国家の狂妾(きょうぼう)







 「目は口ほどに物を言う」の諺のとおり、誰が真実を語り誰が嘘をついているのか、国民の目には一目瞭然である。嘘で誤魔化せば、弱気な政治家は眼が泳ぎ、筋金入りの官僚はただただ一点を見つめる。そして発する言葉は、それはデマ、それは単なる私的なメモ、情報操作だと繰り返し、事実を完全否定する。威風堂々の喜平さんと比べるまでもなかろう。


 では果たしてなぜ一国の主たる政治家が手を染めるのか。調べれば調べるほどに奥が深く、煽(あお)った後に退散した政治家と裏切られた民は、共に日本会議、憲法改正、軍国主義で繋がるのである。ひと握りの政治家の話ではない。多くの政治家が絡んでいる。トップひとりが責められている間、火の粉がふりかかぬかと背後の不安げな閣僚の様子が手に取るように読める。


 お膳立てをされてそれに乗った民に落ち度がないわけではない。しかし、最も責められるべきは巨額な国費を投じて不法なお膳立てをした官にある。しかし一旦問題が表面化すると、知らぬ存ぜぬの一点張り。そして最後は本質から反れた案件でかつては信頼した民を立件する。
 

 国家とはおぞましいものである。あるものをないと言い切る。言ったことを言ってないと嘘ぶる。会ったのに会ってないと言い切る。その証拠も握り潰す。裏切り行為を恫喝で脅す。嘘が正義となり、正直に報告した者は責められ、正義感をもって告発した者は永遠に葬られる。仮に道路の石ころを蹴っただけでも、道交法で別件逮捕する。それが国家捜査というものだ。


 狂妾(きょうぼう)とは、「正気とは思えないほど道理にはずれていること」(広辞苑)である。ひと握りの政治家の野望が国家の狂妾(きょうぼう)を招き、日本を危険な方向に導いているように思えてならない。



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異端論者の礼節






 この情報氾濫社会においては、人はマスコミが流す選択された情報を正しい情報と思い、それによって世論が形成されていき、やがてそれがあたかも定説であり常識であると錯覚されていく。そのような中で、否そうではない事実はこうだと論じる異端論者は勇気がいることだ。


 例えば、FBでもお馴染みの某医師。自ら「キチガイ医」と名乗る彼であるが、著書のひとつ『精神科は今日も、やりたい放題:“やくざ医者”の、過激ながらも大切な話』という長いタイトルを見ただけでも、やくざ精神科医に劣らずとも勝って過激なのは彼自身であることが読み取れようというもの。彼の言いたいことは、大雑把に言えば、薬漬けの西洋現代医療に対する警鐘である。「断薬のススメ」、「輸血を受けてはいけない」、「1日3食をやめなさい」、「不自然なものを食さない」、「油を変えなさい」、「トクホを買うのはやめなさい」、「大嘘医学に騙されるな」などなどである。FBにおける彼の主張に多く人が賛同しシェアされる一方、多くの批判で炎上することもある。


 こちらもFBでお馴染みの某評論家。『本当はヤバい!韓国経済』がベストセラーになり、リーマン・ブラザーズ破綻、ユーロ暴落の事前予測、韓国ウォンの暴落などの先見的な評論をする。その一方、彼が主宰するWeb連載『経済記事にもうだまされない!』で辛辣な批評をし、著書においても『マスコミが絶対に伝えない「原発ゼロ」の真実』、『移民亡国論-日本人のための日本国が消える!』、『日本「新」社会主義宣言-「構造改革」をやめれば再び高度経済成長がもたらされる』、『中国との貿易をやめても、まったく日本は困らない』など過激な主張が多い。


 科学の世界においても、先ほど東京大学を退官されたアメリカの地震学者某教授。私がこの世界で最も尊敬する先生であるが、彼はその著『日本人は知らない「地震予知」の正体』において地震予知は不可能ときっぱり主張する。涼しい顔をしてもっともらしく地震予知をする多くの地震学者にとっては正に目の上のたんこぶである。たんこぶだけで済めば良いが、先生が無意味とする地震学者の地震予知をもとに莫大な国家予算を3.11後の防災計画に投じているという現実がある。


 これら異端論者の主張することの多くは、納得できるものが多く、よく調べれば調べるほど真実であるか、あるいは核芯を突くことが多い。異論を主張することの意義は計り知れないほど大切であり、一般論者と公開の場で意見をぶちつければ良いのだが、どうも日本はそういうことにはならないらしい。日本人特有の長いものに巻かれる的な発想もあるが、陰で企画しない大きな力があるようである。私が知る限りでは、このような企画は関西系の「そこまで言って委員会」だけである。


