やらせセクハラ」ではないのですか。少なくとも健全な取材活動とは思えません。顔を歪めたひょっとこの物言いは確かに生意気千万ですが、要はこういうことが言いたいのでしょう。


 そもそも、何でもかんでもセクハラと騒ぐ風潮はいかがなものか。セクハラと騒いだ時点で、女性が被害者で男性が加害者と断定するのはいかがなものか。男性だって女性にセクハラを受けます。“この役立たずが”ってのが究極の典型的な例です。セクハラの陰におとりがあり、セクハラの裏にやらせがあるのも事実です。仕組まれたセクハラ被害に遭うことも多いでしょう。また今のセクハラの概念は、その言動と関係なく、女性の感じ方ひとつで判定していることになってませんか。おっさんが女性の肩に触ったらセクハラになるけど、キムタクが触ったらセクハラにならない的なことになってませんか。


 決してセクハラを容認するものではありません。今一度、セクハラについて冷静に考えてみたらどうでしょうか。




「君たちはどう生きるか」




君たちは






 今、書店の店頭に並ぶこの本は、もとは、戦前1937年初版の吉野源三郎氏の作品であり、すぐに太平洋戦争が始まって刊行できなくなったという。今回、道徳めいたお説教をやめて少年諸君に読みやすい物語にして再刊したようであり、全マンガから全活字までいろいろな種類を取り揃え、幅広い年代に読みやすくしてある。初版から80年以上も経った今なぜベストセラーなのか、それが知りたくて、この歳で読もうと思った。


 生きるとはどういうことか、何のために生きるのか・・・・・・・・、それを考えてもらうのがこの本の趣旨である。ただここでは、豆腐屋のせがれの浦川君も、中流の主人公であるコペル君も、金持ちのせがれの水谷君も一緒の友としている。そこが現実的に無理がある。さしずめ私は豆腐屋のせがれの浦川君の立場だが、金持ちのせがれの水谷君と友だちというのは、どう考えても無理だったと幼少時を回顧する。この本では、貧富の差がある各々の立場から、人生をどうとらえるのかを考えてみる。そこがこの物語の味噌でもある。


 戦争の切迫感がない現代社会の日本において、物も食料も何もかも豊富であり、自由を享受する社会においてこそ、若者はふと気づく。自分は何のために生きているのか、自分にとって人生とは何なのか、どう生きたらいいのだろうか、と。何もかも自由奔放に生きてきたからこそ、ふと、生きることの意義を考え、不安になる。だからこそ、「君たちはどう生きるか」のタイトルに魅せられるのだろう。


 ゲーテの言葉に“ぼくたちには、自分を決定する力がある。だから、あやまちを犯すこともある”とある。人間に先天的に備わった「自分を決定する力」という能力がある故に、あやまちがあり、戦争も絶えないのだろう。だとすれば、そのあやまちを防ぐためにはどうすべきか。それは、自身の「自分を決定する力」を善の方向に差し向ける能力を養うことに他ならない。


 どのように生きるのかは、個人の勝手である。と同時に、どう生きるのかを決定するのも個人の責任に他ならない。組織がどうしたら良くなるのか、社会をどう変えるのかとか、どうしたら世界が平和になるのかなどと、そうした大それたことを妄想する前に、与えられた環境や境遇の中で自身がどう生きるのが最善なのかを真剣に考えることが大切なのだと思う。


 「君たちはどう生きるか」という問いに対して、「今日という日を真剣に生きる」それしか私には答えがないのです。



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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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