 ただ、異端論者にも警鐘を鳴らしたい。彼らの主張は真実か否かは別として、一般人にはセンセーショナルに受け止められる。独りよがりの意見に聞こえたりもする。また、著名人であればあるほど、世に与える影響も大きい。だからして、より吟味して中立的な視点を加えて冷静に主張していただきたい。大言壮語的な発言や記述に終始すれば、ただのキチガイ論者か偏見論者になってしまう。





森友ゴミ問題







 森友学園問題は煙に巻かれたまま幕引きかと思いきや、次なる爆弾証拠によって新たな火種を熾した。民進党によるヒアリングにおいて、設計会社と森友側弁護士のメールのやりとりが公開されたからだ。深度3m以深のゴミの存在を明らかにするために実施したボーリング調査の結果、予想に反して深度3m以深にゴミが確認されなかったという結果が出たものだから、あたふたした結果、不利な証拠は伏せておこうという一部始終が詳らかになった。


 ここで取沙汰されたのが、ボーリング調査結果の「柱状図」の存在とその解釈についてである。国会議員の話も財務省の話も要領を得ないばかりか間違った見解を示しているので、専門家の立場から説明しておく。


 「柱状図」というのはボーリング調査(通常は径66mmで掘削)結果であり、地盤の地質構成、層相(粒度、締まり具合、色調、含有物など)、N値(地盤の強度的数値の計測結果)などが記載されたものである。地盤調査の基礎ともいえるこの柱状図1本で周辺の地盤状況が明らかになり、複数本の柱状図があればそれらを繋いで地質断面図を作成する。




〔柱状図の例〕
新柱状図




〔地質断面図の例〕

地質断面図.jpg



 深度3m以深にゴミが確認されなかったのだから、敷地全体において深度3m以深にゴミがないと断定できるという意見が出る。かと思うと、ボーリング調査地点でたまたまゴミが確認されなかったのであって、周囲にゴミが存在することは大いにありうるという意見が出る。さまざまな意見や憶測が展開し、混乱している。


 これらの意見は正確に言うとどれも間違いである。地盤には自然に堆積した自然地盤(地層)と盛土や埋土などの人工地盤に分けられ、ボーリングサンプルによって容易に区別できる。ゴミなどの廃棄物は窪地に残土などと一緒に投入されるので、ゴミの存在イコール人工地盤である。しかしゴミが存在しないことイコール自然地盤ではない。ゴミを混入しない人工地盤もあるからだ。


 本件の場合、深度3m以深にゴミが確認されなかったという事実も重要であるが、それ以上に、深度3m以深が自然地盤なのかどうか、人工地盤と自然地盤の境界はどこなのかが最大の問題となる。深度3m以深が自然地盤であれば、敷地のどこを探しても深度3m以深にゴミは存在しない。深度3m以深の何m区間にまだ人工地盤であるとすると、その深度までゴミが存在する可能性がある。要するに、ゴミの有無よりも地盤の評価が重要なのである。





上戸家系







 わが家は私と同居人の2人暮らし。趣味も性格も不一致にして、日常はほとんど別行動のすれ違い。いわば赤の他人の同居人状態だが、唯一、酒を飲むことだけが共通した趣味である。嫁に出た娘は我々に輪をかけて呑み助。東京で暮らす息子もまた呑み助。娘の旦那も息子の嫁もこれまたよく飲む。ということで、正月とかに家族一同、大人6人が会して食事に出るとなると、ふつう、ひとりやふたり下戸がいて私が運転しましょうということになるものを、誰一人運転を引き受けない。かくして6人が6人とも、大酒を食らって酩酊状態で帰路につく羽目になる。


 そもそも家系的に酒をよく飲むらしい。その筆頭は、私の名である「きよし」を命名した「きよ蔵」というお爺さんであり、酒がもとで亡くなったと聞く。私にとっては大変迷惑な話であり、酒飲みという悪しき素性を継いだばかりか、名まで汚された感がする。同居人は結婚当初から下戸であったが、夫の放蕩に匙を投げてやけ酒したのをきっかけに、今では負けず劣らずの大器晩成型の酒飲みに成長した。


 毎月の酒の量が半端じゃない。半端じゃないから、焼酎(甲類・芋)とウイスキー(NIKKA黒ラベル)は質を落として4リッターのメガサイズを常備。それに缶ビール、酎ハイ、ワイン、サワー、日本酒など。家計における酒エンゲル係数はかなりのもので、仮にお酒を飲まなかったら、蔵のひとつやふたつは優に建っただろう。





4リッター




 必然的に空き缶や空き瓶の量も半端じゃない。週一の資源ゴミ収集日にビニール袋一杯の空き缶や空き瓶を出すのは、さすがに近所の手前、恥ずかしい。少しずつスーパーの空き瓶空き缶コーナーに日参する。


 毎日の飲酒によって、さすがに肝機能障害や糖尿への影響が出始めたが、それでも酒を止めない。その覚悟たるや見上げたもの。とはいえ、酒を止められない弱者は病気への臆病者でもある。そこであるひとつの家庭内ルールを作った。家で酒を飲むと、要するにタダだからいくらでも飲むのであって、有料にすればいいのである。ここで生まれたのが「一杯100円」のルールである。


 一杯100円ルールとは、何を飲んでも一杯100円であり、貯金箱に入れるというもの。ただし1杯の量は、焼酎80ml、ウイスキー50ml、ワイン70mlと線が入ったメジャーで計測し、後は生地で飲もうが割って飲もうが自由。特例があり、スポーツジムで汗を流した日は1杯サービス。誕生日その他特別な日もまた1杯サービス。さらにボトルキープ制がある。1000円のウイスキーをキープするときは同額をキープ料金として支払えばタダで何杯でも飲める。


 一杯100円ルールを制定し実行してかれこれ2年。糖尿内科の先生が驚くほど血糖値が低下し、もう来なくて良いと若い美女ドクターに見放された。100円ルールはそれなりに抑止力となり、飲むためにジムで汗をかく。一杯100円貯金は貯まる貯まる。毎月の酒代は楽々調達できる。まさに一杯100円ルールは健康と家計を両立させた名案である。


 上戸と上戸を掛け合わせると間違いなく上戸が生まれ、その上戸に別の上戸を掛け合わせるとさらに強力な上戸になる。かくして、わが家系は揺ぎない上戸家系として醸成していったのである。




言葉と心情






 日本語というものは難しいものだ。ちょっとした言い方ひとつで、相手を気遣った優しい言葉にもなり、逆に相手を傷つけたりもする。「東北の震災によって甚大な被害を受け、今なお多くの被災者が避難所暮らしを余儀なくされ、金銭的にも精神的にも大変苦しい思いをされている」と前置きした上で、「同じような震災が東京で起きたら被災規模は何十倍にも及ぶ」と言えば済むものを。


 すべては「良かった」の一言が問題なのであり、言葉の選択を間違った訳である。しかし、そんなに大事(おおごと)なことであろうか。マスコミが大々的に取り上げ、激怒する被災者のインタビューだけを放映し、野党が突っ込んで国会が紛糾し、大臣を辞任する、それほど大事(おおごと)なことであろうか。


 公人それも大臣の発言としては、勘違いされそうな不用意で軽率な言葉であることに間違いない。しかし、国民誰ひとりとして、「東北で震災が起きて良かった」なんて思ってないし、大臣もそうである。それを承知の上でマスコミは問題劇場を作り上げる。


 我々身のまわりの一般人においても、東北のことになると、神経過ぎるほどに言葉選びをし、そして異口同音に「被災者に寄り添う」と言う。東北のことについて少しぞんざいな口のききようをしようものなら、「被災者に寄り添っていないからそんなことが言える」と逆鱗に触れる。


 一方、身の廻りに、東北の野菜は買わないし、福島の魚は絶対に買わないという人が多いのも事実。それでは一体、「被災者に寄り添う」とはどうすることなのか。ボランテイアに行けない人ができる寄り添いとは、例えば東北の野菜を買ったり、救済募金に寄付したりすることもひとつの方法ではないのか。無論、一日も早い復興を祈るのもそうだけど。「被災者に寄り添う」という空虚な言葉だけがひとり歩きし、そう発することで自己満足に浸っているように思えてならない。


 言葉は確かに大切であり、重みがある。こと弱者に対する言葉は、相手を傷つけないように注意する必要がある。しかし「被災者に寄り添う」など一見優しい偶像化した言葉が流布し、それが実体を見えなくしていることもある。あまりに慎重な言葉選びによって、意見の萎縮が生じ、本音が見えないこともある。言葉は嘘をつけるが、人の気持ちや心情は嘘はつけない。発せられる言葉だけにとらわれて、人の心情の奥底を見誤ることのないようにしないといけない。



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団塊の世代を突っ走った田舎侍の遠吠えです。聞いてやってください。実話から世評までもろもろですが、一貫して、辛口です。

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